10 恐怖と奇怪現象
夜になり、学生寮に戻った聖は早々に用事を終え、ベッドの中に入った。だが、色んなことが脳内を巡り、中々寝つけなかった。
ようやく眠りの世界に入ったときには、もう東の空が明るくなり始めた頃で。その後、起きる時間になっても目覚ましの音にまったく気づかず、ミズナが玄関をドカドカ叩く音でようやく目を覚ます。
「聖君、どうしたの? 聖君!」
「ふえ?」
寝惚けながら時計を見た途端、一気に眠気は吹き飛んだ。
起きなければならない時刻はとっくに過ぎ、学生寮の門の前に集合する時間の十分後を時計の針は差していたのだ。
おそらく、三人で決めたその時間になっても聖が来ないのを不思議がって、ミズナとゴウは部屋まで迎えにきたのだろう。それで、普通にノックしても返事がないので、心配になり、勢いよく叩き始めたのだ。
「わわわ! まずい!」
完璧に寝坊したのを認識して、聖は布団を蹴飛ばして起き上がる。
「聖君、何かあったの? 聖君!」
「ご、ごめん! 今、起きたとこなんだ! 悪いけど、先に行ってて!」
ミズナとゴウは互いに目を合わせた。超がつくほど真面目な聖が寝坊するなど今まで一度もなかったので、余計に心配になる。体調が悪いのかと考えたが、声で元気なことがわかり、取りあえず、聖の言葉に従う。
「わかったわ。じゃあ私たち、行くね」
「遅刻、しないでね」
足音が遠ざかっていき、聞こえなくなる。
聖は手早く着替えて、食パンを一枚だけ口の中に突っ込んだ。できる限り早く身支度を整え、学生寮を飛び出すと同時に全力疾走をする。
その成果があって、なんとか遅刻ぎりぎりで学校に到着した。
「あ、危なかった……」
教室に入った瞬間に、チャイムが鳴る。すぐさま自席に着き、担任がやって来て、ホームルームが始まった。が、頭がぼんやりして、まるで耳に入らない。そして、ホームルーム終了後にマコトと雑談をしたところまでで、聖の記憶は途切れた。
その放課後。
睡魔と戦いながらなんとか一日を乗り切った聖は、ほうっとしながら清掃をしていた。
しかしながら、それも束の間で、担任に呼びかけられて信じられない単語を耳にする羽目になる。
「つ、追試!」
思わず上げた大声で、周りにいた生徒たちが反射的に目を向けてくるが、そんなことを気にしている余裕などなかった。
「そうだ。今日の数学の抜き打ちテストで、三十点未満だった生徒は追試と決まっていたんだが、私のクラスではお前だけが該当してな。明日の放課後に同じ範囲で追試をするから、今日はみっちり復習するように」
「そ、そんな……」
あまりのショックで言葉が出ない。
とはいえ、数学のテストのときには眠気がピークに達しており、意識が朦朧としていたのだ。そのため、解答を書いた以前に、問題文を読んだ記憶さえうろ覚えだった上に、答え合わせをしたときの悲惨な点数を思い出せば、当たり前と言える結果である。
担任が去って清掃を終えて、ため息をつきながら帰り支度をする。ミズナとゴウはまだ清掃が終わらないみたいなので、今度は聖が迎えに行くことにした。
「永野君」
廊下に出るや否や、またもや甲斐谷が声をかけてきた。無意識に安堵して、聖は振り返る。
「甲斐谷先生」
嬉しくてぱっと明るい声を出す。知り合って間もないのに、会った回数も指で数えられる程度なのだが、もうすでに、甲斐谷は聖にとって心を許せる相手になっていた。
どういうわけか、それが当然の流れである気がして、聖本人はこんなにも早く甲斐谷を信用しきっている自分に疑問を持たない。だって、ずっと前から知っていた感覚があるのだから。
「どうしたんですか? 今日は随分と眠たそうでしたね。授業中も船を漕いでいたし、何かあったんですか?」
「……はい。昨日は寝つくまでに時間がかかってしまって。色々なことがあったから……」
「色々なこと?」
聖は遠慮せずにすべてを打ち明けた。
甲斐谷が代理教師としてやって来たことも含め、人気モデルSASUKEの撮影現場に行ったこと。男子学生に突っかかって、SASUKEに助けられたこと。その後、養護施設を訪ねたこと。落雷のこと。全部吐き出す。そしたら、少しすっきりした。
「養護施設の光川先生はわかるんですけど、SASUKEさん、なんで俺なんかを助けてくれたのか、不思議で……。仕舞いにはお礼まで言われたので、戸惑ってしまって……」
「そうですか、SASUKEが……」
「甲斐谷先生もSASUKEさんを知ってるんですか?」
「まあ、私も『日本美見』は読んだことがありますから」
「それはそうと……」と甲斐谷は言って、話題を変える。
「永野君、数学のテストで追試になったでしょう? 数学は苦手なんですか? 本音を言いますと、テストで三点なんて数字は百点よりも数倍珍しいので、びっくりしましたよ」
「あ……」
甲斐谷との会話に浮かれ、すっかり忘れていた。現実に引き戻された聖は重石を背負っているかのように肩を落とす。
数学の抜き打ちテストは、一問十点で全十問あり、問題をすべて解き終えた生徒から提出して、その場で甲斐谷が丸つけをするという方式だった。
なので、甲斐谷はテストを行った三年生全員の点数を見ていることになるのだが、自分の悲惨な点数を覚えられていたという事実に、聖は恥ずかしさで顔を赤く染めた。
それを甲斐谷が読み取って、こう述べる。
「ああ、安心してください。貴方の点数がインパクトのありすぎでたまたま覚えていたわけではなく、私は三年生全員の点数を把握してますから」
「え、そうなんですか?」
それはそれですごい。
「ですがやはり、最低点は貴方なんですけどね」
「うっ……。ですよね」
がっかりして俯く聖に、甲斐谷は優しい声音で励ます。
「そんなに気を落とす必要はありませんよ。決して悪くない成績の貴方が追試だなんて、私もなぜだろうと思いましたが、寝不足だったのなら仕方ありません」
「だけど、甲斐谷先生は授業中に居眠りする奴とかは嫌いだって……」
聖は己が意気消沈している本当の理由を知った。テストの点数など二の次で、本心は甲斐谷に嫌われるのを恐れていたのだ。
甲斐谷と一緒にいると、心が弾むし、気持ちが安らぐ。だからこそ、繋がっていたくて、大嫌いなどと真正面から言われ、それを完全に絶たれてしまったら、どうかしてしまう。想像するだけでも、瞳が潤んできた。
怖くて甲斐谷の目を見られずにいる聖の頬に、温かい何かが触れる。ハッと顔を上げて、すぐにそれが甲斐谷の手だと認めた。
「ええ、嫌いですよ。貴方以外は」
「え?」
甲斐谷の目はじっと聖を見据えて、まったく逸れない。いつ見ても綺麗な青い瞳が、一層美しく輝いていた。
「貴方が私をどう思おうが、私の貴方へ対する気持ちは決して変わりません」
「……? それって……」
聖が意味を飲み込む前に、甲斐谷は次の話へ移る。
「ところで、数学の追試は大丈夫なんですか? もし、貴方がいいと言うならば、今夜、貴方の部屋に訪問して勉強の手助けをいたしましょうか? 私、家庭教師の経験もありますし」
「え! いいんですか!」
地獄に仏と言える甲斐谷の案に、聖は喜んで食いついた。先生に直接、しかも一対一で教えてもらえるのなら、まさに百人力だ。
「ええ。今日は仕事が早く終わりそうなんです。やらなければならない予定もないし、ですからよかったら、一緒に帰りませんか?」
「はい。甲斐谷先生の仕事が終わるまで、俺、教室で自主勉してますね」
しかし、勢いで返事をしてしまった後、冷静になった聖はちょっと不安がる。
「あ、でも、本当にいいんですか? 俺は正直言って嬉しいんですけど、迷惑じゃ……」
「構いませんよ。言ったでしょう? 私にできることなら力になりますよって。貴方が困っていて、更にそれを打ち明けずに我慢しているのを見るのが一番つらいんです」
「甲斐谷先生……」
どうして、そこまで俺のことを……。
そのとき。
聖はびくりとした。またあの視線だ。どこからかはわからないが、確かに誰かの視線を感じた。じっとこちらを見つめているような、恐ろしい視線を。
「……? 永野君?」
突然黙ってしまい、辺りを見渡している聖の身を、甲斐谷は案じる。
しかし、聖はこの上ない恐怖で平静を失っていた。
怖い。
怖い怖い怖い。
瞬間、ずきりと心臓が痛み、聖は胸を押さえ込む。
「うっ……!」
「ゆ……永野君!」
それとほぼ同時のことだ。
窓を背にするように甲斐谷が聖の側面へ移動した。すると、窓ガラスの真ん中に蜘蛛の巣のようなひびが入り、次々に割れていく。廊下にいた生徒たちは破片の犠牲となって、短い悲鳴を上げる。外から強い空気の流れを受けて、聖と甲斐谷も倒れ込んだ。
「か、甲斐谷先生!」
覆われるように下敷きになった聖は破片に当たることはなく無傷だったが、甲斐谷は。
「永野君、大丈夫ですか?」
甲斐谷の顔を見て、聖の胸がずきりと痛む。右頬に切り傷があり、そこから血が流れていたのだ。
しかし、それでもなお、甲斐谷は聖の身を案じていて。聖は取りあえず、自身の無事を伝える。
「俺は、平気です。だけど、甲斐谷先生が……」
自分を庇ってくれたことで申し訳ない気持ちでいっぱいになり、泣きそうな目で甲斐谷をじっと見つめる。
「私のことはいいんです。こんなのは傷の内に入りませんから」
「ですけど……」
「私にとっては、貴方が怪我をする方がよっぽど痛いんです。……無事でよかった。
甲斐谷は聖の無傷を心の奥底からほっとしていた。傷からの流血を手で拭い、聖を安心させるため気丈に振る舞う。
見た限りだと、頬以外の怪我はないようなので、聖も段々と落ち着きを取り戻した。
「俺も、甲斐谷先生が大した怪我をしなくてよかった。……だけど、なんで急に窓ガラスが?」
とは言いつつも、聖は思った。
まただ。
また、視線を怖いと感じた瞬間に、起こった。落雷のときは偶然も視野に入れたが、やっぱり違うのだ。
この不可解な現象は、自分が起こしている。そう思うしかなかった。
「私にもわかりません」
そう言い切る甲斐谷だが、何かに耐えているような苦々しい顔が、聖の目にこびりつく。まるで、心当たりがあるのだが事情があって言えない、そんな表情だ。
「誰かの悪戯かなんかでしょう。きっと犯人はすぐに見つかりますよ。ですから、貴方はあまり気にしないでください」
「でも……」
「お願いです」
甲斐谷の真摯な眼差しを目にし、聖は渋々ながらも「わかりました」と頷く。本当は、何か知っているのなら、教えてほしいのだが。
『まだ、そのときではございませぬ』
「え……?」
誰かの声がして、聖は周囲を見る。それは、夢か定かでない暗闇の世界で聞いた、あの謎の声だった。
だが、今、聖のそばにいるのは甲斐谷だけだ。
……どういう意味?
声の主が誰かというよりも、言葉の意味に聖は疑問を持つ。
その後、他の先生たちが駆けつけたりして廊下は騒然と化したが、幸いにも大怪我をした者はいなかったようだ。
そして結局、謎の声が言った通り、甲斐谷が聖に何かを話すことはなかった。