彼と彼女の契約婚~こうして私は王妃になった~
「喜べ! 王妃選びの揀擇、書類審査通ったぞ!」
そんな父の叫びは、ユン・ソンアにとってまさに青天の霹靂だった。
そもそも、父の不実・浮気癖が原因で、心労の祟っていた母はソンアが十歳の頃早世。それを気にも留めずに、父はかねてから囲っていた妾と再婚。
その上、姉も嫁いだ先では囲い者。
こんな両親たちの有り様を間近に見て育ったソンアの決意は、『将来、結婚なんてして堪るか!』。
だのに、王妃選びの揀擇に(まだ書類審査だけど)通ったですって!?
あたしの人生だってのに信じらんない、こうなったら家出よ家出――!!
憤慨したソンアだったが、旧知の男、ユン・ナクチョンに愚痴をこぼす中、彼の言葉で揀擇に参加する意義を見出したソンアは、夢の独身生活目指して揀擇に挑むことに。
果たして、その結果は――?
「喜べ、ソンア! 書類審査、通ったぞ!」
帰宅した父の叫びに、ちょうど自宅庭先で洗濯物を取り込んでいた少女が、弾かれたように振り返った。
年の頃は、十代半ば。整ってはいるが、さして際立ったところの見えない造作の中で、意志の強そうな、凛とした黒い瞳が印象的だ。
ソンアと呼ばれたその少女は、父に向けた目を訝しげに細めた。
「何の書類審査よ。まさかまた借金でもしたの?」
呆れたように言ったソンアは、竿から下ろした洗濯物を籠に纏めて縁側へ運びながら問う。
決して裕福ではない生活を示すように、その年頃の少女が身に着けるには若干くたびれた感のあるチマ〔くるぶしまで長さのあるスカート〕が、彼女の動きに従って翻る様は、あたかも花弁が舞う如くだ。
頭頂部に結い上げられた漆黒の髪も、馬の尻尾のように元気に跳ねる。
「こないだ姉様が借金の形に囲われ者になったばっかじゃない。勘弁してよね、今度はあたしをどこかへ売り飛ばす気?」
「そんな、人聞きの悪い」
父は猫撫で声で言うと、手にしていた文のようなものを開いた。
「そんなことじゃない、もっとずっといいことだ。ほら見ろ、ソンア。お前は王妃様になるんだ」
「はあ?」
ソンアは、父の手にある書状を碌に見もせず、今度は形のよい眉の根本を思い切り寄せた。
「何バカなこと言ってんのよ。ウチみたいな貧乏でしかも父様が蔭補で出仕してるよーな没落両班の家から王妃が出るわけないじゃない」
蔭補というのは、官職採用試験である科挙を経ずに、いわゆる縁故関係で職に就くことを指す。要するに、本人の実力ではない。
「第一、書類なんか出してないでしょ。あたしが揀擇なんか死んでも出ないって言ったから」
揀擇、というのは王族の伴侶選びのことだ。
今回は、先の王妃が昨年の三月に亡くなったので、新王妃選びのそれである。
一度揀擇令が出されると、その期間中、国中の適齢期の女性は皆婚姻を禁じられる。そして、然るべき家の娘たちは、王の新しい正妃候補として処女単子〔履歴書〕を提出しなくてはならない。
もっとも、ソンアには関わりのないことだ。
両親や姉を間近に見て育ち、結婚することや男を頼みに生きることがどれだけ虚しいか、ソンアは嫌というほど学んでいる。母や姉のように、男の独善的な都合に振り回されて生きるのだけは断固、御免蒙りたい。
しかし、父はソンアの冷ややかな反応には頓着せず、あっけらかんと言った。
「出しておいたのさ」
「はい?」
「表向き審査はされるがもう決まったも同然さ。なあ、ソンア。王妃になって、この父を老後、楽させておくれ」
――空いた口が塞がらなくなった。
***
「――で、家出してきたんだ」
「悪い?」
翌日の昼間。
馴染みの商団の執務室で、出されたお茶をがぶ飲みしながら、ソンアは据わった目で向かいに座す青年を睨んでいた。まるで、手にしている茶碗の中身が酒ででもあるようだ。
「第一あたしは誰が相手だって結婚なんかするつもりなかったのよ!? クソ親父……父様や母様の顛末を見てるから」
やけくそのように、手元にあった栗菓子を口に放り込む。
ソンアの父は、甲子士禍と呼ばれた政変の折、連座で流刑にされていた。
先々代王・成宗の二番目の正妃で、廃位されたユン妃の処刑に関わった、ユン・ピルサンの十一親等の親戚だったという理由でだ。幼かったソンアは、母やきょうだいたちと共に、父とは別の場所へと流された。
十年前に反正〔クーデター〕が起きた時、父は恩赦され、晴れて家族は再会したのだが、父はその時、流刑先で手を着けた妾とその子どもたちを連れていた。
「しかも二人もよ!?」
「妾がか?」
「違うっ! 手ぇ着けた妾は一人で、その女に産ませた子が二人もいたのっ!」
話の腰を折られたソンアは、バンッ! と机を叩いて続ける。
「夫の浮気に文句を言わないのが女子の務めだなんて、この国のお偉いサン方はどこまでも女をバカにしてるわ! 女だって人間なのに! 母様だってどんなに苦しまれたか……その所為だけじゃないけど、母様は末の弟を生んでからたった二年で身罷られたわ」
それが、ソンアが十歳の時だ。
「それなのに、母様が亡くなるちょっと前にはその妾にもう一人異母弟が生まれて! ……まあ、もちろん異母弟に罪はないけど複雑よ。一応母様の喪が明けるまではあのクソ親父も我慢してたみたいだけど、喪が明けるなりあの妾を後妻に直しちゃうし、姉様だって嫁いだって言ったって結局囲われ者だし、それだって父様が貧乏両班のクセに女癖が悪くて借金が嵩んだ所為だし」
「女癖と借金は関係ないんじゃ」
「ウチの内情知らないんだから黙っててっ!」
机に、今度は拳を叩き下ろして睨め付けると、青年はソンアの言い分を往なすように、軽く肩を竦めた。
「挙げ句にあのクソ親父、あろうことかあたしまで売り飛ばしたのよ! しかも売り先は王宮とか、信じられるっ!? あたしが知らない内にちゃっかり処女単子提出してやがって、昨日戻るなり『喜べ、書類審査通ったぞ!』って、何の話だってのよ!!」
完全にやけ酒の様相である。何も知らない人間が見たら、茶碗に入っているのは酒だと思うに違いない。
手にした茶碗の中身を呷るように飲み干して、ソンアは一つ息を吐いた。
「……ま、将来この商団に就職するつもりで出入りしてたのは本当だけど、入団がこんなに早まるなんてね」
「悪いがそれこそ早まるのは勘弁しとくんな、ソンア坊」
ちょうど執務室に入ってきた商団の行首〔組織の長〕であるカン・ヂスクが、手にしていた帳簿を、痛くない程度の力で背後からソンアの頭に落とした。
「って、何すんのよ、行首様!」
「何するはこっちの台詞だよ。よりによって王妃様候補をさらうよーな真似しろってのかい。商団が潰るだけで済みゃいーけど、下手すりゃ俺の首が飛ぶぁ」
「そんな殺生なこと言わないで、連れてってよ行首様ぁー。明日から明国に行くんでしょっ!?」
素早く立ち上がったソンアは、見捨てられそうな子犬も斯くやという様子でチスクの足下に縋った。眉根にはしわが寄り、眉尻は哀れっぽく下がっている。
これが幼子ならともかく、残念なことにそれで泣き落とすには、十五歳では年齢が行き過ぎていると言わざるを得なかった。その所為で、いまいち哀れを誘い切れていないのに、ソンア本人だけが気付かない。
「ねぇー、お願い! あたしが明国語ペラペラなの知ってるじゃないっ! 自分の身だってちゃんと守れるくらいには武術だって嗜んでるし、商売の足手纏いにはならないからぁー!」
ソンアの『生涯独身計画』は、自己評価的にも割と手堅いものだった。
女が独身で自分を食わせていく為に、着々と準備を進めて来たというのに、あの自己中な父親の所為で瓦解しようとしている。
計画をどうにか遂行すべく、今まで生きてきた中で一番必死に懇願していたというのに。
「下級とは言え、両班の姫がするこっちゃねぇな」
と、冷や水でも掛けるようにボソッと漏らしたのは、先ほどまでソンアの向かいに座っていた青年だ。
たちまち目尻をつり上げたソンアは、ギロリと彼を振り返る。その睨みに対して、女性と見紛う端正な容貌は、動じた様子を見せなかった。が。
「うっさいわね、この女男」
ボソリと吐き捨て返すと、睨みだけではピクリともしなかった整いまくった顔は、的確すぎる地雷攻撃にあっさり崩れた。
「何だと、この男女」
薄く引き締まった唇が、ヒクリと震える。
けれども、ソンアにも『女性らしくない』に類する言葉は地雷だ。
「何ですって!?」
普段からお世辞にも長いとは言えない堪忍袋の尾は、あっさり切れる。
「いくら国一番の妓生〔遊女〕も真っ青な美人だからって、言っていーことと悪いことがあるわよ!」
ソンアの言うことは事実だったが、青年にとっては褒め言葉でも何でもない。
吊り上がった切れ長の目元に縁取られている、磨き抜かれた黒真珠の瞳が、無表情にソンアを見据えた。
「誰が妓生と間違われる女顔だって?」
「いー年してまだ気にしてる辺りが女々しいって言ってるの!」
すると遂に、青年も椅子を蹴って立ち上がった。
「ジョートーだっ! この男女、表出ろ!」
「おお受けて立ったらぁー!!」
「あー、そーこーまーでーだっ、このバカどもがっっ!!」
スパン! という小気味よい音を立てて視界が塞がり、顔面に何とも形容し難い刺激が走る。
反射で閉じた目を開くと、チスクが手にしていた帳簿が引いていくのが見えた。青年も同様に引っ叩かれたらしく、顔を押さえて俯いている。
あの綺麗に通った鼻筋を、遠慮なくへし折りそうな威力で帳簿をぶちかませるのは、朝鮮広しと言えどもチスクくらいだろう。
「ここでくだ巻いてたって解決しねぇだろ、ソンア坊」
「だって行首様!」
「だってじゃねぇ! ナクチョンも下手にこいつ煽ってねぇで、家帰るよう説得してくんな!」
ナクチョン、と呼ばれた美貌の青年は、鼻をさすりながら眉根を寄せた。
「無茶振りしねぇでくれよ。そいつの頑固具合は行首様だって知ってんだろ? 梃子でも動きゃしねぇよ」
お手上げ、と言わんばかりにナクチョンが肩を竦めたが、チスクは既に聞いていない体勢だ。
「知るか。とにかく俺は、下らんことで商団を潰したくねぇんだ。脱走するなら自分の才覚だけでやっとくれ、お嬢様」
立てた人差し指で交互にソンアとナクチョンを指し示したチスクは、野良犬でも追い立てるように二人を執務室の外へ放り出す。
「くっ、下らんだなんてひどい! コトはあたしの一生涯の一大事だってのに――」
言い終える前に、扉は無情にも閉じられた。
執務棟の外へ通じる廊下に取り残され、必然一緒に佇む羽目になったナクチョンには凄まじい視線が向けられる。
「――ッもう! ナクチョンの所為よ!」
「何で俺の所為なんだよ」
ソンアの視線を弾き返すように、ナクチョンが冷ややかな流し目をくれた。しかし、ソンアもこれで怯むような少女ではない。
「あんたがおかしな横槍入れるから結局摘み出されちゃったじゃないのっっ!!」
「もっかい入ってって頼みゃいーじゃねぇか」
「撃退されるのがオチだって分かってて突撃するのは、それこそバカのやることでしょ」
ふん、と鼻を鳴らして、ソンアは扉に背を付けるようにしてしゃがみ込んだ。
「て言いながら座り込みか?」
「そうじゃないわよ! でももう家には帰れないし……」
しばしの間ソンアを見下ろしていたナクチョンは、ややあってからソンアと目線を合わせるようにして同様にしゃがみ込む。
「……何よ」
「いや。今のお前の目の前の重大事は、よーするに独身でいられるかどうかだろ?」
「……そうだけど」
「だったら、考えようによっちゃ僥倖なんじゃねぇか」
「何がよ」
フテた幼子の体で、完全にお冠になったソンアを、ナクチョンは宥めるような顔で見つめた。
「だってよく考えろ? 万が一、最終審査……三揀擇まで行ったとしてもだ。そこで滑ったらお前の望む一生独身で通せる権利が労せずして手に入るんじゃないか?」
言われて、一瞬ハタと思考が停止する。反応を言葉にしないソンアに、ナクチョンが畳み掛けるように続けた。
「やりようによっちゃ、一次審査の初揀擇で脱落することだってできるんじゃねぇのか」
「そっか……そうよね」
揀擇に参加するのは、実は不利益と利益が隣り合わせだ。
今回の場合、上手くすれば王の側室になれる可能性もあるが、処女単子を提出した時点でその女性は王に嫁いだと見なされる。つまり、書類審査に滑ったとしても、ほかの男にも嫁げなくなるのだ。
但し、それはあくまでも結婚願望のある女性の場合の不利益だ。
ソンアにとっては、確かにこの上ない僥倖である。
「分かった。頑張って滑れるように振る舞ってみる!」
いつの間にかできた同志に宣言するように言って、ソンアは勢いよく立ち上がった。
***
(……そうよ、そのはずだったのよ。なのに何であたしは今こんな所に座ってるの)
自問したって始まらない。
目一杯、『王妃に相応しくない女子』を演じたはずが、あれよあれよと初揀擇、二次審査の再揀擇、三揀擇を通過したソンアは王妃に決まってしまい、否応なく王妃教育を受けさせられ、その間に年は明け、今日この日――婚礼の日を迎えてしまった。
言い包められただけだった、とナクチョンを恨んだところでどうにもならない。
どこかで下手を打って、審査中、猫をかぶってしまったところがあったのかも知れない。
とにかく、コトがこう決まった以上、ソンアがジタバタすれば、家族が巻き添えになるのだ。
(そりゃ、クソ親父やあの女ははっきり言ってどうなったって知ったことじゃないけど)
兄たちや姉、まだ幼い弟たちに類が及ぶのは、さすがに避けたい。あのまま家出を敢行していればまだ、あの父が我が身可愛さからでもどうにかしたかも知れないが、今これから逃亡を決め込むのは、まずいなんてものじゃ済まないのはソンアにも分かっている。
自分が我慢すれば丸く収まる、なんて自己犠牲めいたことを言う日が来るなんて思ってもみなかった。
(……でも、それにしたって結婚よ? 一生涯の伴侶よ!? いくら国王殿下だって顔も見たことない、どんな人間とも分からない男と一緒になれなんてやっぱり横暴だと思うんだけど!!)
一人になった今、沸々と怒りがこみ上げてくるが、目の前にはこれから王とつつく為の夜食の膳があるきりだ。それをひっくり返したい衝動に駆られるけれど、実行しないほうが無難だろうことも分かる。
はあ、と溜息を吐いた直後。
「殿下のおなりでございます」
と外から尚宮〔女官の最高位〕の声が掛かる。
もう一つ溜息を吐いて、ソンアは深々と頭を下げた。
やがて人の気配がして、下げた視界に、恐らく王のものであろう足が上座へ歩むのが見える。
「……面を上げよ」
「はい、殿下」
平伏していたソンアは、上体を上げる。だが、目は伏せたままだ。
本来、国王とは目線を合わせるのも礼を欠く。
すると、王は膝行するようにソンアに近寄り、細長く綺麗な指を、ソンアの顎先に掛けた。払い除けるのも王に対しては失礼かと、されるままに顔を上向ければ、自然相手の顔が目に入る。
瞬時、ソンアは瞠目した。
「……ッ、あ」
あんた、と言いそうになって、危うく呑み込む。
国王の証である龍補の縫い取りの施された赤い常服を身に纏っているのは、見知った顔だった。
普段、無造作にうなじの上で纏められている漆黒の髪は、今はきちんと髷に結い上げられ、高価そうな簪が挿してある。
けれど、見間違いようがない。相手は、国随一と言っていい美貌の持ち主――ユン・ナクチョンだ。
ここまで気付かなかったのは、式の間は王も婚儀の正装をしていて、冠から下がっている飾りで顔がよく見えなかったからだ。加えてソンアのほうも、大首というずっしりと重たい鬘を付けていた為、無闇に首を動かせなかった。
「……あ、の」
「うん?」
「失礼ですが、殿下には、その……双子のご兄弟がおいでで?」
試しに訊いてみたら、王は小さく吹き出した。
「双子なんていねぇよ。きょうだいはそれなりに多いけど」
美貌と落差のあり過ぎるこの口調――いよいよナクチョンに間違いない。
「何でっ……何で国王殿下が場末の商団に出入りしてるわけ!?」
「ちょっと声落とせよ。その辺に女官も内官〔宦官〕もいるんだから」
改めてソンアの傍に腰を落としたナクチョン――基、王に言われて、ソンアは不承不承口を閉じる。だが、その唇は不機嫌に尖ったままだ。
「わざわざ偽名で街彷徨いて、本っ当ゴクローサマね」
潜めた声で言うと、王は苦笑した。
「まったくの偽名でもねぇよ。ナクチョンは字だし、姓は母方のモンだ」
字とは、目下の者が貴人を呼ぶ際に使われる名だ。
「あっそ。それで? 何であたしを選んだのよ」
「お前が独身主義だって知ってたはずなのに、か?」
反問されて、唇を噛み締める。そうしていないと、思い付く限りの罵倒を浴びせてしまいそうだった。
ソンアの沈黙をどう取ったのか、王はまた小さく笑う。
「お前にほかに想う相手がいたら、初揀擇でとっとと落とすつもりだったし、そのあと仮にこっそりそいつと結婚しても目ぇ瞑るつもりだったけど」
「想う相手もいなさそうだから、暇潰しに王妃にでもなっておけって?」
「……それも否定できねぇな」
王が漏らしたのは、自嘲するような笑いだ。それに対して、苛立ちが募る。
「国王殿下じゃなきゃ、今頃顔の形が変わってるわよ」
「おお怖」
おどけるように言って肩を竦めた王は、苦笑を浮かべた。
直後、手に温もりが触れた。王の手が、ソンアの手を取っていると確認して、一瞬ドキリとする。顔を上げると、どこか寂しげな微笑が視界に入って、尚更動揺した。
「……悪い。完全に俺の都合なんだけど……言い訳させてくれないか」
「……何よ」
なぜかばつが悪くなって、ソンアはボソボソと言いながら、視線を逸らす。
「俺には……十年前に離縁した妻がいるんだ。知ってると思うけど」
「……まあ、ね」
『ユン・ナクチョン』の素性は、実はよくは知らない。
カン商団に行くと顔を合わせる青年だったから、カン商団か、提携商団の団員だと思っていた。
だが、国王のことなら少しは知っている。
先の、亡くなった正妃が二番目の正妃であることと、最初の正妃が、反正の際に廃位された王の姻戚だった為、離縁・廃位・追放されたこと――くらいは。
「……実は、その妻が忘れられなくてさ。二番目の妻が亡くなったから、その機に最初の妻を呼び戻したいと思ってたんだ。反正からもう十年経ってるし、ほとぼりも冷めてるから復位させてもいいんじゃないかってな。けど、実現できなかった」
「前の……シン妃様ご自身が、お断りになったの?」
復位を、という口にしない続きを察したのか、王は寂しげな微笑を浮かべて首を振った。
「反対したのは重臣どもだ。廃王の罪は許されない、だから廃妃シン氏も許される道理がない、ってな。……実を言うと、お前が商団にくだ巻きに来てた日、俺もあそこには現実逃避に行ってたんだ。お前の言う通り、確かに女々しいんだけど」
クス、とまた一つ、王の口から自嘲の笑いがこぼれる。
「だから……お前が揀擇の書類審査通過したって話聞いて、お前ならって思ったんだ」
「王妃位の穴埋めするのにってこと?」
「それも否定しないけど、それだけじゃない」
自嘲めいた笑みが浮かんだままの美貌が、まっすぐにソンアを見た。
「お前とはそれなりに付き合いも長いだろ。気心も知れてるし、性格も分かってる。俺が素性を隠してた分を差し引いても……まあ、外では俺は寧ろ素を晒け出してたけどな。お前がどう思ってたかは分からないが」
「……素性は言わないだけだと思ってたけど」
ソンアは、最早諦めの境地でまた一つ、息を吐く。
「つまり理由は色々あるってことね」
「そう言っちゃ身も蓋もねぇけど……お前なら王妃に相応しいって思ったのも本当だ」
「どういう意味よ」
「総括的に見てってことだよ。重臣たちにとって、次の王妃はサラ以外なら誰でもよかったから……それならせめて俺は王として決断したかったんだ。せめて民にとってよい王妃を選びたい」
サラ、というのは多分、初代王妃のことだろう。
「それって、一個の男としてじゃなく公人としてってことよね」
「そうだな」
それがどうした、と言わんばかりの美貌に、思わず拳骨をぶち込みたくなる衝動を、辛うじて堪える。
彼女を忘れられない――つまり、王はこの先、ソンアを女性として見ることは九割九分九厘ない、ということだ。
それを思うと、落胆にも似た感情が渦巻くのに、自分でも戸惑う。
「ソンア?」
「……何でもない」
意外なことで自覚してしまったその感情は敢えて見ない振りで、ソンアは一瞬目を伏せた。
「それで、見返りは貰えるの?」
瞬時、目を瞠った王は、何度目かで苦笑する。
「……そうだな。何でも言うこと聞くぜ。あくまでも常識の範囲内でなら」
「当然ね。あたしの今後の人生狂わせたんだから、取り敢えず」
今日は、一緒に寝てくれるのよね?
そう続けて、小首を傾げたソンアに、またも瞠目した王は、苦笑したままでソンアを抱き寄せた。
【了】脱稿:2020.05.31. 加筆修正:2021.02.24.
©️和倉 眞吹2021.
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