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愛の選択~だから私は、王妃を辞めた~

時は、燕山君ヨンサングン治世下の朝鮮。

王の暴政に耐え兼ねた重臣たちは、クーデターで王を廃し、新たな王を立てた。

その新王に突き付けられた最初の要求は、愛する妻との別れだった。

「――あたしね。王宮を出ようと思う」


 その日の就寝前、唐突に告げた所為か、夫――数日前に反正パンジョン〔クーデター〕で王位に就いたばかりの李懌イ・ヨクは、目を丸くした。

 次いで、苛立ったように手を取られる。

「必要ないって言ったろ」

 そして、荒々しく抱き寄せられた。

「お前は何も悪くないんだ。王妃を廃するなんて、俺が許さない」

「でも」

廃王ペワンの……兄上のご正妃の姪だったのは、お前の責任か?」

「……そうじゃ、ないけど」

 血筋は、たまたまだ。

 先の王・燕山君ヨンサングン、ことイ・ユンは、自身の欲望の赴くままに暴政を布き、有志の臣下たちにその座をわれた。

 代わりに王位に就いたのが、燕山君の腹違いの弟であり、先々代王の第二継妃(ケビ)〔三番目の正妃〕の息子だった。それが、純瓔スニョンの夫だ。

 自然、その妻であるスニョンは王妃の座に就いたが、運の悪いことにスニョンの叔母・愼性硯シン・ソンヨンは、燕山君の正妃だった。つまり、先王がその座にあった頃、王妃として隣に立っていた女性だ。

 反正で廃された王の妻だったという理由により、彼女は連座で王妃の座を逐われ、廃妃ペビとなった。

 連座の罪は、近い血縁者に及ぶことが多い。

 スニョンの父は、反正で廃王の側近として殺害された。母は、奴婢にされた。

 その娘であり、廃妃の姪であるスニョンが、無事でいられる道理がなかった。

 臣下たちは毎日のようにスニョンを廃位するようヨクに訴え、上疎状が執務机にてんこ盛りになっていると聞く。

「……このままじゃ、あんたの立場が」

「どうだっていい」

 またたきの早さで遮られ、口付けられる。

 もうこの話はしたくない。まるでそう言うように、この日のヨクは夜通しスニョンを求め続けた。


***


 その夜は、眠れなかった。夫との、最後の抱擁の所為ではない。

 明け方、微睡まどろむ夫の横で身を起こし、スニョンは彼の寝顔を見つめた。

(……どうだって、いい?)

 昨夜の夫の言葉を反芻はんすうする。

(そんなわけ、ないじゃない)

 十二歳で、一つ下の夫と一緒になってから、七年。

 結婚生活は、平穏とは言えなかったかも知れない。

 夫はいつだって、暴政を布き始めた異母兄に、どこかおびえていた。いつ、兄が兵を率いて自分を処刑しに来るかと、時折口にしていた。

 先代王と夫の兄弟としての関係は複雑で、一口には説明できない。

 腹違いでも兄弟なのだから、と民は言うだろう。

 けれども、王室に於いて、男兄弟というのは、いつ政敵に変わってもおかしくはない。互いにそういう存在で、関係なのだろう。

 先王が夫を敵視していたのは、夫が先々代王の成宗ソンジョンにとって、唯一の嫡男、大君テグン〔正妃が生んだ王子の尊称〕だったからだ。

 夫にそんな気はまったくないというのに、いつ自分に取って代わるかと――恐れていたのは、先王も同じだったのだ。

 その恐れによる精神的負荷が、先王に暴政を布かせたのか。或いは、先王の生母が、王妃を廃され処刑されていたことが、自棄にさせたのか。

 最早、スニョンにも知る術はないが。

(……分かってるの? 臣下の意思で引きずり下ろされる王の宿命を……)

 長い睫が、彼の白い頬に陰を落としているのが分かる。

 もし、このまま彼が、スニョンの離縁と廃位を拒み続ければ、臣下がどうするか。今度はヨクをも廃位まではしないと思いたいが、意のままにならない操り人形など、臣下には邪魔なだけだろう。

 先々代王の王子は、夫以外にも大勢いる。彼らは、嫡流の王子でないというだけだ。


『早く――早く、決断しておくれ』


 昨日の昼間、大王大妃テワンテビ〔太皇太后〕となった義母に言われたことが、脳裏に蘇る。


『そなたがを張らねば主上チュサン大妃テビ、または大王大妃が王を呼ぶ呼称。大妃は皇太后〕は、我が息子は助かる。何事もなく王位に座っていられる』


 ギリ、とスニョンは拳を握った。


『そなたさえ身を引いてくれれば、丸く収まるのだ。分かっていよう。王妃の地位に固執するのはやめて、早く去っておくれ』


(……あたしだって、ホントは)

 改めて、夫の寝顔に目を向ける。

 本当は、離れたくない。傍にいたい。反正こんなことさえなければ、臣下たちが王位に就けたのが夫でさえなければ、それは叶ったはずだった。

(王妃の地位なんて、要らなかった)

 欲しかったのは、望んでいたのは、彼と紡ぐ平凡な幸せだけだったのに。

(……どうして?)

 ただ、愛しているだけなのに――。


***


「――スニョン!」


 王宮の門を出たところで背後から聞こえた声に、スニョンはビクリと身体を硬直させた。

 わずかな荷物を持つ手に、力が入る。

 その隙が、いけなかった。

 背後から力一杯抱き締められる。相手なんて、見なくても分かった。

「だめだ、行くな」

「……楽天ナクチョン

 わずかな供回りしかおらず、しかも彼らが少し離れていたことで、スニョンはいつものように夫のあざな〔目下の者が目上の者を呼ぶときに使う名前〕を呟く。

「俺は許してない」

「……遅かれ早かれそうなるわ。もうどうしようもないの」

「行かないでくれ」

「あたしの立場も考えてよ!」

 たまらなくなって、スニョンは叫んだ。わざと――自分を守る為と言わんばかりの言葉を。

「あたしだって離れたくなんかない! でも仕方ないじゃない! あたしは廃王と廃妃様の姪で、処刑された愼守勤シン・スグンの娘なの! 罪人が、王妃でいられるわけないじゃない!」

「お前は何もしてないだろ!」

「そうだけど、あたしが王妃でいれば何て言われると思ってるの!? 王妃の座が惜しくてしがみついてるって言われるわ!」

 ただ愛しているだけなのに、愛しているから傍にいたいだけなのに、臣下はそう見てはくれない。義母である、大王大妃も――だが、スニョンはそれを呑み込んだ。

「……誰も、王宮ではあたしを必要としてないじゃない。もうこんな場所、たくさんよ」

「俺が必要としててもか」

(言わないでよ)

 スニョンは震える唇を噛み締めた。

 これ以上夫に請われたら、我慢できなくなる。愛してると、こんな公衆の面前でみっともなく喚いて、放さないでと懇願したくなる。

 王位とあたし、どっちが大切なの!? と下らない詰問が口から出そうになる。夫だって、望んだわけじゃない。それを、痛いほど知ってるのに。

「……放して。もう……あたしは王妃じゃないし、あんたの妻じゃない」

「……愛してもいないって言うのか」

(愛してるわよ)

 けれど、言ってどうなるのだろう。夫が自らの意思で座を譲れる世子セジャ〔皇太子〕でもいれば別かも知れないが、スニョンはまだ子を成してもいない。

 このままでは、夫がすぐにまた廃されて、罪人になってしまうかも知れない。

 それだけは、耐えられなかった。

(……そうなるくらいなら)

 力の緩んでいた夫の腕から、スニョンは敢えて素気すげなく見えるように抜け出した。

「スニョン」

 呼ばれれば、胸が張り裂けそうになる。

 スニョンは、傍に用意されていた輿に、逃げるように乗り込んだ。

 弱々しく追い縋る夫の姿が、下りた折り戸の向こうに消える。スニョンは自分を抱き締めて、すぐにも輿を飛び降りたい衝動を必死にこらえた。


***


 その後、夫が誰を継妃ケビ〔王の存命中に正妃が死去、または離縁された際に迎える、二番目以降の正妃〕として迎えたのかは知らない。

 傍にいられない寂しさに、スニョンもしばらくは泣き暮らしていた。側室の地位に落ちたっていい、尚宮サングンでも内人ネインでも、水汲み係(ムスリ)でもいいから王宮に置いてと言えば良かっただろうか、と思うこともあった。

 だが、王位にあれば自然、側室だって置くことになる。

 嫉妬しないのが正妃の美徳、だなんて言われる王宮に居続けなくてよかったのかも知れない。

 もしあの時廃妃になっていなければ、嫉妬で身を滅ぼしたと言われる燕山君の生母の二の舞を演じた可能性もある。

 同じ廃妃になるのなら、醜聞を残さなかっただけ、自分はまだ幸せだった。

 そう思いながら、この日もスニョンは、チマ〔くるぶしまで丈のある巻きスカート〕を広げて岩にかぶせる。

 いつだったか、夫が王宮内にある慶会楼キョンフェルから、この山のほうを――スニョンの実家のほうを時折眺めていると、風の噂に聞いたからだ。

(……あたしも大概、未練たらしいわね)

 クスリと、自嘲めいた苦笑が漏れる。

 噂は噂であって、事実ではないのに。

(それでも、本当だったら)

 きっと彼は、広げたチマが、スニョンのそれだと気付くだろう。一緒だった間、彼が『一番似合う』と言ってくれて、よく身に着けていたものだから。

 彼は、スニョンが今も彼を想っているとは知らない。それでも、元気だとだけ伝われば、それでいい。

(愛してるわ)

 だから、離れたのだ。

 愛しているからこそ、生きていてくれれば、同じ空の下で同じ空気を吸って生きていれば、もうそれだけでいい。

 逢いたくない、と言えば嘘になるけれど、逢えばきっと離れたくなくなる。逢っても一緒に居続けられないのなら、もう逢わないのが一番だ。

(でも、元気でいてくれたら……それだけでいいの)

 彼は、スニョンを忘れただろうか。別れ際の所業は、冷たいと思わせるに充分だっただろう。

 きっと忘れている。スニョンへの想いは、忘れたほうが彼の心の為だ。

(あたしだけが、覚えていればいい)

 スニョンはそっと、無意識に胸元を押さえる。

 先王の嫉妬と猜疑心で危うかった、けれど確かに、二人で静かに愛をはぐくんだ、幸福な七年の結婚生活。それは、自分だけが覚えていればいいことだ。

「王妃様」

 振り返ると、王宮を出る際に付いてきてくれた侍女がいた。その侍女は、未だに廃された呼称でスニョンを呼ぶ。

「そろそろ、戻りませんか」

「……そうね」

 別れてもう何年も経つのに、スニョンの心の空洞は、埋まらないままだ。どこかが抜け殻になってしまって、浮かべた微笑も空虚感が漂う。

 それに痛ましげな顔をする侍女に、また空虚な笑みを返しながら、スニョンはチマを回収して、その場をあとにした。


 最期にたった一度。

 王の臨終の時に、ひそやかな再会の時が待っていることを、スニョンも王も、まだ知るよしもない。


【了】脱稿:2022年11月7日

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