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蒼き月の闇、淡き想い

 第十代王・燕山君ヨンサングン治世下の朝鮮。


 ようやく科挙に合格した青年、パク・チョルホは、合格者が招かれる宴に辟易していた。

 用足しを口実に宴席を抜け出した彼は、月明かりの下、一人琴を爪弾く妓生キーセンと出会い、一目で淡い思いを描くが――。


 かのファン・ジニの母、チン・ヒョングムを描いた一コマ。

 ポン、と弦を爪弾つまびく音に導かれ、男はそちらへ向かって歩いていた。


 妓楼を兼ねた教房の庭先は、存外に広かった。

 一般的な両班ヤンバン屋敷にも劣らぬ造りの庭には、中規模の池とそこに渡された橋、池の中央には四阿あずまやがある。琴の音は、その四阿から聞こえた。

 静かに歩を進めると、四阿とそこに座す女人にょにんの姿が徐々に大きくはっきりと見え始める。

 男に背を向けて琴を爪弾く女性は、妓生キーセン〔遊女〕のようだ。

 しかし、結い上げられた髪は、一般的な妓生のそれよりも小ぢんまりとしている。うなじの辺りで一つに纏め上げられた髪には、簡素な意匠の棒簪ピニョが挿してあるだけだった。

 彼女が弦を爪弾く動きに合わせ、ピニョに付いている垂れ飾りが揺れる。まるで、飾りが琴の音を背景に、舞を舞っているようだ。

 彼女の左手が小刻みに震えながら弦を押さえ、右手が次々と弦をはじいて音楽という名の物語を紡ぎ出していく。

 男は、いつしか間近で、彼女の奏で出す音律にすっかり聴き惚れていた。

 曲は徐々に速度を上げて収束していく。彼女の指先に操られた琴は、やがて最後の一音を歌い上げた。美しい余韻が、青白い月明かりに満ちた庭の空気に溶け込んでいく。

 ほうっ、と思わず漏らした感嘆の息が、消えかけた余韻と混ざるように夜気を震わせた。

 すると、こちらに気付いたのか、妓生が顔を上げる。

「……誰?」

 首だけを振り向けた彼女の、濡れたような黒い瞳が、男を捉えたかに思えた。だが、彼女はしばし視線をさまよわせ、やがて首を傾げながら顔を元に戻す。

 目を伏せた横顔に、男は思わず「あの」と声を掛けた。

 彼女はビクリと身体を揺らし、また恐る恐る顔だけをこちらに向ける。

「……誰かいるの?」

 言いながら彼女は、膝の上にあった加耶琴カヤグムを床へ押しやり、手を伸ばした。探るように動いた指先が、やがて一本の棒を掴む。杖だ。

 その杖を手に、彼女はそろそろと立ち上がる。

 そして、杖の先と四阿の床をコツコツと叩きながら、ゆっくりと歩を進め始めた。そこで男は初めて気付く。

 彼女は、目が見えないのだと。

 慌てて駆け寄った男は、そっと彼女の手に自身のそれで触れた。途端、彼女はビクリと身体を震わせ、目を見開く。

「あ……あ、すまない。驚かせてしまって」

「……いえ……」

 急に触れたからか、それとも声を掛けたのが唐突すぎたのか、彼女は戸惑うように言って下を向いてしまう。

「構わないから座りなさい」

 男は、失礼でない程度に彼女の身体を支え、元通り座らせる。

「あの……教房の楽士様ではないですよね。どなたですか?」

「あ……名乗るのが遅れたな。私は、パク・チョルホと申す。今日は、科挙の合格者として祝いの席に招かれて……」

「左様ですか」

 素っ気なく聞こえた答えに男――チョルホはどうしていいか分からなくなる。

 大体、こういうことが苦手で、だからこそ用足しを口実に逃げてきたというのに、どうして自分から妓生に声を掛ける羽目になったのか。

「あの……そなたは、ここの教房の妓生であろう。何故なにゆえ宴の席に出ぬのだ?」

「……お分かりの通り、目が見えぬので」

 うっすらと寂しげに微笑したその顔は、よく見るとまだあどけない少女のようでもある。

「今日のような宴には出して貰えませぬ。見えないと群舞が舞えませぬし、舞台とお客様の境界線が捉えられませぬゆえ」

「だが、琴の音は素晴らしかった。不躾ぶしつけだが、拝聴しておりました」

「ああ……恐縮です。まだまだつたのうございますのに、お恥ずかしい」

 謙遜して身を縮める彼女に、「何を言う」とチョルホは言い募った。

「あの腕なら、どこへ出しても恥ずかしいものではない。掌楽院チャンアグォン〔宮廷楽団〕にもあの水準の弾き手はいない」

「まあ」

 出会ってから、彼女が初めて小さく声を立てて笑う。

「パク様は科挙に合格したばかりなのでしょう。何故なにゆえ、掌楽院の弾き手のことなどご存知なのです」

「いや、あの……」

 至極もっともな所を突かれて、チョルホはまた慌てた。

「父が……掌楽院の提調チェジョをしていて……それで、私も幼い頃から出入りしていたものだから」

 提調、とは都提調トチェジョとも言い、組織のおさを示す。

「そうでしたか。では、お育ちは都で?」

「そうだ。私も行く行くは楽士になりたいと望んでいたのだが、父が許してくれず……」

「科挙をお受けに?」

「そうなのだ。父の希望通り成均館ソンギュングァンで学んで、今日やっと……もっとも丙科合格だったから、父も母もあまりよい顔はしなかったが」

 丙科とは、科挙の最終試験である殿試の結果によって付けられる、成績の等級の一つだ。

 全部で三十三名いる合格者の内、上から順に、甲科が三名、乙科が七名、残りの二十三名はすべて丙科合格ということになる。もちろん、どの受験者の親も、甲科合格、その中であわよくば首席の莊元チャンウォンという結果を我が子が持ち帰ることを待ち望んでいるに違いないのではあるが。

 けれども、目の前の妓生には、たった今し方出会ったばかりの男の成績など、どうでもいいのかも知れない。

 チョルホを慰めるでもなく、ただ淡々と「左様ですか」と言った。その上、話題が途切れて手持ち無沙汰になったとでも言わんばかりに、床を探るように指先を這わせた。

 先刻、床へ置いた琴を探しているのだろうか。

 チョルホはとっさに、彼女の手を、床へ置かれた加耶琴へと導いてやった。

「……ありがとう存じます」

 まるで見える人間のように顔をこちらへ向けて会釈した彼女は、手に触れた加耶琴を慣れた仕草で引き寄せる。一度手放した為か、軽くはじくことで弦の様子を確認していた。

「……あの」

 思わず、チョルホは声を掛ける。

 それに対して、彼女は声のしたほうへと顔を向けた。

「また、会えるだろうか」

 これまた無意識な台詞に、チョルホ自身も驚いた。

 彼女のほうは言うに及ばずだ。何も映さないその瞳を、真ん丸にみはっている。

 四阿に、静寂がどのくらい支配していただろう。その静けさを破るように、彼女は再度小さく吹き出した。

「……あのー……」

 戸惑ったような声を出すと、妓生は「ああ……申し訳ございません」と口元に手を当てた。謝った割には、笑いの残滓を引きずっている。

「ご無礼をいたしました」

 何とか笑いを納めた彼女は、顔をこちらへ向けて続けた。

「まあ、運次第でございましょう」

「運……と言うと?」

「わたくしは見ての通り、目が不自由ですから。お客様のおもてなしには滅多に出していただけませぬ」

「嘘だ」

何故なにゆえ嘘だと?」

「そなたほどの弾き手を、客をもてなす席に出さぬなど道理が合わぬ。たとえ目が見えずとも、座って琴を弾くというだけのことができぬわけもなかろう。私がこの教房の行首ヘンスなら、そんな宝の持ち腐れな采配は決してせぬが」

「まあ……ふふっ。過分なお褒めの言葉、いたみ入ります」

 何度目かで愛らしく笑った彼女は、目を伏せた。

「では……パク様にだけは本当のことを申し上げますわ。何卒なにとぞ、他言無用にお願いいたします」

「何をだ」

「実は……身ごもっておりますの」

 彼女は、加耶琴に置いていた手で、愛おしげに自身の腹部へ触れる。

 言われるまで、彼女が身ごもっていることなど分からなかった。チマ〔くるぶしまで丈のあるスカート〕はその着用の仕方の特性上、腹部が目立ちにくい。まして、妓生の重ね着するそれでは尚のことだ。

 途端、チョルホは何とも言えない感情が胸の内に突き上げてくるのを感じた。それが嫉妬なのか何なのか、よく分からない。ただ、理由の分からない落胆に近いモノがあるのは間違いなかった。

「父親の名は、ご容赦くださいませ。一夜の同衾で、授かるともなしにこのはらに宿った子です。これも妓生の運命さだめでございます。相手に責任を取らせようなどとは考えておりませぬので」

「いや、しかし……一言(しら)せもせぬのか?」

「はい」

「なぜ? 仮にも我が子ぞ。喜ぶかも知れぬではないか」

 すると、彼女はうっすらと微笑した。

 先刻の、十代の少女のような笑みとは打って変わって大人びた――世の中のすべてをあざけっているような、そんな笑みだ。

「パク様は、純粋でいらっしゃいますのね」

「……いや、そんなことは……」

「わたくしも、あなた様のような殿御がお相手なら、お報せしたかも知れません。ですが……あの方は重荷に感じるでしょう。ほかの、一般的な両班の殿御と同じように」

 クスリ、とやはりどこか、何事かを嘲るように笑って、彼女はポンと弦をはじく。

「両班の男はとかく勝手なもの。我ら妓生を原語を解する花――解語花ヘオファなどと言って人間扱いしないクセに、床の相手はせよと仰る。その結果、子ができるのなど当然の帰結だというのに、こちらが身ごもれば遠ざけるだけならまだしも、流してしまえとあっさり言い放ち、あの手この手で説得なさろうとする、人でなしな方もおられる……」

 チョルホは、言葉を失った。何と声を掛けていいか分からない。

 すると、その空気に気づいたのか、彼女は苦笑に近い笑みを浮かべた。

「……失礼を。ほんの愚痴でございます。取るに足らぬモノが言うことと、お捨て置きくださいませ」

「あの」

「はい」

「名を……教えては貰えぬだろうか」

「なぜ?」

「頼みごとをするに、名を知らぬでは頼めぬ」

 彼女はこちらへ顔を向けたまま、小首を傾げた。しかし、程なく口を開く。

「……ヒョングムです。チン・ヒョングムと申します」

「左様か。では、ヒョングム」

「何でしょうか」

「私にそなたを身請けさせては貰えぬか」

 一拍のののち、「ご冗談を」と彼女――ヒョングムは加耶琴に視線を戻した。見えぬはずの、視線を。

「私は真剣だ。妻とするのはその……無理やも知れぬが、そなたを伴侶とするならば正室はめとらぬ」

「このはらには、ほかの男の子が宿っているというのに?」

「我が子として迎える」

「おたわむれはそれまでに願います」

 おっとりとして聞こえるのに、毅然とした口調だった。

 苛つくでもなく、激高するでもない静かな、だが、きっぱりとした声音が続ける。

「たった今出会ったばかりのわたくしの、何が分かっているというのです。一時の同情や気の迷いでモノを言うのは両班の旦那様方の特権でございますが、妓生には妓生の矜持がございます」

「戯れや気の迷いではない。私は本当に」

「それまでにと申しました」

 これ以上言い募るのを許さない色の声に、チョルホは思わず口を閉じた。

 ヒョングムも、もう口を開かず、目を落とした琴に向かい合う。やがて彼女が何も言わずに弦を爪弾き始めるのへ、チョルホは無言で立ち去るしかなかった。

 最初にチョルホをここへ導いた音色が、再び群青色の闇に沈んだ庭を満たし始める。

 そうせずにはいられず振り返った視線の先に、玄琴ヒョングムが加耶琴をかき鳴らす仕草が、月明かりに蒼く美しく浮き上がっていた。


【了】脱稿:2019.09.28. 加筆修正:2021.02.21.


©️和倉 眞吹2021.

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 妓生の有名人と言えば、ファン・ジニがやはり真っ先に浮かんだわけですが、彼女の人生はあまりにも有名な上に(あくまでも野史の範疇ではありますが)、やろうと思えばいくらでも膨らませられるので、短編で終わらせるにはやや勿体ないなと思いました。

 もうそれこそ、朝鮮王朝版『ガ●スの●面』みたいなのは本家本元で消化済みなので、チニはチニでオリジナリティを出すのがすごく大変そうではありますが。


 では、チニの母親である陳玄琴チン・ヒョングムなら勿体なくないかと問われればそうでもないのですが、ヒョングムの場合『チニの生母がそういう名であると記録が残されている』『盲目の妓生だった(らしいという説がある)』ということ以外に、今のところググってもそれ以上のことは出て来ないという意味で何も史料がなく、空想の余地が自由すぎたので、やりようによっては短編+半径一メートル以内の史料でどうにかなりそうかなと。

 で、チニの父親とされるファン進士チンサ(下の名前は不明)を出してしまうとドロドロ恋愛が絡んでややこしくなっちゃうので、全然関係ない架空の人物を出しました。

 ほとんど、すれ違って掠りもしなかった淡い片恋、みたいになりましたが、これはこれで楽しんで頂ければ幸いでございます。

 読了、ありがとうございました。

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