空蝉との日々~愛なき婚姻、その顛末~
「わたくしも、誰かに聞いて欲しかったのやも知れないわ」
十五世紀末、第九代王・成宗治世下の朝鮮。
先頃、母親を亡くし、近しい身内をすべて失ったチョン・ミスは、ふと思い付いて、チョン家縁の寺にいるという、父方の伯母を訪ねた。
ひっそりと隠れるように暮らす伯母、チョン・フィヨンに、その理由を訊ねたところ、彼女の口から語られたのは、夫との理不尽な結婚生活、そして彼との別れだった――。
『――始めに言っておく。私の心を得ようなどと思わないでくれ』
これが、いつ誰から発せられた台詞かって?
新婚初夜に、夫からですよ。
そうねぇ、ひどい話でしょ。
わたくしも大概、面食らうしかありませんでしたよ。そりゃもう、鳩が豆鉄砲食らったようなというのは、ああいう時に使う言葉だと……え? 自分で自分の顔が見えてたのかって?
いいえ、多分そうだろうなって思っただけですけど。
で、そのあとどうなったのかって?
『そなたとは、完全な政略結婚だ。本来なら私も、ただ一人愛する女性とわざわざ別れて、ほかの女人と一緒になる謂われはないのだが、病床の父上に涙ながらに世孫様を救ってくれ、その為には私がそなたと一緒になるしかないのだ、と言われたら……私とて、甥を可愛いと思わぬ心がないではない。何より父上の切なる頼みだ。断腸の思いで妻と別れ、婚礼は挙げた。だがそれまでだ。そなたと床を共にするつもりもなければ、仲睦まじい夫婦になる気もない。くれぐれも、期待はしないで欲しい』
って言うだけ言って、あとはゴロンですよ。
え、それで『世孫』が誰かって?
当時の世孫様は、六代目の……いえ、ここだけの話にしておいてくださいね。
この国の六代目の国王殿下だった方なんです。そのあと罪人として亡くなった、イ・ホンウィ様のことですけどね。ほら、そなたには叔父上に当たる方ですよ、ミス。恐らく、お会いしたことはないでしょうけれど。
当時の……わたくしたちが婚礼を挙げた当時の殿下は、四代目王の世宗大王様で。
五代目の国王となられた文宗殿下は、為政者としての資質はおありだったらしいんですけど、お体の弱い方でね。
即位されてから二年ほどで薨去なされたんです。
で、次に王に立たれたホンウィ様は、まだ十歳であられて……まあ、その……このあとは本当に大きな声じゃ言えないんですけど、その……そなたも存じておりましょうけれど、次の王様が王位を強引に譲り受けられて。
将来そうなることを、世宗殿下は見越しておられたんでしょうね。味方を増やそうとなさったのか、わたくしの夫となられた永膺大君様に、先の奥様との離縁と、わたくしとの再婚を命じられたんです。
わたくしの弟であるチョン・ジョンが、文宗殿下のご息女・敬恵慈駕様の夫となったので、姻戚によってチョン家と王家の結びつきを強化されようとなさったのでしょう。
わたくし如きが殿下の心中を忖度することは恐れ多いことですけれど、そうすることで、ホンウィ様のお味方を増やしたかったのね。多分。
もっとも、世宗殿下の思惑通りにはならず、夫となった永膺大君様は、毎日のように前の奥様の元へお通いでした。
ええ、わたくしとは口も利きませんでしたね。
当てつけではなく、本当にわたくしに関心がなかったんだと思うの。
一応毎日私邸に戻ってはいましたけれど、『ただいま』もなければ、『行ってきます』もなかったわ。
前の奥様……ソン・ユウォン様と旦那様の間に、最初のお子が授かったのは、わたくしと旦那様が結婚してから一年ほどしてからでした。
けれど、そのお子さまは程なく亡くなられて……え? ざまあみろと思わなかったかって?
そりゃね。少しは溜飲も下がった気もしましたけど、事情を聞けば、あとから割り込んだのは間違いなくわたくしです。それがたとえ、王殿下のご命令であっても、旦那様とユウォン様からすれば、わたくしもお二人のお気持ちをまったく無視して引き裂いた、悪しき女人なの。
だから、仕方ないと諦めがついたのは、案外早かったですよ。
そうですねぇ。ちょうど、ユウォン様に二人目のお子が授かったのが分かった頃だったかしら。
その頃、文宗殿下が薨去されて、次に王位に立たれたホンウィ様に、文宗殿下の弟御である首陽大君様が何か申し上げたんでしょう。
珍しく、嬉々とした表情で駆け込んでこられた旦那様が、『支度をせよ!』と叫んだの。
『……何事でしょう』
『何事ではない、早く実家へ戻る支度をするのだ。そなたとは晴れて離縁できた!』
『え?』
それはもう晴れ晴れと……そんな表情で言う内容じゃないでしょうに、旦那様は掛け値なしに、底抜けに嬉しそうに続けたのよ。
『三日以内にこの屋敷を出て行くのだ! 殿下のお達しだ。私の妻がここへ戻って来られることになった! 最早そなたは赤の他人だ。この屋敷に一刻も居座られる謂われはないが、特別に三日の猶予を与える。だが、できるだけ早く出て行ってくれ。これ、なにをしておる、支度を始めぬか!』
最後は、実家から連れてきた私婢に向けられた言葉だったわ。
とにかく、わたくしが旦那様と言葉を交わしたのは、新婚初夜の日と、実家へ戻れと命じられたあの日だけ。
実際に実家へ戻るわたくしを、お見送りもなさらず……ああ、そうよ。確かあの日は、わたくしが家へ帰るので奥様をお迎えにいらしてたんだわ――
***
「……大君様がお帰りになるまで、待たなかったのですか」
目の前の青年は、まるで自身が離縁を申し渡された妻のような顔をしている。
フィヨンは思わず吹き出しながら、「そうね」と言った。
「きっと、旦那様はお別れのご挨拶をしてもお喜びにならなかったわ」
「そんな……」
「申したでしょう? 結婚二年になるかならぬかで諦めはついたと」
しかし青年は、やはりしょんぼりと、自分が手にした湯呑みに視線を落とす。その様が、何だか微笑ましくて、フィヨンは文字通り微笑を浮かべたまま続けた。
「……思えば、まともにお別れを言う関係も築けていなかったのだわ。嫁した夜から三年、本当に一言も言葉を交わさなかったのだから」
「大君様を、お恨みには……ならなかったのですか。お寂しくは?」
眉尻を下げてしまった顔が、どこか弟に似ていて、フィヨンはまた小さく笑う。
「……どちらも『いいえ』と申してしまえば嘘ね。でも、仕方なかったのよ。何もかもがね」
「伯母上……」
「もっとも、わたくしも斯様に思えるようになるのに随分掛かったわ。当時はまだ、わたくしも若かったゆえ」
クスリと自嘲の笑みを零して、フィヨンは自身の湯呑みを口へ運んだ。
十代後半の自身を『若かった』と言えるほど、フィヨンも年を重ねた。風の便りに、元夫が息を引き取ったと聞いたのは、十年も前のことだ。
離縁された女は、この朝鮮では死んだも同然だ。だから本来なら、フィヨンに元夫の死が知らされることはない。
離縁された女性は大抵、実家に戻った時に、家族に自害を強要される。理由は一つ、家の恥だからだ。
嫁ぎ先が王室であっても、それは変わらない。
この年まで生き延びたのは、ひとえに母がすぐに縁の尼寺へ逃がしてくれたおかげだ。
王室の事情で嫁ぎ、向こうの都合で離縁された娘が、母にはあまりにも不憫だったのだろう。
「……それにしても、どうしてわたくしが生きてここにいると分かったの、ミス」
「……母が……私の母が、生前のお祖母様にお聞きだったそうです。父の姉上が……伯母上は、チョン家縁の寺にいると」
「そう」
離縁されたあと、癸酉の年に靖難と呼ばれた政変が起き、それに関連して弟のチョンは処刑された。未亡人となった義妹――敬恵慈駕は、王女から官婢に身分を落とされたということは、やはり人の噂で知ったことだ。
「お母様は、お元気?」
すると、ミスは表情を曇らせたまま首を振った。
「五年ほど前に、亡くなりました」
「そう……それは、ご愁傷様」
頭を下げると、ミスも会釈を返す。
「もう、私の身内は……近しい身内は伯母上だけです。そう思ったら、是が非でもお会いしたくなって……不躾にもお訪ねしてしまいました。先触れもなく無礼な訪問になった上、悲しい思い出までお話しさせて……申し訳ございません」
更に深々と頭を下げるミスの肩に、フィヨンは手をそっと添える。
「……顔を、上げてちょうだい」
優しく呼び掛けると、ミスはノロノロと上体を上げたが、顔は俯けたままだ。
「話したくなければ、わたくしもそう答えます。そなたが気にすることではないわ」
「……ですが……まさか、私の義理の伯父上が永膺大君様で、大君様とそんな別れを経ていたなんて、思いも寄らぬことでしたゆえ……」
叱られた幼子のように肩を落としたままの甥に、やはりフィヨンは、今日何度目かで小さく笑う。
「よいのです。わたくしも、誰かに聞いて欲しかったのやも知れぬわ」
「伯母上」
「ありがとう。今日は久方振りに楽しいひとときを過ごせました」
ようやく顔を上げてフィヨンを見たミスは、泣き笑いのような表情を浮かべて、「私もです」と答え、立ち上がった。
「それでは、伯母上。本日はこれにてお暇致します」
「そうね。それがいいわ」
「いずれまた伺います」
「そう? まあ、期待せずに待っているわ」
「いいえ。必ず伺います」
あまり、ちょくちょく訪ねぬほうがよいわ。
言いそうになった言葉を、フィヨンはどうにか呑み込んだ。
この甥は、自身の父がどうして亡くなったのかを、それに付随した朝廷の父への感情を、よく理解していないかも知れない。
それこそ、フィヨンが知らない心の傷を、抉ってしまうかも知れないのだ。余計なことは言わないに限る。
最後に抱きついて来た甥を抱き返し、きびすを返した彼の背を見送る。
どうか、この伯母や彼自身の父に影響されず、幸せな人生を送って欲しいと、そう願いながら。
【了】執筆:2018.09.03. 加筆修正:2021.02.21.
©️和倉 眞吹2021.
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【参考史料/敬称略】
・韓国語版ウィキペディア+翻訳機
・朝鮮王朝実録【改訂版】 朴永圭著、神田聡・尹淑姫共訳