【02】生と死の境界線で行う綱渡りの幕開け
異様な雰囲気がその部屋には満ちていた。
琉実奈はその雰囲気を今までの人生で感じた事が無かった。先程までいた真っ暗な部屋、連れられて歩いてきた廊下、あくまでも普通の建物だった。しかし、この部屋は違う。それは言うならば、異界だった。琉実奈が生きてきた日常とは明らかに隔絶された、知らない世界。促されるままに踏み込んだ事を琉実奈は軽く後悔した。
その部屋は超高層ビルには似つかわしくない内装をしている。
不愉快な色の照明、極彩色を使ったステンドグラス、壁には不可思議な紋様が刻まれ、床にも同様に紋様が描かれている。そして、床に描かれた紋様を囲むように、琉実奈達を先導した男達と同じローブを羽織った人間が立っていた。その数、百は下らないだろう。フードで顔を隠している人々は、やはり異様な雰囲気を醸し出していた。
押し寄せてくる異様な雰囲気から逃れるように琉実奈は首を振った。一緒に連れられて来た少年を見ると、やはり呆然としているように見えた。無理も無いだろう。少年も琉実奈と同じ、一般人なのだから。
……いや、違った。少年は心底面倒臭い、と言いたげな顔をしていた。恐れを感じている様子は無い。度胸があるのか状況が読めていないのか。
「六芒星か……」
呆れたように少年はポツリと呟いた。琉実奈は首を傾げる。
「何ですか? 六芒星って」
琉実奈の問い掛けに少年は説明を始めた。床に描かれている紋様を指差して。
「まあ、お守りみたいな物かな。正三角形と逆正三角形を組み合わせた形をしてるけど、あれは調和を表してるらしいよ。錬金術とかにも使われるらしいけど、あーいう風に床に描かれている場合は降霊とか召喚とかが目的なんだって」
「……詳しいですね」
「友達にオカルトマニアがいるんだよ」
淀み無く説明する少年に軽く驚きながら琉実奈は納得した。この部屋がどこか異常な雰囲気を醸し出している理由が少し分かった気がする。だが、それと二人が拉致された事がどう関係してくるのかは全く分からない。
琉実奈の思考を唐突に断ち切ったのは男の声だった。さっき二人を迎えに来た男達とは違う、透き通った声だった。
「ふふ……物知りじゃないですか、君」
澄んだ声の主は部屋の奥にあった階段から降りて来た。先程から琉実奈は疑問に思っていたが、ここは最上階では無いようだ。あくまでもエレベーターが行く事ができる限界の高さなのであって、実際はまだ上がある。恐らく、お偉方が住んでいたりするんだろう。
階段を降りて来た男は美しかった。長身、整った顔立ち、絹のように滑らかな黒髪は背中まで伸びていた。纏う服装は白一色で、髪との対称性がまた美しい。全体的にどこか儚い印象だが、瞳は違った。強い意志、光が宿っている。
琉実奈達との間に六芒星を挟んで男は止まった。そして口を開く。
「どうかな、この塔は? 気に入ってもらえたかな?」
想定の範囲外の事を訊かれて琉実奈は唖然とした。自分達を拉致した理由が真っ先に告げられると思っていたのだ。まさかこんな他愛の無い話題から入るとは。
「中々立派な建物だと思いますよ。高さが五百五十五メートルなのは狙い通りなんですか?」
少年が答え、ついでに訊き返す。まるで世間話のように。五百五十五メートルという数値はマスコミが調査して報道した数値だが、琉実奈はそんな事をわざわざ覚えていなかった。何故少年が覚えているのかは定かではない。
「そうなんだよ。実は階も百十一階なんだ。……本当は縁起の良い六を並べたかったんだけどね、アシュレイはこの高さで十分だって言うからさ」
やたらとフレンドリーに男は語る。琉実奈達の知らない名前まで飛び出す始末だ。
「アシュレイ?」
「ん? あぁ、技術者だよ。この塔を設計したのは彼なんだ」
「へぇ、きっと優秀な技術者なんでしょうね」
「うん、でも気まぐれなんだよね。それが玉に瑕かな」
琉実奈は頭を抱えた。なんでこんなに和気藹々と会話が続くのだろうか。見れば二人を連行して来た男達も呆気に取られているようだ。
「ところで何のためにこんなビル……塔を建てたんですか? 会社、ってわけじゃなさそうですし」
「そりゃあ勿論、野望を叶えるためさ。ここにいる全員同じ気持ちを持ってるよ」
せめて私は除外して欲しい、と琉実奈は心の中で呟いた。そんな事は関係無しに会話は続く。
「野望?」
「うん、神を堕とすの」
男の言葉。にこやかに放たれたその言葉に少年はぴくりと反応し、琉実奈は『はぁ?』と口にした。それ程に突拍子も無い台詞だった。
「神を堕とす?」
少年は男に訊く。その言葉の真偽を確かめるように落ち着いた声色で。男は一つ頷いて、
「そう。今のこの世界を君達はどう思う? 目茶苦茶だと思わないかい? 人間は環境をぶち壊し、権力者は暴利を貧る。毎日事件は絶えないし、とてもマトモとは思えないだろう? そして本来そんな人間を裁く役目に就いている神様は仕事をサボっているのさ。神様がきちんと仕事をしていれば世界がこんな状態になる事は無かった。そうだろう?」
と言った。二人が呆気に取られているのは気にせず、さらに続ける。
「だからさ、天で惰眠を貧ってる神様を引きずり落として僕達が代わりに世界を治めるのさ。この塔を住まいとしてね」
にこやかに男は言う。見た目とは掛け離れた、アブナイ男だという事は琉実奈にも良く分かった。少年は相変わらずの顔――面倒臭そうな表情をしている。
「つまり、神を殺して世界で最も高い建物に住んでる自分達を新しい神にする、って事ですか?」
「その通りだよ。理解が早くて助かるね」
また会話が始まった。琉実奈はやはり付いて行けない会話だ。雰囲気に気圧されて思考が上手く働かない。
「どうやって世界を支配するつもりですか?」
「そこでまたアシュレイの出番さ。彼のハッキング技術は世界一だからね、彼にかかれば世界中の情報が自由自在さ」
「……はぁ、つまりコンピュータを介して支配するわけですか。時代もハイテクになりましたね」
「全くだね。この塔は電波の発信元になるわけさ」
「ところでこの塔、よく都心のど真ん中に建てられましたね」
「コネがあるからね。国のお偉方にもこの教団の一員はいるからさ、意外と簡単に承認は貰えたよ」
「やっぱりこれって宗教なんですね」
「まあ、その一種だね」
和気藹々と会話は続く。何だかとんでも無い話題になっているような気がして琉実奈は混乱した。要するに彼等――教団はこの塔から世界を征服するつもりらしい。それには国のお偉方も関わっていて、というわけだ。
そこで琉実奈はふと気付いた。
「……あの」
「ん? 何かな?」
即ち、
「どうして私達にそんな大事そうな事まで話せるんですか?」
という事に。
男は変わらぬ柔和な笑顔で答えた。
「だって君達、生きて外には出れないからね。言ってもなんら弊害は無いんだよ」
「……ええぇぇぇっっ!?」
あっさりと告げられた新事実に琉実奈は驚きの声で答え、少年は『ああ、やっぱり』といった表情で答えた。
「君達二人にあの六芒星の中で死んでもらって、それを餌……贄にして神様を呼び出すのさ。で、そこで神様殺す、っていう手順。単純明快、実にシンプルだろ?」
変わらぬ笑顔が実に腹立たしいが、今の論点はそこでは無い。
「け、けど……どうして私達が死ななきゃいけないんですか?」
「え? 偶然。射月と日釶に命令したら君達を連れて来たからさ。若い男女なら誰でも良かったんだけどね」
射月と日釶、というのはどうやら二人を部屋から連行して来た男達の事らしい。この男達がスタンガンを使って琉実奈達を気絶させた張本人だというのは新事実だった。今となってはどうでも良いが。
「ちなみに、死ぬのは嫌だって言ったらどうします?」
少年の問い。
「いや、どっちにしろ待つのは死だよ。だって事実知っちゃった人間を帰すわけにはいかないし」
男の返答は少年も琉実奈も予想した通りだった。勝手に語ったんじゃないか、という至極的確なツッコミは恐らく通用しないのだろう。
「さて、君達には僕達の野望のためにさっさと死んでもらいたいんだけど、何か最期に質問はあるかな?」
「あ、あります」
構わず続ける男の問いに少年は即答した。男は軽く面食らったような顔をしたが、すぐに
「何かな?」
と続きを促した。
少年は問う。
「貴方のお名前は?」
その問いに男も琉実奈も射月も日釶も、その場にいた少年以外の人間が驚いた。その問いは唐突過ぎた。
「僕の名前? 君は面白いね。すぐに死ぬのにさ。……まあ良いか。僕は神志梓。女みたいな名前だろ?」
肩を竦めて男――神志は言った。
確かに変わった名前だ、と琉実奈は思った。だが、それを口にする気にはならなかった。状況が状況だから。
「さて、そろそろ良いかな? 神様を堕とすとしようか」
神志が言うとローブの人間が一斉に沸き立った。男も女も、老人も若者も関係無く、色々な世代の人間がいるようだった。沸き立った声は消える事無く、仕方なく神志はやや大きめの声で琉実奈達を六芒星へと促した。
琉実奈の足は動かない。断頭台に進んで登るかのような行動を迷わずできる一般人がいるはずが無いのだから、当然だろう。少年も動じてはいないものの、動かない。
沸き立った声は静まらない。声に気圧されるかのように射月と日釶が二人を急かそうと動いた。その時。
部屋から光が消えた。不快な色の照明は消え、闇が部屋を呑み込んだ。喜びの声は動揺の声へと変わる。
なんだ、停電か? 早く非常電源に切り替えろ! くそ、何だってこんな大事な時に。口々に人々が言うのが聞こえた。神志の声も聞こえる。
琉実奈は闇の中で縮こまっていた。いきなりの停電は彼女を驚かせた。このまま電気が消えたままなら死ななくても済むのだろうか。そんな事を考えていたりもした。
そんな時に、目の前に気配が現れて囁いた。
「逃げるよ」
少年の声だった。琉実奈はびっくりしながらも闇の中で差し出された少年の手をしっかりと握った。
すぐさま少年は駆け出す。
琉実奈は思わず転びそうになったが必死で走った。声を出さないようにするのが大変だった。二人の傍にいた射月と日釶にぶつからなかったのはラッキーだった。いや、少年はしっかりと避けて走ったのかもしれない。停電によるざわめきは二人の足音を上手い具合に掻き消してくれた。誰も二人が逃げた事には気付いていないようだ。
豪奢な扉に行き当たった。取っ手を掴んで引くと扉は開いた。鍵は掛かっていなかったようだ。二人は小さく開いた扉の隙間からさっと抜け出した。明かりが消えて闇一色に染まった廊下を駆け抜けた。
電気が復旧した時、二人の姿が忽然と消えていたのに気付いたのは誰だったか。とにかく部屋は大騒ぎになった。神志は言う。
「全員、二人を全力で捕らえろ! 生死は問わない! 絶対に生かして帰すな!」
神志の命令に一団の動揺は一瞬で消え去った。彼は集団の頂に立つ、ある種のカリスマ性を持っているようだった。
「……しかし、こんな時に停電……神の抵抗か、それとも……」
神志は踵を返し、階段を登って自室へと戻って行った。その足取りは、どこか重かった。
停電で止まったエレベーターは使えなかったため、階段を駆け降りた。神志曰く、このヒドゥン=ストラクチャは百十一階建て。外に出るのはかなり大変そうだ。水都は溜息をついた。「はぁ……あの停電、何だったんでしょうね?」
階段を駆け降り、電気が復旧した瞬間部屋に駆け込んだ。そのためか少女の息は少し乱れている。ちなみに今は何の変哲も無い部屋にいる。二人が最初に寝ていた部屋に近い。明かりが点いているのは二人を探し易くするためだろうか。
少女の問いに水都は肩を竦めて答えた。
「さあね。俺は神様は信じないけど奇跡は信じるよ」
「奇跡……こんなに良いタイミングで起こるんですね、奇跡って」
少女は笑って言った。水都も微笑む。微笑みながら思い出した。
「そうだ、さっき自己紹介の途中だったね」
少女は、そういえばそうでしたね、と言って水都を見た。
「俺は雨城水都。十七歳」
水都の自己紹介を聞いて少女も応えた。
「私は佐伯琉実奈、十四歳です。よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
少女――琉実奈が右手を差し出して来たので水都はその右手を握り返した。握手をしただけで強い仲間意識が芽生えるのを水都は感じた。そして、琉実奈を護らなくては、という使命さえも感じた。それは命を差し出して神を呼び出す事なんかよりもよっぽど意味のある使命に思えた。
「よし、頑張ってここから逃げ出そう、一緒に」
「はい!」
そして、鬼ごっこは幕を開けた。
あちこちに不満が残った第二話。神志さんが勝手に喋るキャラになりました。ほっとくといつの間にか要らん事まで喋って話が間延び。うわあぁ。まあ、とにかく鬼ごっこ開始です。どれくらいの話数で終わるのか皆目検討つきません。こんな話ですが、お付き合い頂けると私大喜びです、ハイ。では、第三話でお会いしましょう。真ん中辺りでファンタジーに走りかけてるのは気のせいです。