ウサギ
原稿用紙換算27枚程度。どうぞよろしくおねがいします。
娘がウサギを飼いたがってると妻の口から聞いて、哲郎は半ば気分が悪くなった。
「この前デパートの屋上でウサギの露店見てからね、事ある毎にウサギウサギってビービーうるさいのよ」
妻の口調はほとんど救いを求めているようだった。この様子だと、哲郎の耳に入れる前に、幼い娘とかなり激しい消耗戦を繰り広げたと見える。
「私の口からダメダメっていってももう限界。お父さん、どうにかしてくれないかしら?」
「どうにかって、俺にどうしろって言うんだよ?」
「美加が諦めるように説得してくれれば一番いいんだけど。それが無理なら、二人で選んできて頂戴」
哲郎は耳を疑った。
お前、それは飼っても構わないって言ってるのか?」
「情操教育だと思って諦めるわ」
そう言って溜息をつく妻の横顔は、戦いに疲れ、悟りを開いた侍のようにも見えた。
「どうせすぐ飽きるでしょ? 子供のああいう我侭って、恋愛なんかと一緒で一種の病気みたいなものだもの。上手いこと飽きてくれたらペットショップに戻してもいいし、どの道長生きなんてしないでしょうからね」
この数日、忙しくて娘とろくに顔も合わせられないでいた間、そんなあらぬ方向に話が進んでいたとは露とも知らなかった。家族の小事にについては、父親はいつだって浦島太郎だ。
「ウサギねぇ。他のじゃダメなのか? オウムとかインコとか」
「他のでよければ適当に金魚でも買ってきてごまかしてるわよ」
「リスとかハムスターでもダメか?」
「ウ・サ・ギ」
妻がわざとらしく言葉を切って言った。
「真っ白でフワフワでお耳の長いウサギちゃん。あんな子供でも、ウサギとハムスターの区別ぐらいつくんだから。嫌なら、お父さんがハムスターで妥協するように言ってよ」
哲郎の気分の残り半分がどんよりとした。まるで、臨終と通夜と世界の終わりがいっぺんに来たような気分だ。
ウサギ。
長い耳を持った、白い毛玉のような、奇妙な生き物。食物連鎖の底辺部を這いずり飛び回る、世界で最も弱々しく見える存在のひとつ。
あの連中を嫌いだと思った事は一度も無かった。ただ彼は他人と違い、あの生き物に絶対的なトラウマを植え付けられた経験があるだけだった。
ことの始まりは二十年近く前に観た一本の映画だ。「ナントカのカントカ」という感じのタイトルで、主演は確かグレン・クローズ。普通の家庭人である主人公の男が一夜限りの不倫を楽しみ、その浮気相手のG・クローズからの復讐に悩まされる、というような話だ。
女の嫌がらせは、始めは無言電話や妊娠告知なんて、決まりきったものだった。しかしその行動は妻との接触や脅迫自殺など日を追うごとにエスカレートしてゆき、遂には不倫男の家に白昼堂々忍び込むまで狂気じみる。そしてそこで女が毒牙を向けたのは、男の妻でもなく、娘でもなく、飼われていたウサギだったのだ。
それが映し出されるのと同時に、哲郎の喉に酸っぱいものがこみ上げた。彼は慌てて口を押さえ、トイレに駆け込んだ。上映中で無人のトイレに、自分が吐瀉物を吐き散らかす音だけが響く。頭の中では、たった今大画面で見せられた“それ”が何度も繰り返し上映されていた。
その時の彼には、不倫男への同情も愚かさを嘲笑する気持ちも、愛人女への恐怖すらなかった。ただ、あのグロテクスで悲惨なウサギの末路だけが、頭の中をぐるぐると占領していた。命の尊さがどうのという綺麗事すら語る気になれないほど、ショッキングなシーンだった。
それ以来、哲郎は“ウサギ”と聞くだけで、反射的に気分が悪くなる体質になってしまった。動物そのものに興味を抱かなくなったのもその頃だ。考えてみれば、娘の美加を動物園に連れて行った記憶すら、彼にはなかった。
嫌じゃないんだけどサ…いぶかしむ妻に、哲郎はその映画の話をポツポツ聞かせてやった。最初は真面目に聞いていてくれた女房だったのに、終る頃にはケラケラと笑い転げていた。
「いやあねお父さん、変なところで可愛いんだから。大丈夫よ。飼ってるウサギが切り刻まれて血まみれでお鍋でグラグラ煮られるなんて、そうめったにおきることじゃないでしょ。それともお父さん、外にそんなことしでかしそうな女でも囲ってるの?」
哲郎はイラッとして妻を睨み付けた。この女も、出逢ったばっかりの頃はこんなにデリカシーのない女じゃなかったんだ。いっそ本当に不倫でもしてやれたらどんなに気味が良いだろう。でもこんな中年のサエないおっさん、ウサギでゲロ吐かなくったってみんな願い下げだろうよ。
「とにかく、あの子はとっくにウサギを飼うつもりでいるわよ。それが嫌なら、お父さんから言って聞かせてよね。もう私の手には負えないわ。でも一応説得に成功するほうを期待するわ。どうせ私が世話することになるんだもの。」
そう言って妻は、高らかに戦線離脱を宣言した。
そもそも、娘の愛くるしいおねだりに勝てる哲郎ではなかった。一応、モルモットだの何だとの代替案を出すには出したが、一年生の娘に悉く却下され、その次の週末には、彼は娘とウサギを飼いに行く羽目になっていた。
町に唯一のペットショップは、スーパーマーケット裏通りにあった。通りがかるだけで生ゴミのような匂いが鼻につくので、近寄ったことすらない店だ。足を踏み入れると、湿った藁や小鳥の糞の匂いが充満していた。店内は不潔な上に窮屈で、通路を通っただけで小動物たちの排泄物が袖につきそうになる。全体的に照明が暗いのは、動物たちに配慮しているからか?その割にはゲージはどれもフンだらけだ。自分のウンコと同居させられている動物たちに、流石に同情してしまう。哲郎は、身体中の穴を全部塞いで目を閉じて、頭から全身をビニールで覆いたくなる衝動に、必死に耐えた。
売れ筋ではないからか、ウサギコーナーは店の一番すみっこにひっそりと設けられていた。壁一面に、一昔前の公団住宅のようにゲージがびっしり積み上げられ、そのひとつひとつにきっちり一羽ずつウサギが詰め込まれている。ゲットーか、これは。少し前にテレビの特集で観た映像とともに、頭にぱっとそんな思いが走った。そして彼は、そんな自分を恨んだ。
ウサギと一言で言っても、色々な種類がある。あの映画に出てきた白いヤツから灰色のヤツ、耳がギザギザのヤツ、手乗りサイズのヤツ、等等。その中で娘が選んだのは、ダッチウサギという、一般のよりも一回り小さい、両の掌に丁度収まるぐらいのサイズのヤツだ。こいつらは別名“パンダウサギ”とも呼ばれ、その名の通り、全身に白と黒のブチ模様がある。哲郎は娘が真っ白いウサギを選ばなかったことに内心ほっとした。
つがいで飼った二羽はペンちゃんとギンくんと名付けられた(二羽揃ってペンギン。娘が名付けた。ウサギなのに何故ペンギンなのか、哲郎には永遠の謎)。飼育場所については、娘が家の中でゲージに入れて飼いたいと駄々をこねたが、家の中を汚したくない妻と家の中でまでゲットーを見たくない哲郎の利害が珍しく一致して、娘の我侭をねじ伏せることに成功していた。彼らには哲郎の家の、猫の額以下の狭い庭の一角があてがわれ、馴れない日曜大工で作成された柵と小屋が与えられた。娘は週末中
「ペンちゃん!」
「ギンくん!」
と大はしゃぎで、柵の中で哀れなウサギたちを追い回していたが、月曜には少し飽きたらしく、柵の外から眺める以上のことはしなくなっていた。
ウサギたちが来て生活に一番の影響を受けたのは、間違いなく妻だった。ペンギンたちを連れて帰ったその日は
「うわぁ、ふわふわぁ!」
なんて娘と一緒に追い掛け回していた。しかし次の日には
「もう、こんなにウンチしてっ!」
「まだ食べるの?こんなにちっちゃいのに!」
などと怒鳴り始め、次の週末には
「お父さんもちょっとはペンギンたちの世話してよ!」
と半ヒステリーを起こしていた。
ウサギをペットにすることの利点は、犬と違って散歩させなくてもいい分世話が楽なことだ―と思っていたのだが、ペンギンたちの世話を押し付けられて、それが間違いだったというのに、哲郎は遅ればせながら気付かされた。ウサギの世話で何が大変かと言えば、まずはエサ。とにかく奴らの食うこと食うこと。キャベツの芯とかニンジンの皮とか、人間様の食い残しでもやっておけば充分だと思っていたのに、奴らは放っておけば果てしなく食い続けるのだ。
「もっと食が細そうなの買って来れば良かったのにっ!」
妻は怒りながら人間用の柔らかい部分もエサに混ぜて与えることにしたが、今時、野菜だって安くはない。その状況の打開策として、妻は近所の空き地や河原での草むしりを提案してきた。
「たまたまネットで、ウサギを飼っている人のブログを見かけたの。ウサギが食べられる野草ってけっこうあるのね! 週に一、二回でもそれで賄えたら、少しはお財布が楽になるわ!」
エンゲル係数にすれば大した出費でもないはずなんだけど……得意げに話す妻に哲郎は内心そう思った。そんな心の中でついた悪態がばれてしまったのだろうか、彼は続けてこう言われてしまった。
「河原の土手のところに、丁度良さそうな草が生えているの。ビニール袋にひとつかふたつで間に合うと思うから、よろしくね」
また、食うものを食えば、出すものも出す。それだけの量を食っているのだから、出てくる量もハンパないのはまあ仕方ないとして、ウサギどもが困るのは、場所を選ばないということだ。犬や猫だってするものはする。しかし犬猫は自分たちなりにトイレを決めて用を足すし、人間側から場所をしつけることも出来る。ところがこの白い毛玉共は、トイレを決めない上にしつけることも不可能ときてる。一日も放っておけば、柵の向こう側は黒い粒だらけ。しかもそれの臭いこと。妻は
「ご近所の迷惑になる」
「せめて同じ場所にしてくれれば」
何て言いながら毎日掃除をしていたが、その理不尽を哲郎に分け与えることも忘れなかった。彼は、週末のうち一回はウサギスペースの清掃担当になることを、いつの間にか承諾させられていた。
ある土曜日、哲郎は河原での草むしりを終え、ビニール袋いっぱいに雑草を持って帰宅した。いつも通りそれを日陰に置いて家に上がろうとしたところ、妻にストップをかけられた。
「お家に入る前に、ウサギ小屋のお掃除やっちゃって頂戴な。一度落ち着いちゃったら億劫でしょ?日のあるうちにやったほうが楽だし」
内心腹も立ったが妻が言うことも正しいと考え、彼はそのまま回れ右して、箒とちり取りを持って庭に出た。
ペンギンたちは相変わらず鼻をヒクヒクさせながら、草を食んでいた。彼らは突然入ってきた掃除夫には目もくれず、ただ食べることだけに忙しい。哲郎はしゃがみ込むと、彼らの様子に見入った。
確か、お腹の辺りに黒い毛が広がってるのがペンで、目の辺りがサングラスになってるのがギンだったよな、などとぼんやり考えながら、食べる以外微動だにしない口元を眺める。面白い動きだ。確か、こんな感じのフードミキサーあったよな。上のほうの小さな穴からニンジンなんかを突っ込むと、押し込んだ分だけ沈めて削っていって、下の容器に溜めていくような、あれ。似てるなぁ。ん? 似てる……か?
一瞬、ペンギンたちとミキサーが重なって見えた。が、一秒もしないうちにそのイメージは頭から吹き飛んだ。
いや、違う。こいつらはミキサーじゃない。ミキサーには食うたびに動く鼻をもなければ長い耳もない。ウンコもしない。何の手間もかからない。フードミキサーなら娘にねだられたりもしないし、妻に怒鳴らせたりもしない。
あの女だって……
哲郎はバラバラに分解され、鍋でグラグラ煮られるフードミキサーを想像してみた。心は痛まない。吐き気もしない。と言うより、それってただの煮沸消毒じゃないか。そりゃそうだ。そもそも、フードミキサーは、切られても血を流さない。
哲郎はそっと手を伸ばすと、初めてペンとギンに触れてみた。あまりにも小さくて、頼りなくて、ガラス細工みたいだ。でもそれなのに、あたたかくて、フワフワして、柔らかい。何でこいつらはこんななんだろう。食物連鎖のワンランク上の連中に食わせるために、わざわざ弱々しく生まれてきたのか?見上げた自己犠牲精神じゃないか。きめ細かいな、この毛並み。触っているのに、触ってないみたいだ。すっごく気持ちいい、不思議な感触。
幸せな感触……
その日から、哲郎の日課がひとつ増えた。帰宅時、家に上がる前にペンギンたちの小屋に寄り、幸せにしてもらうようになった。父親がこうして変わる中、娘は相変わらずウサギたちを眺め続け、妻は相変わらず怒鳴り続けていた。
ある晩、哲郎はいつものようにペンとギンにただいまを言おうとして、彼らの姿が柵の中に見当たらないのに気がついた。いるはずの姿が無い。哲郎の胸に嫌な記憶が蘇り、喉の奥に僅かな酸味が広がった。気付いた時には、彼はスーツ姿のまま柵を越え、小屋の中から茂みから探していた。騒ぎに気がついた妻が、部屋から「スーツのまんまで何やってるの?!」と怒鳴ってきたが、それでも無我夢中で探し続けた。ペンとギンはここにいない。その事実を受け止められるまで、その晩の捜索は終わらなかった。
その夜、哲郎は遅くまでパソコンに向かっていた。とても眠れる気がしなかったし、妻が個人のブログでウサギのえさについて調べたのを思い出して、ひょっとしたらウサギたちが神隠しにあった理由も判るかもしれないと、思いついたからだ。彼は妻とは違い、個人の趣味のブログではなく、獣医師やブリーダー等の専門家の飼育ハウツーサイトを重点的に巡ってみることにした。
丸二時間後……
彼はパソコンの前で愕然としていた。
判明したのは、ウサギたちが忽然と姿を消した理由ではなくて、自分たちが知っていたウサギに関する知識に、正しいものなどひとつもなかったという事実だった。
まずはじめに、ウサギという生き物が、心身ともにとてもデリケートに出来ているということを知らなかった。本当なら家に着いたら一、二日箱から出さずにそっとして、新しい環境に慣らす時間を作ってあげなければならなかった。それなのに、ペットショップから持ち帰ったその足で庭に放し、妻と娘で散々追い回してストレスを与えてしまった。そういえば、その時何度か抱っこに失敗して、膝から派手に墜落させてしまったな。今更だけど大丈夫だろうか? ウサギの骨がガラスのように脆いので、一メートルの高さからの転落で死んでしまうこともあるなんて書いてあるじゃないか。
エサもそう。たまねぎをあげてはいけないなんて知らなかった。それだけじゃない。イモ類、マメ類、白菜も駄目。キャベツやレタスも“与えないほうがいい野菜”のカテゴリーに入っている。それなら一体、何を食べさせれば良いんだろう?それに、奴らがすっと食べてばかりなのは、うちのペンとギンがたまたま大食漢だったんじゃなくて、ウサギの体は、胃腸が常に動いていないと生命の危機に関わる構造になっているからだと書いてある。
水?適度な水分補給は必要?ウサギ用の水ボトル通販?ウサギって水を与えちゃいけないんじゃなかったのか?え?迷信?小学校のとき聞かされて、今までずっと信じてきたのに、「同じ体重の犬の五倍水を飲む」なんて書いてあるじゃないか。
そして極めつけは…
『ウサギはトイレの場所をちゃんと覚えますので、きちんとトイレのしつけをしてあげましょう』
何てことだ。
俺たちはオーナーのくせに、ウサギの事を何も知らずにいたんだ。
次の日の朝、哲郎は朝早くからウサギたちの捜索を再開した。あれからブリーダーのページに
『庭飼いする場合は、猫や鳥避けのネット等を張り、かみ殺されたりしないように注意しましょう』
などと言うとんでもない記事を見つけ、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。小さな茂みからブロックの裏まで、文字通り草の根を分けて、探し回る。昨夜散々探し回った箇所も、初めての箇所も、それこそくまなく。そうしているうち、ウサギ小屋のすぐ脇に、真新しい小さな穴を見つけた。沸き立つような不安が、つかえが取れるように消えていった。
「美加ー、美加ー、おいでー」
彼は娘を呼び寄せた。
「ほうら見てごらん。ペンとギンは今、新しいお家を作ってるんだよ。」
穴を見せながら哲郎は言った。しかし、夕べ哲郎がウサギがいないと騒ぐのに一緒になって不安になってくれた戦友だと思っていたのに、一晩で一変、彼女は穴を見るなりぷうっとふくれてしまった。
「どうして今のおうちじゃいけないの?」
「うーん、もしかしたら赤ちゃんが産まれるのかも知れないなぁ」
ネットでにわかに調べたウサギの習性をぽつぽつ思い出しながら答えた。
「元々ウサギって、土の中におうち作る生き物なんだって。赤ちゃん育てるのに、自分たちで作った巣穴のほうが都合がいいんだよ、きっと」
確か一年中発情期って説もあったよな。案外ペンとギンも子作り最中かもしれないから、このぐらいの推測だったら、嘘にはならないよな。
娘はそれでも動くぬいぐるみたちの不在が不満で、
「なんで?どうして?穴の中じゃ見られないじゃない。そんなのつまんないよ!」
と父親を責め続けた。
「でも、次戻ってくる時は赤ちゃんが一緒よ。もっともっと可愛いと思うなぁ」
何てことを言いながら母親が宥めに入ってくれるまで、彼は解放されなかった。
それからしばらくペンギンたちの不在は続いた。哲郎はいないと判っていながらもいつもの癖が抜けず、帰る度柵の中を覗かずにはいられなかった。ウサギたちの潜伏生活に一番納得のいってなかったはずの娘は、次の日にはすっかり怒りを忘れ、学校から帰るとランドセルを放って近所の友達の家に遊びに行ってしまった。妻は始末するフンの量が激減したことを手放しで喜んだ。
その晩も、哲郎は帰宅すると、まず始めにウサギ小屋に目をやった。相変わらず主のいない領地は殺風景なままだった。そして家に入り、いつも通りスーツから部屋着に着替えて、家族と共に食卓を囲んだ。いつもなら、その日身の上に降りかかった不満や愚痴をたらたら垂れ流してくる妻が無口なのが妙と言えば妙だったが、それ以外はいつもと何ら変わらない、夕食のひと時だった。
食事が終わり、娘を風呂に入れて寝かしつけると、妻が改まって口を開いた。
「お父さん聞いて。ペンとギンがね、死んじゃったの」
一瞬、哲郎は妻が何を言ってるのか判らなかった。
「え? 死んだ?」
妻が悲しそうに頷いた。
「お隣の田中さんがね、亡がらを持って来て下さったわ。美加に見つからないように、下駄箱に隠してあるけど……」
それを聞き、哲郎は跳ね上げられたように玄関に向かった。
そして下駄箱を開けると、見慣れない、小さな白い箱が一番上の奥のほうに隠してあった。哲郎は手を震わせながら、それを引きずり出して蓋を開けた。
中には、腹を何かに引き裂かれ、内臓が飛び出て血まみれになっているウサギと、びっしょりに濡れて白目をむき泡を吐いているウサギが一羽ずつ、折り重なるように収まっていた。
哲郎の喉の奥にどろっとした酸味がこみあげ、口から溢れ出た。
全ては哲郎たち一家の、ウサギに対する無知から始まっていた。小学校の校庭の脇で、鉄格子に囲まれて飼育されているウサギしか見たことのなかった彼らには、あの頃見知ったウサギの飼い方だけが正しい全てだった。哲郎に至っては、ネットで調べるまでウサギが穴を掘る生き物だということすら知らなかった。妻もまた然り、だった。
哲郎の適当な推測どおり、お腹に赤ん坊でも抱えていたのだろうか。ペンとギンはあの小さな身体で、家族の誰にも知られることなく、横に広がること五メートルにもなる巣穴を作り上げていた。それは哲郎のこさえた柵はもとより、お隣の庭との間に塀代わりに植えられた生垣をも軽く超える距離だった。人間たちの勝手な都合など知る由もないウサギたちは知らずに田中家の地下に侵入。そして運悪く、巣穴の出口を犬小屋の傍に作ってしまったのだ。おそらくペンは、巣穴からひょっこり顔を出したところを、田中家のポチにガブッとやられてしまったのだろう。
「ギンのほうはね、きっと、ポチから逃げるに必死だったんじゃないかしら、って」
妻は言った。
「必死すぎて、茂みの向こうに池があるのに気付かなかったのねって。田中さんが、池に白いものが浮いているのに気付いたときは、もう……」
哲郎は、妻の話をほとんど聞いていなかった。彼の脳裏にあったのは、とある獣医のサイトに掲載されていたコラムのタイトルだけだった。
『学校のうさぎの劣悪な環境・飼い方について』
その週末は、よく判らないうちにうつろに過ぎていった。
お隣の田中さんが夫婦揃って菓子折りを持ってお詫びに来たが、哲郎は適当な挨拶だけで、後は妻に押し付けて部屋に引きこもってしまった。娘とも話す気になれず、ましてやウサギたちのことを何と告げればいいのか判らず、これまた無言のうちに妻に押し付けた。日曜には鎌とビニール袋を持って出かける気になっていたが、直前でもう草刈をする必要がないことに気付き、代わりに柵の周りを掃除したりしてみた。
月曜に家に帰ると、娘が部屋でみーみー泣いていた。妻が彼女に何て言って聞かせたのかは知らないが、彼は妻に感謝した。その晩妻は、河原にウサギたちのお墓を作ってきたと哲郎に報告した。娘は一晩泣き続けたが、次の日の朝には何事もなかったかのようにようにケロッとして、ランドセルを背負って登校した。
金曜日、いつものように帰宅すると、ウサギ小屋にちらっと目をやった。明日にでもこいつを片付けなけりゃ。彼はぼんやりと考えた。
それにしても、何とウサギと縁のない人生だろう。映画館のトイレで胃液をぶちまけたあの日から、自分はもう、ウサギには関われないと心のどこかで自覚していたはずだった。いや、それどころか、自分はもうペットを飼う事すら出来ないのではないかと漠然と思ってもいた。あの映画のウサギは、飼い主と愛人の痴情の縺れのせいで悲劇的な死を迎えた。奴らは、そんな馬鹿馬鹿しいもので生命をも左右されてしまう弱い存在なのだ。そんなのもを責任を持って背負い込むことなんて自分には出来ないと、あの頃に、既に判っていたのだ。
俺たちは、あの女以下だ。突然、そんな思いが胸に沸きあがった。
グレン・クローズが演じたあの女には、少なくとも動機があった。彼女にとっては、ウサギを八つ裂きにしたのも鍋で煮込んだのも、狂気じみた愛と嫉妬に駆り立てられた、どうにもならない衝動だったに違いない。でも、俺たちにはそれすらない。俺たちはただ、無知だっただけ。
ペンとギンは、無知という凶器で、俺たち一家に撲殺された。
動機も悪意も何もない俺たちに……
家に入ると、珍しく妻が玄関で出迎えてくれた。
「何だ?葬式でもあったのか?」
黒いスーツを着ている妻に、哲郎は言った。
「いいから、さあ、お夕食にしましょう」
妻は苦笑すると哲郎を急かした。いつもなら、汚すと困るからとか小うるさいのに、今日はスーツのままでいいという。彼は不思議がったが、食卓に付くや、それは驚きに変わった。
そこには、法事や盆暮れにしか頼まない、高級仕出し屋の弁当が三人分、重厚な箱に収まって並べられていた。哲郎が問いかけるように妻の顔を見ると、彼女は恥ずかしそうに言った。
「お葬式、なんて大袈裟なものじゃないけど、ウサギたちのお別れ会」
そして哲郎の前にお手製のホタテの吸い物をよそって置くと、言葉を続けた。
「ウサギたちがいなくなってから、お父さん、ずっと元気がないんだもの。見てるこっちが辛くなるぐらい。まあ、あの子達を一番可愛がってたの、お父さんだったもんね。だからこれで、ひとつ区切りをつけてもらえたらな、と思ってね」
そう語る妻の瞳が僅かに赤いのを、哲郎は見逃さなかった。流し台の三角コーナーには、いつもの野菜の切りくずが山のように積まれていた。哲郎は久方ぶりに、妻を愛しいと思った。
言い終えると、妻は哲郎にお猪口を持たせ、お清めの酒をついだ。そして二つのお猪口と一つのジュースで献杯すると、それを胃に流し込んだ。
哲郎の食道を、苦い液体が落ちていった。彼は目頭に熱がこみ上げるのを感じた。
一応、二年前にとある文学賞で一次選考だけは突破できた作品です(笑)
オリジナル小説を書きたい、そう思い続けて15年余り、二次創作しかやってこなかった私がはじめてきちんとした形に出来た作品です。
最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。割いて下さったお時間と労力に、心より感謝いたします。