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彼の世界に、雑音はいらない

作者: 怒れる布団
掲載日:2026/08/14

 豪奢な邸宅の広いリビングで、主である九矢(くうや)は優雅に紅茶を嗜んでいた。


 彼は数年前の事故で一切の音を失い、完全に耳が聞こえない。

 だが、潤沢な財産と美しい容姿を持つ彼が、生活に困ることはなかった。


 彼の世話をするために雇われた使用人たちは皆、九矢の前では絶え間なく柔らかな笑顔を浮かべ、丁寧に筆談用のノートへ言葉を走らせる。


『九矢さん、今日もお召し物がとてもよくお似合いです』


『お身体の調子はいかがですか? 何か必要なものはいつでもおっしゃってくださいね』


 九矢は筆談用のノートを読み、満足そうに微笑む。

 それは穏やかな日々。 少なくとも、九矢にとっては。

 だが、この屋敷で働く若い使用人・カスミだけは、その光景に居心地の悪さを覚えていた。


 カスミ自身は心優しい人間で、九矢にも真摯に仕えている。

 だから、周囲の人間たちの態度が気になっていた。

 彼らは九矢の前では、実に親切だ。 けれど九矢がいないところでは、その笑顔が消える。


「……今日も九矢さん、機嫌よさそうだったな」


「そりゃそうでしょう。こっちが何を書いても、そのまま信じてるんだから」


「……疲れるよな。何かと世話を焼かないといけないし」


「まあ、仕方ないよ。あの人、なにも聞こえないんだから」


 軽い愚痴。

 時には、そこから一歩踏み込み、悪意を吐く者もいる。


「そういえば、叔父さんが言ってたよ。九矢が亡くなったら、この屋敷どうなるんだろうって」


「え?」


「いや、これだけの財産だろ? もしあの事故で九矢が死んでくれてたら……」


 くすくすと笑う。


「本人に聞かれたら怒られるぞ~」


「聞こえないから大丈夫」


 その言葉に、何人かが笑い、カスミは彼らの悪意に眉を顰めた。

 別の日、九矢が何度も同じことを尋ねたことを、陰で馬鹿にしている者もいた。


「さっき説明したのに、また聞いてきたよ」


「仕方ないって。聞こえないんだから」


「イラつくんだよ。部屋で大人しくしてればいいのに」


 それでも九矢の前に戻れば、皆、何事もなかったように笑う。

 九矢の前では皆、丁寧で、優しい。

 カスミはそれが恐ろしい。

 九矢は何も知らない。 だからといって、本当に彼らの真実を知らせないほうが良いのか。カスミは葛藤する。

 何も知らなければ九矢は、穏やかに笑っていられるが……。


 そんなある朝、異変が起きた。


 屋敷にいた使用人達が、一夜にして姿を消した。

 朝になっても、誰も起きてこない。 食堂には昨夜のまま食器が残り、使用人部屋には脱ぎ捨てられた服がある。

 確かにそこに人がいたことを証明する物はあるのに、人だけがいない。


 当然、事件が疑われ、彼らの家族から連絡を受けた警察は捜索を始めた。

 しかし。

 外部から誰かが侵入した形跡も、防犯カメラの記録にも、事件となるような証拠は何も出てこなかった。


 ◇


「……どうして……」

 カスミは、同い年だった使用人の部屋に立っていた。

 そこには、飲みかけのビール缶が置かれている。

 昨日の夜まで、彼はここにいた。 くだらない冗談を言って笑っていた。 九矢のことを、少し面倒そうに話していた。

 それなのに。


「カぁスムオちゃ……」


 背後から滑舌の悪い声で自分を呼ぶ声に、


「ヒッ」


 と悲鳴をあげて振り返った。

 九矢がニコニコと変わらない穏やかな顔でノートを差し出す。


『みんな急にいなくなって困ったね。でも、カスミちゃんがいてくれて良かった』


 カスミは、その丁寧な文字をじっと見つめた。

 そして、九矢の顔を見る。

 本当に何も知らないのだろうか。 それとも――。

 そこまで考えて、カスミは暗い顔で頭を下げた。


 数週間後。


 新しい使用人たちが屋敷へ補充される。

 最初、カスミは新しい使用人たちに忠告した。

 この屋敷で妙なことが起きた。 前の使用人たちは突然いなくなった。


「だから、九矢さんのことを悪く言ったり、からかったりするのはやめたほうがいいです!」


「怖い話ですね」


 新しく来た使用人の一人は真面目に聞いてくれた。 別の者は肩をすくめる。


「九矢さんはいい人でしょう? 給料もいいし……」


 その言葉に、カスミは頷いた。


「そうよ。良い方よ。だから悪く言ったりしないでね」


 カスミは少しの希望を持つ。

 今度は大丈夫かもしれない。

 そう思った。

 最初のうちは皆、九矢に気を遣っていた。筆談にも丁寧に応じた。


『九矢さん、今日もお元気そうですね』


 けれど、一ヶ月もすると少しずつ変わっていった。

 九矢に見せるノートには丁寧な言葉を書きながら、


「……毎回あれやるの、大変じゃない?」


 使用人の一人が嫌な顔をし始めた。


「だねぇ」


「でも給料いいし」


「ここより割の良い所、ないものねぇ……」


 カスミは新人たちに必死で沈黙を守るよう訴えた。

 しかし、九矢に対する悪意は感染するように広がっていく。

 やがて、沈黙を説得するカスミにも、聞くに耐えない言葉がぶつけられるようになった。


 そして、再び、その日。


 朝になって屋敷を見回ったカスミは、空っぽになった使用人部屋の扉を開けた。

 誰もいない。

 昨日までいた人間が、また、いなくなっている。

 翌日。

 二度目の失踪が起きた屋敷には、前回とは比べものにならない数の警察官が集まった。

 玄関前には数台のパトカーが並び、邸内にも捜査員が次々と入っていく。

 九矢はいつものリビングで、いつものようにソファに腰掛けている。

 向かいには、三人の刑事。


『九矢さん。これで二度目です』


 刑事の一人が、筆談用のノートに書いた。


『何でしょうか?』


「とぼけないでください!」


 刑事の一人が九矢に語気を強めた。


『前回も、この屋敷の使用人が一斉に失踪しました』


 ノートに書かれた言葉を九矢は読み、しばらく刑事の顔を見つめた。

 それから、静かにノートへ文字を書く。


『私も困っています』


「いい加減にしろ! 澄ました顔しやがって」


 体格の良い刑事の一人が怒鳴りつけたが、その声は九矢には届かない。

 その刑事はカスミにも鋭い視線で尋問した。


「あんた、使用人たちに主人の悪口を言うなって命じていたらしいな? それは、良い給料もらうための作戦か何かか?」


 カスミは今日まで、顧みられない忠告を、正しいと信じて続けてきた。

 しかし、それすら疑いの目でしか見られないことに、何かがストンと落ちた気がした。

 カスミは思う。

 そもそも九矢も自分も、悪いことなど何もしていない。

 もうひとりの刑事が相方を抑えるように言った。


『屋敷を調べさせてもらいます』


『どうぞ』


 九矢はなんでもないように答えた。

 だが、警察官たちが片っ端から屋敷中を捜査しているうちに、体格の良い刑事の姿が見えなくなった。


「……あいつ、どこ行った?」


 無線で呼びかけても返事がない。

 捜査員たちの間に、ざわめきが広がった。


「二人一組で探しに行こう」


 誰も口には出さなかったが、皆、この広い屋敷の全体が巨大な箱として押し迫ってくるような感覚を覚え、得体の知れない恐怖を感じ始めていた。


 しばらくして、ツルルルルルーと携帯電話が鳴り、行方不明の刑事から連絡が入った。


「おい! どこにいる!」


 慌てて電話を取るが、返事はない。

 ザーッという雑音。

 そして、かすかな声が聞こえた。


『……狭い』


 それきり、電話は切れた。

 捜査員たちは顔を見合わせる。

 その頃、九矢は何事もなかったように、いつもの場所で紅茶を飲んでいた。

 結局、使用人たちの行方は分からず、事件となるような証拠も出なかった。

 捜査員たちは皆、納得できないという表情を浮かべながら帰った。

 カスミは何も見つけられなかった警察に失望しながら、静まり返ったリビングを一人で眺めていると、壁に小さな穴があることに気がついた。


「……何これ?」


 その穴は黒くて小さいが、妙に気になった。


『九矢さん、この穴はなんでしょうか?』


 カスミは九矢に筆談で尋ねた。

 九矢は無表情で、口元だけ綻ばせる。


『カスミちゃん、それはただの壁の傷だよ。そんな物、気にしなくていいからね』


 そんなふうに優しく言われたカスミ。

 確かに観察していてもただの穴であり、傷だと言われてしまえば強く食い下がることはできなかった。


 カスミの日常は忙しくなった。


 何しろ一人で食事を用意し、洗濯も掃除もこなさなくてはならないのだから。

 人手はやはり欲しい。

 カスミがそんなことを考えていると、


『カスミちゃん、新しいお手伝いさんたち、来週からまた来るから』


 九矢はいつものようにノートを差し出し、笑っていた。

 カスミは一瞬だけ、その顔を見つめ、


「そうですか」


 と答えた。

 それから一年後。

 三度目に集まった人たちも、カスミ以外の全員が消えた。

 あの日、刑事に疑われてから、カスミは忠告をやめた。

 どうせ忠告してもしなくても、陰口を叩く人は止まらないし、言わない人は何も言わない。

 いつも通り警察は、大掛かりに集まってきて調べ、しかし、さっさと失踪という結論で片付けた。

 すでに警察は、この屋敷を恐れているのだ。


 翌朝。

 誰もいない、しんと静まり返った廊下。

 そっとリビングの扉を開ける。

 黒く落ち窪んだ壁の穴の前に立つと、気のせいか、以前よりわずかに広くなっている気がした。

 顔を近づけると、黴臭い冷ややかな風が鼻腔を撫でた。

 じっと見つめていると、自分までその狭い隙間に押し込められているような息苦しさに襲われる。

 暗闇の奥から、皮膚の表面をざらりと撫でるような音が響いた。


 ──狭い。


 けれど、カスミがそんなことを気にする様子はなかった。

 今日は食事の準備、掃除、洗濯。 すべてを一人でこなさなければならない。


「……面倒くさいな」


 思わず本音が漏れる。

 けれど、それも数日の我慢か……。

 どうせ破格の給金につられて、また新しい人間が集まってくるのだから。


「次に来る人たちは、陰口を叩かない、善良な人たちだといいな」


 誰が聞くともなしに、カスミは一人ごちた。


「今日は、九矢さんのお好きなスープを作ろう」


 九矢さんも今日は元気で機嫌が良い。

 カスミはふっと微笑み、厨房へと向かった。

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