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氷の美少女は俺にだけ重い。〜鉄壁の九条さんが、加減を知らないお世話を焼き始めました〜  作者: 風莉


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第4話

 朝の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。

 理由は簡単で――空席がひとつ、目立っていたからだ。


 いつものように登校して、席に着いた。

 机の上に鞄を置いて、椅子を引く。


 隣の席。

 九条玻璃の席が、空いている。


 ただの遅刻。

 そう思えばいいのに、胸の奥がざわつく。


 ――昨日、やっぱり何かあったのか?


 昨日の夕暮れ。

 追いかけていた男。青ざめた九条さん。

 「また明日」とだけ言って、置いてきた自分。


 平穏を望むくせに、平穏じゃないことにだけ敏感で。

 俺は自分に腹が立つ。


「九条さんが遅刻って珍しいな」

「風邪じゃね?」

「いや、あの人、体調崩すイメージなくない?」


 周囲もざわざわし始める。

 けれど、そのざわつきの中には心配よりも、“出来事”を欲しがる軽さが混じっている。


 俺は前を向いた。

 それがいちばん安全だと、知っている。


 予鈴が鳴る。

 担任が入ってくる気配。

 その直前――教室の扉が勢いよく開いた。


「……っ、すみません……!」


 息を切らして、九条玻璃が入ってきた。

 いつも整っているはずの髪が、ほんの少し乱れている。頬は赤い。

 そして手には、学校指定の鞄とは別に、小さなデパートの紙袋。


 彼女は、それを握りしめるというより、落としたら世界が壊れるみたいに大事に抱えていた。


 視線が一斉に集まる。

 けれど九条さんは、それを見ない。見ないまま、一直線に自分の席へ向かう。


 席に着く。

 教科書を出す。

 深呼吸――の途中で止める。


 その間に、彼女の視線が何度も揺れた。

 前を向いたまま、横。

 横。

 横。


 俺の方を、ちらちらと伺っている。


 怯え、ではない。

 昨日までの「近づかないで」の空気とも違う。

 もっと別の、熱。

 決意に近い何かが、視線の端に混じっていた。


 ――何だよ、それ。


 俺は前を向き直した。

 見返したら、何かが始まってしまう気がしたから。


 午前中の授業は、何事もなく進んだ。

 黒板の文字、先生の声、ノートの罫線。

 いつも通りのはずなのに、隣の席の気配が妙に近い。


 昼休み。

 俺は阿久津と佐々木と、いつものように席を寄せて弁当を広げた。


「今日の九条さん、猛ダッシュしてたよな」

 阿久津が言う。

「な。あんな必死な顔、初めて見たわ」

 佐々木が頷き、すぐニヤつく。

「で、紙袋。あれ何? 誰かに渡すやつじゃね?」


 俺は平静を装って、唐揚げを口に入れた。

 噛むのが遅くなる。


「……寝坊でもしたんじゃね?」

「寝坊でデパート袋って意味わかんねえだろ」

「デパートっていうか、あれ駅前のとこだよな。限定スイーツとか?」

「知らね」


 知らない、と言い切るのは簡単だ。

 でも、昨日の出来事が頭の中でリンクしてしまう。


 昨日、九条さんは本屋の袋を持っていた。

 今日は、デパートの袋。

 そして――俺への視線。


 嫌な予感じゃない。

 むしろ、予感の種類がわからないから落ち着かない。


 放課後。

 図書委員の日だった。


 俺は教室を出ようとして、担任に捕まった。

「櫟、提出物。お前、数学のプリント出してない」

「あ……すみません」

「明日でいい。ちゃんと持ってこい」


 ほんの数分の足止め。

 それでも、図書室では待ち合わせが成立してしまっている。


 俺は鞄を肩にかけながら、廊下へ出る前に隣の席へ声を投げた。


「悪い。先に行っててくれ」

 九条さんは一度だけ頷いた。

 頷き方が、今朝より少しだけ固い。


 急いで図書室へ向かう。

 扉の前で呼吸を整えて、開ける。


 ――カウンターの椅子に座る九条玻璃と、目が合った。


 彼女は作業をしていなかった。

 返却台にも触れていない。

 ただ、ずっと、入口の扉を見つめていた。


 俺が入った瞬間、視線が動く。

 待っていた。明確に、待っていた。


「……遅れてごめん」

 それが、俺の精一杯の普通。


 九条さんは、息を吸って、吐いた。

 何かを言おうとして、喉の奥で一度止まる。


 そして、震える手で、今朝の紙袋を差し出してきた。


「……昨日、は、ありがとうございました。これ、お礼です」


 紙袋が、俺と彼女の間で宙に浮く。

 断れ、と頭の中の警報が鳴る。

 こういうのは受け取った瞬間、距離が変わる。

 距離が変わったら、俺はどうすればいいかわからない。


 でも、彼女の目が――逃げ道を塞いでいた。

 受け取らなかったら、彼女はたぶん「自分が迷惑だった」と解釈する。


 俺は、ため息を飲み込んで、袋を受け取った。


「……ありがとう」


 中から、ほんのり甘い香りがする。

 バターの匂い。焼き菓子の匂い。

 それが妙に生々しくて、“わざわざ用意した”って事実を五感に押しつけてくる。


 俺の胸が、居心地悪くなる。


 俺はヒーローじゃない。

 昨日だって、正義感で動いたわけじゃない。

 明日気まずくなるのが嫌で、見捨てたくなかっただけで。


 なのに、こんなふうに感謝されると――。


「……無事でよかったよ。ありがとう」


 自分でも驚くほど、真面目な声が出た。

 九条さんの肩が、ほんの少しだけ落ちる。

 安心の動き。


 俺は話題を変えたかった。

 気まずさが増える前に、別の枠に押し込めたかった。


「そういえば……昨日、本屋の袋持ってたよな」

 九条さんが、ぴくりと反応する。

 視線が床へ落ちる。


「……いつもは、お母さんと一緒なんですけど」

 声が小さい。

「昨日は、自分で……欲しくて。……これなんです」


 彼女は鞄の中から、一冊の本を取り出した。

 帯が新しい。角がまだ硬い。買ったばかりの匂いがしそうなやつ。


 タイトルを見て、俺の眉が勝手に上がった。


 ――それ、俺も気になってた新作だ。


「あ、その本……俺も読みたかったやつだ」

 言った瞬間、九条さんの瞳が、ほんのわずかに輝いた。

 氷の下に、光が一瞬だけ走るみたいに。


「……本、好きなんですか」

「まあ、うん。暇なとき読むくらいだけど」


 彼女は一度、唇を結んだ。

 それから、ためらうように鞄の中へ手を入れる。


 もう一冊。


 同じ本。

 同じ帯。

 ただし、カバーの色味が少し違う。


「……あの、よかったら」

 彼女は本を、俺の方へそっと差し出した。

「一冊、貸します。限定カバーが欲しくて、買ったので……気にしないで、ください」


 言い訳が、いかにも彼女らしい。

 「貸したい」じゃなくて、「二冊あるから」という口実。

 踏み込まないための、踏み込み方。


 俺は少し迷って、受け取った。

 受け取ったら、距離が変わる。

 でも、受け取らなかったら、彼女はまた自分を責める。


「……いいのか? じゃあ、遠慮なく借りるよ。楽しみだ」

「……はい」


 彼女の返事は短い。

 でも、今までの「短さ」と違う。

 自分で出した短さだ。


 作業を進める。

 返却台の本を棚に戻す。ラベルを貼る。台帳をつける。

 いつもの無言の時間。


 なのに、今日は違った。


 バターの香りが、カウンターの下でまだ残っている。

 本の重みが、手の中にある。

 そして、必要最低限じゃない言葉が、少しだけ増えた。


 閉館のベルが鳴った。

 乾いた音が、図書室の静寂に溶ける。


 俺は立ち上がって、本を鞄に入れる。


「じゃあ、また明日。本、楽しみにしてる」

 言った瞬間、言葉が“約束”になった気がした。


 九条さんは、一拍だけ遅れて、会釈した。

 そして――小さく、でもはっきりと微笑んだ。


 作った笑顔じゃない。

 努力して出した笑顔でもない。

 ただ、出てしまったみたいな微笑み。


 俺は目線を逸らして、図書室を出た。

 胸が、妙に落ち着かない。






 扉が閉まる。

 静かな図書室に、九条玻璃がひとり残る。


 カウンターの上に手を置いて、息を吐く。

 「また明日」


 その言葉が、頭の中で反響する。

 ただの挨拶のはずなのに、今日は違う。

 明日が、怖くない。


 紙袋の中の焼き菓子はもう渡した。

 でも、バターの香りは、なぜかまだここに残っている気がする。


 玻璃は、唇の端を押さえて、微笑みを隠した。

 隠しても、胸の奥のあたたかさは隠れなかった。


 ――明日。


 明日も、あの静けさの中で。

 隣にいる人が、ちゃんと「また明日」と言ってくれるなら。


 それだけでいいと、思えた。


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