3話
放課後の駅前は、瑞垣高校の延長みたいなものだ。
制服のまま駅へ流れ、コンビニに寄って、ファストフードに吸い込まれて、ゲーセンの音に溶けていく。
駅前のハンバーガーショップ。
プラスチックのトレーにポテトとバーガー。紙コップの炭酸が、しゅわしゅわ音を立てている。
「でさー、昨日の数学、あれ罠だろ」
阿久津が大げさに頭を抱えた。
「罠って言うやつほど引っかかってる説」
佐々木がケラケラ笑う。
こういう時間が、俺には「普通」だ。
部活帰りの声が混じる店内。雑談の洪水。何も考えなくていい空気。
佐々木が、急にニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「そういやさ。九条さんとの図書委員、どうなんだよ。進展あったか?」
「……は?」
阿久津まで期待した目をする。やめろ。
俺はポテトをつまみ、なるべく興味なさそうに口へ放り込んだ。
「いや、本当になんてことないよ。お互い一言も喋らずに本読んでるだけだし」
「えー、マジで? 九条さんと二人きりで無言って、それ逆にすごくね?」
「お前ら、何を期待してんだよ」
実際、図書室の静寂は、俺にはちょうどいい。
あそこで無理に会話しないのは、九条さんへの配慮でもあるけど、俺の都合でもある。
静かな空間で黙って本を読むだけの時間って、思ってるより贅沢だ。
そんなことは、口には出さない。
出したらまた佐々木が変な方向に騒ぐ。
「まあでも、九条さんってガチで近寄りがたいよな」
阿久津がぽつりと言う。
「オーラやばい。あれ、どうやって落とすんだよ」
「落とすとか言うな」
軽口。
だけど、誰も悪意で言ってないのもわかる。
その「悪意がない無神経」が、九条さんを追い詰めるんだろうな、とも思う。
俺は話題を変えるように、紙ナプキンで手を拭いた。
「ゲーセン行くぞ。早くしないと混む」
「おっけー。今日こそなぎとを音ゲーで泣かせる」
「お前が泣くやつな」
そのまま、いつも通り遊んで、いつも通り笑って、いつも通り解散した。
――いつも通り。
駅から離れて、住宅街へ入る。
夕焼けが伸びて、電柱の影が長くなる。
風が少し冷たくて、昼間の騒がしさが嘘みたいに静かだ。
ひとりで歩くこの帰り道も、俺の「普通」だった。
その普通が、視界の先でひっかかった。
本屋の袋を提げた女子。
背筋の伸びた歩き方。髪の揺れ方。制服の着こなし。
間違えるわけがない。
九条玻璃。
どうしてここに――と思う前に、違和感に気づいた。
彼女の少し後ろ。一定の距離を保って歩く男がいる。
同じタイミングで曲がり、同じタイミングで速度を変える。
偶然にしては、整いすぎている。
九条さんが、何度も振り返る。
足が速くなる。
それでも男は距離を詰めない。詰めないまま、逃がさない。
彼女の肩が小さく上下している。
呼吸が乱れているのが、遠目にもわかった。
――やばい。
俺の足が止まる。
関わらない方がいいか。
そう思う自分がいる。変に巻き込まれて、面倒になるのは嫌だ。
でも、次の瞬間、別の考えが刺さった。
もし何かあったら。
明日、図書室で――隣で、俺はどんな顔をすればいい?
見て見ぬふりをしてしまったら、
俺は「踏み込まない」んじゃなくて、ただ「逃げた」だけになる。
俺は息を吸って、スマホを取り出した。
画面はつけない。通報するふりだ。
耳に当てて、歩き出す。
声は、わざと大きく。
「……はい。不審な男が女性をつけていて……。今、瑞垣三丁目の角です」
男の背中が、ぴくりと反応した。
俺はそのまま、距離を詰める。
電話口に話すふりを続けながら、男の背後に回り込むように歩く。
「制服の女子です。かなり怯えてて……ええ、はい」
男が振り返った。
目が合う。
俺の方が背は高くないし、体格も勝てない。
だからこそ、目線を逸らさない。逃げない。逃げると“効く”。
「……チッ」
男は毒づいて、歩幅を崩した。
次の瞬間、路地の向こうへ駆けていく。
足音が遠ざかり、角を曲がって消えた。
静寂だけが残った。
夕焼けの色が、さっきより濃い。
九条さんは、その場に立ち尽くしていた。
本屋の袋を胸の前に抱え、肩が小さく震えている。
泣き出しそうなのに、声が出ないみたいな呼吸。
俺は数歩だけ近づいて、でも、これ以上は踏み込めないところで止まった。
距離の取り方が、わからない。
「……大丈夫だったか?」
自分でも驚くほど、普通の言葉しか出なかった。
九条さんは何も答えない。
ただ、不安げな瞳で、縋るように俺を見つめ続ける。
その視線の熱が、俺の背中をむず痒くした。
どうすればいい。
泣きそうな女子に、かける言葉の正解なんて知らない。
俺は後頭部を掻いて、目線を少しだけ逸らした。
「……まあ、気をつけて帰れよ。じゃ、また明日」
それだけ言って、背を向ける。
早足で歩き出す。
振り返ったら、たぶん、余計なことをしてしまう気がしたから。
自分の足音が、夜へ向かう道に響いた。
街灯が一つ、二つと灯っていく。
――送っていった方が良かったか?
思って、すぐに否定する。
いや、さすがに馴れ馴れしすぎるだろ。
それに、俺が送ったところで、九条さんが安心できる保証もない。
でも。
でも、あのまま置いてきて良かったのか。
胸の奥が、落ち着かない。
結局、着地点はいつも同じだ。
明日、学校で。
いつも通りの彼女が見られれば、それでいい。
俺は元の平穏が欲しいだけなんだ。
そう思いながら、家への角を曲がる。
⸻
一方、瑞垣三丁目の角に独り残された九条玻璃は、
遠ざかっていく凪人の背中を、ただ見つめていた。
本屋の袋を、胸の前で強く抱きしめる。
紙の角が腕に食い込むのも気づかないくらい、強く。
さっき、自分の世界の外側から伸びてきた手があった。
境界線の外側で、誰かが止まってくれた。
それは、安心なのか、怖さなのか。
どちらともつかない熱が、胸の奥で小さく残っている。
玻璃は、息を吸った。
震えを隠すように、もう一度、袋を抱え直す。
――明日。
明日、図書室で。
あの静けさが、まだそこにあるなら。
それだけでいい、と言い聞かせながら、玻璃は歩き出した。




