2話
――瑞垣高校、二週目。
入学一週目が「期待」でできていたとしたら、二週目は「現実」でできている。
制服の新品感は薄れ、教室の座席の熱も落ち着き、誰が誰と仲がいいかが、なんとなく見えてくる。
そして、現実にはだいたい「決め事」がついてくる。
「はーい、ホームルーム始めるぞ。今日は委員会と係決めをする」
担任の声が教室に落ちた瞬間、あちこちから小さな呻きが漏れた。
俺も、心の中でだけ肩を落とす。
委員会。係。
要するに、逃げられない仕事の割り当て。
俺――櫟凪人は、こういうのに関してはとても普通だ。
できれば楽がしたいし、できれば目立ちたくないし、できれば人間関係が面倒にならない配置に落ちたい。
隣から、空気が固くなる気配がした。
九条玻璃。
彼女は今日も、机の上に置いた手をきれいに揃えている。姿勢も表情も崩れていない。けれど、肩甲骨のあたりが微妙に上がっているのが見える。
――怖いんだ。
みんなで相談しなきゃいけない、という状況そのものが。
誰と組むか、どの役割を引くか、どんなふうに話を振られるか。
そういう未来の可能性が、全部、彼女の呼吸を浅くする。
俺は、黒板を見ながら思う。
今日の目的は一つ。
とにかく、楽な係で終える。
担任は黒板に委員会の一覧を書き、希望を取っていく。
体育委員はすぐ埋まる。学級委員も意外と手が上がる。
広報は女子が数人で固まって挙手。保健も同じ。
そして最後に残ったのが――。
「図書委員。……希望者、いないか?」
沈黙。
教室の空気が「見て見ぬふり」で満ちていく。
図書室。静か。楽そう。
その印象はあるのに、誰も手を上げないのは、理由がある。地味だし、二人一組で動くし、先生に呼ばれたら平日の放課後が潰れる。
「……よし。じゃあ、くじで決める」
担任が紙の束を取り出した瞬間、教室の温度が一度下がった。
嫌な予感ってやつは、だいたい当たる。
くじが回ってくる。
俺は引く。
紙を開く。
――図書。
うわ。
よりによって。
同時に、別の席から紙が落ちる音がした。
視線が集まる。
落としたのは、九条さんだった。
拾い上げた紙を、彼女は見た。ほんの一瞬、瞳が揺れる。
担任が言う。
「九条と櫟、図書委員な。放課後、図書室に行って、担当の先生に挨拶してこい」
教室がざわついた。
「凪人、役得じゃねーか!」
「隣の席に加えて委員までとか、運使いすぎだろ!」
「九条さんとペアって……死ぬほど緊張しそう」
男子の冷やかしは、だいたい軽い。
女子の声は、もっと現実的で、もっと残酷だ。
「うわ、良かった……九条さんと一緒じゃなくて」
「ね。無理。あのオーラ」
「話しかけただけで凍りそう」
その言葉は、九条さん本人にも届いてしまう距離で投げられる。
彼女の表情は変わらない。変わらないようにしている。
でも、喉が小さく上下しているのが見えた。
パニック寸前、というのはこういう状態なのかもしれない。
俺は、机の上で指を軽く握り直した。
ここで俺が変に声をかけたら、彼女はもっと追い詰められる。
「大丈夫?」って言葉が、必ずしも救いになるとは限らない。
救いになるには、距離とタイミングが要る。
放課後。
委員になった二人は、図書室へ行けと言われている。
つまり、否応なく二人きりになる時間がある。
俺は席を立ち、阿久津と目が合った。
あいつは「頑張れ」みたいな顔をする。やめてほしい。
佐々木はニヤニヤしている。もっとやめてほしい。
放課後になって、教室が少し空く。
九条さんは、まだ席にいる。立つタイミングを探しているみたいだった。
他人の流れが落ち着くまで待つ癖。きっと、昔から身についたものだ。
俺は鞄を持って立ち上がり、彼女の動きを邪魔しない速度で歩き出す。
少し遅れて、九条さんも立った。
廊下に出る。
人の気配はまだあるが、教室ほど密じゃない。
二人きり――とまではいかないけど、会話が目立つ程度には静かになる。
九条さんの足音が、俺の後ろで小さく揺れている。
同じ歩幅を合わせようとして、合わせきれずにいる感じ。
話すべきか、黙るべきか。
どっちを選んでも怖い、という空気が背中越しに伝わってくる。
俺は、一つ息を吸って、なるべく何でもない声を作った。
「……九条さんさ」
呼んだ瞬間、後ろの足音が止まりかける。
止まりかけて、また動く。
聞いている。逃げてはいない。
「図書委員、無理に話さなくていいよ」
沈黙が落ちた。
俺は振り返らない。見たら、彼女の顔色を確認してしまうから。
確認したら、気遣いすぎてしまう。
気遣いすぎたら、対等じゃなくなる。
「俺さ、図書室では静かに本読みたい派なんだ。だから――」
淡々と、言う。
提案は、押しつけじゃなくて「自分の都合」として出すのがいい。
「仕事は分担して、お互い無言でやらない? その方が俺も楽だし」
足音が、完全に止まった。
しまった、言い過ぎたか――と思う前に、後ろから、かすかな息の音が聞こえた。
吸って、吐く。
さっきより深い呼吸。
そして、ほんの少し遅れてから、彼女の足音が再開した。
さっきより、軽い。
図書室に着く。
扉を開けると、空気が変わった。
教室のざわめきが嘘みたいに薄い。紙と木と、古いインクの匂い。
静寂が、ここでは当たり前の顔をしている。
担当の先生に挨拶し、簡単な説明を受ける。
返却台の整理。棚戻し。新刊のラベル貼り。
作業は単調で、だからこそ人によっては苦痛だが、俺にとっては「ちょうどいい」。
カウンターの内側に椅子が二つ。
俺は片方に座り、九条さんが反対側に座る。
距離は、机一枚分。
「これ、棚に戻してくる」
俺は返却された本の束を持ち上げる。
九条さんは小さく頷く。
「……了解」
それ以外、俺は喋らない。
約束は守る。
仕事をして、戻ってきたら、適当に本を読む。
ページをめくる音。
時計の秒針。
遠くで誰かが椅子を引く音。
それだけ。
この静けさは、俺には落ち着く。
そしてたぶん――九条さんにも。
彼女は最初、ずっと背筋を固くしていた。
けれど、俺が視線を向けないとわかってから、ほんの少しずつ肩が落ちていく。
呼吸が、さっきより自然になっていく。
俺は本を読みながら、時々だけ状況を確認する。
確認はする。踏み込まない。
九条さんは、作業に手を動かしている。
ラベルを貼り、台帳に書き込み、棚の背表紙を揃える。
その手つきは、妙に丁寧だった。
――丁寧にしないと怖いんだろう。
失敗したら、何かが壊れる気がするんだろう。
そういう「気がする」を、俺は口にしない。
口にした瞬間、彼女の世界に勝手に入り込むことになる。
しばらくして、九条さんの視線がふっと動いた。
俺の手元――読んでいる本のタイトルへ。
盗み見、というほど露骨じゃない。
ただ、目線が一瞬引っかかった。
それが、彼女の中ではかなりの「動き」なんじゃないかと思った。
俺はページをめくる。
紙の音が、静かな波みたいに広がる。
九条さんが、その音に驚かない。
驚かないどころか、少しだけ息を吐いた。
図書室の静寂が、二人に共有されていく。
ここでは、無理に話さなくていい。無理に笑わなくていい。
存在しているだけでいい。
そのことが、妙に温かかった。
委員会の時間が終わり、担当の先生が「今日はここまで」と告げた。
俺たちは椅子を戻し、カウンターを整える。
図書室の扉を出る。
廊下の空気が、さっきよりうるさく感じた。
俺が先に歩き出そうとした、その時。
「……櫟、くん」
後ろから、声。
小さい。消えそう。
でも、確かに“メモ”じゃなくて、本人の声だった。
俺は振り返りそうになって、やめる。
振り返ったら、彼女はまた固まるかもしれない。
だから、歩幅だけを緩めて、聞く姿勢を作る。
「……ありがとうございます。……図書委員、よろしくお願いします」
たったそれだけの言葉なのに、なぜか胸が詰まる。
俺は、軽く手を挙げた。振り返らずに。
「ああ。……まあ、お互い気楽にいこうぜ」
言ってから、ちょっとだけ恥ずかしくなる。
「気楽に」って、俺が一番苦手なやつだ。
でも、今はそれが一番合ってる気がした。
足音が、隣で揃う。
揃うけど、近づきすぎない距離。
九条玻璃にとって、俺はまだ「安全な隣人」だ。
たぶん、俺の方も同じだ。
ただのクラスメイト。たまたま隣の席で、たまたま委員が一緒になった。
――それだけのはずなのに。
彼女の声が、頭の中に残っている。
「よろしくお願いします」という、普通すぎる挨拶が。
普通だからこそ、ちょっとだけ、特別に聞こえた。
図書室の静けさが、背中の奥でまだ続いている。
俺はそれを、振り払わずに歩いた。




