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九条さんは一線を越えたい。ただし、嫌われない程度に。  作者: 風莉


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1話

 ――入学して一週間。


 瑞垣(みずがき)の一階廊下は、春の匂いと、落ち着かない足音で満ちていた。

 新品の制服はまだ体に馴染まず、ネクタイの結び目は朝の鏡の前で何度も直した跡がある。なのに教室へ向かう生徒たちの顔は、やけに軽い。たぶん、期待が軽くしている。


 教室に入ると、そこはもう「出来上がりかけの世界」だった。

 机を寄せて笑う小さな輪。窓際でスマホを見せ合う輪。中心にいるのが誰で、後ろにいるのが誰か――そういう配置が、一週間でそれなりに固まり始めている。


 俺、櫟凪人(いちい なぎと)は、その「それなり」の中にいる。

 目立つでもなく、孤立するでもなく。放課後は友達とゲーセンに寄って、テスト前はそれなりに焦って、文化祭はそれなりに盛り上がってみたい。そういう、普通のやつ。


「なぎとー、今日どっか寄る?」

 背中から、よく通る声。


「阿久津、朝から元気だな」

「朝だから元気なんだろ。放課後カラオケかゲーセン、どっちよ」


 阿久津凱(あくつ がい)は、俺の親友だ。明るくて、裏表がなくて、誰にでも声をかける。

 こういうやつがいると、普通の高校生活が「普通に」動き出す。


「ゲーセンでいいだろ。新しい音ゲー入ったって聞いたし」

「決まり。佐々木も誘っとくわ」


 その名前が出ると、ちょうど別の机の方から、情報通の佐々木健太が首を伸ばした。


「お、俺の話? 今朝のホットニュースいる?」

「いらないって言っても言うだろ」

「正解。……九条さんに告白して撃沈したやつ、いるらしいぜ」


 教室の空気が、ほんの一瞬だけ変わる。

 クラスメイトの視線が、ある方向へ流れていくのがわかる。俺もつられて、そっちを見た。


 隣の席。

 九条玻璃(くじょう はり)


 正直、入学初日から“美人”という単語だけなら何度も聞いた。

 けれど実物は、噂を上回っていた。整いすぎている顔立ち。透明感のある肌。きれいに束ねた髪。まるで、近づくこと自体が失礼に思える。


 ただ――。


 彼女の周りだけ、温度が違う。

 陽が差しているはずなのに、机の上には薄い霜が降りているみたいに、静かで冷たい。


 誰かが視線を向けるたび、九条さんの肩が、ほんの少しだけ強張る。

 顔は変えない。けれど、呼吸が浅くなる。指先が机の端をなぞる。――逃げ道を探す動き。


 俺は、そこで一度止まってしまう。


 話しかけるべきか。

 いや、話しかけない方がいい。


 俺は根暗ってほどじゃない。けど、人の「踏み込まれたくない空気」を読むのが、たぶん早い。

 読めるのに踏み込むのは、優しさじゃなくて、ただの自己満足だ。


 だから、放っておく。

 それが、俺の最大の気遣い――のつもりだった。


「九条さん、まじで別格だよな」

 阿久津が、小声で言った。

 鼻の下は伸びている。でも、足は動かない。あいつも感じている。あの“防壁”を。


「……そうだな」

 俺はそれだけ返して、自分の席に着く。


 隣の席の空気が、ひやりとする。

 話しかけない。覗き込まない。視線を長く置かない。

 たったそれだけで、彼女の呼吸が少しだけ整う気がした。


 ――そういうのが、俺にはわかってしまう。


 授業が始まって、ノートを取る。

 シャーペンの音と、先生の声と、椅子の軋み。


 俺は時々、消しゴムのカスをまとめて捨てる。

 そのときですら、隣の領域に入らないように指の角度を変える。

 ばかばかしいほど細かい。でも、隣の席の彼女にとっては「侵入の気配」そのものが怖いかもしれない。


 そんなことを考えている時点で、俺もだいぶ面倒な人間だと思う。


 昼休み。

 教室は一気に騒がしくなる。弁当の匂い。机を寄せる音。笑い声。

 その中で、九条さんは一人だった。弁当を広げるでもなく、教科書を読むでもなく、ただ静かに座っている。


 ――いや、座っているふりをしている。


 目線は落ちているのに、周囲の気配をずっと拾っている。

 まるで、いつ誰が自分の境界線を踏むか、監視しているみたいに。


「なーぎと。あれ、行ってみね?」

 声を落として、佐々木が顎で示した先に、数人の男子がいた。

 クラスのカースト上位――ってやつだ。言葉の強さと、距離の近さで世界を押し広げるタイプ。


「九条さーん、今日ヒマ? LINE交換しよーぜ」

「ね、九条さんって彼氏いるの?」

「うわ、冷て。笑ってよ」


 軽口。

 でも、軽いのは言ってる側の足取りだけで、受け取る側の心臓は重くなる。


 九条さんの指先が、机の角を掴む。

 顔は変えない。変えられないのかもしれない。

 けれど、肩が震えていた。


 俺は、胸の奥がざわつくのを感じた。


 ――助けるべき?

 でも、助けるって何だ。

 正義ぶって割り込んだら、今度は俺が彼女の境界線を踏むことになる。


 迷っている間に、男子の一人が机に手をついた。

 彼女の机に、手を。


 その瞬間だけは、さすがに「駄目だ」と思った。

 駄目だ。そこは、彼女の最後の砦だ。


「阿久津」

 俺は、隣にいる親友の腕を引いた。

「え?」

「ちょっと来い。佐々木も。今日の放課後さ、ゲーセン行く前に――あれ、例のプリント、どこだっけ」


 わざと大きめに、間抜けな声を出す。

 男子たちの視線が、そっちへ向く。


「は? プリント? そんなの今?」

「今。だって俺、提出忘れたら死ぬタイプだし」

「いや死にはしねえだろ」


 阿久津が笑い、佐々木が呆れ顔でノートを探す。

 俺たちの会話が、教室の空気を一瞬だけ変えた。

 それは強引な救助じゃない。ただの雑音。自然な割り込み。


 男子たちは、興味をそがれたように肩をすくめた。

「なんだよ、つまんね」

「九条、またなー」

 そんな言葉を残して去っていく。


 九条さんは、何も言わない。

 ただ、わずかに肩が落ちた。呼吸が深くなる。


 俺は、見ないふりをして弁当の蓋を開けた。

 救った、なんて思わない。

 ただ、踏み込ませないようにした。それだけ。


 午後の授業が終わって、放課後。

 教室は帰宅する生徒の音でざわめき、すぐに薄まっていく。


「なぎと、行くぞー」

「おう」


 俺は鞄を肩にかけ、椅子を机に戻す。

 その動作の中で、ふと隣の気配に気づいた。


 九条さんが、こちらを見ていた。

 目が合う。


 心臓が一拍だけ遅れる。

 俺の口は、言葉を選ぶ前に開きかけた。


 ――「お疲れ」。


 言っていいのか。

 言ったら、近いか。

 言わない方が、彼女は楽か。


 迷いが一瞬だけ挟まって、その隙に、俺は結局“無難”を選ぶ。


 軽い会釈。


 九条さんは、ほんの少しだけ瞳を揺らして、同じように小さく頷いた。

 それで終わり。

 俺は阿久津に引っ張られるように、教室を出た。


 廊下の空気は温かくて、騒がしくて、春の匂いがする。

 普通だ。俺の望む、普通の放課後だ。


 なのに、背中に、何かが刺さっている気がした。

 振り返らない。

 振り返ったら、また線を越える気がしたから。





 教室に残ったのは、九条玻璃だけだった。


 机を寄せていた輪は解け、笑い声は廊下の向こうへ薄まっていく。窓から差す夕方の光が、さっきまで人の熱で温まっていた机の天板を、ただ淡く照らしていた。


 玻璃は、隣の席――櫟凪人が座っていた場所を見た。

 視線を向けたのは、特別な意味があったからじゃない。人が立ち上がったあとの空白は、どうしても目に入ってしまう。それだけだ。


 なのに。


 胸の奥が、少しだけ緩む。

 呼吸が、引っかからずに喉を通る。


 (……今日は、苦しくない)


 それが、まず不思議だった。


 自分が「無事に一日を終えた」ことに安堵しているのか。

 それとも、何か別の理由があるのか。理由を探すのは怖かった。理由が見つかった瞬間、それは形を持ってしまう。形を持ったものは、否定しづらい。


 玻璃は、机の端を指でなぞり、確かめるように手を引っ込めた。

 境界線は、まだここにある。

 越えられていない。今日も、守れた。


 ――そう思った時、ふいに思い出す。


 昼休み。

 あの無神経な距離の詰め方。机に置かれた手。笑い混じりの声。

 体の中が冷えていく感覚。


 その直後に割り込んできた、間抜けな会話。

 プリントだとか、放課後だとか。どうでもいいような、どうでもよくない雑音。


 玻璃は、唇を噛む。

 感謝してはいけない、と反射的に思う。


 感謝したら、相手の行為に意味を与えてしまう。

 意味を与えたら、次を期待してしまう。

 期待は、いつも裏切りに変わる。


 だから、これは偶然。

 たまたま。

 ただの流れ。

 自分に言い聞かせる。


 放課後の会釈も、同じだ。

 挨拶をしようとして、やめただけ。

 こちらを気遣ったわけじゃない。


 ――気遣われた、と思ってしまうのが一番危ない。


 玻璃は鞄を持ち、椅子を引いた。

 床に立つ音が、妙に大きく響く。


 教室を出る直前、隣の席をもう一度だけ見て、視線を切る。

 見過ぎると、余計なものが増える。


 増えた余計なものは、いつか自分を裏切る。


 玻璃は廊下へ出た。

 春のざわめきの中に身を沈めて、表情を作り直す。


 今日も、越えない。

 越えられない。

 越えないほうが、いい。


 そう、決めている。

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