06.便所坂診療所
この診療所に置いてもらうようになって確信したことだが、ここはやっぱり患者さんがほかの診療所より圧倒的に少ない。恐らくハンス先生がぶっきら棒で口が悪いことが原因だろう。さらにはハンス先生の診察が変わっていることも理由のようだ。
患者さんの話から推測するには、ハンス先生の診察や治療はどうやらこの世界の他の医者とはかなり異なっているらしい。血圧なんて測る医者どころか、血圧という言葉も一般には知られていないようだ。それで患者さん達に気味悪がられて人気が無く、借金までしているようだ。医者は金持ちかと思ったら、ここは例外のようだ。
この世界では血圧という言葉は知られていないかもしれないが、元の日本では医療に全く詳しくないわたしですら当たり前に知っていた言葉だ。ハンス先生はひょっとしてわたしと同じ転生者なのだろうか。でも、ロベールの一件で懲りているので何も聞かないでおこう。
あと、この『便所坂診療所』というネーミングはいったいどういったものだろうか。ハンス先生に言わすと、診療所の前の道の名前が便所坂だから、そのまま『便所坂診療所』としたらしいが、医療機関としては不潔極まりない名前だ。良くなるものも悪くなりそうだ。
おまけにこの診察室の汚さ。ハンス先生はどうやら整理整頓ということが全く出来ないらしい。ほとんど患者さんが来ないので、わたしはここ数日は掃除と整理整頓に専念し、かなり診療所っぽく綺麗になった。
ハンス先生は机の前で、いつも本を読んだり、何か作っていた。薬草や鉱物から薬を調合していたり、医療器具を自作していた。ときどき金具屋が来ては、試作品を持ってきてハンス先生とああだこうだと話している。
患者さんが来ていないと、ハンス先生は夕方になると晩酌を始めてしまう。酔っぱらうとまだ未成年のわたしにもお酒を勧めてくる。何て医者だ。助けてもらった恩義は感じているが、やっぱり好きになれない。
この日もそろそろ晩酌を始めようかと、ハンス先生がそわそわし始めた夕方だった。親に連れられた12歳の男の子が診療所にやって来た。
「ハンス先生、息子が原っぱで転んで下にあった古い工具で足を切っちまった。前にヤコブの膝を縫って治してくれたよな。あれやってもらえないだろうか」
ハンス先生は、男の子の怪我を良く見るために、わたしに明かりを近づけるように言った。太腿の傷はかなり深く切れて出血しており、しかも泥だらけだった。
「バーゼルさん、悪いがこれは縫えない。ヤコブの傷はガラスで切った綺麗な状態だったが、これは泥だらけだ。下手に縫うと厄介な菌が悪さをして命にかかわる。まずは良く洗おう。痛いから坊やをよく押さえてくれ」
そう言うとハンス先生は大量の水で傷口の泥を洗い流した。
「よし、いったん止血しよう。あ~、破トキがあればなあ」
ハンス先生はガーゼを傷口に当てると、わたしに押し当てておくように言った。
「圧迫止血だ。しっかり押さえて出血を止めるんだ」
男の子は必死に痛いのを我慢して耐えていた。その健気な様子を見ていると、この傷が早く治るようにと願わずにはいられない。
ハンス先生は自作の反射板が付いたろうそく立てをいくつかセットし、男の子の傷口に光が集まるようにセットしていた。
「これからちょっと痛いけど我慢しろよ坊や。傷口に残っている小石や木くずを取り除く」
そう言ってハンス先生はピンセットを持ってしゃがんだ。わたしの当てているガーゼのところに照明が集まっている。
「魔女っ娘、ゆっくりガーゼを外して」
わたしは再出血しないようにガーゼをそうっと外した。
照明の集まる男の子の太腿からは、綺麗さっぱり傷が無くなっていた。
「え~と……グレア……さん? 何かしました?」
その日以来、ハンス先生はわたしのことを魔女っ娘とは呼ばなくなった。
ハンス先生が言うことには、魔法以外考えられない現象だということだった。しかもわたしの魔法らしい。自分でもこんな能力があったなんて驚きだ。わたしが使えるのは、家事魔法だけかと思っていた。
その男の子の父親、バーゼルさんはわたしにものすごく感謝してくれた。人からこんなに感謝されるなんて初めての経験だ。
元の世界で勤めていたブラック企業では、いつも怒られていた。何をやっても否定され、自分なんて生きる価値すらない人間だと思っていた。そのわたしが人からこんなに感謝されるなんて、純粋に嬉しい。いままで感じたことのない喜びだ。
バーゼルさんは、ハンス先生だけでなく、わたしにも結構なお金を感謝のしるしだと言って置いていった。『医者や看護師はお金をもらって感謝される仕事だ、良いだろ』とハンス先生が言ったが、全くその通りだと思った。
その夜、酔っぱらったハンス先生を寝かしつけた後、自分の部屋に入ると相変わらず窓の外が騒がしかった。最近では二十匹くらいの蝙蝠がやってくるようになって、恐くて窓に近寄れなかったのだ。しかし、今日の一件で少し自分に自信がついたのか、窓のカーテンを思い切って開けてみた。
びっくりした。
数えきれないほどの蝙蝠が窓一面を覆いつくしてバタバタ羽を動かしていたのだ。
卒倒しそうなのをこらえて、わたしは半泣きで叫んだ。
「言いたいことがあるなら言いなさい! でもせめて一匹にして!」
わたしがそう言うと、蝙蝠はピタッと動きを止めたかと思うと、一匹を残していなくなってしまった。
恐る恐る窓を開けると、その一匹が部屋に入って来てわたしの手のひらにとまった。恐怖で心臓が止まるかと思ったが、蝙蝠が何か言っていた。
「オ父様トオ母様ガ心配シテイマス。ナニカ伝言ヲオ願イシマス」
突然涙があふれ出してきた。蝙蝠は両親がわたしを心配して放ったものだったのだ。わたしは何という親不孝なのだろう。いきなりグレアに転生した自分は、今の魔族の両親に対して後ろめたい気持ちもあり、どこかよそよそしい態度で接していた。でも、こんなに心配してくれていたなんて。親不孝なわたしを許してください。
「蝙蝠さん、お父さんとお母さんに伝えて。グレアは元気でやっているって。今は診療所のお医者様を手伝って、今日は患者さんからとっても感謝してもらったって」
「ワカリマシタ。オ伝エシマス。アト、グレア様をイジメテイタ男達ハ、コノ街カライナクナリマシタ」
「本当に? あなたたち見張ってくれていたの?」
「ハイ、モシグレア様ニ悪サヲスル輩ガイレバ、スグニオ知ラセシマス」
さっきまで恐怖の対象でしかなかった蝙蝠が、とてもいとおしく思えてきた。
「ありがとう。さあ、お父様とお母様にわたしは元気だって伝えてきて」
わたしがそう言うと、蝙蝠は窓の外に飛び出していった。
わたしは魔族の両親から愛されていた。元の世界の両親に恩返し出来ない分、せめてこの世界の両親にはたっぷり恩返しをしたい。蝙蝠が飛んで行った先を見つめながら強くそう思った。




