26.スカシユリ
三日後、ガードナーさんの娘さんは退院していった。
この三日間、ハンス先生とニコル先生がお酒も飲まずに必死で経過を見ていたが、娘さんは食事もとれるようになり、元気になって退院していった。
「屁が出たら教えてくれ」
18歳の女の子に、ハンス先生は何と破廉恥なことを言い出すのだろうと思った。しかし、ニコル先生が言うには腸の動きの回復を判定するのに重要なことなのだそうだ。医学ってよく分からない。
何度もお礼を言って去っていくガードナーさん親子を、ハンス先生とニコル先生は見えなくなるまで診療所の扉の外で見送っていた。ハンス先生がそんなことをするのは珍しい。二人とも、遠い旅先からようやく帰ってきたような顔をしていた。
「行くんですか」
「ああ」
「僕も一緒に報告しに行っていいですか」
「ぜひ一緒に来てくれよ。お前も当事者なんだからな」
そう言うと、二人はせっせと診療所の周りに生えている、オレンジ色が美しいスカシユリの花を摘み始めた。いきなりおじさん二人がきれいな花を摘み始めて何事かと思ったら、歩き出してしまった。
わたしは何となく距離を開けて、二人の後を歩いて行った。
診療所から少し離れた丘の上に、ちいさなお墓があった。自然の石を置いただけの素朴なものではあったが、綺麗に手入れされていた。
ハンス先生は摘んできた花を供えると、膝をついてそっと手を合わせた。
「虫垂炎、治療できたよ。ニーナ」
そう言うと、ハンス先生は静かに肩を震わせ始めた。泣いていた。ハンス先生が泣いていた。その後ろでニコル先生も泣いていた。
わたしは何も分からず見ていたが、何だろう、ハンス先生を抱きしめたくなった。すこしでも先生の悲しみを、わたしも一緒に支えることは出来ないだろうかと思った。
わたしに気づいたニコル先生が、そっと教えてくれた。
「ハンス先生は以前、新婚旅行で奥さんのニーナさんと診療所に遊びに来てくれたんだ。そのときにニーナさんが虫垂炎になってしまってね。迷いに迷って僕とハンス先生とで手術にトライした。手術は成功したと思った。けど、結局術後の感染症が制御できなくてニーナさんは亡くなったんだよ」
わたしは絶句した。ハンス先生の奥様が亡くなったのは知っていたけれど、新婚旅行で訪れたこの診療所で亡くなっていたなんて知らなかった。今回、ハンス先生はどういう想いを抱いてこの診療所に来たのだろう。
「僕は最初、ハンス先生とグレアさんがやってきたのを見たとき、ハンス先生とニーナさんが来たのかと思って目を疑ったよ」
ニコル先生は自分の涙を拭きながら言った。
「ニーナさんが亡くなって以来、ハンス先生はここに来ることはなかったからね。きっとハンス先生は今回、あのときの自分自身と決着をつけるために来たのだと思うよ。グレアさんという最強の味方と一緒にね」
わたしの方を向いてニコル先生は言った。
「僕からも礼を言うよ、グレアさん。あの時から僕らの時間は止まったままだったんだ。君のおかげでまた時間が動き出したよ」
そう言って、ニコル先生はわたしに深々と頭を下げた。
「やめてください、ニコル先生。わたしはただ、言われた通りにしただけです」
わたしは想像してみた。最愛の人を新婚旅行で失ったハンス先生の悲しみを。元の日本では虫垂炎は簡単に治せる病気だ。それを医者でありながら、治療できずに最愛の人を失ったハンス先生の無念の想いを。
草原に覆われたこの丘の上を、さわやかな風が通り抜けていく。
そこには、ハンス先生のすすり泣く声と、遠くで聞こえる波の音だけが響いていた。




