17.地獄牢
洞窟の湿った寝床。胃液の吐き散らかされた檻の中。橋の下のドブネズミが這いずり回る隙間。わたしが経験したそれらすべてが天国に思えるほど、地獄牢は過酷な場所だった。
王宮の地下牢の最下層、地下五階に位置する地獄牢は、漏れ出てきた地下水によって床には水深20cm程の水がたまっており、横になることも出来ない。しかもこの水は異様に臭くてねばねばしており、ただの地下水ではなかった。いままで幽閉されてきた人達の、血と涙と汗、それに怨念が入り混じった水のようだった。
しかもこの水が恐ろしく冷たい。寒さから逃げ出したくても常に足が冷たい水の中に浸かっている状態で、気が狂いそうだ。立ち続ける疲労で座ろうとでもしようものなら、さらに下半身が水に浸かって凍えてしまう。しかもその水の中をドブネズミが泳ぎ回っており、傷でも出来ればすぐに何かの感染症に侵されそうだ。
そんな地獄牢で、ハンス先生はさっきから水にぷかぷか浮きながら、高いびきで寝ていた。以前から頭がおかしいところがある人だとは思っていたけれど、これほどまでとは思わなかった。何でこの状況下で平気で寝られるのか、頭の中を見てみたい。
真っ暗な中、ときおりドブネズミがハンス先生の体を齧ろうとするのでどやしつける。
「あなた達、ハンス先生に手を出したら承知しないわよ」
わたしがそう言うと、ドブネズミ達はすごすごとどこかに行ってしまった。
真っ暗な地獄牢では時間の感覚が分からない。時間の感覚を遮断されることがこれほど辛いものだとは思わなかった。わたしがまだ正気でいられるのは、ハンス先生と二人でこの地獄牢に入れられており、一人じゃないということだけが支えになっていた。
「きっとフリッツ様が助けに来てくださる」
わたしはわざと声に出して言ってみた。そう、あの黄金の瞳はわたしに好意を寄せてくれていた。今頃は王妃様にわたし達の無実を訴えてくださっているに違いない。女親は男の子には甘いから、きっと聞き入れてくださるはず。
そんなことを思いながらも、真っ暗な空間ではときおり遠くでドブネズミが水面を泳ぐ音が聞こえるだけだった。
いつまでも続く時間の感覚が無い状態と、水の中で立ち続ける疲労と寒さに体の震えが止まらなくなり、叫びだしてしまいそうになった頃、牢の外にぼうっと光が見えた。
光がだんだん近づき、人の声が聞こえる。すると牢の格子の外に、松明を持った心強い顔が見えた。
「ハンス先生、グレア殿、大丈夫ですか」
「モーガン様!」
「グレア殿! おかわいそうに震えているではありませんか。おい、何とかしろ!」
「はい!」
モーガン様がそう言うと、格子の扉が開いて、看守達が大きな板のようなものを持って入ってきた。しばらく作業をしていたが、見てみると水面の上に高床式のように板が張られ、その上に居れば濡れなくても済むようになっていた。
「あと、これが毛布と羽毛布団です。あ、グレア殿の服がびしょ濡れではないか。すぐにお着替えを持ってこい」
「はい!」
「いやあ、グレア殿、ここの看守長はわたしの後輩でしてな。何か用があれば何なりとお申し付けください。ちゃんと言うことを聞くように言っておきました」
モーガン様を拝みたくなった。
「それにしてもハンス先生はすごいですな。初めて会った時からただものじゃないとは思っていましたが、あの状況で王妃様に啖呵を切るとは。相当な騎士でもなかなかああいうことは出来ません。しかもこの状況で高いびきとは。このモーガン、ハンス先生に心酔いたしました」
やめてください。ハンス先生はどうしようもなくバカなだけです。
「フリッツ様が、きっと王妃様にとりなして助けてくださると思うのですが……」
わたしがそう言うと、モーガン様はうつむいてしまった。
「いやあグレア殿、以前魔族を飼っているどうしようもない貴族がいると申し上げましたが、それはフリッツ様のことなのです」
「え、それは……」
「フリッツ様は大の魔族の女好きでしてな。金でかき集めた魔族の娘達を奴隷にして夜な夜な弄んでいるのです」
わたしは驚きのあまり何も言えなかった。
「何というか、うちの王族の方々は魔族好きでしてな。国王陛下はまだ王妃様と新婚の頃、魔族の娘と散々浮気していたので王妃様は魔族が大嫌いなのです。しかも自分の最愛の息子までもが魔族の娘にうつつを抜かしているのが耐えられず、王妃様の魔族の娘嫌いはもう、それはもう大変なものなのです」
カミーユ様の治療に際して、その母親が出てこないのは何かおかしいなとは思っていたが、これで理由がよく分かった。
「その上、王家の正統な血を引くのは王妃様で、国王陛下は養子なのです。しかも王妃様の直属の兵、王妃親衛軍は我が国最強の精鋭部隊。政治も軍事もすべて王妃様に実権があるのです」
王妃様が実質的な国王陛下というわけか。
「それでも、現在国王陛下はじめ、多くの者がハンス先生とグレア殿の解放に向けて動いております。しばしの御辛抱、申し訳ありません」
そう言うと、モーガン様は看守達に、わたし達にくれぐれも失礼が無いようにと厳命して帰って行った。
わたしは、自分の相変わらずの男性を見る目のなさに絶望した。フリッツ様の、あのわたしを見る黄金の瞳だけは本物だと思っていたのに。




