第3章:開墾の炎、奇跡の緑が芽吹く時
ヴェルムント辺境伯領の開墾は、想像を絶する重労働だった。痩せこけ、石がゴロゴロと転がる大地は、貴族の娘が扱うにはあまりにも過酷な相手だった。しかし、ベアトリスは一切の音を上げなかった。公爵令嬢としてのプライドなど、ここでは無意味だ。彼女は泥にまみれることも、汗にまみれることも厭わず、村人たちと共に鍬を握り、必死に土を耕した。
「この土は、あまりに酸性度が高いですわ。まずは石灰を混ぜて、土壌を中和させなければ」
ベアトリスの指示は的確だった。前世の記憶から、土壌のPH値を調整することの重要性を知っていた彼女は、村人が見向きもしなかった石灰岩を砕き、畑に撒き始めた。最初は戸惑っていたディートリヒや他の村人たちも、彼女の熱意に触れ、その指示に従うようになっていた。
水利の確保も急務だった。ベアトリスは前世の灌漑技術を思い出し、村の周辺の地形を丹念に調べ上げた。わずかな高低差を利用し、これまで見過ごされてきた小川の水を効率的に畑へと引き込むための、簡易な水路を設計した。最初は「そんなものが役に立つのか?」と疑念の目を向ける者もいたが、実際に水が畑へと導かれる様を見て、彼らは驚きと感嘆の声を上げた。
「す、すごい……!本当に水が、水が畑に!」
堆肥作りにも、ベアトリスは徹底した。枯れた草や木の葉、動物の糞を混ぜ合わせ、時間をかけて熟成させる。悪臭を放つその作業も、ベアトリスは率先して行った。
「この堆肥が、土に命を吹き込むのですわ」
彼女の言葉には、確かな知識と信念が宿っていた。ディートリヒは、彼女の隣で汗を流しながら、その一つ一つの作業の意味を問い、知識を貪欲に吸収していった。彼はベアトリスの右腕となり、村人たちをまとめ、彼女の指示を現場で実行する重要な役割を担っていた。セリアもまた、小さな体で一生懸命、草むしりを手伝っていた。ベアトリスは、彼女に前世の童謡を教えてやりながら、笑顔で作業を進めた。
試行錯誤の日々が続いた。何度も失敗し、雨に打たれ、強風にさらされ、時には村人の不満の声に直面することもあった。しかし、ベアトリスは決して諦めなかった。彼女の胸には、この土地を、この人々を豊かにしたいという、揺るぎない決意があったからだ。
そして、数ヶ月が過ぎた。
ベアトリスは、この過酷な環境でも育ちやすい作物として、前世の知識から生命力が高く栄養価も豊富な「ジャガイモ」と「カブ」を選び、種芋と種をまいていた。この世界の既存の作物とは異なり、冷害や乾燥にも比較的強い品種を、過去の文献を漁り、試行錯誤して選定したのだ。
初夏の強い日差しが照りつけるある日、ベアトリスと村人たちは、開墾した畑に集まっていた。土の中には、今や彼らが植えた希望が、確かに根付いているはずだった。
「さあ、皆さん。掘ってみましょう」
ベアトリスの合図で、ディートリヒが恐る恐る鍬を土に入れた。土が持ち上がると、現れたのは、土まみれの、ずっしりとした塊だった。
「……っ!ジャガイモだ!本当に育ったぞ!」
ディートリヒが歓喜の声を上げた。彼の顔には、泥と共に、大粒の涙が流れていた。それに続いて、他の村人たちも次々と鍬を入れ、土の中から、これまで見たこともないほど大きく、立派なジャガイモやカブが次々と現れた。畑一面に、黄金色や白緑色の野菜が埋まっていたのだ。
「うわぁぁあああ!」
「なんてことだ……!こんな、こんなに豊かな収穫は見たことがない!」
辺境に暮らす人々は、初めて見るその豊かな収穫に、感動と驚きを隠せないようだった。飢えに苦しんできた彼らにとって、この光景はまさに「奇跡」と呼ぶにふさわしかった。子供たちはジャガイモを抱きしめ、老人は涙を流しながら神に感謝した。
その光景を見て、ベアトリスもまた、じんわりと目頭が熱くなるのを感じた。王都で得たどんな賞賛よりも、公爵令嬢としてのどんな地位よりも、この瞬間の喜びの方が、ずっと、ずっと尊かった。彼女は、村人たちと顔を見合わせ、心からの笑顔を交わした。そこには、確かな信頼と、言葉では言い表せない深い絆が芽生えていた。
この奇跡の初収穫は、ヴェルムントの村人たちの心に、失いかけていた希望を再び灯した。そしてベアトリスは、この「食」の力が、どれほど人々の心を動かすのかを、肌で感じ取ったのだった。




