番外編3:美食外交の舞台裏
国際会議が終わり、各国代表団が自国へと戻っていく中、ベアトリスは新たな「食の平和」を築くための旅を続けていた。彼女は、王宮の固い会談室ではなく、豊かな食材の産地や、歴史ある厨房で、各国の要人たちと向き合うことを好んだ。食を通じて心を解き放ち、言葉だけでは伝えきれない、真の信頼関係を築くためだった。
ある時、ベアトリスは、長年アストライア王国と領土問題を抱えていた、隣国リドニアの国王との会談を任された。リドニア国王は非常に頑固で、これまで外交官が何度交渉しても、一歩も引かなかったことで知られている人物だった。
会談の場は、国王の要望で、彼の別荘の豪華な応接室が選ばれた。しかし、ベアトリスは事前に、その別荘に併設された質素な台所を借りて、自ら調理することを申し出ていた。
「ベアトリス殿。今回は領土問題が主題。美食は無用ではないか」リドニア国王は、あからさまに不快感をあらわにした。食卓に並んだのは、彼の期待するような豪華な肉料理や王国の伝統料理ではなく、素朴な木の器に盛られた、温かい野菜の煮込みと、焼き立てのパンだけだったからだ。
「陛下。わたくしはただ、この土地で採れた最も旬な野菜と、真心をお出ししたかったのです。この土地の豊かな恵みと、それを受け継いできた人々の歴史を、味わっていただきたくて」
ベアトリスは穏やかに答えた。彼の前に差し出されたのは、ヴェルムントで改良された特別なカブを贅沢に使った、シンプルな煮込み料理だった。一口食べると、国王の強張っていた顔に、微かな変化が見えた。
「……これは……カブか?」
国王の故郷は、厳しい冬が長く、作物が育ちにくい痩せた土地だった。カブは、彼の故郷でもわずかに収穫できる数少ない野菜の一つだったが、苦みがあり、決して美味しいものではなかった。しかし、ベアトリスが差し出したカブは、驚くほど甘く、煮込まれることで、その優しい風味が口いっぱいに広がった。添えられたシンプルな塩味のパンは、穀物の豊かな香りがした。
「はい。改良を重ねた、ヴェルムントのカブでございます。寒さに強く、非常に栄養価も高い。そして、この土地の豊かな水と、我々村人の愛情を受けて育ちました」
国王は、二口、三口と黙って料理を食べ進めた。やがて、彼の目に薄く涙が滲むのが見えた。
「……この味は、昔、亡くなった母が作ってくれた、数少ない温かいスープの味に似ている……。だが、こんなにも、美味しく、温かいものだったか……」
国王の故郷では、厳しい環境のため、常に食料が不足し、食事はただ命を繋ぐための行為だった。彼の母親は、わずかな野菜で家族を飢えさせないよう、必死にスープを作ってくれたが、それは貧しく味気ないものだったという。ベアトリスの料理は、彼の記憶の奥底に眠っていた、温かいけれど辛かった過去の記憶を呼び起こすと同時に、食の「豊かさ」と「可能性」を彼に示したのだ。
「食は、人を満たし、心を癒します。そして、文化を繋ぎ、国と国を繋ぐ力があると、わたくしは信じております」
ベアトリスは続けた。「このカブは、リドニアの地でも十分に育ちます。もし、よろしければ、貴国の農業技術向上に、我がヴェルムントの知恵と技術を惜しみなく提供させていただきたい。そして、互いの食を分かち合うことで、この地の豊かな恵みを、貴国民にも味わっていただきたいと願っております」
国王は、フォークを置くと、深くため息をついた。その顔からは、かつての頑固な表情は消え失せ、深い感動と、そして困惑が入り混じった複雑な表情になっていた。
「……まさか、貴女の料理一つで、私の凝り固まった心が、これほどまでに揺さぶられるとは……」
その日、リドニア国王は、ベアトリスと食事を囲み、これまでの外交官との形式的なやり取りとは全く異なる、個人的な感情を交えた会話を重ねた。そして、会談の最後には、笑顔で和解の握手を交わし、領土問題の解決に向けた大きな一歩を踏み出すことになった。
「ベアトリス様は、本当にすごいお方ですわね……」
マリエルは、遠くからその光景を見て、感動に震えた。言葉や武力ではなく、ただ「食」の力だけで、長年の対立を解消するきっかけを作り出したのだ。ベアトリスの「美食外交」は、国境を越え、食文化の違いを超えて、人々に共通の喜びと理解をもたらし、世界を新たな平和へと導いていった。食は、人と人を、そして国と国を繋ぐ、真の外交力を秘めていた。




