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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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第9話「同意書——“守るため”の手続きが、人を壊す」

 ミサキが紙を受け取った瞬間、空気が一枚、薄い膜になった気がした。

 朝のホームルーム。担任がいつもの声で連絡事項を読み上げて、プリントを配って、出欠を取る。教室の時間は前へ進むのに、ミサキだけが一拍遅れている。

 担任がミサキの机に一枚の紙を置いた。

「これ、提出して。今日中に目を通して」

 ミサキの指が紙に触れた。触れたまま動かない。

 僕はその紙を見た。白い。いかにも学校の書類らしい、四角い枠と小さな文字がびっしり並んでいる。

 上の方に、太字。

 スクールカウンセラー面談 同意書

 その下に、保護者連絡票。

 見るだけで胸が冷たくなる文字だった。

 ミサキは紙を持ち上げない。読む前に固まっている。読めないからじゃない。読まれたくないからだ、と直感で分かった。

 担任は穏やかに言った。

「心配なんだ。手続きだからね」

 心配。手続き。

 優しい言葉の組み合わせは、逃げ道を細くする。

 僕はミサキの横顔を見た。頬の筋肉が硬い。口元だけが笑いの形を作ろうとして、作れずにいる。

 ミサキが小さく言った。

「親には、言わないでください」

 声が掠れていた。教室のざわざわに消されそうな声。

 担任は一瞬だけ黙った。それから、声の温度を変えないまま言った。

「でも、必要なんだ。何かあってからじゃ遅い」

 ミサキの指先が震えた。爪を噛みそうになる手を、膝の上で握りしめる。

 僕は息を吸った。

 家庭、という単語が喉まで上がってくる。

 でも口にしない。口にした瞬間、それは確定する。確定したものは現実に居場所を持つ。僕はそれを知ってしまっている。

 担任が言葉を継いだ。

「最近ね、こういう子が増えた。放っておくと事故になる。階段から落ちるとか、体育のあと倒れるとか。君だって、この前……」

 担任の目が僕に一瞬向いた。

 僕は笑ってみせた。忘れ物のふりをする時の、あの笑い。何も知らないふりをする笑い。

 担任は疲れた顔をした。ほんの一瞬だけ。先生という肩書きの下にある、人の顔。

 敵じゃない。

 でも、味方とも言えない。

 制度の歯車は、優しい顔で回る。

 ホームルームが終わって、みんなが席を立つ。椅子が引かれる音が重なって、教室はいつもの昼に戻る。

 ミサキは書類を鞄に入れなかった。机の上に置いたまま、指で端を押さえている。紙が逃げるのが怖いみたいに。

 僕は声をかけようとして、やめた。

 踏み込むほど加害になる。

 言葉にするほど橋がかかる。

 僕は一歩下がって、ミサキの背中を見た。

 背中が小さい。

 小さいのに、背負っているものが重い。

 昼休み、僕はトイレの個室でスマホを握っていた。通知はない。画面は普通だ。なのに、手のひらの傷跡がうずうずする。

 あの振動は、通知から来るんじゃない。

 僕の体のどこかが、合図を覚えてしまった。

 白川の顔が浮かぶ。

 穏やかな声。正確すぎる言い方。

 止める方法はない。君は入口になった。

 僕は画面を見た。白川とのメッセージ画面を開く。書きかけて、消す。

 今、ミサキが書類を渡されて固まっている、と書きたかった。

 でも書いた瞬間、それも記録になる。

 記録は鍵をかけても別の入口から侵入してくる。第七話で学んだことが喉に刺さる。

 スマホをポケットに戻した。

 放課後、ミサキは担任に呼ばれた。

「職員室、少し来られる?」

 ミサキは「はい」と答えた。

 はい、の音が薄い。

 目が、眠っている。

 僕は立ち上がった。ついていくと決めてしまう。決めてしまうほど、また僕は線を越える。

 でも、越えないと終わる。

 僕は鞄を持って、教室を出た。

 廊下の角から職員室を覗く。直接覗くのは危険だと思って、ガラス越しに見た。職員室の中は明るい。紙とインクの匂いが、距離があるのに鼻の奥に来る。

 ミサキは担任の机の前に立っていた。

 担任が何か言っている。ミサキがうなずいている。うなずきが遅い。紙が机の上に開かれている。たぶん同意書。

 僕は息を止めた。

 ガラスに自分の顔が薄く映る。

 その自分の顔が、妙に他人みたいに見えた。

 見ているだけで、もう加害だ。

 帰り道、夕方の風が冷たかった。駅前の人混みを抜けて、家に着く。靴を脱いで、部屋に入って、制服のままベッドに倒れた。

 眠らない。眠れない。

 でも、落ちる。

 落ちる合図は、僕の意思とは別に来る。

 夜。布団に入る。電気を消す。天井の暗さが、いつもより近い。

 スマホは机の上に置いた。手の届かない場所に置いた。意味がないのは分かっている。意味がないことをしないと、僕の心が持たない。

 暗闇の中で、紙をめくる音がした。

 誰もいないのに。

 サラ、と軽い音。

 次に、バチ、と乾いた音。

 通知の赤いバッジが弾けるときの音に似ている。

 僕は目を開けた。

 部屋じゃない。

 白い空間だった。

 床一面が紙で埋まっている。何百枚、何千枚か分からない。足元の紙は全部、同じ形式。

 同意書。

 署名欄。

 チェック欄。

 小さな文字の注意事項。

 紙は波みたいにゆるく起伏していて、歩くとふわりと沈む。

 天井から、赤い通知バッジがぶら下がっていた。糸の先に目玉がついている。瞬きをするたび、赤い円が脈打つ。

 壁には鏡の破片が刺さっていた。破片の中で誰かがこちらを見ている。僕の顔も、ミサキの顔も、知らない顔も混ざっている。

 逃げ場がない。全部が混ざっている。

 悪夢が統合されて、巨大になっている。

 紙の海の向こうから、足音がした。

 コツ、コツ。

 職員室の床を歩く音に似ている。

 やがて、誰かが見えた。

 担任の顔だった。

 でも体は白衣だった。白衣の胸ポケットにペンが刺さっている。口元に笑顔のシールが貼られている。無理やり笑っている口。

 その人が、こちらへ手を伸ばした。

 手にはペン。

 ペン先が針みたいに細く尖っている。

「署名して」

 担任の声。

 でも、担任が言わない言い方だった。教室での担任は、もっと余白を残す。これは余白がない。命令みたいな優しさ。

「同意して」

 一歩近づくたび、床の紙がざわっと音を立てる。天井の目玉が一斉に瞬く。

「あなたのため」

 僕の胸の奥に、熱いものが生まれた。

 怒り。

 怖さより先に出てきた。

 でもそれは担任への怒りじゃない。担任そのものではない。制度の顔を被った恐怖だ。

 担任の顔の白衣が、ペンを差し出す。

 署名欄が、僕の足元まで滑ってきた。

 その紙の欄外に、走り書きがあった。

 ミサキの字だった。

 丸い字じゃない。昼に見た鋭い字。

 短い一文。

 家に知られたら終わる

 息が止まった。

 僕は理解してしまった。

 家庭。保護者連絡。終わる、の意味。

 でも、口にしない。

 言語化した瞬間、現実へ橋がかかる。

 担任の顔の白衣が言った。

「書いて」

 天井の目玉が僕を見た。見た、見た、見た、と無音で言う。

 床の紙が足に絡みつく。紙の端が指みたいに伸びる。靴の中まで入り込んでくる。湿った紙の感触が、皮膚に貼り付く。

 僕はペンの刃を出しかけて、止めた。

 切ると増える。

 燃やすと消去になる。

 消去は暴力だ。

 白川の言葉が遅れて来る。

 相手が人の形をしていたら、すぐに刃を出さない。

 僕は息を吸った。

 拒否、は簡単だ。

 拒否は反発を生む。反発は現実を荒らす。

 同意、も簡単だ。

 同意は支配に見える。支配は壊す。

 じゃあ、どうする。

 僕の視線が署名欄に落ちた。

 名前を書くための線。

 その線を、意味ごと変える。

 僕はペンを受け取らなかった。代わりに、床から一枚の紙を拾って、紙の端を裂いた。鏡の破片で指を切ったみたいに、紙が鋭く裂ける。

 裂いた紙の端で、署名欄に線を引いた。

 一本の線。

 署名欄を横切る線。

 名前を書くための線じゃない。

 境界線。

 ここから先は入れない、という線。

 担任の顔の白衣が一瞬止まった。

 口元の笑顔シールが、ゆっくり剥がれた。

 シールの下から出てきたのは、無表情だった。

 僕は言った。

「同意は、踏み込むためだけじゃない。踏み込まないためにもある」

 言葉にした瞬間、天井の目玉が一斉に瞬いた。床の紙がざわっと盛り上がる。危ない。言語化は橋になる。

 でも今は、必要だった。

 担任の顔の白衣は、無表情のままペン針を突き出してきた。

 針が僕の喉元を狙う。

 息が詰まる。

 僕は体を捻って避けた。紙の海に足を取られて転びそうになる。

 そのとき、床の紙に書かれた注意事項が目に入った。

 署名は本人が行うこと。

 代理署名は無効。

 僕は喉の奥で笑いそうになった。

 この恐怖は、手続きの形をしている。

 形なら、穴がある。

 僕は境界線を引いた署名欄を、紙の束ごと抱えた。拒否もしない。署名もしない。

 束ねる。

 束ねて閉じる。

 ファイルみたいに。

 僕は床から紙を拾い集めて、署名欄の紙を包んだ。紙で紙を閉じる。馬鹿みたいな作業なのに、手が止まらない。止めたら針が刺さる。

 天井の目玉が増える。鏡の破片がギラギラする。

 担任の顔の白衣が、焦ったみたいに一歩踏み出す。

「開けて」

 今度は命令の声だった。

 僕は無視して、紙の束の端を折った。折って、折って、折って、封筒みたいに形を作る。

 最後に、境界線を引いた紙を表にして、そこに僕は書いた。

 名前じゃない。

 短い言葉。

 ここまで

 書いた瞬間、空間が少し静かになった。

 担任の顔の白衣が手を伸ばす。針がこちらへ来る。

 僕はペン針の部分だけを掴んで、折った。

 カチン、と乾いた音。

 針が折れる音は、骨が折れる音に似ていて、胸が気持ち悪くなった。

 担任の顔の白衣が、動きを止めた。

 無表情のまま、立っている。

 天井の目玉が瞬きをやめる。

 床の紙が沈む。

 鏡の破片の中の顔が、薄れていく。

 僕は紙の束を抱えたまま、息を吐いた。

 燃やさない。消さない。

 束ねて閉じる。

 封印。

 延命。

 それでいいのか、という疑問が喉に残る。

 でも今夜はそれしかない。

 白い空間が遠のく。

 足元が抜ける。

 落ちる。

 現実。

 僕は布団の上で息を吸った。

 喉が痛い。針が刺さってないのに痛い。紙の海の圧がまだ首の周りに残っている。

 朝。

 ミサキは教室にいた。

 席に座って、同意書を見ている。

 見ているのに、見ていない目。

 担任が教室に入ってきて、普通の声で言った。

「提出期限は明日だ。保護者の欄も忘れずに」

 明日。

 期限という単語は、怪異より強い。

 ミサキは笑った。

「はい」

 はい、が遅い。

 目が眠っている。

 黒い目のミサキが、現実の奥から覗いている感じがした。

 僕の腕の痣が疼いた。

 封印したはずの紙の束が、現実の机の上で開こうとしている。

 そのとき、僕のスマホが震えた。

 通知はない。

 でも、震えがはっきりしている。

 画面が勝手に点いた。

 白川からの着信。

 僕は教室の外に出て、廊下の端で通話ボタンを押した。

 白川の声が、耳に直接入ってきた。

「今夜、彼女を殺すな」

 僕の背中が冷えた。

「殺したら、現実で死ぬ」

 言い切る声だった。

 僕はスマホを握りしめた。

 掌の傷跡が、鈍く痛んだ。

 殺さない。

 じゃあ、どうやって終わらせる。

 同意書は明日まで。

 期限が来る。

 ミサキの家庭が来る。

 僕の中で、悪夢の扉がゆっくり開く音がした。

 暗転。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。よければフォローしてもらえると続きが追いやすいです。感想や星も、とても励みになります。

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