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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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第8話「眠りの主は二人いる——ミサキの中の“もう一人”」

 ミサキの字が変わったのは、昼の三時間目だった。


 数学の問題集を開いて、みんなが黙って手を動かす時間。


 教室の空気は、眠気とシャーペンの音で薄くなる。


 僕は黒板を見ているふりをして、何度もミサキの方を見た。


 見ないようにしても、目が行く。


 救ったはずなのに、薄くなっていく。


 それが、目で分かるからだ。


 ミサキは窓際の席で、ノートに式を書いていた。


 最初はいつも通りの字だった。


 丸い。少し右上がり。余白が広い。


 その字が、急に変わった。


 筆圧が強くなる。


 線が細くなくなる。


 数字の角が立つ。


 まるで、別の人が手を動かしているみたいだった。


 前の席の女子が振り返って、ミサキに話しかけた。


「ねえ、これってさ、分母どうするんだっけ」


 ミサキは顔を上げない。


 目だけが動いた。


 睨むみたいに。


 その目に、僕の背中が冷えた。


 冷えるのに、目が離せない。


 次の瞬間、ミサキの肩が小さく揺れて、顔が戻った。


「あ、ごめん。今、見てなかった」


 声はいつものミサキだった。


 軽い。笑うと柔らかい。


 でも、さっきの目を見た僕の心臓は戻らない。


 前の席の女子は、変な間を空けて笑った。


「寝不足? 大丈夫?」


「うん。大丈夫」


 ミサキはそう言って、またノートに目を落とした。


 今度の字は、元の丸い字だった。


 僕は自分の掌を見た。


 裂傷は塞がってきている。


 でも、その周りに残った黒い痣が、薄く広がっている。


 インクみたいな色。


 腕の切れ目のときと同じだ。


 僕は机の下で、痣の端を指でなぞった。


 痛くはない。


 痛くないのが怖い。


 授業が終わって、廊下へ出た。


 休み時間。


 友達同士の声が大きくなる。


 僕はミサキに近づこうとして、足が止まった。


 近づくほど、踏み込むほど、僕は加害になる。


 それを知ってしまった。


 でも、遠ざかると本当に消えそうで怖い。


 ミサキは廊下へ出る前に、ロッカーを開けた。


 教科書を入れ替える手つきが、少しぎこちない。


 手が自分の手じゃないみたいに、遅れる。


 それを見て、僕の喉が乾いた。


「……ミサキ」


 僕が名前を呼ぶと、彼女はすぐには振り返らなかった。


 振り返るまでの間が、昨日より長い。


 それでも振り返ったときの顔は、いつもの顔だ。


「なに?」


 僕は言葉を探した。


 大丈夫? は言えない。


 大丈夫って言わせた瞬間、彼女はまた薄くなる。


 僕が勝手にそう思っているだけかもしれない。


 でも、僕のやってきたことは、だいたいそういう「勝手な善意」だ。


「今日、放課後……」


 そこまで言って、僕は止めた。


 放課後に何かしようとすること自体が、もう危ない気がした。


 ミサキは首を傾げた。


 その仕草はかわいい。


 でも、傾げる角度が少しだけ遅い。


 その遅さが、僕を焦らせる。


「放課後、なに?」


「いや。なんでもない」


 僕は笑った。


 笑ったつもりだった。


 ミサキも笑った。


 形だけ。


 目が笑っていない。


 僕の胸の奥が、ひんやりした。


 昼休み、僕は弁当を食べながらスマホを見た。


 見たくないのに見てしまう。


 通知はない。


 でも、画面を開いた瞬間に、指が冷える。


 第6話の既読の海が、まだ指先に残っている。


 ミサキの席の方を見ると、彼女は机に頬杖をついていた。


 眠ってはいない。


 でも、目の焦点が合っていない。


 その横で、女子たちが小声で話しているのが聞こえた。


「ミサキ、最近さ、返事遅くない?」


「分かる。なんか、既読つかないときもある」


「スマホ壊れたんじゃない? さっき見たら画面真っ黒だった」


「え、こわ」


 こわ、って言い方が軽い。


 軽いまま口に出せる距離に、ミサキはいる。


 それが、別の怖さだった。


 噂は軽い。


 軽いから刺さる。


 僕は弁当の味がしなくなった。


 その日の放課後、僕は学校からまっすぐ帰らなかった。


 家へ帰る途中で、駅前のバス停の横を通り過ぎる。


 その先に、白川のいる睡眠外来の病院がある。


 行かない方がいい。


 行けば関わりが深くなる。


 深くなるほど、引き返せなくなる。


 でも、もう引き返せない場所まで来ているのも分かっていた。


 病院の待合室は明るかった。


 蛍光灯の光が、夕方の外より白い。


 テレビはついているのに、音は小さい。


 椅子に座っている人たちの顔が、全員少しだけ乾いて見えた。


 泣いてないのに涙がない、みたいな乾き方。


 僕は受付で名前を言った。


 すぐに呼ばれた。


 診察室のドアを開けると、白川がいた。


 白川は白衣を着ている。


 でも、医者っぽい威圧は薄い。


 声も大きくない。


 なのに、言葉が刺さる人だ。


「成瀬くん。座って」


 僕は椅子に座った。


 白川はタブレットを操作しながら、ちらっと僕の腕を見る。


「その痣、増えたね」


 僕は袖を下げた。


「……増えました」


「無理に隠さなくていい。記録のためじゃない。君のため」


 その「君のため」を、僕はもう怖いと思うようになってしまった。


 でも白川の言い方は、担任と少し違う。


 決めつけない。


 押しつけない。


 ただ、事実を置いていく。


 僕は言った。


「ミサキが……変なんです」


 言ってしまった。


 言った瞬間に、胸が痛くなる。


 僕が勝手にミサキを「変」と言語化した。


 それが侵入だ。


 でも、言わないと何も進まない。


 白川は目を細めた。


「どんなふうに」


「……一瞬、別人みたいになります。目が違う。字が違う。あと、覚えてないみたいで」


 白川は「そう」とだけ言って、タブレットを僕に向けた。


 画面には波形が並んでいる。


 線が上下に揺れている。


 僕には詳しく分からない。


 でも、白川が指で示すと、違いは見えた。


「これが彼女の睡眠の波形。ここで、いったん切り替わる」


「切り替わる?」


「うん。別人みたいに、反応が変わる。心拍の癖も変わる」


 僕の喉が乾いた。


「それって……」


 僕は言いかけて止めた。


 病名を言えば、安心する気がする。


 でも、安心の形をした箱に入れた瞬間、別のものが壊れる気がした。


 白川は断言しなかった。


「脳は、生きるためにいろんな手を使う。割れることもある。守るために、前に出る部分が変わることもある」


「守る……」


「そう。悪夢も、同じ。最後の装置だ」


 僕は息を吸った。


 その言葉が頭の中で何度も反響する。


 悪夢は防波堤。


 殺すと、現実が血を流す。


 救うほど、現実が薄くなる。


「でも、僕が入ると……」


 白川は僕の言葉を待つ。


 待ってくれるから、僕は言ってしまう。


「僕が入ると、ミサキが壊れていく気がする」


 白川はすぐには否定しなかった。


 否定しないのが、逆に怖い。


「壊れる、という言い方は便利だけど、危険だ」


「……」


「君は、治したいと思ってる?」


 僕は答えられなかった。


 治したい、という言葉は正しい。


 でも、正しい言葉ほど、相手の上に乗る。


 白川は続けた。


「彼女の中で守っている部分を、君が消したらどうなると思う」


 僕の背中が冷えた。


 白川は答えを言わない。


 僕に想像させる。


 僕は想像する。


 守っている部分が消えたら、守られていた中身がむき出しになる。


 現実の痛みが直撃する。


 それは「救い」じゃない。


 それは「壊す」だ。


「……じゃあ、僕はどうしたら」


 白川は僕を見て、少しだけ首を傾げた。


「殺す、延命、引き受ける。君が今まで選んできた選択肢はそれだよね」


 僕は頷く。


 頷いた瞬間、掌が疼いた。


 僕は自分の掌を見た。


 裂傷の跡は薄い線になって残っている。


 線が、目地みたいに整っている。


 僕の中に残る他人の恐怖が、形を持ち始めている。


 白川は言った。


「今日は一つだけ。君に約束してほしい」


「約束……」


「相手が人の形をしていたら、すぐに刃を出さない」


 僕は喉が詰まった。


 そんなの、分かっている。


 分かっているのに、分かっているからこそ怖い。


 僕は答えた。


「……分かりました」


 白川はうなずいた。


「あと、今夜は来る」


 何が、とは言わない。


 来る。


 悪夢が来る。


 僕のスマホの振動が来る。


 僕は席を立った。


 病院を出ると、外の空気が冷たかった。


 吐く息が白い。


 冷たいのに、少し安心した。


 現実の冷たさは、触れるからだ。


 夜。


 布団に入る。


 部屋の電気を消したあと、暗さがいつもより重く感じた。


 耳の奥で、秒針が動く。


 今夜は逆回りじゃない。


 普通に進む。


 普通に進むのに、胸が落ち着かない。


 スマホが震えた。


 通知はない。


 でも、震えがはっきりしている。


 僕はイヤホンを耳に入れる。


 入れた瞬間、部屋の輪郭が遠のいた。


 落ちる。


 学校の廊下だった。


 夜の廊下。


 窓の外は真っ暗だ。


 非常灯の緑だけが浮いている。


 僕は一歩進んで、足を止めた。


 壁が鏡だった。


 右も左も、鏡。


 天井まで鏡。


 廊下そのものが、鏡のトンネルになっている。


 僕が動くと、僕が無数に動く。


 僕の後ろにも僕がいる。


 それが気持ち悪い。


 鏡の中の僕は、同じタイミングで瞬きをする。


 でも、そこに混ざっているものがあった。


 ミサキが映っている。


 制服のミサキ。


 同じ顔。


 なのに、表情が違う。


 ある鏡のミサキは泣いている。


 声を出さずに泣いている。


 涙が出ているのに、顔は動かない。


 別の鏡のミサキは笑っている。


 楽しそうじゃない笑い。


 口角だけが上がる笑い。


 別の鏡のミサキは無表情だった。


 無表情なのに、僕を見ている。


 観察している目。


 僕は息を吸った。


 ここはミサキの中だ。


 でも、ミサキの中に複数のミサキがいる。


 僕は一歩進んだ。


 鏡の中のミサキたちが、同時に僕を見る。


 その視線で、僕の体が固くなる。


 鏡の表面が波打った。


 水みたいに揺れた。


 そこから、ミサキが出てきた。


 制服のミサキ。


 現実のミサキと同じ身長。


 同じ髪。


 同じ顔。


 でも、目が黒い。


 黒目が大きいとかじゃない。


 瞳全体が、暗い水みたいな黒だ。


 瞬きをしない。


 そのミサキが、僕の前に立った。


「やめて」


 声はミサキの声だった。


 でも、いつものミサキの軽さがない。


 言葉が重い。


「あなたが消すのは、私」


 僕の指先が冷えた。


 刃を出せない。


 相手が人の形だから。


 白川の言葉が頭の中で鳴る。


 相手が人の形をしていたら、すぐに刃を出さない。


 僕は両手を見せた。


「消さない」


 口に出した瞬間、鏡のトンネルが少しだけ静かになった。


 黒い目のミサキは笑った。


 笑い方が、僕の知ってるミサキと違う。


「嘘」


「嘘じゃない。僕は……」


 僕は言葉を探した。


 救いたい。


 守りたい。


 そう言うと、また踏み込む。


 僕の善意は、侵入になる。


 黒い目のミサキは、僕の言葉を待たずに言った。


「私は、見られる痛みを引き受けてる」


 僕の背中が冷えた。


 彼女は言語化してしまっている。


 自分の役割を知っている。


「既読も。噂も。先生の記録も。全部。あの子は耐えられない」


 黒い目のミサキは、鏡の壁に指を当てた。


 鏡に、いくつもの場面が映る。


 教室で笑う女子たち。


 スマホの画面に並ぶグループチャット。


 職員室の引き出し。


 書類に印字された名前。


 担任の「心配してるんだ」という口元。


 それを見た瞬間、僕の腕の痣が疼いた。


 黒い目のミサキは、僕を見た。


「私がいなくなったら、あの子は現実で死ぬ」


 僕の喉が詰まった。


 死ぬ、という言葉が、現実の重さで落ちてくる。


 僕は言った。


「……じゃあ、君はどうしたい」


 黒い目のミサキは、少しだけ視線を落とした。


 その仕草が、一瞬だけ子どもっぽかった。


「疲れた」


 声が小さくなる。


「私も眠りたい」


 僕の胸の奥が痛くなった。


 守るために生まれたものが、守ることに疲れる。


 それは誰にも褒められない。


 誰にも気づかれない。


 それでいて、いなくなると壊れる。


 僕は息を吸った。


 統合、という言葉が頭をよぎる。


 でも統合は、きれいな言葉だ。


 きれいな言葉ほど、人を壊す。


 僕は言った。


「君を消さない。でも、現実に出るのは……やめてほしい」


 黒い目のミサキは笑った。


 さっきより冷たい笑いだ。


「できるわけない」


 鏡のトンネルの奥が、ざわっと揺れた。


「境界なんて、現実にはない」


 その言葉が刺さる。


 現実には境界がない。


 夢の中みたいに白線を引けない。


 でも、夢の中なら引ける。


 僕は床を見た。


 床に、チョークが落ちていた。


 学校の廊下だ。


 チョークがあるのは自然だ。


 でも、この自然さが怖い。


 僕はチョークを拾って、床に線を引いた。


 白線。


 一本の白線。


 鏡のトンネルを二つに分ける。


 線を引くと、鏡の中のミサキたちが少しだけずれた。


 泣いているミサキが、左側に集まる。


 無表情のミサキが、右側に集まる。


 笑っているミサキが、どちらにもいる。


 中間にいる。


 僕は黒い目のミサキに言った。


「ここまで」


 黒い目のミサキは、白線の上に立った。


 線を踏む。


 踏んだ瞬間、線が薄くなる。


 消えかける。


 僕はチョークを握りしめて、線を濃くした。


 黒い目のミサキが言った。


「線を引いたって、意味ない」


 その通りだ。


 意味ないかもしれない。


 でも、意味ないことをやらないと、僕は動けない。


 僕は言った。


「意味がないなら、僕が意味を作る」


 黒い目のミサキは首を傾げた。


 その仕草が、現実のミサキに似ている。


 似ているから、また胸が痛い。


 そのときだった。


 白線の向こう側。


 鏡の奥が、ぐにゃりと歪んだ。


 誰かが通ってくる。


 黒い目のミサキとは別のもの。


 白線を越えてきたのは、混ざった怪物だった。


 赤い通知バッジの目。


 紙の手。


 その二つが絡み合っている。


 紙の指先に、赤い目玉が貼り付いている。


 目玉が瞬きしている。


 瞬きのたびに、紙の手が増える。


 インクの匂いが濃くなる。


 既読の海の冷たさと、職員室の紙の匂いが、一つの塊になって襲ってくる。


 黒い目のミサキが、小さく舌打ちした。


「来た」


 来た。


 影のミサキだけが敵じゃない。


 恐怖そのものが成長している。


 白川の言葉が頭をよぎる。


 悪夢は装置だ。


 装置を壊すと、別のところが壊れる。


 でも、この混ざった怪物は、装置じゃない。


 これは、外に広がる圧力だ。


 誰かの恐怖を餌にして増えるものだ。


 紙の手が伸びてきた。


 僕の腕に絡みつく。


 切れ目が走る。


 インクが滲む。


 痛みは現実と同じだ。


 目玉が僕を見ている。


 見た、見た、見た。


 無音の声が、頭の内側で鳴る。


 僕は息を吸った。


 刃を出す。


 ペンの刃。


 でも、切る場所を選ぶ。


 何でも切れば増える。


 第6話で学んだ。


 切断は拡散になる。


 僕は混ざった怪物の「核」を探す。


 紙の指先に貼り付いた赤い目。


 そこだ。


 目が紙を動かしている。


 目が記録を増やす。


 目が既読を増やす。


 僕は腕を引き剥がして、刃を構えた。


 黒い目のミサキが叫ぶ。


「私を切るな」


「切らない」


 僕はそう言って、混ざった怪物の指先だけを狙った。


 刃を通す。


 紙の指が切れる。


 その切れ目から、赤い目玉が落ちた。


 落ちた瞬間、音がした。


 コトン。


 目玉が床に落ちる音。


 その音が、やけに現実っぽい。


 目玉は床の白線の上で転がって、止まった。


 瞬きをしている。


 瞬きが遅くなる。


 やがて、目を閉じたまま動かなくなった。


 紙の手が、力を失う。


 ほどける。


 紙片になって落ちる。


 既読の海の気配が引く。


 鏡のトンネルが、ひび割れた。


 鏡が一枚、パキンと割れた。


 割れた破片に、ミサキの顔が映る。


 いつものミサキ。


 笑い方が柔らかいミサキ。


 でも、その目が揺れている。


 泣きそうなのに泣けない揺れ。


 黒い目のミサキは、割れた破片を見て、小さく言った。


「……あの子、戻りたいんだ」


 その言い方が、少しだけ優しかった。


 僕は息を吐いた。


 勝った、とは言えない。


 でも、今夜は壊しすぎなかった。


 壊さないために切った。


 それが正しいかどうかは、分からない。


 分からないまま、鏡のトンネルが暗くなっていく。


 床が沈む。


 落ちる。


 現実に戻る。


 僕は布団の上で息を吸った。


 胸が痛い。


 でも、前みたいな絶望の痛みじゃない。


 選んだ痛みだ。


 朝。


 教室。


 ミサキは席に座っていた。


 僕は一瞬、安心してしまった。


 いてくれた。


 消えてない。


 でも、その安心がまた怖い。


 僕は彼女に近づいた。


 ミサキは僕を見る。


 目が、昨日より少しだけ生きている。


 少しだけ。


「おはよう」


 ミサキが言った。


 声も、昨日より少しだけはっきりしている。


「……おはよう」


 僕は返した。


 それから、ミサキが言いかけた。


「私、最近……」


 言葉が止まる。


 口が閉じる。


 その瞬間、僕の腕の痣が疼いた。


 黒い目のミサキの視線を感じた気がした。


 僕はミサキの目を見る。


 ミサキは笑った。


 ごまかす笑い。


「ごめん。なんでもない」


 なんでもない。


 その言葉が、僕の喉に残る。


 なんでもない、の中に全部がある。


 チャイムが鳴った。


 担任が教室に入ってくる。


 いつもの朝のホームルーム。


 連絡事項。


 プリント配布。


 出席確認。


 普通のことを、普通の声で進める。


 担任はミサキの席の近くに来た。


 紙を一枚差し出した。


「これ、提出して。今日中に」


 紙。


 書類。


 その単語だけで、僕の胃が冷えた。


 ミサキは紙を受け取った。


 受け取った瞬間、顔色が真っ白になった。


 血の気が引く、というのが本当に分かる白さ。


 そして。


 ミサキの目が変わった。


 黒い。


 瞬きをしない。


 僕の背中が冷える。


 黒い目のミサキが現実に出てきた。


 担任はそれに気づかないふりをした。


 気づいているのに気づかないふりをしているのかもしれない。


 先生たちは、知っているふりをする。


 ミサキは紙を握りしめた。


 指先が白くなる。


 紙の端が少しだけ開く。


 引き出しみたいに。


 僕のスマホが震えた。


 通知はない。


 でも、震えがはっきりしている。


 授業中だ。


 朝だ。


 それでも、落ちる合図が来た。


 担任が黒板に何かを書き始める。


 チョークの音。


 キィ。


 その音が、鏡のトンネルの割れる音と重なる。


 僕は息を吸った。


 ミサキの黒い目が、僕を見た。


 笑っているように見えた。


 笑っていないのに。


 僕の掌が冷えた。


 落ちる。


 次の悪夢は、教室の中で始まる。


 暗転。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。続きを早めに出します。よければフォローで追ってもらえると嬉しいです。感想や★も制作の力になります。

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