表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/24

第7話 職員室の引き出し——先生たちは“知っているふり”をする

 職員室の前は、廊下の空気が少し変わる。


 床のワックスの匂いが濃い。プリントの紙の匂いが混ざる。大人の匂いがする。香水じゃなく、インクとコーヒーと湿った上着の匂い。


 ミサキは、担任の後ろを歩いていた。


 背中が小さい。


 いつもより制服がぶかぶかに見える。気のせいじゃない。僕の目が勝手にそう見せるだけでもない。彼女の輪郭が、日常の背景に溶けやすくなっている。


 担任が職員室の扉を開けた。


 ガラッ。


 中の音が外に出る。


 キーボードのカタカタ。コピー機の低い唸り。誰かが笑う声。電話の呼び出し音。


 全部が普通の音なのに、僕の胃が冷えた。


 普通の音が怖い。


 普通の場所に、僕の知ってる異常が入り込むときは、たいてい取り返しがつかない。


 ミサキは扉の前で、一度だけ立ち止まった。


 ほんの一瞬。呼吸を整えるみたいに。


 担任が振り返る。


「大丈夫だよ。ちょっと話すだけだから」


 声は優しい。


 優しいのに、言い方が決まっている。何回も使ってきた言い方。大人が子どもを安心させるときの定型。


 ミサキは頷いた。


「はい」


 その「はい」が、薄い。


 言葉の芯がない。形だけが出る。


 担任はそれに気づかないふりをしているのか、気づいていても先へ進むのか分からない。


 職員室の中に入ると、他の先生たちの目がちらっと動いた。


 見るけど、見ない。


 知っているけど、知らない。


 先生たちの「知っているふり」は、目の動きに出る。


 机の間を歩くと、紙の山が見えた。


 テストの答案。名簿。成績表。プリントの束。ファイル。赤ペン。クリップ。ホチキス。


 同じものがたくさんある。


 たくさんあるのに、一つ一つが誰かの人生にくっついている。


 僕はそれを知ってしまっている。


 担任が席に座り、向かいの椅子を指した。


「成瀬、ちょっと待っててくれる?」


 ミサキが椅子に座る前に、担任は僕の方を向いた。


 僕は心臓が跳ねるのを感じた。


 僕はここに来るつもりじゃなかった。


 でも、来た。


 ミサキの背中が薄いから。


 薄い背中は、放っておくと本当に消える。


「君も、座って」


 担任の声は、普通だった。


 普通の声で言われると、逆に断れない。


 僕は椅子に座った。


 椅子の脚が床に擦れて、小さな音がした。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


 担任はミサキを見た。


「最近、様子が変だと思ってね」


 ミサキは口を開く。


「大丈夫です」


 すぐに出た。


 だからこそ怖い。


 考えてない返事。反射の返事。


 担任は少しだけ眉を上げた。


「スマホ、壊れたって聞いたけど」


 ミサキの肩が、跳ねた。


 跳ねたのは本当に一瞬だ。すぐに抑えた。


 でも僕は見た。


 跳ねた瞬間、彼女の輪郭が少しだけ濃くなった気がした。恐怖は輪郭を戻す。人を現実に引き戻す。皮肉だ。


「……はい。急に、つかなくなって」


「困ってるだろ」


「……大丈夫です」


 大丈夫が重なるほど、大丈夫じゃない。


 担任は頷き、次の言葉を用意していたみたいに続けた。


「最近、欠席が増えてる子もいてね。体調とか、メンタルとか、いろいろ。君のことも心配してる」


 心配。


 その言葉は、刃になれる。


 第2話の父親の声を思い出す。


 ただいま、と優しく言う声が、一番怖かった。


 担任は今、同じ種類の声をしている。


 優しさの刃。


 ミサキは頷いた。


 頷きが遅い。


 頷いたあと、目が一度だけ落ちた。


 眠るみたいに。


 僕のポケットのスマホが、震えた気がした。


 気がしただけかもしれない。


 でも、気がした瞬間に僕の掌の裂傷が疼いた。


 僕は掌を握りしめる。


 絆創膏の端が少し浮く。


 担任は僕へ視線を移した。


「成瀬も、最近放課後に教室で見かけることがある」


 僕の背中が冷えた。


 見られている。


 既読の海が、現実に滲んでいる。


「何してる?」


 担任の声は責めていない。


 責めていないから怖い。


 僕は言った。


「忘れ物です」


 嘘が口から出るのは早い。


 嘘が早いほど、自分が慣れてきているのが分かる。


 担任は笑った。


 口元だけが動く笑い。


「そうか。忘れ物は誰にでもある」


 それから、少しだけ声を落とした。


「でも、君も眠れてない顔だな」


 僕の喉が乾く。


 眠れてない顔、という言葉の中に、いくつもの意味が入る。


 寝不足。


 不眠。


 夜更かし。


 それから。


 夢の中に入っている。


 担任はどこまで知っている。


 知っているのに知らないふりをするのか。


 知らないのに知っているふりをするのか。


 その境目が怖い。


 ミサキは椅子の上で、指先を膝に置いた。


 指が動かない。


 力が入っているのに、動かない。


 担任はミサキの方へ戻った。


「カウンセリング、行ってみないか」


 その言葉で、職員室の音が一瞬だけ遠のいた。


 キーボードの音が水の中に沈むみたいに。


 ミサキはすぐに答えられなかった。


 頷けない。


 頷いたら、彼女は制度に捕まる。


 でも頷かないと、今度は「問題がある子」として記録に残る。


 その間に挟まれる恐怖。


 僕は息を吸った。


 止めたい。


 やめてくれ。


 そう言いたい。


 でも僕が言った瞬間、僕が踏み込む加害になる。


 僕はもう、何度も踏み込んでいる。


 担任はミサキの返事を待つふりをして、続けた。


「無理にとは言わないよ。君のためだ。話すだけでも楽になることはある」


 その「君のため」が怖い。


 誰のためか分からない。


 本人のため。


 学校のため。


 先生のため。


 記録のため。


 守るためという名で、鍵を増やす。


 ミサキは、ようやく頷いた。


「……はい」


 頷きが遅い。


 薄い頷き。


 担任は安心したように息を吐いた。


「じゃあ、日程を調整する。保健の先生とも相談して」


 ミサキは「はい」と言った。


 その「はい」は、さっきより薄い。


 僕の胸が冷えた。


 ミサキが、また少し削れた気がした。


 職員室の窓の外は、もう暗い。


 冬の夕方は早い。


 校庭の照明が点いている。白い光。影が長い。


 担任は立ち上がった。


「今日はもう帰っていい。二人とも」


 僕は椅子から立ち上がる。


 足が少しふらつく。


 職員室の空気が重い。紙とインクとコーヒーの匂いが、肺の奥へ残る。


 廊下へ出たとき、ミサキが小さく息を吐いた。


「……ありがとう」


 僕は振り返る。


「何が?」


 ミサキは首を振った。


「分かんない」


 分かんない、が本当の言葉だ。


 薄い言葉じゃない。


 僕はそれが嬉しいのに、嬉しいと思うのが怖い。


 僕が彼女を薄くしたのに。


 家へ帰る道。


 風が冷たい。


 街灯の光が道路に斑点を作る。車のライトが近づいて、遠ざかる。


 僕はポケットの中のスマホを確かめる。


 画面は暗い。


 通知はない。


 でも、震える準備だけが整っている。


 夜。


 布団に入る。


 部屋の暗さが、いつもより濃い。


 目を閉じると、耳の奥に音がする。


 秒針。


 コチ、コチ、コチ。


 でも、その音が逆だ。


 戻っていく。


 コチ、コチ、コチ。


 時間が戻る音。


 ありえないのに、体がそれを聞いている。


 スマホが震えた。


 通知はない。


 でも、その震えが、職員室のアナログ時計の刻みにぴったり合う。


 僕の呼吸が浅くなる。


 掌の裂傷が疼く。


 僕はイヤホンを手に取った。


 入れないと落ちる。


 入れても落ちる。


 選択肢がない。


 耳に入れる。


 部屋の輪郭が遠のく。


 天井の角が消える。


 暗さの向こうへ落ちる。


 僕は職員室に立っていた。


 夜の職員室。


 蛍光灯は点いているのに、光が冷たい。


 机が並んでいる。


 並び方が、現実より正確すぎる。


 一直線。隙間が等間隔。人の気配がないのに、人がいた痕跡だけが残っている。


 椅子が引かれたまま。


 カップが置かれたまま。


 書類が積まれたまま。


 そして。


 引き出しが全部、少しだけ開いている。


 全部。


 ほんの指一本分。


 その隙間が、口みたいに見える。


 僕は一歩踏み出した。


 床が鳴らない。


 音が吸われる。


 空気が重い。


 紙とインクの匂いが濃い。


 引き出しの隙間から、白いものが見える。


 答案。


 個人票。


 指導要録。


 保健記録。


 生活記録。


 知られたくないものの束。


 記録。


 記録が、人を追い詰める。


 幽霊より怖い。


 記録は消えない。


 記録は増える。


 僕が近づくと、引き出しが少しだけ開いた。


 スッ。


 音はない。


 でも動いた。


 動いたことだけが分かる。


 引き出しの中から、何かが伸びた。


 手。


 紙でできた手。


 白い紙が折り重なって指になっている。


 指先が薄い。


 薄い刃。


 その手が僕の腕に絡んだ。


 紙が皮膚に擦れる。


 ひやりとする。


 次の瞬間、皮膚が切れた。


 血は出ない。


 切れ目から滲むのは、黒いインクだった。


 僕は息を止める。


 インクが出る。血じゃない。血じゃないのに痛い。


 痛みだけが現実と同じだ。


 紙の手が、僕の腕を引く。


 引き出しの隙間へ引き込もうとする。


 僕は踏ん張った。


 机の脚に足が当たる。


 机の上のクリップが転がる。


 カタン。


 音がした。


 その音で、空気が一段重くなった。


 職員室の奥から、声がした。


「心配してるんだ」


 担任の声。


 現実で聞いた声。


 同じ声。


 優しい声。


「君のためだよ」


 その優しさが、刃になる。


 紙の手が増えた。


 引き出しから、次の手。


 次の手。


 白い手が絡まる。


 腕。


 肩。


 胸。


 僕は息を吸う。


 喉が乾く。


 口の中が紙の匂いでいっぱいになる気がする。


 僕は刃を出した。


 ペンの刃。


 紙の手を斬る。


 紙は切れる。


 切れた紙片が舞う。


 舞った紙片に、文字が印字されている。


 名前。


 数字。


 評価。


 所見。


 書類の一部。


 切った瞬間、紙片が増える。


 増える紙片が、空中でひらひらと落ちてくる。


 雪みたいに。


 雪みたいなのに、文字が見える。


 自分の名前が混じっている気がして、僕の胃が締まる。


 紙の手は、斬れば減るわけじゃない。


 斬っても、次の引き出しから出てくる。


 記録は増える。


 消えない。


 僕は刃を止めた。


 紙の手が僕の腕を締める。


 皮膚がまた切れる。


 インクが滲む。


 インクが腕に沿って流れる。


 その流れ方が、血と同じで、気持ち悪い。


 紙の手の一つが、何かを握っていた。


 書類。


 その紙には、はっきりと名前が印字されている。


 ミサキの名前。


 僕の呼吸が浅くなる。


 ミサキがここにいる。


 彼女の恐怖がここにある。


 担任の声が続く。


「大丈夫。話そう。ちゃんと支えるから」


 支える。


 支えるという言葉で、引き出しは開く。


 支えるという言葉で、記録は増える。


 善意の制度。


 同意の剥奪。


 僕はそれを、病院で見た。


 白衣の怪物の笑顔のシール。


 同意書の署名欄。


 署名させられる恐怖。


 ここでは署名じゃない。


 ここでは記録だ。


 記録は、同意を取らない。


 勝手に書かれる。


 勝手に残る。


 僕は引き出しを閉めようと手を伸ばした。


 でも、閉めても意味がないと分かった。


 閉めてもまた開く。


 閉めるだけでは勝てない。


 必要なのは、鍵だ。


 鍵を作る。


 僕は周りを見る。


 机の上。


 クリップ。


 ホチキスの芯。


 鍵束。


 先生たちが使う、机の鍵。


 現実でも見た。


 先生が鍵束をガチャガチャ鳴らしながら「これどれだっけ」と言うやつ。


 僕は鍵束に手を伸ばした。


 紙の手がそれを阻む。


 僕は腕を捻って、紙の手を外そうとする。


 紙が皮膚に貼り付く。


 剥がすと痛い。


 剥がした瞬間、インクがさらに滲む。


 でも、痛い方がいい。


 痛い方が現実だ。


 僕は鍵束を掴んだ。


 金属の冷たさ。


 その冷たさが、変に安心する。


 僕は机の上のクリップを集めた。


 クリップは小さい。


 小さいのに、ここでは形が変わる。


 曲げる。


 折る。


 繋ぐ。


 ホチキスの芯を外す。


 指先で曲げる。


 金属が指に食い込む。


 痛い。


 痛いのに、僕は今、生きている感じがした。


 紙の手が僕の腕を引く。


 でも僕は机にしがみつく。


 机の上で鍵を作る。


 即席の鍵。


 鍵の形は歪だ。


 でも、鍵は鍵だ。


 僕はミサキの名前が印字された書類を見た。


 紙の手がそれを握りしめている。


 書類の角が折れている。


 折れた角に、薄い指紋みたいな汚れがついている。


 僕は鍵を、その書類の端に差し込む先を探した。


 差し込む先なんてない。


 書類は紙だ。


 鍵穴なんてない。


 でもここは夢だ。


 恐怖が形になる場所だ。


 鍵穴は、必要なら生える。


 僕は書類の名前の部分を見た。


 ミサキの名前。


 そこに指を置く。


 紙の表面が少しだけ凹む。


 凹みが、穴になる。


 鍵穴。


 僕は鍵を差し込んだ。


 鍵が入る。


 スッと。


 紙の手が震えた。


 震えて止まる。


 引き出しの隙間が一斉に揺れた。


 職員室の空気が、ぶわっと動く。


 紙の匂いが暴力みたいに押し寄せる。


 担任の声が近づく。


「君のためだ。怖がらないで」


 僕は鍵を回そうとした。


 回す前に、口が勝手に開きそうになる。


 言いたい。


 言ってしまいたい。


 先生が怖いんだろ、と。


 言えば、正解みたいに収まる。


 でも言った瞬間、橋がかかる。


 恐怖が現実に繋がる。


 僕は唇を噛んだ。


 それでも言葉が漏れそうになる。


「……」


 息だけが出る。


 机の上の書類が、一斉にめくれた。


 バサバサバサ。


 風が吹いた。


 職員室に風なんてないはずなのに。


 紙が舞う。


 紙が壁みたいに立ち上がる。


 文字が見える。


 名前が見える。


 評価が見える。


 所見が見える。


 知られたくないものが、全部、空気中に浮く。


 僕は喉の奥が冷えた。


 言語化しかけた。


 僕がやらかしかけた。


 僕は言い換えた。


 声に出した。


「怖いのは……先生じゃない」


 紙の風が一瞬止まる。


 担任の声が、少しだけ遠のく。


 僕は続けた。


「怖いのは、記録だ」


 その言葉で、紙の風が止まった。


 完全に止まるわけじゃない。


 でも、暴風じゃなくなる。


 紙が落ちる。


 ひらひらと。


 雪みたいに。


 僕は鍵を回した。


 カチ。


 音がした。


 鍵が回る。


 ミサキの名前の書類が、白くなる。


 文字が消える。


 真っ白になる。


 消えたのは記録そのものじゃない。


 読めなくなっただけだ。


 読めなくなっただけなのに、紙の手が溶けた。


 溶けるように崩れる。


 白い手が紙片になって床へ落ちる。


 床一面に、紙片が降る。


 その紙片の一枚に、手書きの文字があった。


 ミサキの筆跡。


 ごめん。


 その二文字が、胸に刺さる。


 彼女は怖いと言えないだけじゃない。


 怖いと言えないことを、罪だと思っている。


 誰にも迷惑をかけてはいけない、と。


 そう思うようにされてきた、と。


 僕は紙片を拾おうとして、手を止めた。


 拾ったら、また侵入になる。


 侵入は加害だ。


 でも、拾わないのも加害だ。


 僕は動けなかった。


 担任の声が、最後に一度だけ響いた。


「心配してるんだよ」


 その声が、笑っているように聞こえた。


 笑っていないのに。


 僕の背中が冷えた。


 次の瞬間、床が抜けた。


 落ちる。


 暗い。


 現実に戻る。


 僕はベッドの上で息を吸った。


 喉が乾いている。


 腕が痛い。


 右腕に切れ目がある。


 血じゃない。


 黒いインクみたいな痣が、切れ目から広がっている。


 皮膚の下で滲む。


 まるで紙にインクが染みるみたいに。


 朝。


 教室。


 ミサキは窓際の席で、光を受けていた。


 光が当たっているのに、輪郭が薄い。


 僕が鍵をかけたせいだ。


 守ったつもりで、また削った。


 担任がミサキの席へ来た。


 昨日と同じ声で言う。


「カウンセリング、行こう」


 ミサキは頷いた。


 頷きが遅い。


 薄い頷き。


 担任は続けた。


「保健の先生と一緒に。無理はさせないから」


 無理はさせない。


 その言葉の裏に、無理をさせた記録がある。


 僕はミサキの手元を見た。


 彼女の机の上に、白い紙が置かれている。


 ただの紙。


 でも、紙の端が少しだけ開いている。


 引き出しみたいに。


 僕の腕の痣が疼いた。


 疼き方が、昨日より整っている。


 痣の形が、文字になりかけている気がした。


 僕は目を逸らす。


 逸らしても、見てしまう。


 職員室の引き出しの迷宮が、現実の教室に芽を出し始めている。


 制度は入口を変える。


 鍵をかけても、別の場所から入ってくる。


 ミサキが立ち上がった。


 担任についていく。


 廊下へ出る。


 その背中が、また少し薄くなる。


 僕は椅子の脚に手をかけた。


 立つ。


 追う。


 それは助けたいからだ。


 でも、それは加害でもある。


 僕はその両方を知りながら、廊下へ出た。


 ポケットの中でスマホが震えた。


 通知はない。


 でも、震えは確かにそこにある。


 職員室の時計の刻みと同じ震え。


 誰かのため。


 誰のため。


 僕のため。


 僕は廊下の角を曲がった。


 職員室の扉が見える。


 扉のガラスに、僕の顔が映る。


 僕の顔の横に、もう一つ顔が映っていた。


 担任の顔じゃない。


 白川でもない。


 ミサキでもない。


 知らない顔。


 でも、どこかで見た。


 黒い水の台所。


 白い迷宮の病院。


 既読の海。


 その全部にいた気配。


 僕は瞬きをした。


 ガラスには、僕の顔だけが残った。


 でも、背中が冷えたままだ。


 扉の向こうから、担任の声がした。


「成瀬も入れ」


 僕の名前が、職員室の中で呼ばれる。


 その呼ばれ方が、記録の呼ばれ方だった。


 僕は扉に手を伸ばした。


 手が震えた。


 震えは寒さじゃない。


 震えは、落下の前触れだ。


 扉を開ける。


 ガラッ。


 職員室の音が戻る。


 キーボード。


 コピー機。


 笑い声。


 電話の音。


 全部が普通。


 普通が怖い。


 机の上の引き出しが、少しだけ開いているのが見えた。


 指一本分。


 口みたいな隙間。


 そこから、紙の匂いが漏れてくる。


 僕は足を踏み入れた。


 暗転。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。続きはできるだけ早めに更新します。よければフォローして待ってもらえると嬉しいです。感想や★も励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ