第7話 職員室の引き出し——先生たちは“知っているふり”をする
職員室の前は、廊下の空気が少し変わる。
床のワックスの匂いが濃い。プリントの紙の匂いが混ざる。大人の匂いがする。香水じゃなく、インクとコーヒーと湿った上着の匂い。
ミサキは、担任の後ろを歩いていた。
背中が小さい。
いつもより制服がぶかぶかに見える。気のせいじゃない。僕の目が勝手にそう見せるだけでもない。彼女の輪郭が、日常の背景に溶けやすくなっている。
担任が職員室の扉を開けた。
ガラッ。
中の音が外に出る。
キーボードのカタカタ。コピー機の低い唸り。誰かが笑う声。電話の呼び出し音。
全部が普通の音なのに、僕の胃が冷えた。
普通の音が怖い。
普通の場所に、僕の知ってる異常が入り込むときは、たいてい取り返しがつかない。
ミサキは扉の前で、一度だけ立ち止まった。
ほんの一瞬。呼吸を整えるみたいに。
担任が振り返る。
「大丈夫だよ。ちょっと話すだけだから」
声は優しい。
優しいのに、言い方が決まっている。何回も使ってきた言い方。大人が子どもを安心させるときの定型。
ミサキは頷いた。
「はい」
その「はい」が、薄い。
言葉の芯がない。形だけが出る。
担任はそれに気づかないふりをしているのか、気づいていても先へ進むのか分からない。
職員室の中に入ると、他の先生たちの目がちらっと動いた。
見るけど、見ない。
知っているけど、知らない。
先生たちの「知っているふり」は、目の動きに出る。
机の間を歩くと、紙の山が見えた。
テストの答案。名簿。成績表。プリントの束。ファイル。赤ペン。クリップ。ホチキス。
同じものがたくさんある。
たくさんあるのに、一つ一つが誰かの人生にくっついている。
僕はそれを知ってしまっている。
担任が席に座り、向かいの椅子を指した。
「成瀬、ちょっと待っててくれる?」
ミサキが椅子に座る前に、担任は僕の方を向いた。
僕は心臓が跳ねるのを感じた。
僕はここに来るつもりじゃなかった。
でも、来た。
ミサキの背中が薄いから。
薄い背中は、放っておくと本当に消える。
「君も、座って」
担任の声は、普通だった。
普通の声で言われると、逆に断れない。
僕は椅子に座った。
椅子の脚が床に擦れて、小さな音がした。
その音が、やけに大きく聞こえた。
担任はミサキを見た。
「最近、様子が変だと思ってね」
ミサキは口を開く。
「大丈夫です」
すぐに出た。
だからこそ怖い。
考えてない返事。反射の返事。
担任は少しだけ眉を上げた。
「スマホ、壊れたって聞いたけど」
ミサキの肩が、跳ねた。
跳ねたのは本当に一瞬だ。すぐに抑えた。
でも僕は見た。
跳ねた瞬間、彼女の輪郭が少しだけ濃くなった気がした。恐怖は輪郭を戻す。人を現実に引き戻す。皮肉だ。
「……はい。急に、つかなくなって」
「困ってるだろ」
「……大丈夫です」
大丈夫が重なるほど、大丈夫じゃない。
担任は頷き、次の言葉を用意していたみたいに続けた。
「最近、欠席が増えてる子もいてね。体調とか、メンタルとか、いろいろ。君のことも心配してる」
心配。
その言葉は、刃になれる。
第2話の父親の声を思い出す。
ただいま、と優しく言う声が、一番怖かった。
担任は今、同じ種類の声をしている。
優しさの刃。
ミサキは頷いた。
頷きが遅い。
頷いたあと、目が一度だけ落ちた。
眠るみたいに。
僕のポケットのスマホが、震えた気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、気がした瞬間に僕の掌の裂傷が疼いた。
僕は掌を握りしめる。
絆創膏の端が少し浮く。
担任は僕へ視線を移した。
「成瀬も、最近放課後に教室で見かけることがある」
僕の背中が冷えた。
見られている。
既読の海が、現実に滲んでいる。
「何してる?」
担任の声は責めていない。
責めていないから怖い。
僕は言った。
「忘れ物です」
嘘が口から出るのは早い。
嘘が早いほど、自分が慣れてきているのが分かる。
担任は笑った。
口元だけが動く笑い。
「そうか。忘れ物は誰にでもある」
それから、少しだけ声を落とした。
「でも、君も眠れてない顔だな」
僕の喉が乾く。
眠れてない顔、という言葉の中に、いくつもの意味が入る。
寝不足。
不眠。
夜更かし。
それから。
夢の中に入っている。
担任はどこまで知っている。
知っているのに知らないふりをするのか。
知らないのに知っているふりをするのか。
その境目が怖い。
ミサキは椅子の上で、指先を膝に置いた。
指が動かない。
力が入っているのに、動かない。
担任はミサキの方へ戻った。
「カウンセリング、行ってみないか」
その言葉で、職員室の音が一瞬だけ遠のいた。
キーボードの音が水の中に沈むみたいに。
ミサキはすぐに答えられなかった。
頷けない。
頷いたら、彼女は制度に捕まる。
でも頷かないと、今度は「問題がある子」として記録に残る。
その間に挟まれる恐怖。
僕は息を吸った。
止めたい。
やめてくれ。
そう言いたい。
でも僕が言った瞬間、僕が踏み込む加害になる。
僕はもう、何度も踏み込んでいる。
担任はミサキの返事を待つふりをして、続けた。
「無理にとは言わないよ。君のためだ。話すだけでも楽になることはある」
その「君のため」が怖い。
誰のためか分からない。
本人のため。
学校のため。
先生のため。
記録のため。
守るためという名で、鍵を増やす。
ミサキは、ようやく頷いた。
「……はい」
頷きが遅い。
薄い頷き。
担任は安心したように息を吐いた。
「じゃあ、日程を調整する。保健の先生とも相談して」
ミサキは「はい」と言った。
その「はい」は、さっきより薄い。
僕の胸が冷えた。
ミサキが、また少し削れた気がした。
職員室の窓の外は、もう暗い。
冬の夕方は早い。
校庭の照明が点いている。白い光。影が長い。
担任は立ち上がった。
「今日はもう帰っていい。二人とも」
僕は椅子から立ち上がる。
足が少しふらつく。
職員室の空気が重い。紙とインクとコーヒーの匂いが、肺の奥へ残る。
廊下へ出たとき、ミサキが小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
僕は振り返る。
「何が?」
ミサキは首を振った。
「分かんない」
分かんない、が本当の言葉だ。
薄い言葉じゃない。
僕はそれが嬉しいのに、嬉しいと思うのが怖い。
僕が彼女を薄くしたのに。
家へ帰る道。
風が冷たい。
街灯の光が道路に斑点を作る。車のライトが近づいて、遠ざかる。
僕はポケットの中のスマホを確かめる。
画面は暗い。
通知はない。
でも、震える準備だけが整っている。
夜。
布団に入る。
部屋の暗さが、いつもより濃い。
目を閉じると、耳の奥に音がする。
秒針。
コチ、コチ、コチ。
でも、その音が逆だ。
戻っていく。
コチ、コチ、コチ。
時間が戻る音。
ありえないのに、体がそれを聞いている。
スマホが震えた。
通知はない。
でも、その震えが、職員室のアナログ時計の刻みにぴったり合う。
僕の呼吸が浅くなる。
掌の裂傷が疼く。
僕はイヤホンを手に取った。
入れないと落ちる。
入れても落ちる。
選択肢がない。
耳に入れる。
部屋の輪郭が遠のく。
天井の角が消える。
暗さの向こうへ落ちる。
僕は職員室に立っていた。
夜の職員室。
蛍光灯は点いているのに、光が冷たい。
机が並んでいる。
並び方が、現実より正確すぎる。
一直線。隙間が等間隔。人の気配がないのに、人がいた痕跡だけが残っている。
椅子が引かれたまま。
カップが置かれたまま。
書類が積まれたまま。
そして。
引き出しが全部、少しだけ開いている。
全部。
ほんの指一本分。
その隙間が、口みたいに見える。
僕は一歩踏み出した。
床が鳴らない。
音が吸われる。
空気が重い。
紙とインクの匂いが濃い。
引き出しの隙間から、白いものが見える。
答案。
個人票。
指導要録。
保健記録。
生活記録。
知られたくないものの束。
記録。
記録が、人を追い詰める。
幽霊より怖い。
記録は消えない。
記録は増える。
僕が近づくと、引き出しが少しだけ開いた。
スッ。
音はない。
でも動いた。
動いたことだけが分かる。
引き出しの中から、何かが伸びた。
手。
紙でできた手。
白い紙が折り重なって指になっている。
指先が薄い。
薄い刃。
その手が僕の腕に絡んだ。
紙が皮膚に擦れる。
ひやりとする。
次の瞬間、皮膚が切れた。
血は出ない。
切れ目から滲むのは、黒いインクだった。
僕は息を止める。
インクが出る。血じゃない。血じゃないのに痛い。
痛みだけが現実と同じだ。
紙の手が、僕の腕を引く。
引き出しの隙間へ引き込もうとする。
僕は踏ん張った。
机の脚に足が当たる。
机の上のクリップが転がる。
カタン。
音がした。
その音で、空気が一段重くなった。
職員室の奥から、声がした。
「心配してるんだ」
担任の声。
現実で聞いた声。
同じ声。
優しい声。
「君のためだよ」
その優しさが、刃になる。
紙の手が増えた。
引き出しから、次の手。
次の手。
白い手が絡まる。
腕。
肩。
胸。
僕は息を吸う。
喉が乾く。
口の中が紙の匂いでいっぱいになる気がする。
僕は刃を出した。
ペンの刃。
紙の手を斬る。
紙は切れる。
切れた紙片が舞う。
舞った紙片に、文字が印字されている。
名前。
数字。
評価。
所見。
書類の一部。
切った瞬間、紙片が増える。
増える紙片が、空中でひらひらと落ちてくる。
雪みたいに。
雪みたいなのに、文字が見える。
自分の名前が混じっている気がして、僕の胃が締まる。
紙の手は、斬れば減るわけじゃない。
斬っても、次の引き出しから出てくる。
記録は増える。
消えない。
僕は刃を止めた。
紙の手が僕の腕を締める。
皮膚がまた切れる。
インクが滲む。
インクが腕に沿って流れる。
その流れ方が、血と同じで、気持ち悪い。
紙の手の一つが、何かを握っていた。
書類。
その紙には、はっきりと名前が印字されている。
ミサキの名前。
僕の呼吸が浅くなる。
ミサキがここにいる。
彼女の恐怖がここにある。
担任の声が続く。
「大丈夫。話そう。ちゃんと支えるから」
支える。
支えるという言葉で、引き出しは開く。
支えるという言葉で、記録は増える。
善意の制度。
同意の剥奪。
僕はそれを、病院で見た。
白衣の怪物の笑顔のシール。
同意書の署名欄。
署名させられる恐怖。
ここでは署名じゃない。
ここでは記録だ。
記録は、同意を取らない。
勝手に書かれる。
勝手に残る。
僕は引き出しを閉めようと手を伸ばした。
でも、閉めても意味がないと分かった。
閉めてもまた開く。
閉めるだけでは勝てない。
必要なのは、鍵だ。
鍵を作る。
僕は周りを見る。
机の上。
クリップ。
ホチキスの芯。
鍵束。
先生たちが使う、机の鍵。
現実でも見た。
先生が鍵束をガチャガチャ鳴らしながら「これどれだっけ」と言うやつ。
僕は鍵束に手を伸ばした。
紙の手がそれを阻む。
僕は腕を捻って、紙の手を外そうとする。
紙が皮膚に貼り付く。
剥がすと痛い。
剥がした瞬間、インクがさらに滲む。
でも、痛い方がいい。
痛い方が現実だ。
僕は鍵束を掴んだ。
金属の冷たさ。
その冷たさが、変に安心する。
僕は机の上のクリップを集めた。
クリップは小さい。
小さいのに、ここでは形が変わる。
曲げる。
折る。
繋ぐ。
ホチキスの芯を外す。
指先で曲げる。
金属が指に食い込む。
痛い。
痛いのに、僕は今、生きている感じがした。
紙の手が僕の腕を引く。
でも僕は机にしがみつく。
机の上で鍵を作る。
即席の鍵。
鍵の形は歪だ。
でも、鍵は鍵だ。
僕はミサキの名前が印字された書類を見た。
紙の手がそれを握りしめている。
書類の角が折れている。
折れた角に、薄い指紋みたいな汚れがついている。
僕は鍵を、その書類の端に差し込む先を探した。
差し込む先なんてない。
書類は紙だ。
鍵穴なんてない。
でもここは夢だ。
恐怖が形になる場所だ。
鍵穴は、必要なら生える。
僕は書類の名前の部分を見た。
ミサキの名前。
そこに指を置く。
紙の表面が少しだけ凹む。
凹みが、穴になる。
鍵穴。
僕は鍵を差し込んだ。
鍵が入る。
スッと。
紙の手が震えた。
震えて止まる。
引き出しの隙間が一斉に揺れた。
職員室の空気が、ぶわっと動く。
紙の匂いが暴力みたいに押し寄せる。
担任の声が近づく。
「君のためだ。怖がらないで」
僕は鍵を回そうとした。
回す前に、口が勝手に開きそうになる。
言いたい。
言ってしまいたい。
先生が怖いんだろ、と。
言えば、正解みたいに収まる。
でも言った瞬間、橋がかかる。
恐怖が現実に繋がる。
僕は唇を噛んだ。
それでも言葉が漏れそうになる。
「……」
息だけが出る。
机の上の書類が、一斉にめくれた。
バサバサバサ。
風が吹いた。
職員室に風なんてないはずなのに。
紙が舞う。
紙が壁みたいに立ち上がる。
文字が見える。
名前が見える。
評価が見える。
所見が見える。
知られたくないものが、全部、空気中に浮く。
僕は喉の奥が冷えた。
言語化しかけた。
僕がやらかしかけた。
僕は言い換えた。
声に出した。
「怖いのは……先生じゃない」
紙の風が一瞬止まる。
担任の声が、少しだけ遠のく。
僕は続けた。
「怖いのは、記録だ」
その言葉で、紙の風が止まった。
完全に止まるわけじゃない。
でも、暴風じゃなくなる。
紙が落ちる。
ひらひらと。
雪みたいに。
僕は鍵を回した。
カチ。
音がした。
鍵が回る。
ミサキの名前の書類が、白くなる。
文字が消える。
真っ白になる。
消えたのは記録そのものじゃない。
読めなくなっただけだ。
読めなくなっただけなのに、紙の手が溶けた。
溶けるように崩れる。
白い手が紙片になって床へ落ちる。
床一面に、紙片が降る。
その紙片の一枚に、手書きの文字があった。
ミサキの筆跡。
ごめん。
その二文字が、胸に刺さる。
彼女は怖いと言えないだけじゃない。
怖いと言えないことを、罪だと思っている。
誰にも迷惑をかけてはいけない、と。
そう思うようにされてきた、と。
僕は紙片を拾おうとして、手を止めた。
拾ったら、また侵入になる。
侵入は加害だ。
でも、拾わないのも加害だ。
僕は動けなかった。
担任の声が、最後に一度だけ響いた。
「心配してるんだよ」
その声が、笑っているように聞こえた。
笑っていないのに。
僕の背中が冷えた。
次の瞬間、床が抜けた。
落ちる。
暗い。
現実に戻る。
僕はベッドの上で息を吸った。
喉が乾いている。
腕が痛い。
右腕に切れ目がある。
血じゃない。
黒いインクみたいな痣が、切れ目から広がっている。
皮膚の下で滲む。
まるで紙にインクが染みるみたいに。
朝。
教室。
ミサキは窓際の席で、光を受けていた。
光が当たっているのに、輪郭が薄い。
僕が鍵をかけたせいだ。
守ったつもりで、また削った。
担任がミサキの席へ来た。
昨日と同じ声で言う。
「カウンセリング、行こう」
ミサキは頷いた。
頷きが遅い。
薄い頷き。
担任は続けた。
「保健の先生と一緒に。無理はさせないから」
無理はさせない。
その言葉の裏に、無理をさせた記録がある。
僕はミサキの手元を見た。
彼女の机の上に、白い紙が置かれている。
ただの紙。
でも、紙の端が少しだけ開いている。
引き出しみたいに。
僕の腕の痣が疼いた。
疼き方が、昨日より整っている。
痣の形が、文字になりかけている気がした。
僕は目を逸らす。
逸らしても、見てしまう。
職員室の引き出しの迷宮が、現実の教室に芽を出し始めている。
制度は入口を変える。
鍵をかけても、別の場所から入ってくる。
ミサキが立ち上がった。
担任についていく。
廊下へ出る。
その背中が、また少し薄くなる。
僕は椅子の脚に手をかけた。
立つ。
追う。
それは助けたいからだ。
でも、それは加害でもある。
僕はその両方を知りながら、廊下へ出た。
ポケットの中でスマホが震えた。
通知はない。
でも、震えは確かにそこにある。
職員室の時計の刻みと同じ震え。
誰かのため。
誰のため。
僕のため。
僕は廊下の角を曲がった。
職員室の扉が見える。
扉のガラスに、僕の顔が映る。
僕の顔の横に、もう一つ顔が映っていた。
担任の顔じゃない。
白川でもない。
ミサキでもない。
知らない顔。
でも、どこかで見た。
黒い水の台所。
白い迷宮の病院。
既読の海。
その全部にいた気配。
僕は瞬きをした。
ガラスには、僕の顔だけが残った。
でも、背中が冷えたままだ。
扉の向こうから、担任の声がした。
「成瀬も入れ」
僕の名前が、職員室の中で呼ばれる。
その呼ばれ方が、記録の呼ばれ方だった。
僕は扉に手を伸ばした。
手が震えた。
震えは寒さじゃない。
震えは、落下の前触れだ。
扉を開ける。
ガラッ。
職員室の音が戻る。
キーボード。
コピー機。
笑い声。
電話の音。
全部が普通。
普通が怖い。
机の上の引き出しが、少しだけ開いているのが見えた。
指一本分。
口みたいな隙間。
そこから、紙の匂いが漏れてくる。
僕は足を踏み入れた。
暗転。
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