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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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第6話「既読の海——“見られる恐怖”は消えない」

 朝の教室は、誰もが同じ速度で動いているようで、少しずつズレている。


 椅子を引く音が重なる。床を擦るゴムの匂い。暖房がまだ効き切らない空気に、濡れた上着の水気が混ざる。窓の外の空は白い。曇り。光が平らで、影ができにくい。


 その平らさが、僕の胸を落ち着かせない。


 平らなものほど、何かを隠せる。


 ミサキは席に座っていた。


 昨日までと同じ制服。同じ髪留め。机の上のペンケースも同じ柄だ。細い猫のシールが角に貼ってある。保健室で僕に飲み物を置いたとき、あのシールを見た。僕はそのとき、なぜか助けられた気がした。


 ミサキは友達と話している。


 笑っている。頷いている。声の高さも、周りと揃っている。


 なのに、返事が遅い。


 ほんの少し。瞬き一回分。


「昨日のさ、見た?」


 前の席の子が言う。


「うん、見た見た。やばくない?」


「ミサキも見た?」


 ミサキは笑って、少し首を傾げる。


「……昨日の?」


 言葉が一拍、空に出る前に引っかかる。


 友達は気にしない。


「ほら、グループのやつ。みんな送ってたじゃん」


 ミサキは「うん」と言った。


 その「うん」が、正解の形だけをしている。


 目が笑っていない。


 黒目の位置が、少しだけ浮いている。話している相手の顔ではなく、机の角を見ているような視線。


 僕は自分の掌を握った。


 絆創膏の下の裂傷が、ぴりっと鳴った。痛みは現実の速度で来る。夢の中の痛みは遅れて現実に追いつく。遅れてくる分、逃げ場がない。


 救ったはずだ。


 僕は、そう思い込みたかった。


 でも、救うほど薄くなる。


 事故だけじゃない。記憶だけじゃない。ミサキは、日常の縁で少しずつ削れている。


 授業が始まる。


 先生が黒板に字を書く。


 チョークの粉が舞う。白い粉が、光の平らさの中に消える。黒板の文字は滲まないのに、僕の頭の中だけが滲む。


 教科書のページをめくる音。


 隣の席の子が消しゴムを落とす音。


 それらが全部、少し遅れて聞こえる気がする。


 僕の中のどこかが、まだ水の中にいる。


 昼休み。


 教室の空気が緩む。


 机の間を歩く。弁当の匂い。コンビニのパンの甘さ。カップ麺の湯気。暖房の風が、食べ物の匂いを一方向へ運ぶ。


 女子の小さな輪ができている。


 声が低い。笑いが短い。


「ミサキさ、最近返事遅くない?」


「分かる。てか、既読つかないときない?」


 その言葉が、教室の温度を一段下げた。


 既読。


 たった二文字で、場の空気が変わる。


 誰かが「私だけ?」と言った。別の子が「いや、私も」と返す。そこに、具体が増える。


 昨日の夜。


 今日の朝。


 送った時間。


 返事が来た時間。


 やりとりのスクショの話まで出る。


 その輪の外側で、ミサキは机の上のノートを指でなぞっていた。


 文字ではない。罫線でもない。紙の凹凸を確かめるように、指先が一定の速度で動く。


 ミサキは噂に気づいていないのか、気づかないふりをしているのか分からない。


 ただ、その背中が薄い。


 透明になりかけの背中。


 僕はそこに声をかけられない。


 声をかけた瞬間、僕が彼女の薄さの原因だと確定してしまうから。


 放課後。


 校舎の廊下は静かになる。


 窓の外が暗くなり始めると、ガラスが鏡になる。自分の顔が映る。制服の襟。髪の乱れ。目の下の影。


 僕は自分の顔を見て、安心しない。


 僕の顔は、僕の顔に見えないときがある。


 夢の中で何かを持ち帰った日は、特に。


 スマホがポケットの中で、微かに重い。


 今日一日、震えはなかった。


 ないのに、いつでも震えられる形で存在している。


 僕は家へ帰った。


 夕飯の匂いがした。味噌汁。焼き魚。醤油の焦げ。湯気が窓を曇らせる。


 母は「おかえり」と言った。


 僕は「ただいま」と返した。


 その言葉は、普通に出る。


 普通に出るのに、喉の奥で冷えている。夜が来る。夜が来たら、また落ちる。落ちて、また何かを削る。


 食卓の上の小さな音が、やけに大きく聞こえる。


 箸が皿に当たる音。


 椅子が床を擦る音。


 テレビのニュースの音。


 そのニュースが、僕の耳に刺さらないように、僕は早く食べた。


 部屋に戻る。


 机の上にスマホを置く。


 画面は暗い。


 暗いまま、僕の顔だけを薄く映す。


 名刺を引き出しから出した。


 睡眠外来。


 白川。


 名前の横に、小さく研究協力とある。


 僕はその名刺を見ていると、肋骨が痛む気がした。


 昼の病院で、夜に落ちた。


 もう夜だけじゃない、と白川は言った。


 入口は広がる、とも。


 僕はベッドに入った。


 目を閉じたくない。


 でも目を閉じないと眠れない。眠れないと明日が来ない。明日が来ないと、ミサキの薄さを確かめに行けない。


 それが、僕の続ける理由になってしまう。


 スマホが震えた。


 通知はない。


 着信もない。


 でも、あの震えだ。


 心臓の鼓動と同じリズム。体の内側と同期するみたいな揺れ。


 僕はイヤホンに手を伸ばした。


 やめたい、と口の中で言う。


 でも手は止まらない。


 耳に入れる。


 外の音が薄くなる。


 部屋の輪郭が遠のく。


 僕は落ちた。


 真っ暗な空間に、足が着く。


 床が硬いのに、冷たくない。湿度だけがある。


 足元を見ると、ガラスの板が広がっていた。


 透明な床。


 その下に、無数のスマホ画面が沈んでいる。


 画面は全部、同じ言葉を流している。


 既読。


 既読。


 既読。


 二文字が波のように流れ、泡のように弾け、また流れる。


 音はない。


 なのに、耳が痛い。


 僕が一歩踏み出すと、ガラスが軋んだ。


 ぎ、と短い音。


 その音に反応するように、下の画面の既読が跳ねた。


 既読の波が、足の下で揺れる。


 僕の胃が冷えた。


 ここがミサキの悪夢だ。


 窓の手よりも、階段の指よりも、これは生活に近い。


 近すぎて、逃げられない。


 頭上に赤いものが浮かんだ。


 赤い丸。


 通知バッジ。


 数字が入っている。


 最初は一つ。


 次に二つ。


 三つ。


 十。


 二十。


 増えていく。


 赤い丸が、空中で揺れながら近づいてくる。


 近づくにつれて、それが丸ではなく、目だと分かる。


 粘膜がある。濡れている。瞬きする。


 目は声を出さない。


 でも、分かる。


 見た。


 見た。


 見た。


 言葉が、無音で押し付けられる。


 僕は刃を出した。


 ペンの刃。


 夢で死んだ者だけが持てる、あの刃。


 目が寄ってくる。


 僕は斬った。


 刃が粘膜を裂く感触。ぬるい。生温かい。刃の先が少し鈍る。


 目は二つに割れた。


 割れた瞬間、増えた。


 二つになった目が、四つになる。


 四つが八つになる。


 僕が斬るたび、見られる恐怖が拡散する。


 切断が拡散になる。


 僕は刃を止めた。


 目は止まらない。


 赤い目が近づく。


 僕の顔の周りを囲む。目が目の高さで揃う。まるで壁。


 ガラスの床の下の既読が、さらに速く流れる。


 既読の波が、僕の足元を飲み込もうとする。


 僕は息を吸った。


 空気が重い。湿度が高い。肺が膨らみにくい。


 視界の端に、一つの画面が見えた。


 他の画面と違う。


 既読ではない。


 文字の並び。


 未送信。


 画面の上に、小さく書かれている。


 未送信メッセージ。


 そこに、短い文が表示されていた。


 見ないで。


 助けて、じゃない。


 守って、でもない。


 見ないで。


 僕はその二文字を読んだ瞬間、胸が詰まった。


 僕が読んだことが、侵入になる。


 善意で覗き込むことが、加害になる。


 目の群れが、少しだけ静かになる。


 静かになった分、密度が増す。


 僕は刃を握り直した。


 でも、斬れない。


 斬ったら増える。


 言葉にしたら橋がかかる。


 ここで必要なのは、当てることじゃない。


 閉じることだ。


 白川の声が頭の奥で響く。


 次は殺すより閉じるを選べ。


 僕は刃を収めた。


 目の群れが一斉に寄る。


 僕の頬のすぐ近くで瞬きをする。粘膜の湿った音がしそうなのに、音はない。音のない圧だけがある。


 僕は足元のガラスを見た。


 ガラスの継ぎ目。


 板と板の間に、細い線が走っている。


 僕はしゃがみ込んで、その線を指でなぞった。


 指先に、微かな凹凸。


 線は、ただの境界だと思っていた。


 でも、なぞると形が変わる。


 線が、アイコンになる。


 機内モード。


 小さな飛行機の形。


 現実で何度も見た形。


 圏外にするための形。


 僕は立ち上がり、機内モードのアイコンを踏んだ。


 足裏に、軽い振動。


 その瞬間、近くの目が痙攣して落ちた。


 落ちるとき、赤い粘膜が黒くなる。


 黒くなった目が、ガラスの下へ沈む。


 既読の波の中へ沈む。


 僕は一歩ずつ進みながら、継ぎ目を踏んだ。


 機内モード。


 機内モード。


 機内モード。


 踏むたび、空間が少しずつ圏外になる。


 目は境界を越えられない。


 越えようとすると痙攣して落ちる。


 落ちる目が増えるほど、足元の既読の波が荒くなる。


 僕の胸が痛む。


 これは、見られる恐怖を消しているわけじゃない。


 届かなくしているだけだ。


 届かなくしても、恐怖は下に沈んでいる。


 沈んでいる分、いつか別の形で浮いてくる。


 僕はそれを分かったまま、踏み続ける。


 圏外の領域が広がると、空気が少し軽くなった。


 湿度が下がる。


 肺が膨らむ。


 目の群れが減る。


 ガラスの下の既読の流れが遅くなる。


 静寂が訪れる。


 静寂の中で、未送信の画面だけが残る。


 見ないで。


 その文字が、今度は僕の方を見ている気がした。


 僕はその画面に手を伸ばしかけて、止めた。


 触れたら、侵入になる。


 侵入したら、僕はミサキの恐怖の中に踏み込む。踏み込めば、救うつもりで削る。


 僕は手を引いた。


 代わりに、視線を上げた。


 赤い目がいない。


 空が暗い。


 静かすぎる。


 その静かさが、油断だと分かる。


 僕は足元を見た。


 圏外にしたはずのガラスの端に、一つだけ赤いものが残っている。


 通知。


 赤い丸。


 数字ではない。


 そこには名前が書かれていた。


 担任の名前。


 僕の喉が鳴った。


 通知が、既読を示している。


 既読が付いている。


 誰が見た。


 誰が。


 背中に気配が来た。


 振り向くな、と体が言う。


 振り向いた瞬間、見られるが確定する。


 僕は肩越しに、声を聞いた。


 担任の声だった。


「見てるよ」


 優しい声じゃない。


 怒ってもいない。


 ただ、確認する声。


 事務的な声。


 学校でよく聞く声。


 それがここで聞こえるのが、一番怖い。


 僕は振り向かなかった。


 振り向かずに、通知を見つめた。


 削除すればいい?


 削除は暴力だ。


 暴力は拡散になる。目を斬ったときと同じだ。


 僕は刃を出さない。


 指で、通知を長押しした。


 現実でやる動作。


 長押し。


 メニューが出る。


 削除。


 ミュート。


 アーカイブ。


 僕はアーカイブを選んだ。


 封印。


 存在は消さない。届かなくする。見えない棚に入れる。


 指を離すと、通知が沈んだ。


 赤い丸が、ガラスの下の既読の海へ落ちる。


 落ちた瞬間、海が一度だけ大きく揺れた。


 既読の波が跳ねる。


 跳ねた波の間に、一瞬だけ別の言葉が見えた。


 見た。


 短い。


 でも、確かに見えた。


 僕の背中が冷える。


 静寂が戻る。


 空気が軽い。


 足元が乾く。


 目も、通知も、いなくなる。


 そこに、ミサキが立っていた。


 制服姿。


 薄い輪郭。


 目は開いているのに、どこか眠っている。


「ありがとう」


 ミサキは言った。


 声は彼女の声だ。


 でも、温度がない。


 口元は笑っている。目が動かない。


 僕は返事ができなかった。


 ありがとう、と言われるほど、僕は彼女から何かを奪った気がする。


 ミサキは少し首を傾げた。


「……ねえ」


 その言葉の途中で、ミサキの輪郭が揺れた。


 薄い膜の向こうへ引かれるみたいに。


 僕は手を伸ばした。


 触れなかった。


 触れたら侵入になる。


 侵入は加害になる。


 僕は手を止めたまま、見送るしかない。


 ミサキが消える。


 空間が暗くなる。


 ガラスの下の既読の波が、遠ざかる。


 僕は落ちる感覚を覚えた。


 次の瞬間、現実に戻った。


 朝の教室。


 息が荒い。


 喉が乾いている。


 口の中が鉄の味がする気がして、舌を動かした。鉄の味はしない。現実の味は薄い。


 机の上にスマホがある。


 画面は暗い。


 通知はない。


 でも、耳の奥に「見てるよ」が残っている。


 翌日。


 ミサキはスマホを握って、固まっていた。


「え……」


 画面が真っ黒。


 電源が入らない。


 何度押しても反応しない。


 ミサキは一瞬だけ、安堵した顔をした。


 本当に一瞬だ。


 その一瞬を僕は見逃さない。


 安堵が出たのに、すぐ消える。


 周りの子が騒ぐ。


「え、壊れたの?」


「昨日まで普通だったじゃん」


「修理出しなよ」


 ミサキは笑って頷く。


 その笑いは形だけじゃない。


 少しだけ、胸が動いた笑いに見える。


 でも、次の瞬間、ミサキは窓を見た。


 窓の外の空は平らな白。


 ミサキの目が、その白に吸われる。


 涙が出そうになる。


 出ない。


 下まぶたが震えるだけで、涙はこぼれない。


 感情が宙吊りになる。


 僕の掌の裂傷が疼いた。


 疼き方が、昨日より整っている。


 痛みの線が、指紋の形に似てきている気がした。


 放課後。


 担任がミサキの席に来た。


 机の横に立つ。


 担任の影が、机の上に落ちる。


「ちょっと、話そう」


 声は穏やかだった。


 穏やかだから怖い。


 事務的だからもっと怖い。


 ミサキは頷いた。


「はい」


 立ち上がる。


 その瞬間、ミサキの目が一度だけ眠った。


 瞬きじゃない。


 目が閉じるのではなく、焦点が落ちる。


 体は立っているのに、意識が奥へ沈む。


 僕のスマホが震えた。


 机の中で、布越しに伝わる震え。


 通知はない。


 着信もない。


 でも震える。


 担任はミサキに背を向けて歩き出す。


 ミサキはついていく。


 廊下へ出る直前、ミサキが一度だけ振り返った。


 僕を見る。


 目は開いている。


 でも、眠っている。


 薄い膜が瞳の上に乗っている。


 僕は立ち上がれなかった。


 立ち上がったら、僕が彼女を追う理由が確定する。


 確定したら、僕はまた侵入する。


 侵入して、また削る。


 それでも。


 それでも僕は、椅子の脚に手をかけた。


 椅子が床を擦る。


 その音がやけに大きい。


 教室の全員が、僕を見る気がした。


 見ていないのに、見られている気がした。


 既読の海の目が、現実に滲んでいる。


 僕はスマホを握った。


 画面は暗い。


 暗いのに、震えだけが僕を引っ張る。


 次の悪夢が、落下の手前で待っている。


 職員室。


 制度の中心。


 そこでミサキの恐怖が、誰かの名前に結びつくのか。


 それとも。


 僕自身の名前に結びつくのか。


 廊下の奥で、担任の声がした。


 聞き取れない。


 聞き取れないのに、確かに言っていた。


 見てるよ。


 僕は一歩、廊下へ出た。


 床が少しだけ湿っている気がした。


 暗転。


ーー

 ここまで読んでくださってありがとうございます。続きはなるべく早めに更新します。よければフォローしてお待ちください。★や感想もとても励みになります。

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