第4話「救うほど、彼女の現実が薄くなる」
ミサキが階段から落ちた翌日、教室はいつも通りだった。
いつも通りのふりが、できてしまう。
チャイムが鳴り、椅子が鳴り、誰かが机を叩いて笑い、先生が黒板に字を書く。
ミサキも席に座っている。
膝に薄い包帯。足首にもテーピング。制服のスカートが少し引っかかって、歩くたびに布が擦れる。
怪我の見た目だけが、分かりやすい。
分かりやすいから、みんなは安心する。
「大丈夫? 昨日めっちゃびっくりした」
「ほんと。階段、危ないよね」
友達が声をかける。
ミサキは笑う。
「大丈夫。ちょっと踏み外しただけ」
返事は自然だ。
昨日より目が動いている。口元の柔らかさも戻っている。先生の話を聞く顔も、昨日までより普通に見える。
救われたのかもしれない。
僕はそう思いたかった。
でも、その直後だった。
ミサキが隣の席の子に向かって言った。
「えっと……」
名前が出てこない。
ほんの一瞬だ。たった一秒。
けれど、その一秒が教室の空気を冷やした。
隣の子は笑って受け流した。
「なに、寝不足? 私、今日やばいよ」
その言い方が軽いから、場はそのまま流れる。
ミサキも笑って頷く。
笑う形はできている。だから誰も止まらない。
止まっているのは、僕だけだ。
ミサキの視線が、ふっと窓に行く。
窓の位置を確かめるみたいに。
教室の後ろの窓。廊下側じゃない。校庭側。
それを見ている目つきが、妙に正確だった。
まるで、そこに何があるか知っている人の目だった。
授業中、先生が黒板に書く。
チョークの音が細く鳴る。
僕はノートに写す。写しながら、掌の絆創膏の下が疼く。昨日、指紋の列を断ち切ったときの感触が、皮膚の中に残っている。
線の痛みは、覚えていられる。
覚えていられるのに、ミサキの友達の名前が消える。
その交換みたいなものが、僕の喉を締めた。
休み時間。
ミサキが机の端を指でなぞっていた。
木目の溝を確かめるみたいに、ゆっくりと。
「ミサキ」
僕が呼ぶと、ミサキは顔を上げる。
「なに?」
返事は普通だ。
普通なのに、目の奥に薄い膜がある。水面のような薄い膜が、瞳の上に乗っている。
「昨日……大丈夫だった?」
「うん。大丈夫」
言い方が軽い。
軽いのに、僕の胸が重くなる。
ミサキは、急に窓の方を指さした。
「ねえ、あの窓さ。二つ目の取っ手、ちょっと固くない?」
僕は一瞬、意味が分からなかった。
窓の取っ手の固さなんて、気にしたことがない。教室の窓は、開けたり閉めたりするだけだ。
でもミサキは、取っ手の位置を言い当てる。
二つ目。
右側の窓。
しかも固い。
そんな具体だけが、薄い膜の向こうから出てくる。
「なんでそんなこと覚えてるの」
僕が聞くと、ミサキは首を傾げた。
困った顔になる。
「分かんない。なんか……そこだけ、すごくはっきりしてる」
彼女は笑って誤魔化した。
誤魔化せるから、ここで会話は終わる。
終わるべきだ。
終わるのに、僕の中で終わらない。
救ったはずなのに。
救った結果が、事故と欠落になっている。
僕は机の下で、指を握った。
掌の絆創膏が擦れ、熱が走る。
やめたい、と初めて思った。
夜に落ちるのを。
悪夢を殺すのを。
誰かを救うという形で、誰かから何かを削るのを。
僕はやめたい。
でも、やめられない。
机の中のスマホが、静かなまま存在感だけを持っている。夜に向けて、口を開けている。
授業が終わって、昼休み。
僕は保健室に行った。
理由はない。
理由がないけれど、足が向かった。
保健室の匂いはいつも同じだ。
消毒液。湿ったタオル。ストーブの乾いた熱。プリントの紙の匂い。
養護教諭が机の向こうで手を止めた。
「矢野くん。どうしたの」
僕は椅子に座った。
座った瞬間、肋骨のあたりが少し痛んだ。昨日の夜から、体が妙に重い。息を吸うと、胸の端が引っかかる。
「ちょっと、だるくて」
「手、見せて」
僕は反射的に隠した。
隠した瞬間、養護教諭の目が鋭くなる。
「普通の怪我じゃないでしょ、それ」
声が低い。
優しい声ではなく、仕事の声だ。学校の人間が、生徒の異常を見たときの声。
僕は絆創膏を少し剥がした。
裂傷の線。整いすぎた線。
養護教諭はそれを見て、眉を寄せた。
「転んだ、で済む形じゃないね」
僕は何も言えなかった。
説明する言葉がない。
養護教諭は引き出しから名刺を出した。
白い紙。角がきれい。印刷が新しい。
「睡眠外来。前にも話したでしょ。ここ、ちゃんと診てくれるから」
名刺には医師の名前が書いてある。
その下に、小さな文字。
研究協力。
僕はその二文字に目が止まった。
病院の名刺に、そんな言葉があるのが変だった。
養護教諭は僕を見た。
「行きなさい。これはお願いじゃない」
断る余地がない言い方だった。
でも僕は名刺を受け取りながら、目を合わせなかった。
目を合わせたら、何かが崩れる気がした。
僕がやっていることが、ただの寝不足でも、ただの夢でもないと確定してしまう。
名刺をポケットに入れる。
紙の角が太腿に当たる。
現実の硬さだ。
その硬さが、僕を夜まで引っ張っていく。
夜。
布団に入る前から、胸が重い。
逃げたいのに、逃げる場所がない。目を閉じなければ眠れない。眠らなければ明日が来ない。
スマホは机の上に置いた。
画面は暗い。通知はない。
それでも、震えた。
着信でも通知でもない震え。
あの震え。
僕はイヤホンに手を伸ばした。
やめたい、と口の中で言う。
でも手は動く。
耳に入れる。
耳の奥が塞がる。外の世界が薄くなる。部屋の輪郭が遠のく。
波の音がする。
目を開けたとき、校舎の廊下に立っていた。
夜だった。
窓の外は真っ黒で、街灯もない。校庭の灯りもない。闇が貼り付いている。
空気が重い。
息を吸うと、胸が押し返される。水の中の呼吸に似ている。
廊下の床に、薄い水が張っている。
水面に蛍光灯が揺れる。揺れるはずのない灯りが、ゆらゆらと波打っている。
足元を見ると、白い線が見えた。
チョークの線。
階段の踊り場へ向かって、落下の形が描かれている。
人の形。
転げ落ちる線。
勢いの線。
落ちた先に丸い印。
昨日、ミサキが落ちた階段。
現実の事故が、ここで図になる。
僕の胃が冷えた。
救済の副作用が、ここまで増殖している。
教室だけじゃない。廊下も階段も、全部が水槽になっている。
僕は階段へ向かった。
手すりが見えた。
いつもの手すりだ。金属の棒。冷たい触感。塗装の剥げ。
でも、形が違った。
手すりが、指になっている。
一本の棒ではない。
関節のある指。
爪のある指。
節が動く指。
指が、階段に沿って並び、うねる。
指の爪に、小さなアイコンが貼り付いていた。
通知の印。
赤い丸。
数字。
見たことがある。スマホの画面の角に出る、あの数字。
未読。
既読。
返信。
誰かの視線が数字になって貼り付く。
見られる恐怖と、落ちる恐怖が結びついて、指になる。
指が動いた。
僕の腕を掴みに来る。
僕は刃を握った。
けれど刃は弱い。
水の重さの中で、刃の光は薄い。昨日みたいに指紋の列を断ち切れば終わる形じゃない。
核を当てる?
言語化する?
だめだ。
言葉にした瞬間、指は増える。
この恐怖は、言葉にされることを待っている。言葉にされたら現実へ流れ込める。
僕は階段を見た。
落下の線。
落ちる印。
ミサキの恐怖は、窓から落下へ増殖している。
僕は考えた。
開けない、は効かない。
鍵も窓もない。校舎全体が箱で、箱ごと沈んでいる。
なら、別のやり方。
禁じ手。
恐怖を代わりに引き受ける。
僕は自分の手首を前に出した。
掴ませる。
掴ませることで、ミサキの方から圧を抜く。
頭の中で理屈はある。
でも体が拒否する。
掴まれたら落ちる。落ちたら死ぬ。死んだら戻れない。
その怖さが、現実の胸まで上がってくる。
僕は息を吐いた。
指が、僕の手首を掴んだ。
冷たい。
金属より冷たい。水より冷たい。骨に触れる冷たさ。
爪の先のアイコンが、皮膚に押し当てられる。
未読の数字が、焼き付くみたいに痛い。
指が引いた。
僕の体が階段の方へ引きずられる。
その瞬間、視界に流れ込んだ。
ミサキの記憶の破片。
家庭の食卓。
白い皿。味噌汁の湯気。箸が置かれているのに、誰も手を伸ばさない。
スマホの画面。
既読がつく。返事が来ない。画面が暗くなる。通知が増える。
誰かの笑い声。
教室の笑い声とは違う。耳のすぐ近くで笑う声。軽いのに刺す笑い声。
僕の頭が痛んだ。
他人の中身が入ってくる。
僕が持ち帰ってはいけないものが、僕の中に落ちてくる。
悪夢を殺す代償。
真実を持ち帰ってしまう。
僕は歯を食いしばった。
指がさらに引く。
階段の踊り場の縁が近づく。
落ちる。
落ちる恐怖が、今度は僕の恐怖になる。
僕は足を踏ん張ろうとした。
床は水で滑る。靴底が頼りにならない。
指が僕を持ち上げるように引いた。
そして、僕は落ちた。
落下の瞬間、世界が静かになる。
水の重さが消える。
耳の中の音が消える。
ただ、落ちていく感覚だけが残る。
その落下に、別の映像が割り込んだ。
半年前。
僕が夢で死んだ夜。
暗い道。濡れたアスファルト。街灯の白い光。冷たい空気。誰かの呼吸。
僕が走っている。
何かから逃げている。
追ってくる気配がある。
でも、肝心なところが見えない。
映像の真ん中にノイズが走る。
テレビの砂嵐みたいなノイズ。音が割れる。光が途切れる。
誰がいた?
僕は何を見た?
僕はどうやって死んだ?
そこだけが見えない。
見えないまま、落下が続く。
着地が近づく。
床の白い線。チョークの落下の印。丸い印。
ここが、終点だ。
僕は刃を見た。
刃の光が弱い。
でも、手すりの指が僕を掴んでいる限り、落下は止まらない。
僕は落ちながら、刃を突き立てた。
手すりの指へ。
指の関節の間へ。
刃が刺さった感触が手首に返る。
硬い。
骨に刺さる硬さではない。金属でもない。湿った硬さ。紙を束ねた厚みのような硬さ。
指が痙攣した。
通知のアイコンが揺れた。
数字が崩れる。
未読の赤い丸が、床の水に落ちて溶ける。
落下が、止まった。
止まった瞬間、廊下の水が引いた。
水面が階段の下へ流れていく。流れていく方向が、現実の排水口みたいに正しい。
校舎の空気が軽くなる。
蛍光灯の揺れが止まる。
夜の黒が薄くなる。
僕は床に叩きつけられた。
痛みが遅れて来る。
肋骨のあたりが、ぎゅっと潰れるように痛い。
息が吸えない。
視界が白くなる。
そのまま、暗転した。
目を開けると、自分の部屋だった。
天井。机。カーテン。街灯の薄い光。
現実の輪郭。
でも、体が現実の痛みを持っている。
肋骨が痛い。
息を吸うたびに、胸の端が引っかかる。打撲の痛みだ。寝違えた痛みとは違う。
夢で落ちた痛みが、ここにある。
僕は起き上がろうとして、咳をした。
咳は出る。出るけれど痛い。肋骨がきしむ。
僕は膝を抱えた。
やめたい。
やめたいのに、やめられない。
救えば救うほど、誰かの現実が薄くなる。
薄くなる分が、僕の中に溜まる。
これ以上、溜めたらどうなる。
僕の現実は、いつ薄くなる。
翌日。
ミサキは教室に来た。
昨日より、さらに普通に見える。
目が動く。笑いが遅れない。返事が滑らかだ。
周囲は「もう大丈夫じゃん」で終わる。
終わるのに、僕は終われない。
昼休み、ミサキが僕の席に来た。
「ねえ、矢野くん」
「なに」
ミサキは少し考えてから言った。
「昨日さ。なんか、安心した気がする」
安心。
その言葉が胸に刺さった。
救いの言葉のはずなのに、罪の言葉に聞こえる。
「でもね」
ミサキは続けた。
「変なんだよね。安心したのに、泣けない」
ミサキは笑ってみせた。
笑い方は自然だ。
でも、その笑いが薄い。
表面だけで、奥が動いていない笑い。
「昨日のこと話したら、みんな心配してくれるじゃん。ありがたいのに、胸が動かない」
ミサキは自分の胸を軽く叩いた。
制服の布が鳴る。
音は軽い。
その軽さが怖い。
感情の回路が薄くなる。
泣くべき場面で泣けない。
怒るべき場面で怒れない。
そうして、人は現実と距離を取る。
現実と距離を取ることで、生き延びる。
悪夢が防波堤だという話が、頭をよぎった。
防波堤があるから、波に飲まれない。
防波堤を壊したら、波が直接来る。
でも、防波堤があるせいで、外の海を見ないまま生きることもある。
どちらが救いなのか。
僕には分からない。
分かるのは一つだけ。
僕が関わった。
僕が恐怖を引き受けた。
その代わりに、ミサキの何かが削れた。
僕は胃の奥が冷えるのを感じた。
喉の奥が乾く。
言葉が出ない。
ミサキは僕の沈黙を気にせず、教室へ戻っていった。
背中が軽い。
軽すぎる。
僕はポケットの中の名刺を指で触った。
紙の角が、現実の硬さで太腿に刺さる。
そのとき、スマホが震えた。
画面は真っ暗だ。
通知も出ない。
でも、夜と同じ震え方をする。
鼓動みたいな揺れ。
僕は息を止めた。
震えが続く。
出るしかない。
僕は廊下の隅に寄り、スマホを耳に当てた。
「……もしもし」
返事はすぐ来た。
男の声。
落ち着いた声。医者の声に似ている。説明の声ではなく、確認の声。
「矢野くんだね」
僕は背中が冷たくなる。
相手は名を名乗っていないのに、僕を知っている。
「昨夜も入ったね」
僕は何も言えなかった。
廊下の窓ガラスに、自分の顔が映っている。
映っているのに、どこか薄い。
僕はスマホを握りしめた。
「……誰ですか」
相手は少しだけ息を吐いた。
「名刺、渡ってるはずだ。睡眠外来の」
名刺。
研究協力。
僕の指が震えた。
「君は、止められない。だから連絡した」
その言葉が、僕の逃げ道を塞いだ。
止められない。
分かっていた。分かっていたのに、他人の口から言われると現実になる。
「なんで……知ってるんですか」
相手は答えた。
声は最後まで落ち着いている。
「見ているからだよ。君だけじゃない。君の周りも」
その瞬間、教室の窓がカタ、と鳴った。
風はない。
なのに、内側へ押される音がした。
暗転。
ーーーー
読んでいただきありがとうございます。続きはなるべく早く更新します。気に入っていただけたらフォローや★で応援してもらえると嬉しいです。




