第3話「教室の窓は、夜にだけ内側へ開く」
休み時間の教室は、空気が軽い。
椅子が鳴る。笑い声が跳ねる。教科書が閉じる。消しゴムのカスが机の端に集まる。
その軽さの中で、ミサキだけが遅れていた。
「ねえ、今日の英語の小テストさ」
隣の席の子が話しかける。
ミサキは顔を向ける。頷く。笑う。
動作は全部、正しい。
ただ、返事が遅い。
言葉が出るまでに、ほんの半拍。笑顔が形になるまでに、ほんの半拍。
誰かが冗談を言って周りが笑っても、ミサキの笑いだけは遅れて届く。遅れて届くから、場の熱に混ざらない。笑っているのに、目が動かない。
教室の空気が、そこだけ薄くなる。
「寝不足じゃない?」
誰かが軽く言う。
「最近みんなそうだよね」
別の誰かが返す。
会話はそこで終わる。終わって、流れていく。みんなは次の話題へ移る。誰も、立ち止まらない。
立ち止まっているのは、僕だけだった。
机の中のスマホは、今日は静かだ。
静かなのに、気配だけがある。夜に鳴る震えの予兆みたいな、湿ったものが机の底に溜まっている。
僕はミサキの横顔を見る。
髪を耳にかける癖は、いつも通りだ。指先が髪を撫でる。爪が短い。手首に細いゴム。そこまで同じ。
違うのは、目だ。
眠っている目。
起きているのに、眠っている。
そういう言い方しか、できない。
僕の掌が疼いた。絆創膏の下で、裂傷の線が熱を持つ。夢の台所で床の目地をなぞった線。あの線が、皮膚の中でまだ生きている。
僕は視線を落とした。ノートの端に、自分の字で書いた走り書きが見える。
開けない。
昨日の夜、僕はそう決めたはずだ。
悪夢の中の窓は開けない。鍵は回さない。恐怖に言葉を与えない。そうすれば、現実は動かないはずだ。
でも現実は動いた。
掲示板の小さな記事が、僕の胸を冷やした。
父親刺傷事件。
軽傷。通報は妻。
救いなのか。副作用なのか。
その区別がつかないまま、僕は学校に来ている。
授業が始まる。
先生の声が黒板に落ちる。チョークが鳴る。文字が増える。
僕は文字を追う。追える。追えるのに、時々、文字が沈む。黒板の表面の奥へ、墨が落ちていくみたいに。
目を瞬いた。
暗い瞬間が長い。
開いた瞬間、ミサキが僕を見ている。
見ているのに、見ていない。
目の焦点が、僕の鼻先より少し奥を突き抜けている。
僕は息を吸った。肺に入る空気が冷たい。校舎の暖房は効いているのに、吸った空気が冬の外気みたいに冷たい。
チャイムが鳴る。
また休み時間。
ミサキは、普通に会話している。笑っている。ペンを回している。ノートに落書きをしている。
普通のふりをしているのではない。
普通に見えるように、動けてしまっている。
それがいちばん怖い。
誰も助けない。
助けなくても、今日という一日は回ってしまう。
僕は机の端を指でなぞった。木目の浅い溝。ささくれ。硬さ。現実の手触り。
ミサキのペンケースに目がいった。
薄いピンクのケース。端に小さなシール。猫のシルエット。
僕はそのシールを覚えている。
保健室で、僕が椅子に座っていた日。
喉が乾いて、上手く呼吸ができなくて、先生の質問に笑って誤魔化していた日。
ミサキが保健室に入ってきて、何も言わずに机の上に飲み物を置いた。
紙パックの、りんごジュース。
ストローが揺れた音だけがして、彼女はすぐ出ていった。
そのとき見えたペンケースのシールが、猫のシルエットだった。
助けられた、というほど大きいことじゃない。
でも、あのとき僕は救われた。
誰にも見られていないところで、誰かが気づいてくれた。黙って、逃げ道を置いてくれた。
今度は僕が返したい。
返せるのかは分からない。
でも、返さないと、僕は自分を嫌いになる。
放課後になった。
部活の声が廊下に広がる。運動部の足音が階段を駆ける。吹奏楽の音が体育館から漏れる。
ミサキは友達に手を振って教室を出た。
僕は残った。
教室の掃除当番じゃない。用事があるわけでもない。
ただ、残ってしまった。
窓の方を見る。
夕方の光が、ガラスを薄く染めている。外の校庭は暗くなり始めている。遠くの山の稜線が、墨で引いた線みたいに黒い。
風はない。
なのに窓が鳴った。
カタ、カタ。
ガラスとサッシが触れ合う音。鍵がきちんと閉まっていないときの音。
僕は窓へ近づいた。
鍵を見る。閉まっている。
閉まっているのに、窓が内側へ押される。
ほんの数ミリ。
押されて戻る。押されて戻る。
カタ、カタ。
教室の空気が、そこだけ湿る。湿った空気が喉に触れる。
僕は自分の顔が映るはずのガラスを見た。
映っていたのは、僕じゃなかった。
ミサキの顔だった。
眠った目。焦点のない目。笑顔の形だけが残っている口元。
僕は息を止めた。
ガラスの向こうのミサキも、同じタイミングで息を止めたみたいに見えた。
机の中でスマホが震えた。
通知の震えじゃない。画面は光らない。けれど机の底が、鼓動みたいに揺れる。
僕はイヤホンを探した。
ポケットに入れていない。鞄にもない。
なのに、机の上にあった。
白いコードが、蛇みたいに伸びている。先端のイヤホンが、僕の方へ向いている。口を開けて待っているみたいに。
僕は触れたくなかった。
触れたら、自分で入っていくことになる。
でも、コードが勝手に伸びた。机の端から床へ落ちて、僕の足首に触れた。冷たい。
窓がまた内側へ押された。
鍵が閉まっているのに。
内側へ。
僕の耳の奥で、波の音がした。
さっきまで聞こえていた部活の音が遠のく。廊下の足音が薄くなる。空間の密度が変わる。
教室が、夜へ沈む。
目を開けたとき、教室は暗かった。
窓の外は真っ黒で、校庭の灯りも見えない。遠くの街の光もない。何もない黒。
教室の空気が重い。
水の中にいるみたいに、息が通りにくい。肺が膨らむ前に、胸が押し戻される。
黒板を見る。
文字が滲んでいた。
チョークの白が、線のまま保てない。墨みたいに流れ、垂れて、床へ落ちていく。
床に落ちた黒い液体が、溜まっていく。
黒板の文字が床に溜まる。
教室の床が、浅い水たまりみたいになる。
机の上を見る。
ノートがない。
代わりに紙が置いてある。
診断書。
欠席届。
学校へ提出する書類。医師の名前。押された印鑑。薄いコピーの青。
遺書の下書き。
罫線の入った紙に、途中までの文章。消しゴムで消した跡。書き直した跡。字が震えている。
僕は喉が鳴った。飲み込めない唾が溜まる。
机の引き出しが、少し開いていた。
開いているのが怖い。
誰の机か分からない。けれど、その引き出しが、僕を呼んでいる。
見ろ。
見てしまえ。
見たくないものを見ろ。
僕は手を伸ばし、引き出しを開けた。
中にあったのは、目だった。
眼球が転がっていたのではない。
引き出しの奥が、暗い穴になっていて、その穴の中に目がある。
目がこちらを見ている。
まばたきもせずに。
僕は反射的に引き出しを閉めた。
ガタン、と音がした。音が水の中で鳴るみたいに鈍い。教室の暗さが、その音を飲み込む。
窓の方で、何かが動いた。
ガラスの外側に、手が張り付いていた。
一つじゃない。
二つでもない。
何本も。
指が揃って、ガラスにぴたりと貼り付いている。爪が白い。皮膚が薄い。冷たい色。
手は叩かない。
叩かずに、動かす。
開けて、というジェスチャーをする。
手首が曲がり、指が招く。鍵の位置を示す。カーテンの隙間を探る。
教室の窓が、夜にだけ内側へ開く理由が分かった。
外から開けられるのではない。
内側から開けてしまう。
内側の人間が、開けてしまう。
背後で声がした。
「開けないで」
ミサキの声。
振り返ると、ミサキがいた。
制服のまま。髪も同じ。笑う形のまま口元が固まっている。目が眠っている。
声が二重だった。
片方は泣いている。片方は無表情だ。
「開けないで」
もう一度。
窓の手が増えた。
一つ、増えるたびに、ガラスの表面が曇る。曇りが内側へ広がる。息を吐いた跡みたいに。
僕は刃を握った。
昨日までボールペンだったものが、手の中で冷たく光る。ただし光は弱い。ここは水の教室で、刃は湿気で鈍りやすい。
僕は考えた。
恐怖の核を当てる。
言葉にする。
割る。
そうすれば、怪物は脆くなる。
僕は口を開いた。
「誰かに……見られたくない?」
言った瞬間、窓の手が増えた。
増え方が、正しくない。
一つが二つになる速度ではない。一瞬で、列になる。窓の縁に沿って、指が並ぶ。指の関節が、同じ角度で曲がる。
言葉が橋になった。
言語化が現実へ繋がる。恐怖が、内側から外側へ増殖する。
僕の喉が冷えた。
僕は間違えた。
当てるのではない。
守る。
僕は方針を変えた。
教室の扉へ走る。
扉の鍵に手をかけた。冷たい金属。現実の金属に似ている。似ているから、現実と夢の境目が曖昧になる。
鍵を回す。
カチリ。
音がした瞬間、窓の手が動きを止めた。止めたのは一瞬だけ。次の瞬間、手がガラスの外側から、内側へ滑ろうとする。
滑るのではない。
押す。
内側へ押す。
僕はカーテンへ飛びついた。
布のはずだった。
でも手触りが違う。
湿っている。ぬるい。皮膚の内側の温度みたいに、嫌な温かさがある。布の繊維ではなく、薄い膜を掴んでいる感触。
僕は歯を食いしばり、カーテンを引いた。
ザリ、と音がした。音が水に擦れる音に似ていた。カーテンレールが軋む。教室全体が軋む。
カーテンが閉まる。
窓の手が見えなくなる。
見えなくなると、少しだけ息ができる。恐怖は視界から消えると薄くなる。
背後でミサキが言った。
「開けないで」
泣いている声が強くなった。
「開けたら、入ってくる」
無表情の声が重なった。
僕は頷いた。頷くと、首の関節がぎしりと鳴った。水の中で骨が擦れるみたいな鈍い音。
僕は窓の鍵へ戻った。
鍵を握りしめる。
回さない。
開けない。
それだけを決める。
強く決める。
決めた瞬間、カーテンの向こうで、手の気配が滑り落ちた。
ガラスに張り付いた皮膚が剥がれる音。粘着質な音。爪が引っかかる音。
ドサ、という落下音がした。
床を見た。
黒い痕が残っていた。
指紋の列。
指先の渦が、連続して並んでいる。手が滑り落ちるたびに、指紋が押されて、床に残る。列が、教室の床を横切る。
僕はその柄を知っている。
ミサキのスマホケース。
猫のシルエットの周りに、同じような指紋模様が印刷されていた。可愛いと思っていた柄が、今は不快な一致に変わる。
怪物は、ミサキの一部だ。
ミサキの恐怖が、ミサキの持ち物の模様で形になる。
僕は刃を構えた。
斬るのは手ではない。
指紋の列だ。
侵入の痕跡だ。
内側へ入ってくる道だ。
僕は刃を床に当て、指紋の列を断ち切るように走らせた。
金属が床を擦る。火花は出ない。出ないのに、耳の奥が痛い。音が脳の内側を削る。
列が途切れた瞬間、教室の空気が軽くなった。
水の重さが抜ける。
肺に空気が入る。
窓の向こうの黒が、ただの夜になる。
カーテンが、普通の布に戻る。指先の湿り気が消える。
僕はその場に膝をついた。
息が荒い。喉が痛い。唇が乾いている。現実に近い身体の反応が戻ってくる。
ミサキが僕の前に立っていた。
「ありがとう」
言葉は穏やかだ。
でも目は眠っている。
救われたのか、救われていないのかが分からない。分からないまま、僕はうなずくしかない。
教室の暗さが、薄くなる。
黒板の文字が止まる。
床の黒い溜まりが消える。
次の瞬間、僕は現実の教室に戻っていた。
夕方の光。窓の外の校庭。遠くの部活の音。椅子の脚。机の木目。
息を吸う。空気は乾いている。
僕は立ち上がろうとして、止まった。
教室の入口に、担任が立っていた。
腕を組み、眉間に皺を寄せている。帰りの会を終えて、職員室へ戻るはずの時間だ。なのに、ここにいる。
担任の視線が僕を刺す。
「今、誰と話してた?」
僕は喉が詰まった。
教室には僕しかいない。現実には、僕しかいない。それは担任にも見えているはずだ。
でも担任は聞いている。
誰と話していたのか、と。
担任の背後の窓に目をやる。
ガラスに薄い痕が残っている。
手の跡。
白い曇り。指の形。爪の線。
僕だけが見えるのかと思った。
違う。
担任も見ている。
担任の目が窓へ一瞬だけ動いた。すぐ僕へ戻った。その動きで分かる。担任は見た。見てしまった。
僕は言えなかった。
ミサキの悪夢を見た。
窓の外に手が並んだ。
鍵を回さなかった。
指紋の列を斬った。
言えるはずがない。
言えば、現実がもっと動く。
昨日の記事のように。
「……独り言です」
僕はそう言った。
担任は表情を変えなかった。信じたふりもしない。怒りもしない。ただ、薄い疑いを積んだまま、僕を観測する目になった。
「遅くなるなよ」
それだけ言って、担任は廊下へ出た。
背中が遠ざかる。
僕は窓を見た。
手の跡はまだ薄く残っている。拭けば消える程度の曇り。けれど、消える前に誰かが見たら、終わる。
僕は袖で拭った。
ガラスは冷たい。冷たさが指に残る。
跡は、少し薄くなった。
完全には消えない。
夜が明けた。
ミサキは教室に来た。
昨日より表情がある。口元が柔らかい。目が少しだけ動く。返事の遅れが減っている。0.5秒が、0.2秒くらいになる。
周りは「治ったじゃん」と笑って終わる。終わって、いつもの日常に戻る。
僕だけが息を抜けない。
救われたのなら、代償が来る。
来ないなら、これは救いではない。
放課後。
廊下の窓がオレンジに光る。階段に影が伸びる。靴音が上から下へ、下から上へ交差する。
ミサキが階段を降りていた。
友達と並んで笑っている。笑い方が、昨日より自然だ。
その瞬間。
ミサキの足が、ずれた。
段の端を踏み外したわけじゃない。体がふらついたわけでもない。
足が、前に出なかった。
止まった。
止まったのに、体だけが降りようとして、バランスが崩れた。
ミサキは階段を転がるように落ちた。
叫び声。誰かが手を伸ばす。手は届かない。制服の袖が翻る。髪が散る。
ドン、という鈍い音。
落ちた先で、ミサキがうずくまった。
「大丈夫?」
「救急車呼ぶ?」
周りが騒ぐ。
ミサキは顔を上げた。涙は出ていない。表情が硬い。
そして、呟いた。
「窓が……開いた気がした」
その言葉を聞いた瞬間、僕の掌が痛んだ。
絆創膏の下が、熱い。
裂傷の線が、指紋の形に疼く。
僕は、自分の手を見た。
救ったはずの人が、今、階段から落ちた。
これは偶然か。
それとも、僕が窓を開けなかったせいで、別の場所が開いたのか。
答えが出る前に、スマホが震えた。
ポケットの中で、夜の震えが始まる。
昼の学校で。
ミサキの脈と重なる震えが。
僕は顔を上げた。
階段の踊り場の窓が、鍵が閉まっているのに、内側へ押されていた。
ほんの数ミリ。
カタ、カタ。
風はない。
なのに窓が鳴る。
暗転。
読んでくださって本当にありがとうございます。次話で、担任が見たものとミサキの事故の意味が動きます。続きが気になったらフォローしてもらえると嬉しいです。コメントや★も制作の力になります。




