第24話「対話——固定ユウは“正しさ”だけでできている」
朝、スマホが鳴った。
鳴ったというより、震えた。
机の上で小さく跳ねる振動が、家の静けさを切り裂く。
画面に組織の通知。
短い文章。
「移動制限を適用。学校への出入り禁止。夜間外出禁止。必要時は申請」
申請。
その二文字に、胸の奥が沈む。
救うための申請。
生きるための申請。
それが日常になる。
ユウは布団の中で、しばらく動けなかった。
昨日、玄関に貼った紙が視界に入る。
「ここから先は、本人同意のある者のみ」
たった一文。
それで声は止まった。
でも止まっただけだ。
止まったことを、組織が見ている。
見られた瞬間、手続きが生まれる。
隔離レベルを上げる。
それもまた、正しさの顔をしている。
ユウは起き上がり、顔を洗い、歯を磨いた。
鏡に映る自分は、疲れている。
昨日の転落しかけた瞬間が、まだ体に残っている。
手すりの冷たさ。
生徒の肩の重さ。
担任の目の空白。
名簿の黒。
共有が、現実を作った。
なら、制限も現実を作る。
ユウはスマホを握りしめる。
動けないことが、怖い。
固定は記録に強い。
動けないほど、書類で決まる。
書類で決まるほど、固定が強くなる。
ユウは小さく息を吐いた。
息を吐く音が、やけに大きい。
昼前、インターホンが鳴った。
宅配ではない鳴り方。
短く、一定の間隔。
ユウは玄関へ向かった。
覗き穴を覗くと、白川が立っていた。
コートの襟を立てている。
目が疲れている。
ユウはチェーンをかけたままドアを開けた。
「来たのか」
「連絡した。今のままでは危ない」
白川の声は落ち着いている。
落ち着いているから、余計に腹が立つ。
「危ないのは、俺じゃない」
ユウは言った。
「危ないのは、周りだ。俺の名前が周知されて、別の生徒が巻き込まれた」
「だから制限を」
「制限で止まるか」
ユウの声が硬くなる。
白川は答えない。
答えないことが答えだった。
制限は固定を弱めない。
むしろ固定は、制限の記録を糧にする。
どこにいて、どこに行けず、何をしていいか。
それが紙に落ちた瞬間、世界はそこへ寄る。
ユウはチェーンの隙間から白川を見た。
「あなたは俺を外に落とした」
白川の眉が少し動く。
「俺の同意は?」
白川は即答しない。
その沈黙が、ユウの胸を締める。
正しくないことなら、白川はすぐ否定する。
否定しないのは、正しさが混ざっているからだ。
「同意を取る時間がなかった」
白川はようやく言った。
「君は死にかけていた」
ユウは笑いそうになった。
笑えない。
正しい。
それが正しいから、怖い。
善意は免罪符になる。
善意は境界を越える。
境界を越えた善意は、もう止められない。
「じゃあ、俺は何なんだ」
ユウは言った。
「助ける対象か。運用する対象か」
白川は口を開き、閉じた。
言葉が選べない顔をしている。
ユウはそこで気づく。
白川を裁いても意味がない。
裁くと、手続きが生まれる。
手続きは固定の味方だ。
必要なのは、境界だ。
白川の善意に対しても、境界を引く。
「入らないで」
ユウは言った。
白川が一瞬、固まる。
「何を」
「この家に。俺の生活に。俺の判断に」
ユウの声は落ち着いている。
落ち着かせる。
ここで感情を上げると、固定が喜ぶ。
「俺は一人でやる」
白川の目が細くなる。
「一人で、どうやって」
「条件を決める」
ユウは言った。
「介入するなら、条件を先に置く。あとから正しさで上書きしない」
白川はチェーン越しに、ユウを見た。
その視線が、少しだけ痛い。
「分かった」
白川は言う。
分かった。
その言葉もまた、便利だ。
分かったと言えば、境界を越えずに済む。
でも越えることもできる。
白川は名刺サイズの紙を差し出した。
チェーンの隙間から通せるように、端を持っている。
「連絡先。必要なら」
ユウは受け取らない。
紙を見るだけにした。
紙がある。
紙があると、現実が動く。
ユウは思う。
自分の武器も紙だ。
だから怖い。
紙は守りにもなるし、檻にもなる。
「帰って」
ユウは言った。
白川は頷き、背を向けた。
その背中が、少しだけ小さく見えた。
ユウはドアを閉め、チェーンを外し、鍵をかけた。
鍵をかける音が、妙に大きい。
家の中に戻ると、静かだった。
静かすぎる。
静かだと、気配が浮く。
玄関の紙が、少しだけ揺れている。
風はない。
揺れているのは紙ではなく、境界の方だ。
夜。
ユウは部屋の明かりを落とした。
スマホは机の上に伏せる。
通知が怖い。
通知が来ると、現実が紙にされる。
紙にされると、固定が強くなる。
それでも眠らないといけない。
眠らなければ、判断が鈍る。
判断が鈍ると、手続きに寄る。
手続きに寄ると、固定が勝つ。
ユウはベッドに横になり、目を閉じた。
しばらく何も起きない。
何も起きないことが、逆に怖い。
耳が音を探す。
遠くの車の音。
冷蔵庫の唸り。
壁の向こうの生活音。
そのどれもが、今日は薄い。
薄いのに、はっきり聞こえる。
目を開ける。
部屋の暗さは変わらない。
鏡がある。
タンスの上に置いた姿見。
昼間は普通の鏡だ。
今は、曇っている。
曇り方が不自然だ。
部屋は寒くない。
息が当たる距離でもない。
なのに鏡だけが白く曇り、そこに輪郭が浮く。
人の輪郭。
ユウは起き上がった。
足を床につける。
床は冷たい。
現実の冷たさ。
それが少し安心になる。
鏡の中に、誰かが立っている。
制服姿。
学生の制服。
自分が昔着ていた制服に似ている。
胸に名札。
名札が縫い付けられている。
ピンではない。
糸で、布に縫い込まれている。
外せない。
鏡の中のユウが、口を開く。
声は静かだ。
丁寧だ。
抑揚が少ない。
「あなたは危険です」
ユウの背中が緊張する。
鏡像は続ける。
「あなたは介入します」
「介入して救ってる」
ユウは言った。
声が少し震える。
震えを隠そうとして、短くする。
「あなたは改変します」
「改変じゃない」
ユウは言い返す。
「事故を止めた。昨日も止めた。落ちるのを止めた」
鏡像は首を少し傾ける。
表情は動かない。
「救うことは、壊すことです」
判決文みたいな言い方。
論理が滑らかすぎる。
ユウは喉が乾く。
この言葉を知っている。
第十二話で、自分が自分に言い聞かせた理屈だ。
介入は、世界の整合性を壊す。
壊すから、免疫が働く。
壊さなければ、誰かが死ぬ。
そのジレンマを、鏡像はそのまま武器にしてくる。
ユウはベッド脇の机に手を置いた。
現実の手触りを確かめる。
「お前は何だ」
ユウは言った。
鏡像は丁寧に答える。
「最適化です」
その言葉で、ユウの胃が冷える。
最適化。
個別の痛みではなく、全体の安全。
制度のロジック。
固定ユウは続ける。
「全員を守るために、あなたを止めます」
悪意がない。
怒りもない。
悲しみもない。
だから止まらない。
善意の形をした検閲。
ユウは息を吸った。
論破しない。
論破は固定を強める。
言葉で叩き合うと、言葉が共有される。
共有されると、固定が強くなる。
ユウの武器は別だ。
要約。
核心だけを一文にする。
逃げ道のない形に折りたたむ。
ユウは鏡を見て言った。
「君は、同意なしの善意だ」
鏡像の動きが止まった。
止まったのは一瞬。
それでも確かに止まった。
その止まり方が、刃が刺さった反応だった。
ユウは続けない。
余計な説明を足さない。
一文だけで置く。
鏡の表面に黒い帯が走った。
横に、滑るように。
文字を消すみたいに。
ユウの口元が、わずかに上がる。
笑いではない。
確信だ。
固定ユウは、検閲そのものだ。
鏡像が言う。
「その言葉は不適切です」
不適切。
それもまた手続きの言葉。
ユウは頷いた。
「だろうな」
ユウは机の引き出しを開け、紙を取り出した。
昼に決めた。
境界を引く。
善意に対しても、境界を引く。
ユウは紙を鏡の前に掲げる。
そこには短い箇条書きがある。
読み上げるために書いた。
自分の声を、現実にするために書いた。
「俺は介入する」
ユウは言う。
「でも条件がある」
鏡像は黙っている。
黙っているのは、聞いているからだ。
ユウは一つずつ言った。
「本人の同意」
「命の危険」
「第三者の権力による強制の排除」
言い終えた瞬間、鏡の曇りが少し薄くなる。
固定ユウが言う。
「条件は恣意的です」
ユウは頷く。
「恣意でいい」
声を強くしない。
でも揺らがない。
「痛みは個別だから」
その言葉を言った瞬間、鏡の中の名札が微かに動いた。
縫い付けられた糸が、ほんの一瞬だけ緩む。
名札の角が浮く。
完全には外れない。
でも浮いた。
ほどける。
ほどけることが可能だと分かる。
固定は絶対ではない。
弱点がある。
ユウは息を吐く。
胸の内側の圧が、少しだけ抜ける。
固定ユウは静かに言う。
「全体の安全を損ねます」
ユウは首を振る。
「全体の安全って言葉で、個別を潰すな」
言い方を短くする。
長くすると、説得になる。
説得は共有になる。
共有は固定を強くする。
ユウは鏡像を見た。
鏡像もユウを見ている。
同じ顔なのに、目が違う。
鏡像の目は、人を見る目ではない。
書類を見る目だ。
名簿を見る目だ。
議事録を見る目だ。
記録だけで人を動かす目だ。
ユウは思う。
固定が強いのは、人々が正しい手続きに乗るときだ。
担任が名簿を根拠にしたとき。
保護者へ電話が入ったとき。
組織が移動制限を通知したとき。
正しさが共有された瞬間、固定は現実になる。
だから逆だ。
正しさの共有ではなく、個別の同意。
同意を取り戻す。
それが弱点になる。
ユウは紙を下ろし、鏡に向けて言う。
「お前は、同意を嫌う」
鏡像は答えない。
答えないことが答えだ。
ユウは続ける。
「同意は個別だ。共有しにくい。だから固定しにくい」
鏡像の曇りが少し濃くなる。
黒い帯がまた走りかける。
ユウは言葉を止めた。
止めることで、帯は止まる。
検閲は、言葉に反応する。
なら、言葉の量を減らせばいい。
鏡像が、最後に囁く。
囁きなのに、よく聞こえる。
「白川はあなたの同意を取りました」
ユウの喉が詰まる。
「嘘だ」
短く言う。
鏡像は淡々と返す。
「あなたは、あの夜、言いました。助けて、と」
ユウの体が冷える。
助けて。
あの言葉は、確かに口から出た。
死にかけていた。
息が苦しくて。
視界が狭くて。
誰かの影に縋りたくて。
助けて、と言った。
それは同意なのか。
命乞いなのか。
強制の入口なのか。
ユウは鏡の中の自分を見つめた。
鏡像は笑わない。
でも、その無表情が一番怖い。
正しさだけでできているものは、揺らがない。
揺らがないから、壊せない。
壊せないから、ほどくしかない。
ユウは喉の奥で、息を飲み込んだ。
鏡の曇りが、ゆっくりと広がる。
鏡像の輪郭が薄くなる。
消える前に、名札がもう一度だけ浮いた。
糸が緩む。
ほんの一瞬。
ユウはその瞬間を目に焼き付けた。
弱点がある。
ほどける。
次は、現実でほどく。
そう決めた瞬間、スマホが机の上で震えた。
伏せた画面が光る。
通知の内容は見なくても分かる。
隔離。
申請。
運用。
監督。
どれも正しい顔をして、ユウを閉じ込める。
ユウはスマホを取らなかった。
取らない。
今は取らない。
取らないことが、境界になる。
鏡の前で、ユウは一人で立っていた。
ガラスに映る自分は、笑っていない。
笑っていない自分だけが、現実だと信じたかった。




