第23話「周知——名前が広がると、現実が変わる」
掲示板の前で、ユウは立ち尽くしていた。
紙の真ん中に、自分の顔がある。
学生証の写真だ。
古い自分の顔が、公共の掲示板に貼られている。
タイトルは「対象者」。
その文字が、紙より硬い。
剥がせばいい。
そう思うのに、指が動かない。
剥がした瞬間、それが「妨害」になる気がした。
紙がある限り、現実はそれを根拠にできる。
紙を剥がしたとしても、もう誰かが見ている。
見た人の頭の中に、言葉が残る。
対象者。
成瀬ユウ。
その二つが結びついた瞬間、共有が始まる。
背後で、足音がした。
軽い。スニーカーの音だ。
若い男が二人、廊下を歩いてくる。
片方がスマホを見ながら笑っている。
もう片方が掲示板に気づく。
「うわ、なにこれ」
男が立ち止まる。
ユウは息を飲んだ。
止めたい。
でも、止める言葉がない。
これは会館の掲示板だ。
貼られている紙を眺めることは違法じゃない。
写真を撮ることも、たぶん違法じゃない。
ユウは一歩、前に出た。
「それ、撮らないで」
声が思ったより小さい。
男は振り返った。
顔には警戒ではなく、好奇心が浮かんでいる。
「え、なんで」
「個人情報だから」
「でも貼ってあるじゃん」
正しい。
正しい言葉は、刃になる。
男の友人が肩をすくめる。
「やば。対象者って。なんか事件系?」
男はスマホを掲げた。
カメラのレンズが、ユウの顔に向く。
ユウの体が固まる。
自分の写真を、自分の目の前で撮られる。
それだけなのに、胸の奥が冷える。
撮影の音が鳴る。
シャッター音は小さい。
それでも、聞こえた。
聞こえてしまった。
「やば、マジで」
男が画面を見て言う。
「名前ある。成瀬ユウだって」
ユウは喉が乾く。
唇が張りつく。
止めなければいけない。
でも止められない。
それが現代の恐怖だ。
誰かの指が、世界を動かせる。
男は親指を動かした。
何かを送る動き。
投稿する動き。
共有する動き。
ユウは手を伸ばしかけた。
取り上げればいい。
そう思った瞬間、別の言葉が頭を刺す。
暴行。
器物損壊。
威圧。
動画。
炎上。
それもまた、固定だ。
固定は、善悪を問わない。
起きた事実を増やし、言葉を揃え、逃げ道を塞ぐ。
「ちょっと、やめて」
ユウはもう一度言った。
男は笑った。
「ごめんごめん。なんか怖いじゃん」
怖いから撮る。
怖いから広げる。
怖いから、皆で同じ言葉を持つ。
ユウの背中に汗が浮く。
会議室の冷気が、まだ体に残っている。
男は歩きながら、スマホをいじった。
「これ、バズるかも」
その言葉で、ユウの胃が冷えた。
バズる。
つまり、周知される。
周知されると、現実が変わる。
固定の起動条件は、そこにある。
ユウは掲示板を見たまま、動けなかった。
紙は静かに揺れている。
風はない。
揺れているのは、紙ではなく、世界の方だ。
翌朝。
学校の昇降口が、いつもより騒がしい。
ユウが靴箱に向かう途中、名前が聞こえた。
「成瀬ユウってさ」
別の方向からも聞こえる。
「成瀬って、なんか危ないらしいよ」
ユウは足を止めない。
止めた瞬間、視線が刺さる。
刺さる前に、通り過ぎる。
廊下の空気が薄い。
いつもの匂いがしない。
ワックスと、汗と、給食の残り香。
それが今日は遠い。
代わりに、スマホの光と、囁き声が近い。
教室に入ると、ミサキが席で固まっていた。
顔色が悪い。
ユウが近づくと、ミサキが小さく言う。
「ユウ……これ」
スマホの画面を見せられる。
掲示板の写真だ。
自分の学生証写真が、拡大されている。
上には短い文字が並ぶ。
「市民会館に対象者いた」
「これ何」
「名前ある」
コメントが増えている。
どれも根拠がない。
なのに、結論だけが揃う。
「危ないやつ」
「監視対象」
「ヤバい」
ユウは画面から目を離した。
見続けるほど、言葉が固定される気がした。
ミサキが唇を震わせる。
「これ、夢みたい」
ユウは低く言った。
「夢じゃない。現実が夢に寄ってる」
ミサキの目が見開かれる。
「そんなの、どうやって……」
「止められない。共有が早すぎる」
ユウの声が、いつもより硬い。
硬くしないと、折れる。
教室の後ろで笑い声がする。
男子がスマホを回している。
「これ、こいつじゃね」
誰かがユウを指さした。
ユウは見返さない。
見返した瞬間、対立になる。
対立は動画になる。
動画は周知になる。
周知は固定になる。
ユウは机に鞄を置く。
手が少し震える。
震えを隠すように、チャックをゆっくり閉めた。
チャイムが鳴る。
いつもと同じ音のはずなのに、今日は違う。
始業の合図ではなく、手続きの合図に聞こえた。
担任が教室に入ってくる。
いつもと同じ歩き方。
いつもと同じ声。
なのに、教室の空気が一斉に固くなる。
担任が出席簿を開いた。
紙の音が大きい。
担任が顔を上げる。
そして、教室の前で言った。
「成瀬。今から指導室」
その瞬間、視線が刺さる。
全員の視線が、同じ方向に揃う。
ユウの体の内側に、名札の圧が貼りつく感覚がした。
名前を呼ばれる。
それだけで、成立する。
固定は「呼ぶ」ことで現実になる。
ユウは立ち上がりかけた。
膝が固い。
椅子が軋む。
担任が一歩、教室の中へ入る。
ユウの方へ来る。
その途中で、担任が一度だけ振り返った。
黒板の方を見る。
ほんの一瞬。
その一瞬に、何かがズレた。
担任が振り返る。
そして、隣の席の生徒の腕を掴んだ。
「成瀬、来い」
掴まれた生徒が固まる。
「え……違う、僕じゃない」
声が震える。
担任は困惑しない。
目が揺れていない。
「名簿にある」
淡々と言う。
その言い方が、一番怖い。
名簿にある。
それは、この学校の現実だ。
それが間違っていても、名簿が勝つ。
周りの生徒がざわつく。
「え、あいつ成瀬だっけ」
「違うよ」
「でも先生が……」
掴まれた生徒が、腕を振りほどこうとする。
担任の手が強くなる。
生徒が後ずさる。
机にぶつかり、椅子が倒れる。
倒れる音が連鎖する。
小さなパニックが、教室の中に膨らむ。
生徒は逃げるように廊下へ出た。
担任は腕を掴んだまま追う。
そのまま階段へ向かう。
「待って」
ユウは反射で走った。
廊下に出ると、空気が冷たい。
階段の手前で、生徒が足を滑らせた。
踵が段を外す。
体が傾く。
落ちる。
ユウは腕を伸ばした。
生徒の肩を掴む。
掴んだ瞬間、ユウ自身の足も危うくなる。
重心が前に持っていかれる。
階段の縁が目の前に迫る。
手すりに指が触れた。
冷たい金属。
ユウは必死で踏ん張った。
足の裏が段を捉える。
体が止まる。
生徒も止まる。
担任が遅れて足を止める。
息が荒いのは、生徒だけだ。
担任は息を乱さない。
「……成瀬」
担任がまだ言う。
掴まれた生徒が泣きそうな顔で首を振る。
「僕じゃない!」
その叫びが、廊下に響く。
響いたはずなのに、周りの生徒たちの顔はどこかぼんやりしていた。
現実が、夢に寄っている。
ユウは生徒を支えたまま、担任を見た。
「先生。名簿を見せてください」
担任の眉が少し動く。
「個人情報だ」
即答。
手続きの言葉。
ユウは引かない。
引いたら、事故が次に来る。
「誤認して怪我させたら、もっと大きな問題になります」
ユウの声は落ち着いている。
落ち着かせる。
ここで感情を上げたら負ける。
担任が一瞬、黙る。
その沈黙が揺れだ。
ユウは続けた。
「今のまま連れて行ったら、また転びます。責任が生まれます」
担任の目が、初めて迷う。
迷いが見えるだけで、現実が戻る。
担任は、指導室の方へ向かうのをやめた。
「……職員室に来い」
生徒の腕を離す。
生徒がその場にしゃがみ込み、肩で息をする。
ユウは生徒の背中に手を置いた。
「大丈夫?」
生徒は頷く。
頷きながら涙が出ている。
ユウは胃の奥が痛む。
これが事故だ。
固定は誤認を増やす。
誤認は人を傷つける。
悪夢みたいなことが、現実の段差で起きる。
職員室。
担任が出席簿を机に置く。
ユウの前に広げる。
「見るだけだ」
そう言う。
その「だけ」が信用できない。
でも見るしかない。
ユウは紙に目を落とした。
学年、組、番号、名前。
整然と並ぶ文字。
その中に、あった。
「成瀬ユウ」
一つ。
さらに少し下。
もう一つ。
同じ「成瀬ユウ」。
ユウの背中に冷気が走る。
担任の顔が白くなる。
「……なにこれ」
担任の声が、初めて人間の声になる。
ユウは言った。
「共有が入ったんです。公式記録に」
担任はページを指でなぞる。
なぞった瞬間、黒い影が生まれる。
二つ目の成瀬ユウの欄が、黒く塗りつぶされていく。
インクではない。
紙が自分で隠れる。
見えた瞬間に消す。
世界の免疫が、検閲する。
担任の指が止まる。
担任は震えるように言った。
「……印刷ミスだ」
そう言って、出席簿を閉じようとする。
閉じれば、なかったことにできる。
なかったことにした瞬間、固定が勝つ。
「先生、今見ましたよね」
ユウは言った。
担任の手が止まる。
止まったまま、目を逸らす。
逸らすことで、自分を守る。
担任は大人だ。
大人は、問題に触れたくない。
触れた瞬間、責任が生まれるからだ。
責任は手続きを呼び、手続きはさらに固定を強くする。
担任は出席簿を閉じた。
「今日は……成瀬は、教室に戻れ」
その言い方が、逃げだと分かった。
ユウは頷いた。
ここで追い詰めても、担任は守りに入る。
守りは固定の味方だ。
ユウは職員室を出る。
廊下に出た瞬間、空気が少し軽い。
でも軽いのは錯覚だ。
見えた。
担任も一瞬見た。
共有が成立した。
もう戻れない。
放課後。
ミサキが昇降口で立っていた。
手が震えている。
「うちにも電話来た」
ユウは足を止める。
「誰から」
「知らない番号。出たら、学校みたいな言い方で……成瀬くんのことでって」
ミサキの声が細い。
胃が冷える。
学校から家庭へ。
固定は広がる。
境界を越える。
第十話で守れていたはずの線が、試される。
「うちにも……来る」
ユウは呟いた。
ミサキが泣きそうな顔をした。
「どうしたらいいの」
ユウは言葉を探す。
正しい言葉を。
制度に対して制度の言葉を。
「今日は帰ったら、家の中の線を作って。紙でもいい。短い文でいい」
「紙で?」
「効く。少なくとも、音は止められる」
ユウは自分に言い聞かせるように言った。
ミサキが小さく頷いた。
その夜。
ユウは家の前に立った。
玄関灯が点いている。
家族はまだ帰っていない。
鍵を開ける手が重い。
ドアの隙間から、家の匂いが漏れる。
いつもの匂い。
洗剤と、畳と、夕飯の残り香。
その匂いに、少しだけ安心しそうになる。
その瞬間、玄関の外から声がした。
「ただいま」
すぐ近く。
ドアの向こう側ではない。
外側。
背中が凍る。
家族はまだ帰っていない。
ユウは息が止まる。
視線が勝手に、門の方へ向く。
誰もいない。
車の音もしない。
それでも声だけがあった。
ただいま。
その一言が、家を開けさせる。
呼ぶのと同じだ。
呼ばれたら、成立する。
ユウは鍵を回したまま、動けない。
もう一度声がした。
「ただいま」
同じ調子。
同じ距離。
ユウは唾を飲み込み、ゆっくりドアを開けた。
玄関の中は暗い。
電気をつけようとして、指が空を掴む。
スイッチの位置が、一瞬分からなくなる。
夢の感覚だ。
現実が夢に寄っている。
ユウは深く息を吸って、吐いた。
そして、紙を探した。
居間の机の上に、メモ用紙がある。
ペンもある。
ユウは紙に一文を書いた。
迷わない。
短く。
揃えた言い回しで。
「ここから先は、本人同意のある者のみ」
書き終えた紙を、玄関の内側に貼った。
貼った瞬間、空気が変わる。
外の気配が一歩引く。
声が止む。
ユウの肩の力が少し抜ける。
効いた。
少なくとも、今は。
安堵が胸に広がりかけたところで、スマホが震えた。
画面を見る。
組織からだ。
短い通知。
「あなたの家庭への波及を確認。隔離レベルを上げます」
ユウの指先が冷たくなる。
守ったのに、隔離が来る。
正しく守ったことが、正しく罰される。
制度の言葉で守ったのに、制度の言葉で締め付けられる。
ユウはスマホを握りしめる。
握りしめても、震えは止まらない。
玄関のガラスに、自分の顔が映っている。
いつもの自分だ。
疲れた顔。
目の下の影。
唇の乾き。
そう見えた。
次の瞬間、映った自分が笑った。
ユウは笑っていない。
なのに、ガラスの中だけが笑っている。
口角が上がる。
目が細くなる。
その笑顔が、口を動かす。
「呼ばれたい?」
ユウの背中が粟立つ。
呼ばれたい。
その言葉は、誘惑だ。
同時に、宣告だ。
名前が広がると、現実が変わる。
そして次は、直接来る。
固定ユウは、もう目の前まで来ている。




