第22話「市民会館——会議室は“現実の悪夢”を量産する」
市民会館は、夜でも明るかった。
外壁に貼られた案内板の背面ライトが、冬の空気に白く滲んでいる。駅前の小さなロータリーを挟んで、車道を走るヘッドライトがゆっくり横切った。静かなのに、途切れない光。
ユウは足を止めず、入口へ向かった。
ガラス扉の向こうに、受付が見える。カウンターの上には「本日会議あり 関係者のみ入館可」の札。誰の字か分からない筆跡で、丁寧に書かれている。
その丁寧さが、逆に冷たい。
手袋を外し、指先の感覚を戻した。扉の取っ手は少し湿っている。消毒液の匂いが薄い。誰かが触れて、すぐ拭いたような匂いだ。
扉が重く開いた。
空調の温風が頬を撫でる。室内の温かさは、外の冷えをなかったことにする。
受付の女性が顔を上げた。年齢は分からない。髪はまとめられ、制服の襟はきっちり閉じている。笑っていないのに、感じが悪いわけでもない。要件だけを受け取るための表情だった。
「成瀬ユウ様ですね」
ユウの足が、半歩だけ遅れる。
「……はい」
言ってしまってから気づく。名乗っていない。予約もしていないはずだ。組織からは場所と時刻だけが届いていた。誰に、どんな形で。そこが曖昧なまま、ここにいる。
受付の女性は、カウンター下の名簿に視線を落としただけだった。紙に書かれた行を、指でなぞる。そこに、ユウの名前がある。あることが、当然のように扱われる。
「こちらへ。会議室は二階です」
ユウは名簿に目をやった。
紙面の右端に、黒い帯が走っている。インクで塗りつぶしたような黒。けれど、塗った痕の盛り上がりがない。紙そのものに影が染み込んでいるように見える。
視線を離そうとして、離せなかった。
黒は文字の上を横切っている。いくつかの名前と、いくつかの所属が、黒に飲まれている。削除ではない。伏せた、というより、消えた。
それを見ているのは自分だけだと、直感で分かった。
「名簿、見てもいいですか」
自分の声が、少し硬い。
受付の女性は一瞬だけ瞬きをした。瞬きが遅い。感情が追いついていないのではなく、感情が必要ないのだ。
「個人情報ですので」
短い返答。柔らかい拒否。
「……そうですね」
ユウは引いた。
受付の女性は何も変わらないまま、来館者用のカードを差し出した。透明なケースに入った紙。そこにも、黒い影がかかっている。気のせいだと言い聞かせようとすると、影は濃くなる。
受け取る指先が冷える。
「エレベーター、右手です。二階で降りていただいて、奥の会議室へ」
右手。言い方が正しいほど、従わされる。
ユウは礼を言い、歩き出した。
ロビーは広い。壁の掲示板に、市民向けの講座のチラシが貼られている。料理教室、健康相談、子育て講座。どれも生活の匂いがする。安心するはずのものが、今日は怖い。
生活のど真ん中で、手続きが人を縛る。
エレベーターのボタンを押すと、音が小さすぎた。反応しているのか分からない。ランプが点いたのを見て、ようやく息を吐く。
扉が開き、鏡の中に自分が映った。
目の下が少し黒い。夜の市民会館に似合う顔だと思った。似合ってしまうことが、さらに嫌だった。
二階で降りる。
廊下は静かで、足音だけが先に進む。天井の蛍光灯は均一な白。いつもなら何も感じないはずの白が、今日は薄い圧力になっている。
奥の会議室の前に、案内の立て札がある。紙が貼られている。
「運用会議 関係者のみ」
運用。言葉の温度がない。けれど、その温度のなさが、何かを許してしまう。
ドアノブに手をかけた。
金属が冷たい。ここだけ空調が届いていないみたいだった。
開けると、ざわりとした空気が頬を撫でた。
会議室は思ったより明るい。長机がコの字に並び、ペットボトルの水と資料が置かれている。壁側にホワイトボード。プロジェクターのコードが床を這い、養生テープで止められていた。
見覚えのあるスーツの男女がいた。
第十四話で会った二人だ。男は髪を整え、女は背筋がまっすぐ。二人とも、座っているのに立っているみたいだった。
ユウは視線を探す。白川の姿がない。
「白川さんは」
口に出した瞬間、空気が一段固くなる。
スーツの女が微笑んだ。笑顔というより、形式の曲線。
「本日は別件で」
別件。これも別件。すべてが別件で片づけられるなら、主体はどこにもいない。
代わりに、若い研究者が立っていた。二十代後半か、三十前。眼鏡のフレームが細い。資料を両手で持つ姿勢が、まだ場に馴染んでいない。
「成瀬さん、こちらへ」
名前を呼ばれたことに、少しだけ安堵しそうになる。それが危険だと分かっていても、名前で呼ばれると人は安心する。
席は入口に近い位置に用意されている。侵入役。道具として使う席だと、体が先に理解した。
座りかけて、ユウは机の上に置かれた名札を見た。
白い紙。黒い文字。透明なケース。
「成瀬ユウ」
その下に、役割が小さく書かれている。
「侵入担当」
侵入担当。言葉の正確さが、立場を固定する。
ユウは椅子を引き、座った。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。
周囲の席にも名札が並ぶ。所属と役職。危険評価。記録担当。現場統括。監督。
監督。
ユウの視線が、その言葉に引っかかった。
誰が監督なのか。誰が責任を取るのか。その答えは、名札で決まる。そういう場所だ。
若い研究者が資料を開き、淡々と読み上げた。
「本件は高危険度案件です。対象は固定点。成瀬さんは侵入役です」
侵入役。もう一度言われる。
「固定点、というのは」
ユウが口を開く。
スーツの男が、すぐに言葉を挟む。
「今さら説明が要るのか」
声は穏やかだ。穏やかだから、否定しづらい。穏やかに、逃げ場を塞がれる。
「要ります」
ユウは言った。短く。息を整える暇を与えない。
「固定点は、世界の免疫が育つ場所です」
若い研究者が代わりに答えた。視線は資料の上。相手の目を見ないのは、怯えではなく、手順を守るためだ。
「免疫、という言い方も」
「便宜上です」
便宜。便宜は正しさの仮面だ。
「ここ、市民会館が固定点なんですか」
「正確には、この会議室が」
若い研究者は言い切った。
ユウの喉が乾く。唾を飲み込む音が、自分に聞こえた。
市民会館。公共の建物。市民が集まる場所。そこが、免疫の育つ場所。
免疫が何を守るのかは、もう分かっている。世界の整合性。異物の排除。固定の強化。
つまり、自分が異物として扱われる場所。
ユウは机上の資料をめくった。表紙に案件名が書かれている。
「固定点運用会議」
次のページ。
議題一覧。
ユウの指が止まる。
「成瀬ユウ 監督運用計画」
心臓が一拍遅れる。胸の奥が一度、空白になった。
監督運用計画。
自分が監督されるのか。自分が監督するのか。その曖昧さが、言葉の中に仕込まれている。主体がどちらでも成立する書き方。
そして、計画が存在していること自体が恐ろしい。
本人の同意がない。署名もない。説明もない。なのに、紙はある。
紙がある。というだけで、現実は動く。
同意書の恐怖が、別の形で戻ってきた。
「これは」
ユウが言いかける。
スーツの女が、資料の端を指で押さえた。紙をずらさないようにする動き。紙を守る動き。
「運用上、必要な記載です」
運用上。必要。これらの言葉は、反論を許さない顔をしている。
「誰が書いたんですか」
ユウは聞いた。
若い研究者が一度、視線を上げた。困ったように眉が動く。ここで誰かの名前を出すと、責任が生まれる。責任が生まれると、場が揺れる。場が揺れると、免疫が働く。
その躊躇が、答えだった。
「……手順です」
若い研究者は言った。逃げ道のない答え。
ユウは笑いそうになった。笑いではない。声を出したら壊れるから、口角を引きつらせるしかない。
「手順なら、誰でもいいんですね」
スーツの男が軽く咳払いをした。咳払いが、議事録に載らない圧力になる。
「成瀬さん。ここで揉めても何も変わらない。今夜は確認と分担だ」
確認。分担。言葉の響きが穏やかだから、従うのが合理的に見える。
ユウは息を吸って、吐いた。
ここで揉めれば、誰かが巻き込まれる。市民会館には、夜でも清掃員や警備員がいる。受付もいる。ここは現実だ。現実の人がいる。
ユウは飲み込んだ。
それが悔しい。
けれど悔しさを見せた瞬間、場はそれを利用する。感情は手続きの燃料になる。
ユウは資料を閉じ、机の端に置いた。
名札が視界に入る。
もう一度、確認しようとした。自分の名前。役割。侵入担当。そこに、二枚重なった名札が見えた気がした。
視線を逸らして、また戻す。
今度ははっきり見えた。
一番奥の席の名札が、二枚重なって置かれている。上の名札には、こう書かれている。
「成瀬ユウ」
下の名札。端が覗いている。そこに同じ文字。けれど括弧が付いている。
「成瀬ユウ(固定)」
背中が薄く冷える。
誰も気づいていない。スーツの男女も、若い研究者も、議事録担当も、みんな自分の資料を見ている。誰も奥の席の名札を見ない。見ても、何も感じない。
ユウだけが見えている。
固定は共有に届いていない。けれど近い。
あの括弧が付いた文字が、現実に食い込んでくる予告に見える。
ユウは目を離した。見続けると、そこに座る誰かが現れてしまいそうだった。
会議が始まる。
若い研究者が議題を読み上げる。言葉は整っている。整っているから怖い。整った言葉は、人を縛る。
「本日の議題は三つです。第一、固定点運用における侵入計画。第二、監督運用計画の確認。第三、逸脱時の処理フロー」
処理フロー。人のことを処理と言う。そこに疑問が湧かない場所。
ユウは手元のペットボトルに触れた。冷たくない。ぬるい。誰かが先に置いていた。自分のために。そういう親切が、罠に見える。
議事録担当の男性がノートパソコンを開く。タイピングの音が、会議室の床を叩く。カタカタではない。カツカツに近い硬い音。
その音が、妙に規則的に聞こえた。
蛍光灯が、ふっと揺れた。
チカ、と短く明滅する。誰かが気づくかと思ったが、誰も顔を上げない。揺れは小さすぎる。
もう一度。チカ。
今度は少し長い。駅のホームの案内表示が、行き先を切り替えるときの点滅に似ている。注意喚起の点滅。
会議室が、案内板みたいになる。
ユウは天井を見た。蛍光灯が線のように並んでいる。白い線。白い線が、文字を表示する装置に見えた。
若い研究者が口を開いた。
「ノイズです。会議を続けます」
ノイズ。そう言えば、ノイズになる。名前を与えると、現象は枠に収まる。枠に収まった瞬間、誰も気にしなくなる。
ユウは喉の奥に、鉄の味を感じた。気のせいじゃない。口の中が乾いているだけだ。でも乾き方が、恐怖のときの乾き方だ。
会議室が、悪夢の生成装置になっている。
そんな理解が、唐突に降りてきた。
夢に入らない。眠らない。けれど揺れる。揺れた現実は、人を手続きに寄せる。判断が硬くなる。正しさの形だけが残る。
それが免疫だ。
蛍光灯が、今度は連続して明滅した。チカチカと短く、規則的に。
ユウの視界の端で、壁の時計の針が止まった気がした。秒針が同じ位置で小さく震えている。
瞬きをする。
針は進んでいる。いつも通りだ。
けれど一度でも止まったように見えたら、もう戻らない。疑いが居座る。
会議室の空気が、少しだけ変わった。
匂いが薄くなる。消毒液でも、木の机でもない、無臭に近い匂い。湿った紙の匂いだけが残る。
ユウは足の裏に意識を置いた。床の硬さを確かめる。ここは現実だ。市民会館だ。会議室だ。
そう言い聞かせる。
若い研究者の声が続く。
「侵入計画について。成瀬さんは固定点内部に入り、現象の観測と、固定の起点の特定を行います。内部は揺れが強く、認知が歪む可能性があります」
「揺れって何ですか」
ユウが聞く。
スーツの男が、また咳払いをしかけたが、今回は止めた。止めたこと自体が、ユウの発言を許容したように見える。見えるだけだ。
「夢と現実の境界が薄くなる現象です」
若い研究者は言った。
その瞬間、会議室の壁が遠のいた。
遠のいたというより、部屋が一瞬だけ広がった。天井が高くなる。机の距離が伸びる。声が少し反響する。
裁判所みたいだ、とユウは思った。
思った途端に、視界の奥に、木製の高い壇が見えた気がした。正面に、白い壁ではなく、重い木の壁。左右に座る人影。黒い服。顔が見えない。
息が止まりかける。
瞬きをする。
会議室に戻る。
プロジェクターのコード。養生テープ。ペットボトル。現実の細部。
誰も騒がない。誰も、裁判所を見ていない。見ているのに、認識していない。
揺れの中で、人は正しい手続きを選びやすくなる。恐怖で思考が硬くなる。
それは誰かにとって都合がいい。
議事録担当の男性が、タイピングを続けている。画面に文字が並ぶ。ユウは視線を少しだけずらして、画面を覗いた。見える位置に座っているのが運悪い。
議事録のタイトルが表示されている。
「固定点運用会議 議事録」
その下に、箇条書きで項目が増えていく。
若い研究者が話す内容と一致している。今のところは。
けれど、次の行で文字が変わった。
「対象者の保護方針」
保護。
その文字が、一瞬で書き換わる。
「対象者の拘束方針」
ユウの指先が、机の縁を強く掴む。爪が白くなる。息が浅くなる。
拘束。
誰も気づいていない。タイピングしている本人も気づいていない。画面に現れた文字を、そのまま読み上げる準備をしている。
ユウは口を開きかけて、閉じた。
ここで止めれば、妨害になる。
妨害。会議の妨害。運用の妨害。危険度の妨害。正しさの妨害。
裁かれるのは、いつも妨害者だ。拘束されるのは、いつも手続きを乱した者だ。
それが免疫の形。
画面の次の行。
「協力要請」
その文字が、滑るように変わる。
「義務付け」
ユウの喉が鳴った。
義務。義務は拒否できない。拒否できないことが、当たり前の顔で置かれる。
さらに次の行。
「同意の取得」
同意。
同意、という言葉は、今回の案件の核だ。ユウが一番敏感になっている言葉だ。ここが変わったら、もう終わる。
ユウは画面から目を離せなかった。
同意の文字が、消えた。
空白になる。
同意の取得、の後ろが、何もない。
何もないのに、その行は成立している。空白が、同意に置き換わっている。
ユウの背中がぞわりとした。寒気ではない。薄い汗が背中に浮く。服が少し貼りつく。
議事録担当の男性が、口を開いた。
「次に、対象者の拘束方針について」
拘束と言ってしまう。
誰も反応しない。スーツの男女も、若い研究者も、当然の流れとして聞いている。拘束は、言葉になった瞬間、現実になる。
ユウは机の下で、膝を押さえた。揺れているのは床ではなく、自分の体の内側だ。心臓が跳ねる。跳ねたまま、一定の速さに固定される。
固定。
固定は暴力ではない。言葉の改竄で人を動かす。書類で人を動かす。記録で現実を作る。
ユウは、ようやく理解した。
ここは戦場だ。夢に入る必要がない。会議室で、現実が書き換わる。
そして、誰もそれを悪意だと思わない。
若い研究者が補足を入れる。
「拘束はあくまで安全確保のための措置です。手順に沿って」
手順。
手順が免罪符になる。手順が、人を殺す。
ユウは息を吸い、胸の奥に言葉を集めた。
細部を直すのは無理だ。画面の文字は勝手に変わる。いちいち訂正しても、上書きされる。そういう仕組みだ。
なら、別の方法で止める。
要約。
核を言葉にする。
ユウは手を挙げるのではなく、机の上に指先を置き、ゆっくり立った。椅子の脚が床を擦る音がまた大きい。全員の視線が一瞬だけ集まる。
ユウは、短く言った。
「この会議の要点は一つです」
室内が静まる。静まると、蛍光灯の明滅がよく見える。チカチカ。文字を表示したがっている。
「本人同意がない運用は、固定を強める」
言い切った。
一文。短い。逃げ道がない。誰の責任かではなく、何が起きるかだけを言った。
空気がわずかに変わる。言葉が刺さるときの、あの沈黙。
若い研究者が瞬きをする。スーツの女の口角が、ほんの少し下がる。議事録担当の男性の指が止まる。
止まった瞬間、画面の文字が揺れた。
拘束、義務、空白。
黒い影が走ったように見える。けれど、黒は薄くなる。紙面に染み込んでいた黒が、すこしだけ淡くなる。
ユウの言葉が、共有に届いた。
共有に届けば、免疫は働き方を変える。暴走しにくくなる。人は一度、気づく。
若い研究者が小さく息を吐いた。
「……確かに。固定の強化は避けるべきです」
その一言が、場を現実側へ引き戻す。
スーツの男が、初めてユウの目を見た。目を見る、というだけで、今までのやりとりがどれだけ一方的だったかが分かる。
「成瀬さんの懸念は理解した。ただ、危険は現実にある」
「危険を理由に、同意を空白にしないでください」
ユウは言った。
スーツの男の眉が動く。ほんの一瞬の不快。すぐに消す。不快を出すと、感情が場を乱す。彼らもそれは避けたい。
議事録担当の男性が画面を見つめ、声を出す。
「……同意の取得、の部分。今、空白になってましたよね」
ようやく、誰かが言った。
場がざわつく。ざわつきは小さい。けれど確実に、人が現象に気づいた。
若い研究者が椅子から身を乗り出す。
「本当ですか」
「ええ。見間違いじゃない」
議事録担当の男性が、画面を指さす。指先が少し震えている。震えは、恐怖ではなく、自分の作業が信頼できなくなった動揺だ。
「今は戻ってます。戻ってるけど……拘束って、打ちました?」
「打ってません」
議事録担当の男性が言う。
スーツの女が初めて資料を置いた。紙が机に触れる音が、乾いた。
「ノイズです」
言い切る声が少し硬い。硬いほど、押し込めたいのだ。
ユウは、その硬さに救われた。彼女も揺れている。揺れているから、硬い。
蛍光灯の明滅が、一瞬止まった。
会議室が、現実に戻ろうとする。
その瞬間だった。
ドアが、勝手に開いた。
ギイ、と音を立てるわけではない。すっと、空気が動く。誰かが開けたみたいに自然に、ドアが開く。
廊下から冷気が流れ込む。
会議室の温かさが、端から剥がれていく。皮膚がざらつく。腕の産毛が立つ。
ユウは反射的にドアを見た。
廊下の奥。受付の方向から、声がした。
「成瀬ユウ、こちらへ」
自分の名前。
呼び方が同じなのに、受付の女性の声とは違う。もっと平坦で、もっと正しい。
誰かの声ではなく、手続きの声。
ユウの背中が冷たくなる。
固定は会議室内で固定されるより、外へ出て共有を狙う。そういう動きをする。免疫は、抵抗されると形を変える。
固定点は中心ではなく、発射台だった。
スーツの男が立ち上がる。
「誰だ」
その問いが、すでに遅い。
廊下に、足音はない。影もない。なのに、冷気だけが確かに近づいてくる。人が来るのではなく、現象が近づく。
ユウは椅子から立てなかった。膝が揺れる。揺れは体の弱さではない。現実が揺れている。
若い研究者が喉を鳴らす。
「外に……出ない方が」
言い終える前に、もう一度声がした。
「成瀬ユウ、こちらへ」
同じ調子。同じ音量。同じ距離。
会議室の誰も、動けない。
ユウは、ようやく椅子を押し、立ち上がった。足が床に吸い付くみたいに重い。自分の意思で動いているのか分からない。けれど、ここで止まれば、場が固まる。固まった場は、免疫の味方になる。
ユウはドアへ近づいた。
廊下に出ると、空気が一段冷たい。蛍光灯は同じ白なのに、温度がない。音が吸われる。市民会館の廊下はいつも、こんなに静かだっただろうか。
ユウは受付の方向へ歩いた。
途中に掲示板がある。ロビーで見たのと同じ、生活のチラシが貼られた掲示板だ。ここにも講座の案内が並ぶ。子どもの絵の展示の告知もある。地域の文化祭の案内。人の暮らし。
その中に、見知らぬ書類が貼られていた。
白い紙。印刷された文字。上部にタイトル。
「対象者」
ユウの足が止まった。
紙の中央に、写真がある。
学生証の写真。
自分の顔。
昔の自分。背景は青。無表情。目がまだ今より柔らかい。けれど、その柔らかさが今は不気味に見える。
写真の下に、名前がある。
「成瀬ユウ」
その横に、番号。所属欄は黒く塗られている。いや、塗られているのではない。黒がそこに宿っている。
ユウの喉が詰まる。
呼吸が浅くなる。指先が冷える。視界の端が少し暗くなる。
固定が現実の周知を始めた。
周知された瞬間、現実は動く。誰かが見る。誰かが覚える。誰かが口にする。共有は、世界を固める。
掲示板の紙が、少しだけ揺れた。
風はない。誰も触れていない。なのに揺れる。
ユウは紙を剥がそうと手を伸ばし、止めた。
剥がした瞬間、何が起きる。剥がす行為が、妨害として記録されるかもしれない。監督運用計画の中で、対象者が手続きを乱した証拠になるかもしれない。
紙を剥がさないことも、黙認になる。
逃げ場がない。
背後で、会議室のドアが閉まる音がした。誰かが閉めたのではなく、勝手に閉まったみたいに、淡々と閉まる音。
ユウはゆっくり振り返った。
廊下の先に、誰もいない。
受付の方向にも、人影はない。
それでも、声だけが残っている。
「成瀬ユウ、こちらへ」
ユウの膝が、また揺れた。
掲示板の紙の中で、自分の顔がこちらを見返している。
この瞬間から、現実の事故が始まる。
それを、ユウはもう知っていた。




