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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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第21話 二つの成瀬ユウ——“固定”は、あなたの顔を借りて歩く

 目を開けた瞬間、白い天井が近すぎた。


 研究施設の朝は、音が少ない。機械の低い唸りだけが、眠りと起きるあいだを埋めている。病院みたいに消毒の匂いが強いわけでもなく、学校みたいに人の匂いが混ざるわけでもない。だからこそ、違和感が浮く。


 枕元のメモ帳に、一行だけ増えていた。


「今日は学校に行くな」


 胸の奥が、ひゅっと縮む。


 字は、ユウの筆跡に似ている。右上がりの癖。ひらがなの払い。数字の書き方。似ているのに、角が鋭い。線が躊躇を知らない。ミサキが時々見せる、影みたいな硬さに似ている。


 ユウは喉の奥で息を止めた。


 入口人格は、死んだはずだ。


 鍵を守るために、もう戻れないところへ行った。


 なのに、書く手が残っている。


 ユウはメモ帳をめくった。昨日の記録がある。白川の指示。波形の時間。装置の調整。自分の字で書いたはずの箇条書き。そこに、今日の一行だけが刺さっている。


 ページの紙が、少しだけ波打っていた。


 濡れてはいない。汗でもない。けれど、紙が一度だけ湿ったみたいに、端がやわらかい。


 ユウは指先で紙を押さえた。


 指先に、痛みが走る。夢の中で空を掴んだ指先。掴めなかった指先。あの感触が、現実の皮膚に残っている。


 ドアが開く音がした。


 白川が入ってくる。


 白衣じゃない。責任者の顔のまま、淡々としている。目が合った瞬間、ユウはメモ帳を見せた。


「これ、俺が書いたんですか」


 白川は一瞥する。


「夢の余韻だ」


 言い切る。迷いがない言い方。迷いがない言い方ほど、怖い。


「余韻で、字が増えるんですか」


「君は今、内側と外側の境目にいる。現実に滲むことがある」


 そう言いながら、白川はタブレットを起動した。波形が並ぶ。数字が並ぶ。線が上下する。線は整っているように見える。けれど整っているのは、装置の上だけだ。ユウの中はまだ濡れている。


 白川は画面を指で拡大した。


「固定は人そのものではない。現象だ」


 ユウは黙って聞いた。言葉を挟むと、余計な線が増える気がした。


「現実に滲むとき、必ず名札が残る」


「名札」


「名前。肩書。役割。そういうものが異常に強調される場所だ」


 白川の指が、地図をなぞる。


 学校。駅。職員室。会議室。


 ユウが見てきた場所が、赤い印で縁取られていく。どれも、誰かの名前が貼られ、誰かの役割が決まる場所だ。名札は、秩序の象徴だ。だからこそ、固定が入り込む。


 白川が言った。


「昨夜から強い固定点がひとつ増えた」


 画面の地図に、赤い点が現れる。


 場所は、学校の近くの市民会館だった。貸会議室がある。行政と民間の境目みたいな建物。第14話の会議室と同じ匂いのする場所。


 ユウの背中が冷える。


 現実と制度の境界に、固定点が生まれた。


 白川が画面を固定した。


「ここが中心になる。今夜、入る」


 入る。


 夢に入る、ではない。現実に入る、だ。固定点に近づくということは、現実の欄の中に、ユウの名前が書かれていくということだ。


 ユウはメモ帳の一行を見た。


 今日は学校に行くな。


 それは忠告か。命令か。予告か。


 ユウは白川を見る。


「俺が行ったら、何か起きるってことですか」


 白川は即答しない。わずかに間が空いた。その間が、答えだった。


「起きる可能性が上がる」


 可能性。


 白川の言葉はいつもそうだ。確定を避ける。責任を避ける。けれど装置は確定を作る。名札は確定を作る。制度は確定を作る。


 ユウは布団から足を下ろした。床の冷たさが足裏に張り付く。白い床。白い壁。白い天井。白い世界。名札がないのに、名前が呼ばれる空間。


 そのとき、スマホが震えた。


 通知の音は鳴らない。けれど画面が点いた。ミサキからのメッセージ。


「先生が、今日“変”」


 短い。短いのに、指が止まる。


 続けて写真が届いた。


 廊下の掲示板。面談予定表。日付と時間と生徒の名前が並ぶ紙。その一部が黒塗りになっている。黒塗りの上に、別の紙が貼られている。手書きで、こう書いてある。


 成瀬ユウ。


 ユウは息を止めた。


 制度の掲示物に、自分の名前が侵入している。


 顔を借りるのではない。役割の欄へ入り込む。名簿の欄へ入り込む。予定表の欄へ入り込む。


 名前が、増える。


 ユウは喉の奥で唾を飲み込んだ。


 白川が画面を覗き込む。


「黒塗りが出たか」


 その声が、観測の声だった。被害を見る声ではない。現象を見る声だ。


 ユウは言った。


「行きます」


 白川が、メモ帳の一行を指差した。


「行くな、と書いてある」


「だから行きます」


 ユウは自分でも驚くほど、淡々と答えた。感情で言うと、固定に飲まれる。だから短くする。条件だけを残す。


「ミサキがいる。学校がある。俺が見ないと、誰かが名前を奪われる」


 白川は一瞬だけ目を細めた。


「単独行動は禁止だ」


「誰が一緒に来るんですか」


 白川は返さない。代わりにタブレットを持ち上げた。


「記録する。君は余計なことをするな」


 余計なこと。


 余計なこととは何だ。同意を取り戻すことは、余計なことなのか。


 ユウはその問いを飲み込んだ。飲み込んで、靴を履いた。


 施設を出ると、冬の空気が頬を刺した。冷たさが現実を確かめさせる。冷たさがある。匂いがある。人の息が白い。


 駅へ向かう道で、電光掲示板を見た。


 到着表示の下に、一瞬だけ文字が滲んだ。


 成瀬ユウ。


 錯覚だと分かっている。けれど、錯覚が確信に変わる速度が早い。そういう速度で、世界は固定を進める。


 学校の門が見えた。


 門はいつもと同じ。けれど、今日は門の前に立つだけで喉が乾く。門をくぐるという行為が、名簿の欄に入る行為に見える。


 廊下の掲示板に、写真で見た黒塗りがあった。


 ユウの名前が貼られている。


 紙の角が、少しだけ浮いている。誰かが急いで貼ったような浮き方。制度の仕事なのに、手が震えている。


 ユウは掲示板に近づいた。触れない。触れたら、認知の滲みが共有される気がした。第13話の白線みたいに。見える者が増える。


 背後から足音がした。


 担任が職員室から出てきたところだった。資料を抱えている。生徒指導会議の資料だ。表紙に学校名。中身は見えない。けれど紙の束の重さが、手続きの重さに見える。


 担任がユウの横を通り過ぎようとした。そのとき、担任の口が動いた。


「成瀬、君は面談だ」


 声はいつも通りのはずなのに、圧がある。


 呼び方が「個人」ではなく「対象」になっている。


 ユウは担任の顔を見る。


 担任はユウの目を見ない。黒板を見るように前を見る。避ける。避けながら、言葉だけが出る。言葉だけが制度の形で出る。


 ユウは思った。


 夢の裁判所で鎖をほどかれた代わりに、制度の言葉が喉に入った。


 担任が動くたびに、紙が擦れる音がする。その音が、判決文の読み上げに聞こえる。


 ユウは深呼吸した。


 息を整える。整えるだけで、白線が見える気がする。床の目地が白く浮く。境界が滲む。


 ミサキが廊下の角から顔を出した。


 目が少し眠っている。白線が彼女の足元に見える。見えているのはユウだけじゃない。共鳴はもう共有だ。


 ミサキは口を動かした。


「……境界、守って」


 声は小さい。けれど、言葉は刺さる。守ってと言う言葉は、頼みであり命令だ。頼みであり命令であるほど、逃げ道がない。


 ユウは頷いた。頷き方がぎこちない。笑って大丈夫だと示したかったのに、笑いが作れない。


 担任が資料を抱え直した。


「面談室へ」


 ユウは歩いた。歩くたび、廊下の空気が薄くなる。薄くなるのは気のせいか。そう思う余裕があるうちはまだいい。余裕がなくなると、固定が貼り付く。


 面談室のドアが開いた。


 机の上に名札が二つ置かれている。


「担任」


「成瀬ユウ」


 息が止まった。


 第14話の会議室の再演だ。名札が並ぶだけで、空間がホラーになる。敬語と議事進行と、逃げ道のない小さな部屋。


 担任は椅子に座り、ユウにも座るよう手で示した。


「君の睡眠状態について、外部の方と連携する」


 外部。


 組織。


 同意の空気がない。


 ユウは椅子に座らないまま言った。


「誰とですか」


 担任は微笑む。優しい微笑み。優しい微笑みほど怖い。


「君のためだ」


 その言葉が、一番怖い。


 君のため。相手のため。善意の言葉。善意の言葉が義務になり、義務が暴力になる。


 ユウは机の上の名札を見た。


 視界の端で、名札が増えた。


 三枚目。


「成瀬ユウ(固定)」


 ユウの背中に冷たい汗が走る。


 担任はそれを見ていない。見えていない。見えていないのに、制度の言葉でユウを締める。固定は物理に完全に出ていない。認知に滲んでいる段階。けれど滲みは、やがて共有される。白線と同じように。


 ユウは立ったまま、机に触れない。触れれば貼り付く。貼り付けば固定が進む。


 ユウは机の上の資料用紙を一枚取った。これは担任の紙だ。担任の制度の紙だ。だから、ここに書く。現実の制度運用に、境界を挿し込む。


 ユウはペンを取った。


 ペンを持つと、手が震えそうになる。けれど震えは固定の餌だ。だから短く書く。


「面談は本人同意の範囲に限る」


 紙に書いた瞬間、空気が一度だけ軽くなる。


 三枚目の名札の輪郭が薄くなる。


 ユウは担任を見る。


「先生。今日の面談、内容を紙に書いて渡してください。口頭で決めない」


 担任は一瞬だけ眉を寄せた。ほんの一瞬。善意が傷ついた顔。善意が傷つくとき、人は怒りたくなる。怒りたくなると、手続きが硬くなる。硬くなるほど、固定が入りやすい。


 担任は唇を閉じ、開いた。


「……分かった」


 その瞬間、三枚目の名札がさらに薄くなる。


 消えない。けれど薄くなる。適用範囲が狭まったからだ。固定の効く範囲を、同意の範囲で削る。


 ユウは心臓がまだ速いのを感じた。速いのに、倒れない。現実で整流できた。それは勝ちでも救いでもない。ただ、今この場での侵入を遅らせただけだ。


 面談室を出ると、廊下がざわついていた。


 教師が一人の男子生徒を呼んでいる。


「成瀬くん、こっち」


 呼ばれた生徒は、成瀬ではない。ユウは顔を知っている。別の名字。別の名前。クラスも違う。


 生徒は困惑して言った。


「僕、成瀬じゃないです」


 教師は戸惑いもなく返した。


「成瀬だよ。名簿にある」


 名簿。


 名簿という言葉が、ユウの胃の奥を冷やした。


 生徒の顔から血の気が引く。名前を奪われる恐怖。名前が奪われると、役割が奪われる。役割が奪われると、世界の中での位置が奪われる。


 ユウは理解した。


 固定は「ユウの顔」ではなく、ユウの名前を増殖させている。


 役割の欄に入り込み、名簿の欄を書き換え、誰かを成瀬にする。


 それは、ユウが門になる未来の予告だ。


 ユウが現実の通路になる未来の予告だ。


 ユウは教師に近づいた。


 近づくとき、慎重になる。声を荒げたら、固定が勝つ。制度は荒い声を嫌い、荒い声を制圧する。その制圧が固定の通り道になる。


 ユウは落ち着いた声で言った。


「先生、その名簿、今ここで見せてください。該当箇所だけでいいです」


 教師はユウを見る。目が曇っている。眠っている目に似ている。担任と同じ。制度の言葉が喉に入ると、目が乾く。


「何の話だ」


「成瀬って呼びましたよね。本人が違うって言ってます」


 教師は眉をひそめた。


「名簿にあるんだ」


 ユウは短く言う。


「書面を見せてください。口頭で決めない」


 さっき自分が言った言葉を、ここでも使う。武器は繰り返すほど定着する。固有名詞は最小回数で定着。武器の言い回しも同じだ。繰り返して、脳内ショートカットを作る。


 教師は一瞬だけ止まった。


 その一瞬の止まり方が、固定のひびに見える。


 教師は資料を探る。名簿を出す。紙の束の中から、出席簿みたいなものを引っ張り出す。


 ユウは紙を覗き込んだ。


 該当箇所の名字が、黒塗りになっている。


 黒塗りの上に、鉛筆で薄く書かれている。


 成瀬。


 鉛筆の線は、ユウの筆跡に似ていた。けれど角が鋭い。


 今日学校に行くな。


 あの一行の角と同じだ。


 ユウは目を逸らさず、教師に言った。


「それ、誰が書きましたか」


 教師は首を傾げた。


「何を」


「黒塗りの上の名字です」


 教師は紙を見て、何もない顔をした。


「何も書いてない」


 ユウの喉が乾く。


 見えているのは、ユウだけだ。


 認知の滲みは、まだ共有されていない段階。けれど「名簿にある」と教師が言う現象は起きている。見えないのに、機能している。


 固定は、欄の中で増殖する。


 生徒は青ざめたまま立っている。


「僕、どうしたらいいんですか」


 ユウは生徒を見る。名前を奪われたとき、人は役割を求める。救いを求める。けれど救いは暴力にもなる。ここでユウが強く介入したら、固定はユウの支配として扱うだろう。


 ユウは短く言った。


「今日は教室に戻っていい。先生、記録を残してください」


 教師に向き直る。


「この件、職員室で共有しましょう。今ここで決めない」


 今ここで決めない。


 境界を作る。適用範囲を狭める。固定の即時性を削ぐ。削ぐだけで、救えるかもしれない。


 教師は不満そうに息を吐いた。けれど頷いた。制度は記録に弱い。記録が残ると、検閲が働く。検閲は固定の武器でもあり、固定の弱点でもある。矛盾の中で戦うしかない。


 ユウは廊下の端に立つミサキを見た。


 ミサキの目が揺れる。怖がっている。怖がっているのに、逃げない。逃げないから、ユウも逃げられない。


 ミサキが近づいてきた。


「……ユウくん、黒いの、増えてる」


 声が小さい。小さい声ほど怖い。


「うん」


 ユウは頷いた。説明しない。説明すると、固定に言葉を渡す。言葉は武器であり、餌でもある。


 ユウはスマホを見た。白川から通知が来ている。


 固定点が強まった。


 今夜、市民会館に入る。


 短い文。


 短い文が、命令みたいに胸を刺す。


 ユウは息を吸った。


 学校の廊下の空気が薄い。名札が強い場所では、呼吸が浅くなる。呼吸が浅いと、名前が貼り付く。


 ユウは自分の胸を押さえた。


 名札はない。


 けれど、見えない名札が増えている。


 成瀬ユウ。


 成瀬ユウ(固定)。


 ユウはミサキに言った。


「今日、なるべく一人にならないで。先生に呼ばれても、誰かと一緒に行って。口頭で決めない。紙に残す」


 ミサキは頷く。


「……境界」


「うん。境界」


 繰り返す。繰り返して、合言葉にする。合言葉は、共有の武器になる。共有されるのは恐怖だけじゃない。境界も共有できる。


 昼休み、ユウは担任の机の前に立った。


 担任は顔を上げない。資料を見ている。資料の文字が、担任の目を乾かしている。


「先生」


 担任が顔を上げた。


「何だ」


「さっきの面談の件、外部って誰ですか」


 担任は微笑んだ。優しい微笑み。優しさが怖い。


「君のためだ」


 また同じ言葉。


 ユウは短く切り返す。


「紙でください」


 担任の眉が、ほんの少しだけ動く。


 ユウは続けた。


「同意できる範囲が分からないまま進めるのは、支配です」


 担任の微笑みが止まった。


 止まった瞬間、担任の喉が少しだけ詰まるのが見えた。喉が詰まるのは、判決の鎖の名残かもしれない。鎖はほどかれた。でも言葉が残っている。言葉が残っているから、喉が詰まる。


 担任は目を閉じ、開いた。


「……分かった。書く」


 ユウは頷いた。勝ったのではない。遅らせただけだ。けれど遅らせることが、今は救いだ。


 放課後、ミサキがもう一枚写真を送ってきた。


 掲示板の黒塗りが増えている。


 黒塗りの上に貼られた紙が増えている。


 成瀬ユウ。


 成瀬ユウ。


 成瀬ユウ。


 同じ文字が、欄の中で増殖している。


 ユウは足元の床の目地が白線に見えるのを感じた。


 現実が滲んでいる。


 固定が歩き始めている。


 そしてそれは、ユウの顔ではなく、ユウの名前を借りて歩いている。


 夕方、白川からもう一度通知が来た。


 市民会館。二十時。


 ユウはスマホを握りしめた。


 今日学校に行くな。


 あの一行は、忠告だったのかもしれない。忠告を破ったから、被害を見た。被害を見たから、動機が確定した。動機が確定したから、逃げられない。


 ユウは校門を出た。


 空気が冷たい。冷たい空気が、少しだけ救いだ。冷たさが現実を保つ。現実を保つうちに、固定点へ行く。


 駅へ向かう道で、ユウは自分の影を見た。


 影が二重に見える。


 自分の影と、少しだけ遅れる影。


 遅れる影が、ユウの肩に名札を貼ろうとする気配がした。


 ユウは歩幅を変えた。


 影が揃う。


 揃うと、影は一つになる。今はまだ、一つにできる。


 市民会館の赤い点が、頭の中で脈打っている。


 固定は、今夜さらに強くなる。


 ユウは息を吸い、吐いた。


「行く」


 声に出すと、言葉が境界になる。


 暗転。




 ここまで読んでくださってありがとうございます。

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