第20話 入口——僕が夢で死んだのは、“鍵”を渡すためだった
扉の向こうから戻ったはずなのに、雨の匂いが残っていた。
鼻の奥に、濡れた制服の冷たさがへばりつく。呼吸をすると、喉の壁に触れるみたいに匂いが擦れる。匂いがある限り、道は消えていないはずだ。そう思っても、胸の奥の振動は止まらない。
通知のない振動。
画面の点かない振動。
入口の予兆。
ユウは顔を上げた。
目の前に、黒塗りの人影が立っている。
名札だけが白い。白い板の上に、黒い文字がある。
成瀬ユウ。
あの名札は、ユウの胸に貼り付こうとしていた。第16話の夜に一度拒んだはずの固定が、今夜はもう拒めない距離まで来ている。
黒塗りの人影は歩いてきた。
一歩ごとに足音が変わる。
駅の到着音が混ざる。ホームに電車が入るときの、低い風圧みたいな音。
裁判所の木槌の音が混ざる。硬い木が硬い木を叩く、短い衝撃。
職員室の引き出しの音が混ざる。金属レールが擦れる、乾いた音。
ユウが触れてきた恐怖が、ひとつの歩行になって迫ってくる。
固定されたら、入口ではなく門になる。
出入り口が開きっぱなしになる。
それは、ユウの現実が、誰かの悪夢の通路になるということだ。
息が浅くなる。
足が動かない。
その瞬間、視界の端で、倒れていた自分が起き上がった。
第19話の部屋の床で呼吸していた自分。起きている目をして、笑っていた自分。
入口人格が、今は立っている。
ユウの前に、壁みたいに立った。
入口人格は黒塗りのユウを見た。視線だけで睨む。声は静かだった。
「君が固定されたら終わりだ」
言葉が短い。短いのに、胸の奥まで届く。
「君の現実が、みんなの悪夢の通路になる」
ユウは唇を動かした。
「じゃあ、どうすればいい」
入口人格は、ユウの方を少しだけ振り返った。
同じ顔。なのに、表情が違う。ユウの顔より少し疲れている。疲れているのに、迷いがない。
「鍵を返して」
鍵。
ユウの頭の中で、いくつかのものが浮かぶ。
イヤホン。白線。要約。追記。適用範囲。境界。禁則を条件に変える手つき。
どれが鍵だ。
入口人格は言う。
「君が追記できるのは、夢の構造の外側に一度出たからだ」
黒塗りのユウが一歩進む。足音の混ざり方が濃くなる。
「夢で死ぬ。外側へ落ちる。外側から見る者だけが、夢のルールを書き換えられる」
ユウは喉が鳴った。
夢で死んだ者だけが悪夢を殺せる。
その言葉が、ここで形になる。
夢で死ぬとは、ただの演出じゃない。外側へ落ちること。内側を俯瞰する位置へ出ること。編集者になること。
ユウは、自分の指先を見た。
追記するたび、指先が裂けそうになった。裂けるのは痛みじゃなく、現実に残る痕だった。あれは、外側と内側の境目に指を突っ込んでいたからだ。
黒塗りのユウが、さらに近づく。
名札の白が、救急車の光みたいに赤く染まっては戻る。
入口人格が続ける。
「君が死んだのは、鍵を渡すためだった」
ユウは息を吸って、吐いた。
吐いた息が震える。
「誰が、俺を外側へ落とした」
入口人格は答えなかった。
代わりに、部屋の隅を指差した。
第19話で、電話していた人物がいた場所だ。顔が黒塗りで、指輪の反射だけが見えた場所。
今夜は輪郭だけが見える。
顔はまだ出ない。けれど声ははっきりする。ノイズが薄い。
その声を、ユウは知っていた。
白川の声だ。
ただし、今の白川より若い。少しだけ尖っていて、息が浅い。昔の声。
若い白川が電話口で言っている。
「……実験じゃない。保護だ。彼を外へ出す」
ユウの背中が冷えた。
胸の奥が重くなる。
白川が、ユウを入口にした。
保護。
実験じゃない。
その言葉は正しい顔をしている。正しい顔をしている言葉ほど怖い。
ユウは入口人格を見る。
「白川が……?」
入口人格は目を逸らさない。
「君はあの夜、現実で死んでいた。外へ出さなければ」
現実で死んでいた。
そうかもしれない。あの夜の自分は床に倒れていた。呼吸が浅かった。救急車の光が回っていた。電話が震えていた。
でも。
同意は。
ユウは口を開いた。言葉が詰まった。雨の匂いが喉に貼り付く。貼り付いたまま、胸の奥で怒りが熱を持つ。
黒塗りのユウが、口のない口で言った。
「編集する者は異物だ」
声はユウの声に似ている。でも少しだけ平坦で、手続きの音が混じる。
「夢は内側で完結するのが自然だ。外側から手を入れる者を、世界は排除する」
世界の免疫。
怪異への免疫じゃない。
編集者への免疫。
ユウが境界を引き、要約し、追記し、適用範囲を狭めるほど、世界は検閲し、固定し、名札で貼り付ける。
だから第19話で、真相が黒塗りにされた。
世界は真相そのものを嫌っているわけではない。編集者が真相に触れることを嫌っている。
黒塗りのユウが一歩踏み出した。
足音が駅になる。裁判になる。職員室になる。ユウの生活の音になる。
入口人格が、ユウに言う。
「鍵を返せば、君は普通に戻れる」
普通。
その言葉に、ユウの胸が小さく揺れた。
普通に戻りたい。眠って起きたい。起きたら学校へ行きたい。ミサキと話したい。ナナが名札を付けられる日常に戻したい。
けれど入口人格が続ける。
「ただし戻れば、別の入口が生まれる。君の周囲は守れない」
ユウは奥歯を噛んだ。
誰かが代わりに落ちる。
誰かが代わりに外側へ出る。
それは救いなのか。押し付けなのか。考えるほど、正しさが鎖になる。
ユウは息を吐いた。
吐いた息の先で、名札が揺れた。
ユウは決めた。
「鍵は返さない」
入口人格の目が少しだけ揺れる。怒りではない。悲しみでもない。覚悟を確認する揺れ。
ユウは言葉を続ける。
「鍵を、鍵束にする」
ひとつの鍵は固定される。
ひとつの武器は対策される。
ならば、複数持つ。複数の倫理を持つ。複数の境界を持つ。
ユウは黒塗りのユウの名札を見た。
斬らない。
斬れば増える。
破れば拡散する。
やるべきは、適用範囲の限定だ。
ユウは名札の端に指先を当てた。紙の感触はない。板の感触もない。なのに、そこに物があるという確信がある。
確信があるから触れる。
触れるから書ける。
ユウは小さく追記した。
ただし、固定は同意がある範囲に限る。
ただし、固定の対象は本人の意思を含む。
文字が浮かぶ。浮かんだ文字は黒塗りの上に白く残る。雨の中の白線みたいに、意味の輪郭だけが残る。
名札が震えた。
黒塗りがひび割れた。
ひびの隙間から、駅の音が漏れる。裁判の音が漏れる。職員室の音が漏れる。漏れた音は、外に出て消える。通路になりかけた現実が、通路にならずに済む。
黒塗りのユウが言った。
「同意は邪魔だ」
その言葉は、はっきりと敵だった。
ユウは返した。
「同意がないなら、それは支配だ」
第10話でユウが必死に守った線。
境界を守るとは、ただ自分を守ることじゃない。他人を救うときの暴力を減らすことだ。救いは暴力になり得る。だから同意が必要だ。だから範囲が必要だ。
世界の免疫は叫ぶ。声のない叫び。通知の連打。黒塗りの増殖。
それを押し返すのは、派手な力じゃない。短い文。条件。限定。追記。
黒塗りのユウの身体が、ひびから崩れ始める。
崩れるのに、消えない。固定の力はしつこい。
そのとき、入口人格がふらついた。
ユウの前に立っていた入口人格が、膝をついた。
「……これで君は一人になる」
ユウは息を飲んだ。
「やめろ」
声が出た。出たのに、届かない。
入口人格は笑った。
笑い方が、ユウの笑い方と同じで嫌だった。自分の笑い方が、こんなときに出るのが嫌だった。
「僕は、鍵を渡すために死んだ」
入口人格の肩が揺れる。崩れる。光が薄くなる。輪郭が薄くなる。
「二度目は、鍵を守るために死ぬ」
ユウは手を伸ばした。
指先が空を掴む。
掴めない。
入口人格の身体は、雨の匂いに溶けていく。匂いだけが残る。匂いだけが道を覚えている。
ユウは叫んだ。声が出ない。出ない声の代わりに息が荒くなる。息が荒くなると、胸が痛くなる。痛みが現実へ残る気がする。
入口人格が最後に言った。
「君が泣けるなら、まだ大丈夫だ」
ユウは泣けなかった。
泣けない代わりに、喉が熱くなる。目の奥が痛くなる。涙の一歩手前で止まる。その止まり方が、悪夢の遮断に似ている。
防波堤。
守りの装置。
入口人格はその装置の人格だった。
その人格が崩れ落ちた瞬間、世界の免疫の圧が増す。
黒塗りのユウの名札が、ひび割れたまま、もう一度光った。
「固定」
短い命令が床を這う。
床を這って、ユウの足首に絡む。
絡むのは鎖じゃない。規定だ。規定はほどけない。規定は説明できないところで効く。
ユウは歯を食いしばった。
鍵束。
ひとつの鍵で守れないなら、複数の鍵で守る。
ユウは床に白線を引いた。ペンはない。けれど線は引ける。線は意志だ。線はルールだ。
白線の内側を、立入注意にする。
単独禁止にする。
撤退は情報を持ち帰るために行う。
撤退は固定を拒否する行為である。
追記が成立するたび、黒塗りの圧がわずかに緩む。世界は同意が嫌いだ。世界は条件が嫌いだ。世界は範囲が嫌いだ。だからユウは、そこを突く。
ユウは後退した。
扉の方へ。
扉はもうない。今いるのはユウの記憶の内部だ。けれど出口は作れる。出口は線で作れる。出口は短い文で作れる。
遠くで白川の声が聞こえた。
今夜は許可が下りている。
その許可が、今は命綱でもあり、首輪でもある。
「戻れ」
白川の声が強い。
ユウは白線の外へ跳んだ。
跳んだ瞬間、床が抜ける。
落下ではない。沈降だ。自分の記憶の底へ沈む感覚。第17話の装置のカウントに似ている。制度化された儀式。
沈みながら、ユウは最後に見た。
ひび割れた名札。
成瀬ユウ。
その名札が、もう一枚、床に落ちている。
同じ文字。
同じ名前。
なのに、片方だけ黒塗りが濃い。
固定。
沈みながら、ユウの耳に、駅のアナウンスが届く。
「次は、お前を固定する」
暗転。
*
ユウは目を開けた。
白い天井。
蛍光灯の光。
機械の小さな音。
研究施設の観測室だ。
汗でシーツが濡れている。背中に冷たさが貼り付いている。雨ではない。現実の汗だ。汗は現実の証拠だ。証拠があるのに、胸の奥の振動は残っている。
枕元のモニターが波形を出している。
耳にイヤホンが入っている。頭に電極。胸にセンサー。第17話の準備の続き。
白川が立っていた。
白衣ではない。責任者の顔だ。
「見えたか」
白川の声はいつもより低い。感情はない。けれど、見えたかと聞く声は、結果を求める声だ。
ユウは体を起こそうとして、めまいがした。体が重い。重いのに、頭の中は妙に冴えている。冴えているから、怒りがはっきりする。
「あなたが……俺を……」
ユウは白川を睨んだ。
白川は目を逸らさない。
「外へ出さなければ、君はあの夜、現実で死んでいた」
言い方が、正しい。
正しい言い方で、やってはいけないことを言う。
ユウは息を飲んだ。
「同意は」
白川は一瞬だけ瞬きをした。
「取れなかった」
短い。
短いのに、胸が痛い。
取れなかった。だからやった。正しいかもしれない。けれど、同意がないなら支配だ。ユウが夢の中で言った言葉が、現実の白川にも刺さる。
白川は続ける。
「君は今、鍵束を持った」
鍵束。
白川はそれを口にする。つまり白川は、ユウの変化を観測している。観測しているだけじゃない。予測している。予測しているから、準備している。
「世界はもっと強く排除しに来る」
ユウの背中が冷えた。
入口人格が死んだ。鍵を守るために死んだ。その代償を、これからユウが払う。
白川がタブレットを差し出した。
「次の対象リストだ」
画面には名前が並んでいる。生徒。教師。学校関係者。地域の人間。今や共鳴は個人の問題じゃない。都市の問題だ。組織の問題だ。世界の反応だ。
ユウの視線が止まった。
自分の名前が二つある。
成瀬ユウ。
成瀬ユウ(固定)。
喉の奥が冷たくなった。
「……何だよ、これ」
白川は淡々と言う。
「世界の免疫が作った固定ユウだ。どこかに生まれている」
「俺の偽物が」
「偽物ではない。君の名前で動く、別の構造だ」
構造。
ユウは夢の中で、構造を掴んだ。細部が消されても構造は残る。世界が消したがっているのは、ユウが構造に触れることだった。
白川は言う。
「探せ。固定が現実に出る前に」
現実に出る。
夢から現実への完全侵入。
それが起きたら、ユウは門になる。通路になる。誰かの悪夢が、誰かの現実を通って流れ込む。
ユウは手を握りしめた。
指先が痛い。第19話で空を掴んだ指先。入口人格を掴めなかった指先。掴めなかったのに、守られた指先。
ユウは白川を見た。
「あなたは俺を守るのか」
白川は答えた。
「守る。必要だから」
必要。
その言葉が、優しさより冷たい。
守るのは救済じゃない。制御と利用も含んでいる。
ユウは目を閉じた。雨の匂いが一瞬だけ戻る。半年前の夜の匂い。救急車の光。若い白川の声。保護だという言葉。実験じゃないという言葉。
そして入口人格の最後の笑い。
泣けるならまだ大丈夫だ。
泣けないなら、まだ終わっていない。
ユウは目を開けた。
「……行く」
白川が頷いた。
「君が行くしかない」
その言い方が、もう取引じゃない。命令に近い。命令に近いほど、ユウは同意の言葉を握り直す必要がある。
ユウはタブレットの画面を見た。
成瀬ユウ(固定)。
その文字が、名札みたいに胸に貼り付いてくる錯覚がした。
ユウは胸を押さえた。
胸の内側には、名札はない。
でも世界は貼ろうとしている。
そのとき、スマホが震えた。
通知のない振動じゃない。今度は画面が点いた。知らない番号からの着信。第14話の公式接触と同じ匂い。
ユウは画面を見た。
表示は、こうだった。
非通知。
それなのに、名前が出る。
成瀬ユウ。
ユウは息を止めた。
画面の文字が一瞬だけ滲み、二重になる。
成瀬ユウ。
成瀬ユウ(固定)。
白川が小さく言った。
「来たな」
ユウは通話ボタンに指を置いた。
押すべきか。押したら固定が進むかもしれない。押さなければ誰かが代わりに落ちるかもしれない。
同意。
適用範囲。
条件。
鍵束。
ユウは指を押した。
「……もしもし」
受話口の向こうから、ユウの声が返ってきた。
自分の声。
なのに、抑揚がない。瞬きが少ない担任の声に似ている。
「成瀬ユウ。固定を開始します」
ユウの背中が冷えた。
白川が一歩前に出た。止めようとする動き。責任者の動き。
ユウは白川を手で制した。
同意がないなら支配だ。
その言葉は、世界にも、組織にも同じように刺さる。
ユウは受話口に言った。
「ただし」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
「固定は同意がある範囲に限る」
受話口の向こうで、一瞬だけ無音が生まれた。
無音は、迷いだ。
世界の免疫が迷った。
同意という言葉は邪魔だ。だから迷う。
ユウは続けた。
「同意がないなら、それは支配だ。俺は支配に同意しない」
また無音。
無音の後、受話口の向こうで、笑い声がした。
声のない笑い。
雨の目の笑い。
「同意、は邪魔だ」
ユウは息を吐いた。
吐いた息が震えない。
「なら、邪魔をする」
白川が小さく息を飲んだ。
ユウは電話を切った。
切った瞬間、観測室の蛍光灯が一度だけ点滅した。
ユウの足元の床のタイルの目地が、白線に見えた。
夢が現実に滲む。
固定が現実に出ようとしている。
ユウは立ち上がった。
膝が震える。震えるのに、倒れない。入口人格がいなくなったのに、倒れない。泣けない代わりに、立つ。
白川が言った。
「ここからが第二幕だ」
ユウは答えなかった。
返事の代わりに、息を吸った。
雨の匂いはもうない。
でも、匂いがなくても道を覚えられるようにならなければいけない。
鍵束を握ったまま。
固定の影を探すために。
暗転。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし続きが気になったら、フォローしていただけると更新を追いやすくなります。
星やハートで反応をいただけると、とても励みになります。次話もできるだけ早く更新します。




