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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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20/24

第20話 入口——僕が夢で死んだのは、“鍵”を渡すためだった

 扉の向こうから戻ったはずなのに、雨の匂いが残っていた。


 鼻の奥に、濡れた制服の冷たさがへばりつく。呼吸をすると、喉の壁に触れるみたいに匂いが擦れる。匂いがある限り、道は消えていないはずだ。そう思っても、胸の奥の振動は止まらない。


 通知のない振動。


 画面の点かない振動。


 入口の予兆。


 ユウは顔を上げた。


 目の前に、黒塗りの人影が立っている。


 名札だけが白い。白い板の上に、黒い文字がある。


 成瀬ユウ。


 あの名札は、ユウの胸に貼り付こうとしていた。第16話の夜に一度拒んだはずの固定が、今夜はもう拒めない距離まで来ている。


 黒塗りの人影は歩いてきた。


 一歩ごとに足音が変わる。


 駅の到着音が混ざる。ホームに電車が入るときの、低い風圧みたいな音。


 裁判所の木槌の音が混ざる。硬い木が硬い木を叩く、短い衝撃。


 職員室の引き出しの音が混ざる。金属レールが擦れる、乾いた音。


 ユウが触れてきた恐怖が、ひとつの歩行になって迫ってくる。


 固定されたら、入口ではなく門になる。


 出入り口が開きっぱなしになる。


 それは、ユウの現実が、誰かの悪夢の通路になるということだ。


 息が浅くなる。


 足が動かない。


 その瞬間、視界の端で、倒れていた自分が起き上がった。


 第19話の部屋の床で呼吸していた自分。起きている目をして、笑っていた自分。


 入口人格が、今は立っている。


 ユウの前に、壁みたいに立った。


 入口人格は黒塗りのユウを見た。視線だけで睨む。声は静かだった。


「君が固定されたら終わりだ」


 言葉が短い。短いのに、胸の奥まで届く。


「君の現実が、みんなの悪夢の通路になる」


 ユウは唇を動かした。


「じゃあ、どうすればいい」


 入口人格は、ユウの方を少しだけ振り返った。


 同じ顔。なのに、表情が違う。ユウの顔より少し疲れている。疲れているのに、迷いがない。


「鍵を返して」


 鍵。


 ユウの頭の中で、いくつかのものが浮かぶ。


 イヤホン。白線。要約。追記。適用範囲。境界。禁則を条件に変える手つき。


 どれが鍵だ。


 入口人格は言う。


「君が追記できるのは、夢の構造の外側に一度出たからだ」


 黒塗りのユウが一歩進む。足音の混ざり方が濃くなる。


「夢で死ぬ。外側へ落ちる。外側から見る者だけが、夢のルールを書き換えられる」


 ユウは喉が鳴った。


 夢で死んだ者だけが悪夢を殺せる。


 その言葉が、ここで形になる。


 夢で死ぬとは、ただの演出じゃない。外側へ落ちること。内側を俯瞰する位置へ出ること。編集者になること。


 ユウは、自分の指先を見た。


 追記するたび、指先が裂けそうになった。裂けるのは痛みじゃなく、現実に残る痕だった。あれは、外側と内側の境目に指を突っ込んでいたからだ。


 黒塗りのユウが、さらに近づく。


 名札の白が、救急車の光みたいに赤く染まっては戻る。


 入口人格が続ける。


「君が死んだのは、鍵を渡すためだった」


 ユウは息を吸って、吐いた。


 吐いた息が震える。


「誰が、俺を外側へ落とした」


 入口人格は答えなかった。


 代わりに、部屋の隅を指差した。


 第19話で、電話していた人物がいた場所だ。顔が黒塗りで、指輪の反射だけが見えた場所。


 今夜は輪郭だけが見える。


 顔はまだ出ない。けれど声ははっきりする。ノイズが薄い。


 その声を、ユウは知っていた。


 白川の声だ。


 ただし、今の白川より若い。少しだけ尖っていて、息が浅い。昔の声。


 若い白川が電話口で言っている。


「……実験じゃない。保護だ。彼を外へ出す」


 ユウの背中が冷えた。


 胸の奥が重くなる。


 白川が、ユウを入口にした。


 保護。


 実験じゃない。


 その言葉は正しい顔をしている。正しい顔をしている言葉ほど怖い。


 ユウは入口人格を見る。


「白川が……?」


 入口人格は目を逸らさない。


「君はあの夜、現実で死んでいた。外へ出さなければ」


 現実で死んでいた。


 そうかもしれない。あの夜の自分は床に倒れていた。呼吸が浅かった。救急車の光が回っていた。電話が震えていた。


 でも。


 同意は。


 ユウは口を開いた。言葉が詰まった。雨の匂いが喉に貼り付く。貼り付いたまま、胸の奥で怒りが熱を持つ。


 黒塗りのユウが、口のない口で言った。


「編集する者は異物だ」


 声はユウの声に似ている。でも少しだけ平坦で、手続きの音が混じる。


「夢は内側で完結するのが自然だ。外側から手を入れる者を、世界は排除する」


 世界の免疫。


 怪異への免疫じゃない。


 編集者への免疫。


 ユウが境界を引き、要約し、追記し、適用範囲を狭めるほど、世界は検閲し、固定し、名札で貼り付ける。


 だから第19話で、真相が黒塗りにされた。


 世界は真相そのものを嫌っているわけではない。編集者が真相に触れることを嫌っている。


 黒塗りのユウが一歩踏み出した。


 足音が駅になる。裁判になる。職員室になる。ユウの生活の音になる。


 入口人格が、ユウに言う。


「鍵を返せば、君は普通に戻れる」


 普通。


 その言葉に、ユウの胸が小さく揺れた。


 普通に戻りたい。眠って起きたい。起きたら学校へ行きたい。ミサキと話したい。ナナが名札を付けられる日常に戻したい。


 けれど入口人格が続ける。


「ただし戻れば、別の入口が生まれる。君の周囲は守れない」


 ユウは奥歯を噛んだ。


 誰かが代わりに落ちる。


 誰かが代わりに外側へ出る。


 それは救いなのか。押し付けなのか。考えるほど、正しさが鎖になる。


 ユウは息を吐いた。


 吐いた息の先で、名札が揺れた。


 ユウは決めた。


「鍵は返さない」


 入口人格の目が少しだけ揺れる。怒りではない。悲しみでもない。覚悟を確認する揺れ。


 ユウは言葉を続ける。


「鍵を、鍵束にする」


 ひとつの鍵は固定される。


 ひとつの武器は対策される。


 ならば、複数持つ。複数の倫理を持つ。複数の境界を持つ。


 ユウは黒塗りのユウの名札を見た。


 斬らない。


 斬れば増える。


 破れば拡散する。


 やるべきは、適用範囲の限定だ。


 ユウは名札の端に指先を当てた。紙の感触はない。板の感触もない。なのに、そこに物があるという確信がある。


 確信があるから触れる。


 触れるから書ける。


 ユウは小さく追記した。


 ただし、固定は同意がある範囲に限る。


 ただし、固定の対象は本人の意思を含む。


 文字が浮かぶ。浮かんだ文字は黒塗りの上に白く残る。雨の中の白線みたいに、意味の輪郭だけが残る。


 名札が震えた。


 黒塗りがひび割れた。


 ひびの隙間から、駅の音が漏れる。裁判の音が漏れる。職員室の音が漏れる。漏れた音は、外に出て消える。通路になりかけた現実が、通路にならずに済む。


 黒塗りのユウが言った。


「同意は邪魔だ」


 その言葉は、はっきりと敵だった。


 ユウは返した。


「同意がないなら、それは支配だ」


 第10話でユウが必死に守った線。


 境界を守るとは、ただ自分を守ることじゃない。他人を救うときの暴力を減らすことだ。救いは暴力になり得る。だから同意が必要だ。だから範囲が必要だ。


 世界の免疫は叫ぶ。声のない叫び。通知の連打。黒塗りの増殖。


 それを押し返すのは、派手な力じゃない。短い文。条件。限定。追記。


 黒塗りのユウの身体が、ひびから崩れ始める。


 崩れるのに、消えない。固定の力はしつこい。


 そのとき、入口人格がふらついた。


 ユウの前に立っていた入口人格が、膝をついた。


「……これで君は一人になる」


 ユウは息を飲んだ。


「やめろ」


 声が出た。出たのに、届かない。


 入口人格は笑った。


 笑い方が、ユウの笑い方と同じで嫌だった。自分の笑い方が、こんなときに出るのが嫌だった。


「僕は、鍵を渡すために死んだ」


 入口人格の肩が揺れる。崩れる。光が薄くなる。輪郭が薄くなる。


「二度目は、鍵を守るために死ぬ」


 ユウは手を伸ばした。


 指先が空を掴む。


 掴めない。


 入口人格の身体は、雨の匂いに溶けていく。匂いだけが残る。匂いだけが道を覚えている。


 ユウは叫んだ。声が出ない。出ない声の代わりに息が荒くなる。息が荒くなると、胸が痛くなる。痛みが現実へ残る気がする。


 入口人格が最後に言った。


「君が泣けるなら、まだ大丈夫だ」


 ユウは泣けなかった。


 泣けない代わりに、喉が熱くなる。目の奥が痛くなる。涙の一歩手前で止まる。その止まり方が、悪夢の遮断に似ている。


 防波堤。


 守りの装置。


 入口人格はその装置の人格だった。


 その人格が崩れ落ちた瞬間、世界の免疫の圧が増す。


 黒塗りのユウの名札が、ひび割れたまま、もう一度光った。


「固定」


 短い命令が床を這う。


 床を這って、ユウの足首に絡む。


 絡むのは鎖じゃない。規定だ。規定はほどけない。規定は説明できないところで効く。


 ユウは歯を食いしばった。


 鍵束。


 ひとつの鍵で守れないなら、複数の鍵で守る。


 ユウは床に白線を引いた。ペンはない。けれど線は引ける。線は意志だ。線はルールだ。


 白線の内側を、立入注意にする。


 単独禁止にする。


 撤退は情報を持ち帰るために行う。


 撤退は固定を拒否する行為である。


 追記が成立するたび、黒塗りの圧がわずかに緩む。世界は同意が嫌いだ。世界は条件が嫌いだ。世界は範囲が嫌いだ。だからユウは、そこを突く。


 ユウは後退した。


 扉の方へ。


 扉はもうない。今いるのはユウの記憶の内部だ。けれど出口は作れる。出口は線で作れる。出口は短い文で作れる。


 遠くで白川の声が聞こえた。


 今夜は許可が下りている。


 その許可が、今は命綱でもあり、首輪でもある。


「戻れ」


 白川の声が強い。


 ユウは白線の外へ跳んだ。


 跳んだ瞬間、床が抜ける。


 落下ではない。沈降だ。自分の記憶の底へ沈む感覚。第17話の装置のカウントに似ている。制度化された儀式。


 沈みながら、ユウは最後に見た。


 ひび割れた名札。


 成瀬ユウ。


 その名札が、もう一枚、床に落ちている。


 同じ文字。


 同じ名前。


 なのに、片方だけ黒塗りが濃い。


 固定。


 沈みながら、ユウの耳に、駅のアナウンスが届く。


「次は、お前を固定する」


 暗転。


     *


 ユウは目を開けた。


 白い天井。


 蛍光灯の光。


 機械の小さな音。


 研究施設の観測室だ。


 汗でシーツが濡れている。背中に冷たさが貼り付いている。雨ではない。現実の汗だ。汗は現実の証拠だ。証拠があるのに、胸の奥の振動は残っている。


 枕元のモニターが波形を出している。


 耳にイヤホンが入っている。頭に電極。胸にセンサー。第17話の準備の続き。


 白川が立っていた。


 白衣ではない。責任者の顔だ。


「見えたか」


 白川の声はいつもより低い。感情はない。けれど、見えたかと聞く声は、結果を求める声だ。


 ユウは体を起こそうとして、めまいがした。体が重い。重いのに、頭の中は妙に冴えている。冴えているから、怒りがはっきりする。


「あなたが……俺を……」


 ユウは白川を睨んだ。


 白川は目を逸らさない。


「外へ出さなければ、君はあの夜、現実で死んでいた」


 言い方が、正しい。


 正しい言い方で、やってはいけないことを言う。


 ユウは息を飲んだ。


「同意は」


 白川は一瞬だけ瞬きをした。


「取れなかった」


 短い。


 短いのに、胸が痛い。


 取れなかった。だからやった。正しいかもしれない。けれど、同意がないなら支配だ。ユウが夢の中で言った言葉が、現実の白川にも刺さる。


 白川は続ける。


「君は今、鍵束を持った」


 鍵束。


 白川はそれを口にする。つまり白川は、ユウの変化を観測している。観測しているだけじゃない。予測している。予測しているから、準備している。


「世界はもっと強く排除しに来る」


 ユウの背中が冷えた。


 入口人格が死んだ。鍵を守るために死んだ。その代償を、これからユウが払う。


 白川がタブレットを差し出した。


「次の対象リストだ」


 画面には名前が並んでいる。生徒。教師。学校関係者。地域の人間。今や共鳴は個人の問題じゃない。都市の問題だ。組織の問題だ。世界の反応だ。


 ユウの視線が止まった。


 自分の名前が二つある。


 成瀬ユウ。


 成瀬ユウ(固定)。


 喉の奥が冷たくなった。


「……何だよ、これ」


 白川は淡々と言う。


「世界の免疫が作った固定ユウだ。どこかに生まれている」


「俺の偽物が」


「偽物ではない。君の名前で動く、別の構造だ」


 構造。


 ユウは夢の中で、構造を掴んだ。細部が消されても構造は残る。世界が消したがっているのは、ユウが構造に触れることだった。


 白川は言う。


「探せ。固定が現実に出る前に」


 現実に出る。


 夢から現実への完全侵入。


 それが起きたら、ユウは門になる。通路になる。誰かの悪夢が、誰かの現実を通って流れ込む。


 ユウは手を握りしめた。


 指先が痛い。第19話で空を掴んだ指先。入口人格を掴めなかった指先。掴めなかったのに、守られた指先。


 ユウは白川を見た。


「あなたは俺を守るのか」


 白川は答えた。


「守る。必要だから」


 必要。


 その言葉が、優しさより冷たい。


 守るのは救済じゃない。制御と利用も含んでいる。


 ユウは目を閉じた。雨の匂いが一瞬だけ戻る。半年前の夜の匂い。救急車の光。若い白川の声。保護だという言葉。実験じゃないという言葉。


 そして入口人格の最後の笑い。


 泣けるならまだ大丈夫だ。


 泣けないなら、まだ終わっていない。


 ユウは目を開けた。


「……行く」


 白川が頷いた。


「君が行くしかない」


 その言い方が、もう取引じゃない。命令に近い。命令に近いほど、ユウは同意の言葉を握り直す必要がある。


 ユウはタブレットの画面を見た。


 成瀬ユウ(固定)。


 その文字が、名札みたいに胸に貼り付いてくる錯覚がした。


 ユウは胸を押さえた。


 胸の内側には、名札はない。


 でも世界は貼ろうとしている。


 そのとき、スマホが震えた。


 通知のない振動じゃない。今度は画面が点いた。知らない番号からの着信。第14話の公式接触と同じ匂い。


 ユウは画面を見た。


 表示は、こうだった。


 非通知。


 それなのに、名前が出る。


 成瀬ユウ。


 ユウは息を止めた。


 画面の文字が一瞬だけ滲み、二重になる。


 成瀬ユウ。


 成瀬ユウ(固定)。


 白川が小さく言った。


「来たな」


 ユウは通話ボタンに指を置いた。


 押すべきか。押したら固定が進むかもしれない。押さなければ誰かが代わりに落ちるかもしれない。


 同意。


 適用範囲。


 条件。


 鍵束。


 ユウは指を押した。


「……もしもし」


 受話口の向こうから、ユウの声が返ってきた。


 自分の声。


 なのに、抑揚がない。瞬きが少ない担任の声に似ている。


「成瀬ユウ。固定を開始します」


 ユウの背中が冷えた。


 白川が一歩前に出た。止めようとする動き。責任者の動き。


 ユウは白川を手で制した。


 同意がないなら支配だ。


 その言葉は、世界にも、組織にも同じように刺さる。


 ユウは受話口に言った。


「ただし」


 自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。


「固定は同意がある範囲に限る」


 受話口の向こうで、一瞬だけ無音が生まれた。


 無音は、迷いだ。


 世界の免疫が迷った。


 同意という言葉は邪魔だ。だから迷う。


 ユウは続けた。


「同意がないなら、それは支配だ。俺は支配に同意しない」


 また無音。


 無音の後、受話口の向こうで、笑い声がした。


 声のない笑い。


 雨の目の笑い。


「同意、は邪魔だ」


 ユウは息を吐いた。


 吐いた息が震えない。


「なら、邪魔をする」


 白川が小さく息を飲んだ。


 ユウは電話を切った。


 切った瞬間、観測室の蛍光灯が一度だけ点滅した。


 ユウの足元の床のタイルの目地が、白線に見えた。


 夢が現実に滲む。


 固定が現実に出ようとしている。


 ユウは立ち上がった。


 膝が震える。震えるのに、倒れない。入口人格がいなくなったのに、倒れない。泣けない代わりに、立つ。


 白川が言った。


「ここからが第二幕だ」


 ユウは答えなかった。


 返事の代わりに、息を吸った。


 雨の匂いはもうない。


 でも、匂いがなくても道を覚えられるようにならなければいけない。


 鍵束を握ったまま。


 固定の影を探すために。


 暗転。




ここまで読んでくださってありがとうございます。

もし続きが気になったら、フォローしていただけると更新を追いやすくなります。

星やハートで反応をいただけると、とても励みになります。次話もできるだけ早く更新します。

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