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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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第19話 扉の向こう——死んだのは僕じゃない

 雨の目が増えていた。


 前回は地面に散らばっているだけだった。それが今夜は扉の周囲に集まっている。水滴が水滴のまま、意思を持って寄ってくるみたいに。


 扉の前の床が、赤い点滅で埋まる。


 見た。


 見た。


 見た。


 雨が落ちるたびに、目が開く。開いて閉じる。その一瞬の間だけ、こちらを見ている。見ている時間の短さが、かえって嫌だった。短いのに、確かに視線が刺さる。


 耳の奥に、駅のアナウンスが混ざる。


「成瀬ユウ。立入禁止」


 語尾の丁寧さが、冷たさを増す。駅員の声のように整っているのに、意味は命令だ。禁止は、手続きの言葉の形をして暴力になる。


 続けて、別の声が重なる。


「記憶改変は違反」


 裁判所の判決文の声だ。担任の夢の中で聞いた、あの鎖のような言葉。


 夢の中なのに、制度が追ってくる。


 ユウは扉の前で足を止めた。取っ手に手を伸ばそうとして、指が硬直する。雨で濡れた金属の冷たさを、まだ触っていないのに思い出してしまう。


 雨の匂いが濃い。


 アスファルトの匂い。制服の湿り。遠くの車の排気。半年前の夜が、ここまで引きずり出されている。


 ノイズが鳴った。


 観測室の機械の音と同じ種類のざらつき。その向こうから白川の声が聞こえる。前より近い。耳元ではないが、壁の向こうでもない。距離が中途半端で、余計に現実っぽい。


「扉を開けろ」


 命令の形なのに、声の調子は淡々としている。


「今夜は観測許可が下りている」


 許可。


 その言葉に、背中の皮膚が冷えた。


 誰が許可を出した。


 組織か。世界か。それとも、ここにいる何かが。


 ユウは口を開けた。


 喉が動いたのに、声にならない。前回は最後に息が漏れた。今夜は息すら詰まる。雨の匂いが喉に貼り付いて、呼吸が狭くなる。


 許可が下りているなら、今夜は開けるしかない。


 ユウは右手を伸ばした。


 取っ手に触れる。


 冷たい。冷たさが指先から腕に走る。冷たさの筋が、体の中を一本の線になって進む。その線が胸の奥に到達して、心臓が一段速くなった。


 雨の目が一斉に瞬く。


 見た。


 見せない。


 見た。


 見せない。


 ユウはゆっくり取っ手を回した。


 扉が軋む。軋みが耳の中に残る。軋みは現物の証拠だ。記憶の扉なのに、現物みたいに鳴る。


 扉が開く。


 薄暗い部屋が見えた。


 救急車の赤色灯の光が、どこかから回っている。直接ではない。窓の外か、壁の隙間か。光だけが周期的に反射して、部屋の角を赤く染めては消える。


 床に人が倒れている。


 濡れた制服。濡れた髪。頬が床に押し付けられ、片目が半分閉じている。


 自分だ。


 ユウは息を飲んだ。息が喉に引っかかり、痛い。痛さが遠い。遠い痛さは夢の痛さだ。夢の痛さでも、体は固まる。


 ここで死んだ。


 そう思った瞬間、倒れている自分の胸が上下した。


 生きている。


 呼吸が浅い。苦しそうだ。けれど死んではいない。


 ユウの背筋が冷えた。


 では、何が死んだ。


 視線が部屋の隅に引かれる。


 隅に、黒塗りの人影が倒れている。顔が見えない。輪郭が揺れている。人の形をしているのに、そこだけ現実の情報が抜け落ちている。


 黒塗り。


 世界の免疫がつける印。


 救急車の赤い光が回るたびに、黒塗りの人影の輪郭が少しだけ浮く。浮いて消える。その繰り返しが、呼吸みたいに見える。


 人影が、一瞬だけ声を出した。


 声はひとつではなかった。


 父の優しい声が混ざる。担任の善意の声が混ざる。同意書を読んだ無機質な声が混ざる。相談窓口の丁寧な声が混ざる。注意喚起の声が混ざる。


 全部、正しい声。


 全部、こちらを追い詰めた声。


 正しさの集合体。


 その声が、短く言った。


「……正しい」


 ユウは唇を噛んだ。


 自分が死んだのではない。


 自分の中の何かが死んだ。


 守っていた部分。封じていた部分。防波堤の核。


 それが死んで、扉が開いた。


 扉が開いたから、他人の夢に入れるようになった。


 その連鎖が、ここで一本の線になる。


 部屋の中央に目を戻す。


 倒れている自分の横で、誰かが電話をしていた。スマホを耳に当てている。肩が震えている。声が震えている。


「救急車を……お願いします。いま……」


 言葉は途切れ途切れだ。切羽詰まっているのに、丁寧語を保とうとしている。丁寧語を保つ余裕がないのに、保つ癖がある。


 顔が見えない。


 顔の部分だけ、黒塗りになっている。けれど、手元が見えた。


 指輪。


 雨に濡れた指輪が、赤い光を反射した。形は普通だ。特別な宝石ではない。けれど、あの指輪を見たことがある気がする。見たことがあるという確信の手前の、いやな感覚。


 知っている誰かだ。


 ユウは一歩、近づこうとした。


 雨の目が増えた。


 床の赤い点滅が強くなる。目が扉の内側にまで生まれる。濡れた床の反射が、赤い目に見える。


 視界が揺れる。


 黒塗りが広がった。


 壁のポスターが黒塗りになる。机の上の紙が黒塗りになる。電話している人物の手元が黒塗りになる。指輪の反射まで黒塗りに喰われる。


 見せない。


 世界の免疫が、ここでは暴力ではなく検閲として働く。


 殴られない。襲われない。ただ、消される。


 消されることが、いちばん腹立たしい。


 自分の記憶なのに。


 ユウは胃の奥が熱くなるのを感じた。怒りだ。怒りは怖さを薄める。薄める代わりに、進ませる。


 ユウは息を吸った。


 吸った息が、胸で詰まる。


 ここで細部にしがみつけば負ける。


 世界は細部を消す。顔、名札、文字、音。細部が消えると、人は何も言えなくなる。言えなくなると、正しさが勝つ。


 だから、細部ではなく構造を掴む。


 ユウは自分に言い聞かせるみたいに、短く要約した。


 声は出ない。けれど頭の中で言葉を立てる。言葉は遮断されても、構造は遮断されない。


 ここで、何かが同意なく奪われた。


 ここで、僕は入口になった。


 要約した瞬間、黒塗りの動きが一瞬止まった。


 止まったのは、世界が迷ったからだ。細部は消せても、構造は消しきれない。構造は、すでにユウの中で成立してしまった。


 ユウはもう一歩進んだ。


 床に倒れている自分の顔が見える距離になった。


 制服の襟が濡れている。頬に髪が張り付いている。唇が白い。寒さで白いのか、血が引いて白いのか分からない白さ。


 その自分が、目を開けた。


 開けた目が、ユウを見た。


 眠っている目ではない。


 起きている目だ。


 ユウは背筋が凍った。


 夢の中で見た眠っている目は、焦点が合っていない。呼びかけても反応が遅い。今の目は違う。目の奥に、意思がある。意思があるのに、倒れている。


 倒れている自分が、小さく笑った。


「やっと来た」


 ユウは喉が動いた。声が出そうになる。出ない。出ないのに、呼吸が乱れる。呼吸が乱れると、部屋の湿度が増す。湿度が増すと、雨の匂いが濃くなる。


 入口人格がいる。


 自分の中に、もう一人いる。


 ミサキに影がいたように。


 ユウ自身にも影がいる。


 倒れている自分が、静かに言った。


「僕は君を守った」


 その声は、ユウの声だ。ユウの声なのに、少しだけ幼い。少しだけ遠い。昔の声だ。半年前の声だ。


「僕が死んだふりをしたから、君は生きている」


 ユウの眉間が痛くなった。痛みが奥から押し出される。押し出されるのに、出てこない。記憶のロックがかかっている。


「僕が扉を開けたから、君は人を救えた」


 守った。


 死んだふり。


 扉を開けた。


 偶然ではない。


 事故ではない。


 内側の取引だ。


 ユウは震える指で、倒れている自分の胸元を見る。そこに傷はない。血もない。死の痕はない。なのに、この場面が「初回の死」と呼ばれている。


 死んだのは、肉体ではない。


 装置だ。


 防波堤の核だ。


 正しさの集合体の黒塗りが、微かに動いた。


 床の隅で倒れていた黒塗りが、少しだけ起き上がる。起き上がる動きが、機械みたいに滑らかで、人間みたいにぎこちない。


 黒塗りの表面に、何かが貼られているのが見えた。


 名札。


 四角い名札が胸に貼られている。


 名札の文字は、黒塗りされていない。


 そこだけ、読める。


 成瀬ユウ。


 ユウは息を飲んだ。


 黒塗りの人影が起き上がると、名札が光った。救急車の赤い光を反射して、名札の白が赤く染まる。まるで血みたいに。


 駅のアナウンスが重なる。


「成瀬ユウ。固定します」


 固定。


 その言葉が、胸の内側に刺さった。


 固定は、役割の強制だ。名前の貼り付けだ。逃げ道の封鎖だ。


 ユウがこれまで他者に対して限定してきたものが、今度は自分に貼り付けられる。


 倒れている自分が、笑いながら言った。


「次は、君が死ぬ番じゃない。君が君になる番だ」


 意味が分からないのに、分かってしまう。


 入口として固定されれば、ユウはユウではなくなる。


 ユウという名前の装置になる。


 黒塗りの人影が、こちらへ一歩踏み出した。


 雨の目が一斉に開いた。


 見た。


 見た。


 見た。


 目の点滅が速くなる。通知が連打されるみたいに。画面を埋め尽くす未読みたいに。


 白川の声がノイズの向こうで叫んだ。


「戻れ」


 叫びが珍しい。白川が声を荒げるときは、線を越えるときだ。


 ユウは足が動かなかった。


 動けないのは恐怖のせいではない。名札が貼られる未来が、現実に近すぎるからだ。近すぎる現実は、夢より怖い。


 倒れている自分が言った。


「戻れないよ。必要なら戻れって、書いたのは君だろ」


 ユウはハッとした。


 看板。


 立入注意。単独禁止。必要なら戻れ。


 あの追記が、ここでも効いている。効いているのに、皮肉になる。戻ることを許したのは自分だ。戻るという逃げ道を作ったのは自分だ。逃げ道があるから、世界はそれを利用して押し返す。


 ユウは奥歯を噛んだ。


 逃げ道を逃げ道のままにしない。


 逃げ道もルールにする。


 ユウは床に指先を当てた。濡れた床に、白い線が引ける。ペンはない。けれど境界は引ける。言葉は出なくても、追記はできる。


 ユウは足元の濡れた床に、小さく書いた。


 撤退は、情報を持ち帰るために行う。


 撤退は、固定を拒否する行為である。


 書いた瞬間、雨の目の点滅が一瞬だけ止まった。


 止まった隙に、ユウは後ろへ下がった。


 扉が背中に当たる。


 取っ手を掴む。冷たい。冷たいのに、今はその冷たさが助けになる。現実に近い冷たさは、夢をほどく。


 黒塗りの人影が声を出した。


「固定」


 その言葉が、床を這う。床を這って、ユウの足首に絡む。鎖ではない。規定だ。規定が絡む。規定は目に見えないからほどけない。


 ユウは扉を引いた。


 扉が開く。


 外の雨の匂いが流れ込む。匂いが道を教える。匂いがある限り、戻れる。


 ユウは扉の外へ飛び出した。


 飛び出した瞬間、雨の目が一斉に閉じた。


 閉じる前に、最後の通知みたいに一言だけ残した。


「次は、お前を固定する」


 扉が閉まる。


 閉まる音が小さい。小さい音が、優しい手続きみたいで嫌だった。


 ユウは膝をついた。


 胸が痛い。痛いのに、痛みの正体が分からない。心臓なのか、肺なのか、それとも記憶なのか。


 ノイズが薄れ、白川の声がはっきりする。


「見たな」


 ユウは息を整えようとした。整わない。雨の匂いが鼻の奥で暴れる。雨の匂いは道を覚えているのに、道が消えそうな気がする。


「……死んだのは、俺じゃない」


 ユウはやっと声を絞り出した。


 声が出たことに、自分で驚く。驚く余裕があることが、さらに怖い。


 白川が短く言う。


「そうだ。だから隠された」


 ユウは顔を上げた。


「誰が……許可を出した」


 白川はすぐに答えなかった。


 答えない間が、答えそのものだった。


 誰かが許可を出した。組織か、世界か、それともユウの内側の何かか。


 白川は低い声で言った。


「第20話で話す。いや、君に見せる。固定が来る前に」


 固定。


 その言葉が、舌の裏に残る。


 ユウは雨の匂いの中で目を閉じた。


 扉の向こうの自分の笑いが耳に残る。


 やっと来た。


 僕は君を守った。


 守ったのは誰の意思だ。


 誰がその取引を仕掛けた。


 そして、黒塗りの人影の名札が示したものは何だ。


 成瀬ユウ。


 名前が、武器ではなく鎖になる。


 ユウは唇を噛んだ。


 戻ることは逃げではない。撤退は情報を持ち帰るために行う。そう追記した。追記は成立した。成立したなら、次へ進める。


 扉の向こうを、もう一度開けるのは第20話だ。


 今夜は、これでいい。


 それなのに胸の奥で、まだ振動が鳴っている。通知のない振動。画面の点かない振動。入口の予兆。


 ユウは立ち上がろうとして、ふらついた。


 足元の地面が、少しだけ白線に見えた。


 夢が現実に滲む。


 世界の免疫が、現実側で準備している。


 固定の準備を。


 ユウは息を吐いた。


 吐いた息が震えた。


 そして、暗転する前に思った。


 死んだのは僕じゃない。


 でも次は、僕かもしれない。


 次は、お前を固定する。


 その言葉が、現実の喉の奥に残ったまま、視界が白くなる。




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