第18話 初回の死——雨の匂いだけが、道を覚えている
雨の匂いがした。
それは、いまいる白い部屋の匂いではない。消毒と布と電気の匂いではない。もっと雑多で、濡れたものが混ざり合った匂いだ。
アスファルトが雨を吸った匂い。排気ガスの焦げた匂い。制服の化繊が湿った匂い。傘の布が濡れた匂い。コンビニの前の揚げ物の油が冷めた匂い。
ユウは目を開けた。
暗い。
暗いのに、雨の粒が見える。雨は斜めに落ちている。街灯の光が雨を切っている。視界の端で、濡れた道路が鈍く光る。
自分がどこに立っているのか、すぐには分からなかった。
だけど足元の感覚だけが知っていた。濡れた地面の冷たさ。靴の底が滑りそうになる怖さ。水たまりを避けようとして、つい歩幅が変になる感じ。
帰り道だ。
半年前の、あの夜の帰り道。
そう思った瞬間、胸の奥が締まった。息を吸おうとして、空気が重い。雨が肺の中まで入ってくるみたいに、吸い込むたびに冷える。
傘を差している感覚がある。
右手に柄を握る感覚がある。風に傘が引っ張られる感覚もある。なのに、傘が見えない。手元を見ても、雨の粒しかない。雨が指の上に落ちて、弾けて、滑り落ちる。
傘のない雨は痛い。
雨粒が肌に刺さる。肌が濡れる前に、冷えが走る。雨は、濡れるより先に冷える。
ユウは一歩、前に出た。
靴の中が少しだけ湿っている。湿りは気持ち悪いのに、懐かしい。自分がこの道を通ったことが、足の裏から分かる。
顔を上げた。
通りの向こうに店が並んでいる。看板がある。けれど、看板の文字が読めない。
文字の部分だけが、黒く塗り潰されている。
絵の具で塗ったような黒ではない。紙を燃やした黒でもない。もっと乾いていて、膜みたいな黒だ。光を反射しない。雨に濡れても濡れない。そこだけ、現実から浮いている。
ユウの胸に、嫌な確信が落ちた。
黒塗りだ。
名前札の裏にあった黒塗り。担任の顔を覆っていた黒塗り。世界の免疫がつける印。
ここは記憶の中なのに。
ユウは慌てて周りを見る。
道路標識も、黒塗りになっている。バス停の時刻表の数字も、黒塗りになっている。ポスターの大きな文字も、黒塗りになっている。
読めない。
読めないということは、道が消える。
文字は道標だ。文字で人は場所を識別する。店の名前で曲がる場所を覚える。駅の表示で方向を決める。読めなければ、同じ風景が全部同じになる。
ユウは足を止めた。
止めた途端、雨の音が大きくなった気がした。世界が少しだけ近づいてくる。近づいてくるのに、何も見えない。見えない恐怖は、追われている感覚に変わる。
耳の奥で、ノイズが鳴った。
ラジオの周波数が合っていないときの、ざらざらした音。あの白い観測室で聞いた機械の気配と似ている。
そのノイズの向こうから、声がした。
「焦るな」
白川の声だった。
遠い。壁の向こうから聞こえるみたいに遠い。けれど、音量は一定で、やけに冷静だ。
「文字を読もうとするな。匂いと足音で辿れ」
ユウは唇を開いた。
返事をしようとしたのに、声が出ない。喉はあるのに、声の通り道が塞がれている。雨に喉を濡らされたみたいに、発声ができない。
言葉が遮断される。
ここでもか。
ユウは歯を食いしばった。
自分の武器は、追記だ。要約だ。規定だ。言葉で夢のルールを変えてきた。なのに、いまは言葉が奪われている。
だから感覚で進め、と白川は言った。
ユウは目を閉じた。
雨の音に混ざって、いくつかの音がある。車が遠くを通る音。水たまりを踏む音。自分の靴が濡れた地面を踏む音。
自分の足音は、一定ではない。
濡れたところは少し滑る。舗装が荒いところはザラッと鳴る。マンホールの上は硬い音がする。歩くたびに音が違う。それが道の形だ。
ユウは目を開けて、歩き出した。
右手に傘の柄の感覚がある。ない傘を握って、ない傘の重さを感じながら歩く。感覚だけの傘が、ユウの体を前へ押す。前へ行け、と言っているみたいだ。
ポケットが震えた。
スマホが震えた。
通知音はない。画面も点かない。けれど振動だけがある。第1話で始まった、あの振動と同じだ。
ユウは足を止めた。
この夜にも、振動があったのか。
入口になる前から。
ユウは息を飲んだ。雨が喉に入って、少し咳き込みそうになる。咳をしたら、ここで自分の存在が確定する気がして、堪えた。
ポケットからスマホを出そうとした。けれど、手が空を掴むだけで、スマホは出てこない。ポケットの中に、確かに振動があるのに、物としてのスマホがない。
記憶の中のスマホだ。
物としては存在していない。存在しているのは、振動だけ。予兆だけ。
ユウは胸に手を当てた。
心臓が速い。速いのに、体は冷たい。冷たい体に熱い心臓が入っていて、噛み合っていない。
ユウは歩く。
看板の文字は読めないままだ。読めないのに、道は知っている気がする。知っている、というより、匂いが導く。雨の匂いの中に、微かな違いがある。
コンビニの前の匂い。湿った段ボールの匂い。道路工事の泥の匂い。花屋の前の湿った土の匂い。
ユウはその匂いの層を拾いながら進む。
視界の端で、黒塗りが揺れる。
風で揺れているのではない。黒塗りそのものが、呼吸しているみたいに揺れる。揺れるたびに、そこに目がある気がする。
見られている。
この記憶の中でも。
ユウは肩をすくめた。
雨が背中に落ちる。傘がないから、背中が直接濡れる。濡れると、制服の布が肌に貼り付く。貼り付くと、自由がなくなる。自由がなくなることが、怖さを増す。
角を曲がった。
そこに横断歩道があった。
白い線が、雨に濡れて光っている。白線は、道路の上に薄く塗られたただの塗料のはずなのに、ユウには別のものに見えた。
第13話で引いた白線。
呼ばれない区域の線。
夢の中で、宣言と一緒に作ったルールの線。
ユウは横断歩道の端に立ち、白線の一本一本を見た。
白線が、境界だ。
ただの交通のための線なのに、境界に見える。見えるということは、元から心に線がある。
ユウは、胸の奥で何かが繋がる音を聞いた気がした。
境界は後から作ったものではない。
最初から、自分の中にあった。
だから、夢の中で白線を引けた。
元からあるものを、外に出しただけだ。
ユウは横断歩道を渡った。
白線を踏む感覚が、足の裏に残る。残る感覚は、安心と似ている。線があると、どこまでが自分か分かる。分かることは、怖さを減らす。
その安心が、長くは続かなかった。
雨粒が、地面で跳ねた。
跳ねた雨粒が、赤い点に見えた。
通知バッジの赤。
スマホの画面につく小さな赤い丸。未読の数字。見ろ、と言う印。無視しても残る印。
雨粒の跳ねるたびに、その赤い点が生まれる。
赤い点が、瞬いた。
瞬いたのは、目だった。
小さな目が、地面にいくつも開いた。雨粒が落ちるたびに、目が開く。目は一瞬で閉じる。閉じる前に、こちらを見ている。
見た。
目が言っている気がする。
ユウは背筋が冷えた。
世界の免疫が、ここで監視している。雨粒が、監視の目になっている。雨という自然現象に紛れて、監視がある。ありそうで、あるはずがない。だから怖い。
ユウは歩く速度を上げた。
上げた途端、足元で雨の目が増える。追いかけてくるわけではない。自分が動くから、目が生まれる。動くほど、見られる。見られるほど、恐怖が増える。
ユウは立ち止まった。
止まると目が減った。雨が落ち続けているのに、目が減る。減るということは、目は雨ではなく、自分に反応している。
ユウの中の何かに反応している。
入口。
その言葉が、胸の奥で冷えた。
ユウは息を整え、ゆっくり歩き出した。
急ぐと見られる。焦ると読めない。読めないと道が消える。だから、足音と匂いで辿る。
白川の声が、ノイズの向こうでまた言った。
「そのまま行け。記憶は言葉じゃない」
ユウは頷いた。
頷いたつもりだった。首が動いたかどうか、自分でも分からない。体が自分のものではない感じが強くなる。記憶の中に入ると、体は装置になる。装置は意思を持たない。意思が薄れることが、怖い。
路地が見えた。
細い路地。店と店の間。昼なら通らない道。夜の雨なら、避けたい道。
そこに、看板が立っていた。
立入禁止。
黄色い板に黒い文字。雨に汚れている。端が少しめくれている。釘で打たれている。
そしてその文字が、自分の筆跡だった。
ユウは足を止めた。
看板の前に立つと、雨の匂いが少し薄くなる。代わりに、濡れたコンクリートの匂いが強くなる。冷たい匂い。閉じた匂い。
看板は、こちらを見ている気がした。
雨粒の目とは違う。もっと大きく、もっと粘つく視線。視線というより、意志だ。
看板が、囁いた。
「行くな」
声が、ユウの耳の内側で鳴った。外から聞こえたのではない。頭の中から聞こえた。だから逃げられない。
「ここで死ぬ」
ユウの喉が痙攣した。
死。
死という言葉が出た瞬間、胸が痛い。痛いというより、冷たい針が刺さる。刺さって、抜けない。
看板は、続けた。
「行けば、壊れる」
ユウは、声を出そうとした。
出ない。
出ないまま、ユウは看板を睨んだ。
睨むという行為ができるのに、声が出ない。声は遮断されている。遮断されているのは、悪夢の防波堤の機能だ。遮断。痛みを意識に上げないための遮断。
つまり、看板は防波堤だ。
悪夢は敵ではなく防波堤。第12話で白川が言った理屈が、ここで形になっている。
看板は、ユウを守っていた。
死の記憶を封印して、生き延びさせていた。
だからこそ、ここは立入禁止になっている。
ユウは一歩、看板に近づいた。
雨粒の目が、足元で瞬いた。
見た。
見たという感覚が、首筋を撫でた。気持ち悪い。見られることが、肌に触る感覚になる。
看板が強く囁いた。
「戻れ」
ユウは息を吸った。
冷たい空気が肺に入る。肺が痛い。痛いのに、痛みが遠い。遠い痛みは、現実ではない。ここは記憶だから。記憶の痛みは、現実の痛みの影だ。
影なのに、影で人は死ねる。
ユウは、看板の下を見た。
釘の影。木の繊維。濡れた泥。細い雑草。雑草が雨に打たれて揺れている。揺れているだけの雑草が、やけに現実的だ。現実的なものがあると、ここが夢でも記憶でもなく、現実の延長に見える。
ユウは、口を動かした。
声は出ない。けれど、口の形だけで言った。
守ってくれたんだろ。
看板は、少し黙った。
黙るということは、反応している。人格がある。人格がある防波堤は、交渉ができる。
ユウは続けて口を動かした。
君は俺を守った。
看板が低く唸った。唸りが雨の音に混じり、地面から響く。
「守った」
声がする。
看板が言う。
「守った。お前は脆い。外せば壊れる。壊れたら、戻れない」
戻れない。
その言葉が、怖い。死より怖い。戻れないというのは、救いがないということだ。
ユウは第12話の理屈を思い出す。
悪夢の機能。
遮断。代行。予告。
ここは予告だ。限界が近いことを知らせている。そして遮断だ。死の記憶を意識に上げない。代行もある。死の恐怖を「立入禁止」というルールに置き換えている。
看板を殺したらどうなる。
防波堤を外せば、現実の痛みが剥き出しになる。痛みが大きいほど、外した瞬間に壊れる。
白川が「殺すな」と言った意味が、ここで腹に落ちた。
ユウは看板を破れない。
破るのではない。
整流する。
ユウは、指先を見た。
指が動く。字を書く動きができる。声は出ないが、追記はできる。追記は声を必要としない。追記は行為だ。行為はルールを作る。
ユウは看板の下端に指を当てた。
濡れた板の感触。木のざらつき。雨で冷たくなっている。
ユウはそこで、文字を書く動作をした。
指先で、板の上に。
ペンはない。けれど、指先から何かが出る。インクではない。削れた木の粉でもない。白い線だ。白線のような細い跡が、看板の下に残る。
ユウは「立入禁止」の文字の下に追記した。
立入注意。
ユウはさらに追記した。
単独禁止。
必要なら、戻れ。
書いた瞬間、看板が震えた。
震えは怒りではない。耐えている震え。守り方を変えることに抵抗しながらも、受け入れようとしている震え。
路地の奥が、少しだけ明るくなった。
街灯が増えたわけではない。雨が止んだわけでもない。けれど、暗闇の密度が薄くなった。薄くなると、そこに空間が生まれる。空間が生まれると、人は入れる。
看板が囁いた。
「戻れるのか」
ユウは頷いた。
戻れる、と言いたかった。声は出ない。頷くしかない。頷きがルールになる。頷いたことが、条件になる。
看板は少し沈黙したあと、低い声で言った。
「行け」
許可だ。
禁止が許可に変わったのではない。禁止が条件付きの境界になった。境界の内側に入る資格が、できた。
ユウは路地へ入った。
路地は狭い。両側の壁が近い。濡れた壁が光る。水が伝っている。水の筋が、まるで誰かの指の跡みたいに見える。
階段があった。
古い建物の階段。外階段ではない。建物の内側へ続く階段。入口の扉は半分だけ開いている。開いているのに、入っていい気がしない。入っていい気がしないから、入口が入口になる。
ユウは扉に手をかけた。
濡れた金属の冷たさ。
扉を押すと、少し軋んだ。軋みが、耳の奥に残る。軋みは、この建物が現実に存在する証拠みたいだ。記憶なのに、現物の匂いがする。
中は薄暗い。
階段の手すりが濡れている。誰かが濡れた手で触ったような濡れ方。雨が入り込んでいるだけではない。人の濡れ。人の体温が残した濡れ。
ユウは手すりを掴んだ。
掴んだ瞬間、指先にざらつきが伝わった。古い鉄の塗装が剥げている。剥げたところが冷たい。冷たい鉄は、現実の冷たさだ。
どこかで赤い光が回っているのが見える。
救急車の赤色灯。
直接見えているわけではない。壁の隙間に赤い光が反射して、周期的に明滅している。明滅のリズムは、救急車のそれだ。ユウの体が覚えている。
ユウの胸が詰まった。
第2話で見たニュースの匂いがする。画面越しに嗅いだはずの匂いが、ここで鼻の奥に刺さる。血の匂いではない。雨に濡れた制服と、人の焦りの匂い。救急車の中のゴムと薬の匂い。
ユウは階段を上った。
一段、二段。
足音が響く。響きが大きい。建物が空っぽだから響く。空っぽなのに、誰かがいる気配がある。気配があるから、響きが怖い。
雨の目が、背中で瞬いた気がした。
見た。
見たという感覚が、背中を押す。押されると進む。進むと見られる。見られると、世界の免疫が働く。
ユウは上の踊り場に着いた。
扉がある。
扉の向こうから声がした。
「助けて」
ユウの声だった。
自分の声が、扉の向こうから聞こえる。聞こえるだけで、体が固まる。自分が助けを求めた記憶がないのに、声がある。声があるということは、求めた。
ユウは凍った。
自分はあの夜、誰かに助けを求めたのか。
誰に。
何に。
扉の取っ手に手を伸ばした。
指が震える。震えるのに、止められない。止められない震えは恐怖の震えだ。恐怖を言葉にできないから、体が言う。
取っ手は冷たい。
冷たいまま、動かない。動かないのは、鍵がかかっているからではない。動かないのは、向こうが押し返しているからだ。
向こうに何かがいる。
ユウは息を吸った。
吸った瞬間、雨の音が一斉に大きくなった。
外の雨が強くなったわけではない。雨の目が一斉に開いたのだ。建物の中まで、雨の目が侵入してきた。壁に水滴が生まれ、その水滴が赤い目になった。
目が瞬く。
瞬くたびに、言葉が混ざる。
見た。
見せない。
見た。
見せない。
それは声ではなく、通知だ。通知の圧。誰かに送られる指示。閲覧制限。権限不足。そういう冷たい手続き語が、雨の中に溶けている。
世界の免疫が、核心を隠しにかかっている。
ユウは歯を食いしばった。
扉の向こうにあるのは、死の核心だ。核心を見せたくない理由が、世界にはある。世界が隠すということは、そこに世界にとって都合の悪いものがある。
ユウは、看板に追記した言葉を思い出した。
単独禁止。
必要なら、戻れ。
戻れるのか。
戻るという選択肢があるのか。
ユウは扉に額を押し当てた。
冷たい。
冷たい扉の向こうで、自分の声がもう一度言った。
「助けて」
その声は泣いていない。泣いていないのに切羽詰まっている。切羽詰まっているのに、諦めてもいる。諦めているのに、助けを求める。
矛盾した声だ。
矛盾は、本当の声だ。
ユウは口を開けた。
声は出ないはずだった。
けれど、喉の奥から掠れた息が漏れた。声にはならない。音にもならない。けれど、呼気が出た。呼気が出たということは、ここに自分がいる。
その瞬間、雨の目が一斉に瞬いた。
見た。
そして、扉の隙間から赤い光が漏れた。
救急車の赤色灯の光が、扉の下から滑り込んできた。滑り込んだ光は、床の濡れた部分で反射し、天井に揺れた。揺れる光が、まるで心拍みたいに見える。
ユウの心臓が、それに合わせて速くなる。
白川の声が、遠くでノイズ混じりに言った。
「そこだ。だが無理に開けるな。世界が抵抗している」
ユウは首を振った。
首を振ったつもりだった。
無理に開けない。
でも、止まれない。
ユウは、扉の取っ手のところに指先で文字を書く動作をした。
追記だ。
扉そのものにルールを与える。
ユウは取っ手の横に、小さく追記した。
開示は、必要な範囲に限る。
開示は、命の危険が差し迫るときに限る。
書いた瞬間、扉が少しだけ軽くなった。
鍵が外れたわけではない。押し返す力が弱まっただけだ。世界の免疫が一瞬、ルールに引っかかった。判決の適用範囲を狭めたときと同じだ。
ユウは、取っ手をゆっくり回した。
扉が、わずかに開いた。
隙間から、濡れた空気が流れ込んだ。
空気の中に、別の匂いが混じっている。
香水でも洗剤でもない。人の匂い。焦った人間の匂い。汗と雨が混ざった匂い。誰かの体温が残した匂い。
ユウの背中に鳥肌が立った。
扉の向こうで、足音がした。
自分の足音ではない。
誰かが近づく足音。濡れた床を踏む音。急いでいる音。急いでいるのに、躊躇している音。
ユウは扉をもう少し開けようとした。
その瞬間、雨の目が一斉に開いた。
目が赤く光った。
そして言葉が、はっきり聞こえた。
「見せない」
今度は通知ではない。命令だ。
命令の言葉は、扉の隙間から押し返す力になった。扉が逆に閉まりかける。ユウの指が取っ手から滑る。濡れているのに、汗が混ざっている。汗は熱い。熱い汗が冷たい金属の上で冷える。
ユウは必死に取っ手を掴み直した。
掴んだ指先が痛い。
痛いのに、痛みが遠い。遮断が働いている。防波堤が働いている。扉の向こうに行くと壊れる、と防波堤が言っていた。その言葉が、ここで現実になる。
ユウの視界の端で、黒塗りが増えた。
扉の向こうの風景が見えるはずなのに、黒塗りが先に増える。風景を覆う。人影を覆う。音だけが残る。
音だけが残ると、人は想像する。想像は恐怖を増殖させる。世界の免疫はそれを利用する。見せないことで、怖さは増える。怖さが増えるほど、防波堤は必要になる。防波堤が必要になるほど、悪夢は強くなる。
ユウは気づいた。
免疫は、排除するだけじゃない。
免疫は、必要を作る。
入口を異物として排除しながら、同時に恐怖を増やして、悪夢を必要な装置に戻そうとする。
ユウの胸が冷えた。
このままでは、辿り着けない。
ユウは一歩、後ろに下がった。
扉から手を離した。
離した瞬間、扉はゆっくり閉まった。閉まるときの音が、やけに優しい。カタン、という小さな音。優しい音で閉じるのが怖い。閉じることが、正しい手続きみたいに見える。
扉が完全に閉まる前に、ユウは隙間からもう一度聞いた。
自分の声。
「助けて」
今度はさっきより小さい。小さいのに、確かだ。確かだから苦しい。
扉が閉まった。
雨の目が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
見た。
見せない。
見た。
見せない。
ユウは膝をついた。
床が冷たい。濡れている。冷たい濡れは、体温を奪う。体温が奪われると、人は弱くなる。弱くなると、守りが必要になる。守りが必要になると、防波堤が強くなる。
それが仕組みだ。
悪夢は防波堤。
救済は暴力にもなる。
そのテーマが、ここで肉体の冷えとして刺さる。
白川の声が遠くで言った。
「戻れ。今日はそこまでだ」
戻れ。
看板に追記した言葉が、ここで意味を持つ。必要なら戻れ。戻ることは敗北ではない。死ぬために見に行くのではない。生きるために見に行く。
ユウは床に手をついて立ち上がった。
立ち上がると、階段の下から雨の匂いがまた強くなる。匂いが道を教える。匂いがある限り、帰れる。
ユウは階段を下り始めた。
一段、二段。
そのたびに、雨の目が少しずつ閉じていく。閉じるのは見張りが終わったからではない。今は「見せない」に成功したからだ。成功した免疫は静かになる。静かになるのが怖い。
扉の前を通り過ぎるとき、ユウは振り返らなかった。
振り返れば、また取っ手に手を伸ばす。伸ばしたら、壊れる。壊れる前に戻れ。それが条件だ。
路地に戻ると、看板がそこにあった。
立入注意。
単独禁止。
必要なら、戻れ。
自分の追記が残っている。残っているということは、ルールが成立した。成立したルールは、夢の外にも痕として残る。
看板が低く囁いた。
「生きて戻ったな」
ユウは頷いた。
看板の声が少し柔らかくなる。
「次は、もっと痛い」
ユウは目を閉じた。
痛いことは分かっている。痛いからこそ見なければならない。見なければ、共鳴は止まらない。止まらなければ、ミサキも、学校も、都市も、巻き込まれる。
ユウは路地を出た。
横断歩道が見える。白線が雨に光っている。白線は境界だ。境界は守りだ。守りは必要だ。必要だから、世界はそれを奪いにくる。
雨の目が足元で瞬いた。
見た。
その言葉が、前より近い。
近いということは、境界が薄い。
ユウは歩く。
匂いと足音で辿る。
看板の許可で進んだのに、核心は見せてもらえなかった。
世界が見せたくない真相がある。
扉の向こうにいたのは誰だ。
自分の声が助けを求めた相手は誰だ。
救急車の赤色灯が回っていた理由は何だ。
そして、なぜ世界はそれを隠すのか。
その問いが胸に溜まったまま、雨の匂いが急に薄くなった。
薄くなると、今いる場所がほどける。
街の音が遠くなる。雨の音が一枚の膜になる。膜が厚くなる。厚くなるほど、世界が白くなる。
ユウは自分が沈んでいくのを感じた。
落下ではない。沈降だ。
沈みながら、最後にもう一度、扉の前で聞いた自分の声が耳に残った。
「助けて」
声は泣いていない。
泣いていないから、嘘じゃない。
嘘じゃないから、次は逃げられない。
白い光が増える。
雨の匂いが消える。
ユウは目を開けた。
天井が白い。
赤い小さなランプが点いている。
観測室のカメラの目。
ユウは息を吸った。
肺に入る空気は乾いている。乾いているのに、鼻の奥に雨の匂いが残っている。匂いだけが、道を覚えている。
耳のイヤホンから、白川の声がはっきり聞こえた。
「到達した。扉の前まで行ったな」
ユウは唇を開いた。
今度は声が出た。
「……見せない、って言った」
喉が掠れている。雨に濡れた喉みたいに掠れている。記憶の湿りが現実に残っている。
白川は少しだけ間を置いて言った。
「世界が抵抗するのは、そこに起動条件があるからだ。君の初回の死が、免疫の始点になっている」
ユウの背中が冷えた。
免疫の始点。
自分の死が、世界の反撃の起動条件。
それなら、扉の向こうはただの事故ではない。
隠される理由がある。
ユウは天井を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
吐いた息が震えた。
「次は」
ユウが言うと、白川が先に答えた。
「次は、開ける。だがその前に確認する。君が助けを求めた相手が誰か。そこを間違えると、君は戻れない」
戻れない。
看板の言葉と同じだ。
ユウは目を閉じた。
雨の匂いが、まだある。
匂いがある限り、道は消えない。
けれど、世界はそれを削りにくる。文字が黒塗りになったように、匂いも黒塗りにしてくる。足音も奪ってくる。
奪われる前に、見なければならない。
ユウのスマホが、枕元で震えた。
通知はない。
画面も点かない。
振動だけがある。
ユウはそれを見ずに、手を伸ばして止めた。
止めた瞬間、指先に冷たい感覚が走った。
雨の冷たさ。
扉の取っ手の冷たさ。
救急車の光の冷たさ。
ユウは小さく呟いた。
「見せないなら……こっちから行く」
それが決意になったのか、挑発になったのか、自分でも分からなかった。
ただ、喉の奥に残る自分の声が、まだ助けを求めている。
助けを求めたまま、扉の向こうに置いてきた自分を、回収しなければならない。
そうしないと、入口は中心から壊れる。
天井のカメラの赤い目が瞬いた気がした。
見た。
ユウは目を開け、赤いランプを見返した。
ここは現実だ。
けれど境界は薄い。
薄い境界の向こうに、扉がある。
次は、そのノブを回す。
世界が見せたくない真相の、最初の一枚を剥がす。
暗転。




