表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/24

第18話 初回の死——雨の匂いだけが、道を覚えている

 雨の匂いがした。


 それは、いまいる白い部屋の匂いではない。消毒と布と電気の匂いではない。もっと雑多で、濡れたものが混ざり合った匂いだ。


 アスファルトが雨を吸った匂い。排気ガスの焦げた匂い。制服の化繊が湿った匂い。傘の布が濡れた匂い。コンビニの前の揚げ物の油が冷めた匂い。


 ユウは目を開けた。


 暗い。


 暗いのに、雨の粒が見える。雨は斜めに落ちている。街灯の光が雨を切っている。視界の端で、濡れた道路が鈍く光る。


 自分がどこに立っているのか、すぐには分からなかった。


 だけど足元の感覚だけが知っていた。濡れた地面の冷たさ。靴の底が滑りそうになる怖さ。水たまりを避けようとして、つい歩幅が変になる感じ。


 帰り道だ。


 半年前の、あの夜の帰り道。


 そう思った瞬間、胸の奥が締まった。息を吸おうとして、空気が重い。雨が肺の中まで入ってくるみたいに、吸い込むたびに冷える。


 傘を差している感覚がある。


 右手に柄を握る感覚がある。風に傘が引っ張られる感覚もある。なのに、傘が見えない。手元を見ても、雨の粒しかない。雨が指の上に落ちて、弾けて、滑り落ちる。


 傘のない雨は痛い。


 雨粒が肌に刺さる。肌が濡れる前に、冷えが走る。雨は、濡れるより先に冷える。


 ユウは一歩、前に出た。


 靴の中が少しだけ湿っている。湿りは気持ち悪いのに、懐かしい。自分がこの道を通ったことが、足の裏から分かる。


 顔を上げた。


 通りの向こうに店が並んでいる。看板がある。けれど、看板の文字が読めない。


 文字の部分だけが、黒く塗り潰されている。


 絵の具で塗ったような黒ではない。紙を燃やした黒でもない。もっと乾いていて、膜みたいな黒だ。光を反射しない。雨に濡れても濡れない。そこだけ、現実から浮いている。


 ユウの胸に、嫌な確信が落ちた。


 黒塗りだ。


 名前札の裏にあった黒塗り。担任の顔を覆っていた黒塗り。世界の免疫がつける印。


 ここは記憶の中なのに。


 ユウは慌てて周りを見る。


 道路標識も、黒塗りになっている。バス停の時刻表の数字も、黒塗りになっている。ポスターの大きな文字も、黒塗りになっている。


 読めない。


 読めないということは、道が消える。


 文字は道標だ。文字で人は場所を識別する。店の名前で曲がる場所を覚える。駅の表示で方向を決める。読めなければ、同じ風景が全部同じになる。


 ユウは足を止めた。


 止めた途端、雨の音が大きくなった気がした。世界が少しだけ近づいてくる。近づいてくるのに、何も見えない。見えない恐怖は、追われている感覚に変わる。


 耳の奥で、ノイズが鳴った。


 ラジオの周波数が合っていないときの、ざらざらした音。あの白い観測室で聞いた機械の気配と似ている。


 そのノイズの向こうから、声がした。


「焦るな」


 白川の声だった。


 遠い。壁の向こうから聞こえるみたいに遠い。けれど、音量は一定で、やけに冷静だ。


「文字を読もうとするな。匂いと足音で辿れ」


 ユウは唇を開いた。


 返事をしようとしたのに、声が出ない。喉はあるのに、声の通り道が塞がれている。雨に喉を濡らされたみたいに、発声ができない。


 言葉が遮断される。


 ここでもか。


 ユウは歯を食いしばった。


 自分の武器は、追記だ。要約だ。規定だ。言葉で夢のルールを変えてきた。なのに、いまは言葉が奪われている。


 だから感覚で進め、と白川は言った。


 ユウは目を閉じた。


 雨の音に混ざって、いくつかの音がある。車が遠くを通る音。水たまりを踏む音。自分の靴が濡れた地面を踏む音。


 自分の足音は、一定ではない。


 濡れたところは少し滑る。舗装が荒いところはザラッと鳴る。マンホールの上は硬い音がする。歩くたびに音が違う。それが道の形だ。


 ユウは目を開けて、歩き出した。


 右手に傘の柄の感覚がある。ない傘を握って、ない傘の重さを感じながら歩く。感覚だけの傘が、ユウの体を前へ押す。前へ行け、と言っているみたいだ。


 ポケットが震えた。


 スマホが震えた。


 通知音はない。画面も点かない。けれど振動だけがある。第1話で始まった、あの振動と同じだ。


 ユウは足を止めた。


 この夜にも、振動があったのか。


 入口になる前から。


 ユウは息を飲んだ。雨が喉に入って、少し咳き込みそうになる。咳をしたら、ここで自分の存在が確定する気がして、堪えた。


 ポケットからスマホを出そうとした。けれど、手が空を掴むだけで、スマホは出てこない。ポケットの中に、確かに振動があるのに、物としてのスマホがない。


 記憶の中のスマホだ。


 物としては存在していない。存在しているのは、振動だけ。予兆だけ。


 ユウは胸に手を当てた。


 心臓が速い。速いのに、体は冷たい。冷たい体に熱い心臓が入っていて、噛み合っていない。


 ユウは歩く。


 看板の文字は読めないままだ。読めないのに、道は知っている気がする。知っている、というより、匂いが導く。雨の匂いの中に、微かな違いがある。


 コンビニの前の匂い。湿った段ボールの匂い。道路工事の泥の匂い。花屋の前の湿った土の匂い。


 ユウはその匂いの層を拾いながら進む。


 視界の端で、黒塗りが揺れる。


 風で揺れているのではない。黒塗りそのものが、呼吸しているみたいに揺れる。揺れるたびに、そこに目がある気がする。


 見られている。


 この記憶の中でも。


 ユウは肩をすくめた。


 雨が背中に落ちる。傘がないから、背中が直接濡れる。濡れると、制服の布が肌に貼り付く。貼り付くと、自由がなくなる。自由がなくなることが、怖さを増す。


 角を曲がった。


 そこに横断歩道があった。


 白い線が、雨に濡れて光っている。白線は、道路の上に薄く塗られたただの塗料のはずなのに、ユウには別のものに見えた。


 第13話で引いた白線。


 呼ばれない区域の線。


 夢の中で、宣言と一緒に作ったルールの線。


 ユウは横断歩道の端に立ち、白線の一本一本を見た。


 白線が、境界だ。


 ただの交通のための線なのに、境界に見える。見えるということは、元から心に線がある。


 ユウは、胸の奥で何かが繋がる音を聞いた気がした。


 境界は後から作ったものではない。


 最初から、自分の中にあった。


 だから、夢の中で白線を引けた。


 元からあるものを、外に出しただけだ。


 ユウは横断歩道を渡った。


 白線を踏む感覚が、足の裏に残る。残る感覚は、安心と似ている。線があると、どこまでが自分か分かる。分かることは、怖さを減らす。


 その安心が、長くは続かなかった。


 雨粒が、地面で跳ねた。


 跳ねた雨粒が、赤い点に見えた。


 通知バッジの赤。


 スマホの画面につく小さな赤い丸。未読の数字。見ろ、と言う印。無視しても残る印。


 雨粒の跳ねるたびに、その赤い点が生まれる。


 赤い点が、瞬いた。


 瞬いたのは、目だった。


 小さな目が、地面にいくつも開いた。雨粒が落ちるたびに、目が開く。目は一瞬で閉じる。閉じる前に、こちらを見ている。


 見た。


 目が言っている気がする。


 ユウは背筋が冷えた。


 世界の免疫が、ここで監視している。雨粒が、監視の目になっている。雨という自然現象に紛れて、監視がある。ありそうで、あるはずがない。だから怖い。


 ユウは歩く速度を上げた。


 上げた途端、足元で雨の目が増える。追いかけてくるわけではない。自分が動くから、目が生まれる。動くほど、見られる。見られるほど、恐怖が増える。


 ユウは立ち止まった。


 止まると目が減った。雨が落ち続けているのに、目が減る。減るということは、目は雨ではなく、自分に反応している。


 ユウの中の何かに反応している。


 入口。


 その言葉が、胸の奥で冷えた。


 ユウは息を整え、ゆっくり歩き出した。


 急ぐと見られる。焦ると読めない。読めないと道が消える。だから、足音と匂いで辿る。


 白川の声が、ノイズの向こうでまた言った。


「そのまま行け。記憶は言葉じゃない」


 ユウは頷いた。


 頷いたつもりだった。首が動いたかどうか、自分でも分からない。体が自分のものではない感じが強くなる。記憶の中に入ると、体は装置になる。装置は意思を持たない。意思が薄れることが、怖い。


 路地が見えた。


 細い路地。店と店の間。昼なら通らない道。夜の雨なら、避けたい道。


 そこに、看板が立っていた。


 立入禁止。


 黄色い板に黒い文字。雨に汚れている。端が少しめくれている。釘で打たれている。


 そしてその文字が、自分の筆跡だった。


 ユウは足を止めた。


 看板の前に立つと、雨の匂いが少し薄くなる。代わりに、濡れたコンクリートの匂いが強くなる。冷たい匂い。閉じた匂い。


 看板は、こちらを見ている気がした。


 雨粒の目とは違う。もっと大きく、もっと粘つく視線。視線というより、意志だ。


 看板が、囁いた。


「行くな」


 声が、ユウの耳の内側で鳴った。外から聞こえたのではない。頭の中から聞こえた。だから逃げられない。


「ここで死ぬ」


 ユウの喉が痙攣した。


 死。


 死という言葉が出た瞬間、胸が痛い。痛いというより、冷たい針が刺さる。刺さって、抜けない。


 看板は、続けた。


「行けば、壊れる」


 ユウは、声を出そうとした。


 出ない。


 出ないまま、ユウは看板を睨んだ。


 睨むという行為ができるのに、声が出ない。声は遮断されている。遮断されているのは、悪夢の防波堤の機能だ。遮断。痛みを意識に上げないための遮断。


 つまり、看板は防波堤だ。


 悪夢は敵ではなく防波堤。第12話で白川が言った理屈が、ここで形になっている。


 看板は、ユウを守っていた。


 死の記憶を封印して、生き延びさせていた。


 だからこそ、ここは立入禁止になっている。


 ユウは一歩、看板に近づいた。


 雨粒の目が、足元で瞬いた。


 見た。


 見たという感覚が、首筋を撫でた。気持ち悪い。見られることが、肌に触る感覚になる。


 看板が強く囁いた。


「戻れ」


 ユウは息を吸った。


 冷たい空気が肺に入る。肺が痛い。痛いのに、痛みが遠い。遠い痛みは、現実ではない。ここは記憶だから。記憶の痛みは、現実の痛みの影だ。


 影なのに、影で人は死ねる。


 ユウは、看板の下を見た。


 釘の影。木の繊維。濡れた泥。細い雑草。雑草が雨に打たれて揺れている。揺れているだけの雑草が、やけに現実的だ。現実的なものがあると、ここが夢でも記憶でもなく、現実の延長に見える。


 ユウは、口を動かした。


 声は出ない。けれど、口の形だけで言った。


 守ってくれたんだろ。


 看板は、少し黙った。


 黙るということは、反応している。人格がある。人格がある防波堤は、交渉ができる。


 ユウは続けて口を動かした。


 君は俺を守った。


 看板が低く唸った。唸りが雨の音に混じり、地面から響く。


「守った」


 声がする。


 看板が言う。


「守った。お前は脆い。外せば壊れる。壊れたら、戻れない」


 戻れない。


 その言葉が、怖い。死より怖い。戻れないというのは、救いがないということだ。


 ユウは第12話の理屈を思い出す。


 悪夢の機能。


 遮断。代行。予告。


 ここは予告だ。限界が近いことを知らせている。そして遮断だ。死の記憶を意識に上げない。代行もある。死の恐怖を「立入禁止」というルールに置き換えている。


 看板を殺したらどうなる。


 防波堤を外せば、現実の痛みが剥き出しになる。痛みが大きいほど、外した瞬間に壊れる。


 白川が「殺すな」と言った意味が、ここで腹に落ちた。


 ユウは看板を破れない。


 破るのではない。


 整流する。


 ユウは、指先を見た。


 指が動く。字を書く動きができる。声は出ないが、追記はできる。追記は声を必要としない。追記は行為だ。行為はルールを作る。


 ユウは看板の下端に指を当てた。


 濡れた板の感触。木のざらつき。雨で冷たくなっている。


 ユウはそこで、文字を書く動作をした。


 指先で、板の上に。


 ペンはない。けれど、指先から何かが出る。インクではない。削れた木の粉でもない。白い線だ。白線のような細い跡が、看板の下に残る。


 ユウは「立入禁止」の文字の下に追記した。


 立入注意。


 ユウはさらに追記した。


 単独禁止。


 必要なら、戻れ。


 書いた瞬間、看板が震えた。


 震えは怒りではない。耐えている震え。守り方を変えることに抵抗しながらも、受け入れようとしている震え。


 路地の奥が、少しだけ明るくなった。


 街灯が増えたわけではない。雨が止んだわけでもない。けれど、暗闇の密度が薄くなった。薄くなると、そこに空間が生まれる。空間が生まれると、人は入れる。


 看板が囁いた。


「戻れるのか」


 ユウは頷いた。


 戻れる、と言いたかった。声は出ない。頷くしかない。頷きがルールになる。頷いたことが、条件になる。


 看板は少し沈黙したあと、低い声で言った。


「行け」


 許可だ。


 禁止が許可に変わったのではない。禁止が条件付きの境界になった。境界の内側に入る資格が、できた。


 ユウは路地へ入った。


 路地は狭い。両側の壁が近い。濡れた壁が光る。水が伝っている。水の筋が、まるで誰かの指の跡みたいに見える。


 階段があった。


 古い建物の階段。外階段ではない。建物の内側へ続く階段。入口の扉は半分だけ開いている。開いているのに、入っていい気がしない。入っていい気がしないから、入口が入口になる。


 ユウは扉に手をかけた。


 濡れた金属の冷たさ。


 扉を押すと、少し軋んだ。軋みが、耳の奥に残る。軋みは、この建物が現実に存在する証拠みたいだ。記憶なのに、現物の匂いがする。


 中は薄暗い。


 階段の手すりが濡れている。誰かが濡れた手で触ったような濡れ方。雨が入り込んでいるだけではない。人の濡れ。人の体温が残した濡れ。


 ユウは手すりを掴んだ。


 掴んだ瞬間、指先にざらつきが伝わった。古い鉄の塗装が剥げている。剥げたところが冷たい。冷たい鉄は、現実の冷たさだ。


 どこかで赤い光が回っているのが見える。


 救急車の赤色灯。


 直接見えているわけではない。壁の隙間に赤い光が反射して、周期的に明滅している。明滅のリズムは、救急車のそれだ。ユウの体が覚えている。


 ユウの胸が詰まった。


 第2話で見たニュースの匂いがする。画面越しに嗅いだはずの匂いが、ここで鼻の奥に刺さる。血の匂いではない。雨に濡れた制服と、人の焦りの匂い。救急車の中のゴムと薬の匂い。


 ユウは階段を上った。


 一段、二段。


 足音が響く。響きが大きい。建物が空っぽだから響く。空っぽなのに、誰かがいる気配がある。気配があるから、響きが怖い。


 雨の目が、背中で瞬いた気がした。


 見た。


 見たという感覚が、背中を押す。押されると進む。進むと見られる。見られると、世界の免疫が働く。


 ユウは上の踊り場に着いた。


 扉がある。


 扉の向こうから声がした。


「助けて」


 ユウの声だった。


 自分の声が、扉の向こうから聞こえる。聞こえるだけで、体が固まる。自分が助けを求めた記憶がないのに、声がある。声があるということは、求めた。


 ユウは凍った。


 自分はあの夜、誰かに助けを求めたのか。


 誰に。


 何に。


 扉の取っ手に手を伸ばした。


 指が震える。震えるのに、止められない。止められない震えは恐怖の震えだ。恐怖を言葉にできないから、体が言う。


 取っ手は冷たい。


 冷たいまま、動かない。動かないのは、鍵がかかっているからではない。動かないのは、向こうが押し返しているからだ。


 向こうに何かがいる。


 ユウは息を吸った。


 吸った瞬間、雨の音が一斉に大きくなった。


 外の雨が強くなったわけではない。雨の目が一斉に開いたのだ。建物の中まで、雨の目が侵入してきた。壁に水滴が生まれ、その水滴が赤い目になった。


 目が瞬く。


 瞬くたびに、言葉が混ざる。


 見た。


 見せない。


 見た。


 見せない。


 それは声ではなく、通知だ。通知の圧。誰かに送られる指示。閲覧制限。権限不足。そういう冷たい手続き語が、雨の中に溶けている。


 世界の免疫が、核心を隠しにかかっている。


 ユウは歯を食いしばった。


 扉の向こうにあるのは、死の核心だ。核心を見せたくない理由が、世界にはある。世界が隠すということは、そこに世界にとって都合の悪いものがある。


 ユウは、看板に追記した言葉を思い出した。


 単独禁止。


 必要なら、戻れ。


 戻れるのか。


 戻るという選択肢があるのか。


 ユウは扉に額を押し当てた。


 冷たい。


 冷たい扉の向こうで、自分の声がもう一度言った。


「助けて」


 その声は泣いていない。泣いていないのに切羽詰まっている。切羽詰まっているのに、諦めてもいる。諦めているのに、助けを求める。


 矛盾した声だ。


 矛盾は、本当の声だ。


 ユウは口を開けた。


 声は出ないはずだった。


 けれど、喉の奥から掠れた息が漏れた。声にはならない。音にもならない。けれど、呼気が出た。呼気が出たということは、ここに自分がいる。


 その瞬間、雨の目が一斉に瞬いた。


 見た。


 そして、扉の隙間から赤い光が漏れた。


 救急車の赤色灯の光が、扉の下から滑り込んできた。滑り込んだ光は、床の濡れた部分で反射し、天井に揺れた。揺れる光が、まるで心拍みたいに見える。


 ユウの心臓が、それに合わせて速くなる。


 白川の声が、遠くでノイズ混じりに言った。


「そこだ。だが無理に開けるな。世界が抵抗している」


 ユウは首を振った。


 首を振ったつもりだった。


 無理に開けない。


 でも、止まれない。


 ユウは、扉の取っ手のところに指先で文字を書く動作をした。


 追記だ。


 扉そのものにルールを与える。


 ユウは取っ手の横に、小さく追記した。


 開示は、必要な範囲に限る。


 開示は、命の危険が差し迫るときに限る。


 書いた瞬間、扉が少しだけ軽くなった。


 鍵が外れたわけではない。押し返す力が弱まっただけだ。世界の免疫が一瞬、ルールに引っかかった。判決の適用範囲を狭めたときと同じだ。


 ユウは、取っ手をゆっくり回した。


 扉が、わずかに開いた。


 隙間から、濡れた空気が流れ込んだ。


 空気の中に、別の匂いが混じっている。


 香水でも洗剤でもない。人の匂い。焦った人間の匂い。汗と雨が混ざった匂い。誰かの体温が残した匂い。


 ユウの背中に鳥肌が立った。


 扉の向こうで、足音がした。


 自分の足音ではない。


 誰かが近づく足音。濡れた床を踏む音。急いでいる音。急いでいるのに、躊躇している音。


 ユウは扉をもう少し開けようとした。


 その瞬間、雨の目が一斉に開いた。


 目が赤く光った。


 そして言葉が、はっきり聞こえた。


「見せない」


 今度は通知ではない。命令だ。


 命令の言葉は、扉の隙間から押し返す力になった。扉が逆に閉まりかける。ユウの指が取っ手から滑る。濡れているのに、汗が混ざっている。汗は熱い。熱い汗が冷たい金属の上で冷える。


 ユウは必死に取っ手を掴み直した。


 掴んだ指先が痛い。


 痛いのに、痛みが遠い。遮断が働いている。防波堤が働いている。扉の向こうに行くと壊れる、と防波堤が言っていた。その言葉が、ここで現実になる。


 ユウの視界の端で、黒塗りが増えた。


 扉の向こうの風景が見えるはずなのに、黒塗りが先に増える。風景を覆う。人影を覆う。音だけが残る。


 音だけが残ると、人は想像する。想像は恐怖を増殖させる。世界の免疫はそれを利用する。見せないことで、怖さは増える。怖さが増えるほど、防波堤は必要になる。防波堤が必要になるほど、悪夢は強くなる。


 ユウは気づいた。


 免疫は、排除するだけじゃない。


 免疫は、必要を作る。


 入口を異物として排除しながら、同時に恐怖を増やして、悪夢を必要な装置に戻そうとする。


 ユウの胸が冷えた。


 このままでは、辿り着けない。


 ユウは一歩、後ろに下がった。


 扉から手を離した。


 離した瞬間、扉はゆっくり閉まった。閉まるときの音が、やけに優しい。カタン、という小さな音。優しい音で閉じるのが怖い。閉じることが、正しい手続きみたいに見える。


 扉が完全に閉まる前に、ユウは隙間からもう一度聞いた。


 自分の声。


「助けて」


 今度はさっきより小さい。小さいのに、確かだ。確かだから苦しい。


 扉が閉まった。


 雨の目が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。


 見た。


 見せない。


 見た。


 見せない。


 ユウは膝をついた。


 床が冷たい。濡れている。冷たい濡れは、体温を奪う。体温が奪われると、人は弱くなる。弱くなると、守りが必要になる。守りが必要になると、防波堤が強くなる。


 それが仕組みだ。


 悪夢は防波堤。


 救済は暴力にもなる。


 そのテーマが、ここで肉体の冷えとして刺さる。


 白川の声が遠くで言った。


「戻れ。今日はそこまでだ」


 戻れ。


 看板に追記した言葉が、ここで意味を持つ。必要なら戻れ。戻ることは敗北ではない。死ぬために見に行くのではない。生きるために見に行く。


 ユウは床に手をついて立ち上がった。


 立ち上がると、階段の下から雨の匂いがまた強くなる。匂いが道を教える。匂いがある限り、帰れる。


 ユウは階段を下り始めた。


 一段、二段。


 そのたびに、雨の目が少しずつ閉じていく。閉じるのは見張りが終わったからではない。今は「見せない」に成功したからだ。成功した免疫は静かになる。静かになるのが怖い。


 扉の前を通り過ぎるとき、ユウは振り返らなかった。


 振り返れば、また取っ手に手を伸ばす。伸ばしたら、壊れる。壊れる前に戻れ。それが条件だ。


 路地に戻ると、看板がそこにあった。


 立入注意。


 単独禁止。


 必要なら、戻れ。


 自分の追記が残っている。残っているということは、ルールが成立した。成立したルールは、夢の外にも痕として残る。


 看板が低く囁いた。


「生きて戻ったな」


 ユウは頷いた。


 看板の声が少し柔らかくなる。


「次は、もっと痛い」


 ユウは目を閉じた。


 痛いことは分かっている。痛いからこそ見なければならない。見なければ、共鳴は止まらない。止まらなければ、ミサキも、学校も、都市も、巻き込まれる。


 ユウは路地を出た。


 横断歩道が見える。白線が雨に光っている。白線は境界だ。境界は守りだ。守りは必要だ。必要だから、世界はそれを奪いにくる。


 雨の目が足元で瞬いた。


 見た。


 その言葉が、前より近い。


 近いということは、境界が薄い。


 ユウは歩く。


 匂いと足音で辿る。


 看板の許可で進んだのに、核心は見せてもらえなかった。


 世界が見せたくない真相がある。


 扉の向こうにいたのは誰だ。


 自分の声が助けを求めた相手は誰だ。


 救急車の赤色灯が回っていた理由は何だ。


 そして、なぜ世界はそれを隠すのか。


 その問いが胸に溜まったまま、雨の匂いが急に薄くなった。


 薄くなると、今いる場所がほどける。


 街の音が遠くなる。雨の音が一枚の膜になる。膜が厚くなる。厚くなるほど、世界が白くなる。


 ユウは自分が沈んでいくのを感じた。


 落下ではない。沈降だ。


 沈みながら、最後にもう一度、扉の前で聞いた自分の声が耳に残った。


「助けて」


 声は泣いていない。


 泣いていないから、嘘じゃない。


 嘘じゃないから、次は逃げられない。


 白い光が増える。


 雨の匂いが消える。


 ユウは目を開けた。


 天井が白い。


 赤い小さなランプが点いている。


 観測室のカメラの目。


 ユウは息を吸った。


 肺に入る空気は乾いている。乾いているのに、鼻の奥に雨の匂いが残っている。匂いだけが、道を覚えている。


 耳のイヤホンから、白川の声がはっきり聞こえた。


「到達した。扉の前まで行ったな」


 ユウは唇を開いた。


 今度は声が出た。


「……見せない、って言った」


 喉が掠れている。雨に濡れた喉みたいに掠れている。記憶の湿りが現実に残っている。


 白川は少しだけ間を置いて言った。


「世界が抵抗するのは、そこに起動条件があるからだ。君の初回の死が、免疫の始点になっている」


 ユウの背中が冷えた。


 免疫の始点。


 自分の死が、世界の反撃の起動条件。


 それなら、扉の向こうはただの事故ではない。


 隠される理由がある。


 ユウは天井を見たまま、ゆっくり息を吐いた。


 吐いた息が震えた。


「次は」


 ユウが言うと、白川が先に答えた。


「次は、開ける。だがその前に確認する。君が助けを求めた相手が誰か。そこを間違えると、君は戻れない」


 戻れない。


 看板の言葉と同じだ。


 ユウは目を閉じた。


 雨の匂いが、まだある。


 匂いがある限り、道は消えない。


 けれど、世界はそれを削りにくる。文字が黒塗りになったように、匂いも黒塗りにしてくる。足音も奪ってくる。


 奪われる前に、見なければならない。


 ユウのスマホが、枕元で震えた。


 通知はない。


 画面も点かない。


 振動だけがある。


 ユウはそれを見ずに、手を伸ばして止めた。


 止めた瞬間、指先に冷たい感覚が走った。


 雨の冷たさ。


 扉の取っ手の冷たさ。


 救急車の光の冷たさ。


 ユウは小さく呟いた。


「見せないなら……こっちから行く」


 それが決意になったのか、挑発になったのか、自分でも分からなかった。


 ただ、喉の奥に残る自分の声が、まだ助けを求めている。


 助けを求めたまま、扉の向こうに置いてきた自分を、回収しなければならない。


 そうしないと、入口は中心から壊れる。


 天井のカメラの赤い目が瞬いた気がした。


 見た。


 ユウは目を開け、赤いランプを見返した。


 ここは現実だ。


 けれど境界は薄い。


 薄い境界の向こうに、扉がある。


 次は、そのノブを回す。


 世界が見せたくない真相の、最初の一枚を剥がす。


 暗転。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ