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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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第17話 隔離——保護の名で、あなたは閉じ込められる

 学校の裏口に、黒いワゴン車が停まっていた。


 ワゴン車の黒は、塗装の黒というより、光を吸う黒だった。朝の薄い日差しを受けても艶が出ない。窓は内側が見えない。隣に停まる自転車の影が、車体に歪んで映っているだけだ。


 ユウは歩きながら、それを視界の端に入れたまま、見ないふりをした。


 見たら、決まる気がした。


 見たら、今日がただの登校日ではなくなる。


 校舎の側面を回ると、裏口の扉が少し開いていた。そこから人が出入りしている。白衣ではない。けれど病院の人間に見える清潔さがある。髪がきちんとまとめられている。靴が汚れていない。手には黒いケース。


 その後ろにスーツの男がいた。


 スーツの男は、学校の空気に馴染まない。馴染まないのに、堂々としている。堂々としていると、場は相手に合わせてしまう。学校は、そういう場だった。先生が廊下を歩けば生徒は静かになる。制度が動けば、人はその形になる。


 ユウは、職員室の窓を見た。


 担任がいた。


 担任は立っていた。誰かに頭を下げている。下げている相手はスーツの男だ。担任は昨日まで、ユウを避けるように視線を逸らしていたのに、今日は制度の前で視線を落としている。


 ユウの胃が冷えた。


 学校が、組織に協力している。


 善意の制度が、別の制度に繋がった瞬間だった。


 教室に入ると、いつもより音が少なかった。


 朝の教室は、もっと騒がしい。椅子を引く音。カバンのファスナー。笑い声。小さな喧嘩。そういう細かい音が重なって、朝は朝の雑音になる。


 今日は、その雑音が薄い。


 生徒が互いの顔を見て、言葉を選んでいる。誰かが何かを知っているような空気だ。知らなくても、空気が知っている。


 ミサキが席に座っていた。


 ミサキはユウを見ると、すぐに目を逸らした。逸らした先は床だ。


 床の目地が、白線に見える。


 昨日よりはっきりしている。


 ユウは自分の足元を見た。踏んだらいけない線があるように感じてしまう。線を踏むと、呼ばれる。呼ばれると、名前が削れる。そういう因果が、現実の皮のすぐ下で働いている。


 チャイムが鳴る前に、担任が教室に入ってきた。


 担任の目は湿っている。瞬きもある。声も普通だ。普通に見える。それでも、ユウの方を見ない。見ないまま、教卓に立つ。出席を取る。連絡事項を言う。


 その連絡事項の中に、ユウの名前が含まれているのに、担任はユウを見ない。


「成瀬。あとで、保健室へ」


 保健室、と言った。


 保健室で済む話ではないのに、学校は学校の言葉で言い換える。言い換えることで場は落ち着く。落ち着くことが、危険だ。


 ユウは手を上げて返事をした。


 声が自分のものじゃないみたいに聞こえた。


 休み時間。


 ユウが廊下へ出ると、すぐに別の先生が近づいてきた。保健室の先生ではない。見慣れない顔。学校の先生に見えるけれど、名札の色が違う気がした。


「成瀬くん。こちらへ」


 丁寧な声だ。丁寧だからこそ逆らいにくい。


 ユウは教室の中を振り返った。


 ミサキが、廊下の角からこちらを見ていた。


 目が少し眠っている。焦点が合っていないのではない。合うべきものを避けている。避けることで自分を守っている。


 ミサキの足元にも線が見える。


 線が、ミサキの周りを囲っている。呼ばれない区域。ユウが夢の中で作ったルールの残り香。残り香が現実に漂っている。


 ユウは笑って大丈夫だと示そうとした。


 笑えなかった。


 口角が上がらない。上げようとすると、胸の奥が固くなる。固くなると呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、夢の入口の呼吸だ。


 ミサキが口を動かした。


 声は聞こえない。


 けれど、言葉だけが伝わる。


 境界、守って。


 ユウは喉が鳴った。


 夢と現実の境界が薄い。薄いから、声がなくても言葉が届く。届くことが救いなのか、侵食なのか分からない。


 案内されたのは、保健室ではなかった。


 保健室の手前にある、小さな相談室。面談用の部屋。机と椅子が二つ。壁にはポスターが貼ってある。心の健康、生活リズム、相談窓口。どれも明るい色で書かれている。明るい色は、怖さを隠すために使われる。


 部屋に入ると、スーツの男がいた。


 もう一人、白衣ではないが医療者に見える女性がいる。黒いケースを開けて、何かを取り出している。器具の金属音が小さく鳴る。


 担任もいた。


 担任は部屋の隅に立っている。何も言わない。視線だけが落ち着かない。落ち着かないのに、動かない。昨日の夢の裁判所で、鎖に巻かれていた姿が重なる。


「成瀬ユウさん」


 スーツの男が言った。


 フルネームを言う。


 フルネームを呼ばれると、札が貼られる感覚がある。呼ばれた瞬間、役割が決まる。対象、という役割。


「睡眠の検査です。あなたの安全のためです」


 言葉は優しい。


 けれど、優しさの裏に、手続きがある。手続きは断れないものとして差し出される。断れるのは形式だけだ。


 ユウは椅子に座らされる前に立ったまま言った。


「拒否できますか」


 スーツの男は頷いた。


「拒否は可能です」


 その返事だけ聞けば、自由があるように見える。


 男は続けた。


「ただしその場合、あなたが引き起こす共鳴に対し、学校は責任を負えません」


 ユウは息を止めた。


 学校は責任を負えません。


 その言葉は、脅しではない顔をしている。事実の顔をしている。事実の顔をした言葉は、脅しより強い。事実は人を黙らせる。


 担任が小さく顔を歪めた。


 担任は教師だ。生徒を守る立場だ。なのに、制度の言葉で生徒を追い込んでいる。そのことに気づいているのに、止められない。


 ユウは唇の裏を噛んだ。


 鉄の味が、少し濃くなった。


「……検査って、何をするんですか」


 ユウが聞くと、医療者の女性が答えた。


「脳波と心拍、呼吸の波形です。睡眠の状態を確認します。痛いことはしません」


 痛いことはしません。


 痛いことだけが怖いわけじゃない。痛くないまま、持っていかれるものがある。名前、記憶、匂い、温度。そういうものが削れる。


 スーツの男が紙を差し出した。


 同意書だった。


 同意書の上部には小さな文字がびっしり並んでいる。読めば読むほど逃げ道がなくなる文章。条文のように番号が振られている。説明の形をした囲いだ。


 署名欄がある。


 ユウはペンを取らなかった。


「署名しないとできないんですか」


 ユウが聞くと、男は微笑んだ。


 微笑みは丁寧だった。目が笑っていないわけではない。けれど、その笑いは温度が低い。冷たい笑いは、手続きを滑らかにする。


「署名は後でも構いません。まずは移動しましょう。あなたの状態が安定していません」


 後でも構いません。


 つまり、署名がなくても進む。


 同意は形式でしかない。


 ユウは椅子に座ったまま、担任を見た。


 担任は目を合わせない。目を合わせないまま、小さく頷いた。頷きが、謝罪に見えた。


 ユウは立ち上がった。


 自分の足が、自分の意思で動いていない気がした。動かされているのに、動いているふりをしている。そうしないと、人は壊れる。


 廊下に出る。


 廊下の角にミサキがいた。


 ミサキは近づいてこない。線の内側から出られないみたいに立っている。出られないのではなく、出ない。境界を守っている。


 ミサキの口が動く。


「……大丈夫?」


 声は小さいのに、ユウにははっきり聞こえた。聞こえるということは、境界が薄い。


 ユウは頷いた。


 頷くしかできなかった。


 笑えない。大丈夫だと言えない。大丈夫だと言った瞬間に、嘘になる。嘘は夢に吸われる。夢に吸われた嘘は、現実のどこかで本当になる。


 ミサキは唇を噛んだ。


「境界、守って」


 今度は声があった。


 声があるのに、遠くから聞こえる。遠くから聞こえるのは、夢の声だ。


 ユウはその場を離れた。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、ミサキの足元の線が、自分の足元まで伸びてくる気がした。伸びたら、巻き込む。巻き込むことが一番怖い。


 黒いワゴン車のドアが開く。


 中は暗い。外の光が遮られている。窓は黒いフィルムで覆われていて、外が見えない。座席は柔らかいのに、柔らかさが落ち着かない。柔らかいものは人を沈ませる。


 ユウが乗り込むと、スーツの男も乗り込んだ。


 医療者の女性が後ろの席に座る。黒いケースを膝に置く。


 ドアが閉まる音が、やけに大きかった。


 世界が閉じた音だ、とユウは思った。


 車が走り出す。


 学校の裏口が遠ざかる。遠ざかっているのに、外が見えない。見えないのに、遠ざかる感覚だけがある。夢の落下と似ている。落ちているのに、周囲が見えない。見えないから、自分がどこへ行くのか分からない。


 ユウは自分の手を見た。


 指先に薄い傷がある。昨日の夢で札を掴んだときの裂け目。現実に残っている。夢はただの夢ではない。夢が現実に触れている。


 スーツの男が言った。


「心配はいりません。あなたを守るためです」


 守るため。


 その言葉が、檻の鍵に聞こえた。


「守るって、閉じ込めることですか」


 ユウは言った。


 男は少しだけ眉を動かした。驚きではない。確認だ。相手が理解しているかどうかの確認。


「隔離、という言葉は適切ではありません」


 男は淡々と言う。


「観測環境を整えるだけです。あなたが単独で悪夢に関与すると、波及が大きい」


 波及。


 共鳴。


 都市規模。


 ユウの中に、冷たいものが落ちた。自分が中心だという事実が、言葉で固定される。固定されると、役割になる。役割になると、札になる。札になると、貼り付く。


 車はしばらく走り、どこかで止まった。


 ドアが開く。


 白い建物だった。


 病院ではない。病院のように人の気配がない。受付もない。案内板もない。出入り口の前にセキュリティのカードリーダーがある。入るために許可が必要な場所だ。


 中に入ると、廊下が白い。


 白い壁。白い床。白い天井。白い蛍光灯。


 白さは清潔さの象徴のはずなのに、ここでは白さが消去に見える。色を消す。匂いを消す。音を消す。人の存在を消す。


 通された部屋に、ベッドがあった。


 ベッドは普通の病院のものに似ている。でも柵がない。代わりに、天井の隅にカメラがある。赤い小さなランプが点いている。点いているだけで、見られていると分かる。


 壁に紙が貼ってあった。


 同意書。


 同意書が、額縁もなく貼られている。しかも、署名欄が空白のままだ。


 署名欄が空白なのに、部屋は成立している。


 ユウは笑いそうになった。


 笑えない種類の笑いだ。乾いた笑い。口の中の鉄の味が、また濃くなる。


 医療者の女性が言った。


「ここで待ってください。準備します」


 待て、と言われる。


 待つことは、同意の代わりになる。待てと言われて待った事実が、手続きの一部になる。


 ユウはベッドに座らなかった。


 座ったら沈む。沈んだら、自分の足で立てなくなる。立てなくなったら、初回の死の夜へ入る前に、現実の方で処理される。


 ドアがノックされた。


 ユウが振り向くと、白川が入ってきた。


 白衣ではない。


 いつもの診察室の白川ではない。


 スーツでもないが、服がきちんとしている。ポケットにペン。首からIDカード。医師というより、責任者の顔だった。


 白川はユウを見ると、表情を変えなかった。


 ごめん、と言わない。


 謝罪がないことが、ユウの胸をえぐった。


「状況は理解しているな」


 白川が言う。


 理解しているかどうかを、本人が判断する。判断する側が白川だ。ユウは、判断される側に移っている。


「これは治療ですか」


 ユウは聞いた。


 白川は少しだけ目を細めた。


「治療でもあり、対策でもある」


 曖昧な答えだ。


 曖昧なのに、嘘ではない。嘘ではないから怖い。境界がない。境界がない場所で人は迷う。迷っている間に手続きが進む。


「今夜、君の初回の死の夜へ入る」


 白川は淡々と言った。


「君が覚えていない部分を取り戻さないと、共鳴は止まらない」


 止まらない。


 止まらないという断定は、判決に似ている。


 ユウは喉が鳴った。


「俺が覚えてないのは、俺が悪いんですか」


 ユウの声が少しだけ尖った。


 白川は首を振らない。否定もしない。肯定もしない。観測者の顔のまま言った。


「君が悪いのではない。君が自分に禁止している」


 禁止。


 その言葉で、ユウの背中が冷えた。第16話の最後に見た壁の日付。立入禁止の気配。自分が自分に鍵をかけている感覚。


「君は入口だ」


 白川が言う。


「入口が中心になった。中心が壊れる前に、鍵を外す」


 壊れる前に。


 その言い方が、救いに聞こえない。壊れることを前提にしている。前提にされた言葉は、人の未来を固定する。


 ドアの外で足音がした。


 医療者の女性が入ってきて、器具を運び込む。電極。センサー。コード。黒いケースから次々に出てくる。機械は無言で、無言だからこそ圧がある。


 ユウはその中に見覚えのあるものを見た。


 イヤホン。


 自分が第1話で耳に入れていたものと同型だ。白いイヤホン。市販品のはずなのに、ここでは器具に見える。儀式が制度化された。個人の工夫が、手続きの一部になる。


 白川が言った。


「装着する」


 命令形だった。


 ユウは反発しようとした。けれど、反発の言葉が出ない。出ないのは怖いからではない。出したら、ミサキの顔が浮かぶからだ。巻き込みたくない。巻き込まないためには、自分が沈むしかない。


 ユウはベッドに座った。


 座った瞬間、背中が少し沈んだ。柔らかさが、足を奪う。


 医療者の女性が頭に電極を付け始める。冷たいジェルの感触。髪が引っ張られる。電極が頭皮に貼り付く。貼り付く感触が、夢の札と似ている。


 胸にセンサーが貼られる。


 肌に触れる冷たさ。テープの粘着。呼吸のたびに引っ張られる。


 耳にイヤホンが入る。


 イヤホンが入った瞬間、外の音が少しだけ遠くなる。遠くなるのに、機械の音だけが近くなる。カメラのランプの赤が、目に刺さる。


 白川がケーブルを確認しながら言った。


「君の入口を、こちらで制御する」


 制御。


 制御という言葉は、救いに聞こえない。


 制御されるということは、自由がないということだ。自由がないということは、責任がないということでもある。責任がないことに、人は一瞬だけ安堵してしまう。その安堵が怖い。


 ユウは唇の裏を噛んだ。


「本当に、止められるんですか」


 ユウが聞くと、白川は言葉を選ばなかった。


「止めるのではない。見せる」


 見せる。


 真相を見せる。


「君が自分に禁止している場所を、開く」


 白川が言う。


「その結果、君がどうなるかは、予測できない」


 予測できない。


 予測できないのに進む。進むということは、対策ではなく実験に近い。実験体か、という疑念が喉の奥に溜まった。


 ユウは天井を見た。


 白い天井。


 天井の隅のカメラ。


 カメラは瞬きしない。瞬きしない目は、夢の中の目と同じだ。


 部屋の空気が少し変わった。


 匂いが戻る。


 半年前の帰り道の匂い。


 雨に濡れたアスファルト。濡れた制服。濡れた髪。バスの排気。駅前の屋台の油の匂い。そういう雑多な匂いが、白い部屋の中に一瞬だけ混ざる。


 ユウは息を止めた。


 止めた息の中に、その匂いを閉じ込めたかった。閉じ込めても逃げるのに、閉じ込めようとした。匂いは記憶の鍵だ。匂いが戻れば、道が戻る。道が戻れば、初回の死の夜へ行ける。


 壁に、雨の跡が浮かんだ。


 白い壁に、薄い筋が一本。


 水が垂れた跡みたいな線。


 線は増えていく。一本、二本。まるで白い壁が濡れている。濡れているのに、実際に触ると乾いている。視覚だけが先に侵食される。


 白川が小さく言った。


「近い」


 その言葉で、ユウの背中が冷えた。


 近いことは救いではない。傷に近づくことだ。傷は見れば治るとは限らない。見た瞬間に広がることもある。


 白川は機械の画面を見て、医療者に目配せした。


 医療者が頷く。


 手続きが進む。頷きで進む。言葉で確認しない。確認しないから止められない。


 白川が言った。


「入る」


 白川の声が、部屋の中の空気を区切った。


「カウントする。三、二、一」


 ユウは目を閉じた。


 落下感はなかった。


 沈む感覚が来た。


 体が下へ引かれるのではない。体の内側が沈む。肺の中の空気が水に変わるみたいに、息が重くなる。目を閉じているのに、暗闇が濃くなる。濃くなる暗闇は、膜だ。膜をくぐる。


 ユウは自分の手がどこにあるのか分からなくなった。


 電極の重さも、センサーの粘着も、遠くなる。遠くなるのに、耳のイヤホンだけが残る。イヤホンから何かが流れている気がする。音ではない。手続きの気配。誰かが開ける鍵の音。


 沈みながら、ユウは何かを見る。


 暗闇の中に看板が立っている。


 看板の色は黄ばんでいる。雨に濡れて汚れている。駅の工事現場にありそうな看板だ。現実にありそうな看板。ありそうだから怖い。


 看板には文字が書かれている。


 立入禁止。


 ユウはその文字を見た瞬間、胸が締まった。


 立入禁止。


 誰が禁止した。


 組織か。


 白川か。


 世界の免疫か。


 ユウは看板の端に目を移した。


 小さく、筆跡が残っている。


 自分の筆跡だった。


 自分が書いた字。


 自分が自分に禁止していた。


 ユウは息ができなくなった。


 沈む暗闇の中で、看板だけがはっきり見える。看板の先に何があるかは見えない。見えないのに、禁止の文字だけが先に立つ。


 禁止が先にある記憶。


 そこに、死がある。


 ユウは看板に手を伸ばそうとした。


 伸ばした感覚だけがあって、手は届かない。届かないまま、暗闇がさらに濃くなる。濃くなる暗闇の奥から、雨の音が聞こえる気がした。


 半年前の夜の雨。


 その音が近づく。


 看板の向こうに、何かがある。


 ユウはそこで、完全に沈んだ。


 暗転。

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