第16話 対象:成瀬ユウ——入口は中心から壊れる
目が覚めた瞬間、口の中に鉄の味がした。
血ではない。舌の奥に残る、乾いた金属の匂いだ。歯みがきの前なのに、昨日の晩ごはんの味とも違う。喉の奥を指でなぞると、痛みがある気がして、やめた。
夢の痕だ、とユウは思った。
悪夢に入るたび、現実が少しだけ汚れる。爪の間に土が残るみたいに。落としても落としきれない。
布団から出る。床が冷たい。足の裏に伝わる冷たさが、いつもより鋭い。ユウは一瞬、白い線を探した。
線はない。自分の部屋だ。線を引いた覚えはない。
それでも、線があるような気がする。
境界が、勝手に増えている。
洗面所で顔を洗う。水は冷たい。鏡の中の自分の目の下が、薄く影になっている。寝不足の影、ではない気がした。影の色が、昨日より濃い。影が増えると、顔は別の人みたいに見える。
スマホの画面が光る。
通知はない。
ないのに、画面を見ると落ち着く。誰かに見られていると落ち着く。会議室で味わった嫌悪と、同じ種類の安心だと思って、ユウは苦くなった。
家を出る。
朝の空気は乾いていて、鼻の奥が痛い。駅へ向かう道を歩きながら、ユウは人の顔を見ないようにした。見たら、眠っている目に見えるからだ。
昨日も、そうだった。
けれど今日は、昨日より早い。
向かいから来るサラリーマンの目が、焦点の合わないガラスに見えた。高校生の女の子の目が、遠くのホームの照明みたいに見えた。見た瞬間に、そう見えてしまう。錯覚だと打ち消す前に、確信が先に立つ。
共鳴が広がったのではない。
自分の感覚が、入口化している。
駅の改札前。電光掲示板が目に入る。いつも通り、到着予定と遅延情報が並んでいる。ユウは見ないつもりだったのに、目が吸い寄せられた。
一瞬だけ、表示が変わる。
到着の文字の下に、名前が出た。
成瀬ユウ。
ユウは足を止めた。
次の瞬間、表示は戻る。行先と時間。遅延はありません。いつもの言葉。
見間違いだ。
そう思うのに、そう思い切れない。見間違いを見間違いとして処理する速度より、見間違いを確信に変える速度のほうが早い。
ユウは改札を通った。
ピッという音が、いつもより大きく聞こえた。音が大きいとき、人は自分の存在を確認する。自分が通った。自分が記録された。自分がここにいる。
ホームの端に立つ。
線路の向こう側が薄く揺れて見えた。揺れているのは空気のはずなのに、水面の揺れみたいだ。ユウは目を細めた。揺れの奥に、札が落ちているように見えた。
名前札。
拾うな、と思った。
拾ったら持ち帰る。持ち帰ったら自分の部屋が変わる。自分の部屋が変わったら、もう眠れなくなる。
電車が来る。扉が開く。人が押し合う。ユウはその流れに紛れて、学校へ向かった。
教室に入ったとき、床のタイルの目地が白く見えた。
白い線だ。
目地はもともと白い。そういう材質だ。そう分かっているのに、白い線にしか見えない。線の内側と外側があるように見える。線を踏むと、何かが起きるような気がする。
ユウは自分の足元を見た。踏まないように歩こうとしている自分に気づいて、息が詰まった。
ミサキが席に座っていた。
ミサキはユウを見ると、すぐに視線を落とした。視線を落として、床を見た。床を見てから、もう一度ユウを見た。
「……今日、床に線、見えない?」
小声だった。
ミサキの声は震えていない。けれど、息の出し方が浅い。浅い息は、恐怖の前触れだ。泣く前の呼吸と似ている。
ユウは頷けなかった。
頷いたら確定する。確定したら、現実の線になる。夢の線が現実に根を張る。
「目地だよ」
ユウは言った。嘘ではない。けれど、真実でもない。
ミサキは唇を噛んだ。
「分かってる。でも、違う。線の外に出たら、呼ばれる気がする」
ユウは手のひらを握った。
第13話で自分が作ったルール。呼ばれない区域。アナウンス禁止。名前を呼ばない。呼ばれない。
それが、現実に滲んでいる。
自分の善意が、誰かの恐怖になっている。
担任が教室に入ってくる。チャイムの前。いつもなら雑談をしている時間なのに、今日は誰も大きな声を出さない。線のせいだ。線の内側では声が出せない気がする。
担任は教室に入ると、黒板へ向かった。
ユウの方を見ない。
昨日から、ずっと見ない。
見ないことが優しさなのか、逃げなのか、ユウには分からなかった。分からないまま、黒板に書かれる文字だけが増えていく。予定、提出物、小テスト。文字が増えるほど、札が増える。札が増えるほど、呼吸が苦しくなる。
授業が始まる。
担任は普段通り話す。声の抑揚は戻っている。瞬きも増えている。昨日の乾いた目ではない。それでも、時々、言葉の途中で目が止まる。止まる時間が短すぎる。迷っているのではない。処理している。
休み時間。ユウが席を立って廊下に出ると、担任とすれ違った。
ほんの一瞬、担任の口元だけが動く。
「……すまない」
声はない。
口の動きだけで、謝罪が伝わる。伝わってしまう。伝わることで、境界が薄くなる。
担任はそのまま職員室へ入っていった。
ユウはその背中を見て、胸が痛くなった。
覚えていないのに謝っている。
身体が反射している。夢で裁かれた痛みが、現実の筋肉に残っている。残っているから、言葉だけが漏れる。
昼休み。
スマホが震えた。
画面には、組織の番号。
短い通知が表示される。
「本日、観測強化」
業務連絡みたいな文面だ。淡々としている。その淡々とした感じが、余計に怖い。人が壊れる手前で一番怖いのは、冷静さだ。
通知の末尾に、一文がある。
「あなた自身の睡眠波形が不安定です。単独行動は禁止します」
ユウは喉を鳴らした。
反発が先に来るはずだった。
誰が禁止する。自分のことだ。自分で決める。
なのに、ほっとした。
不安定だと誰かが言った。誰かが見ている。見ているということは、自分が壊れている証拠だ。証拠があると、人は安心する。壊れているのが自分の気のせいじゃないと分かるからだ。
その安心に、ユウはぞっとした。
見られることに慣れたら、終わりだ。
放課後。
ユウは職員室の前で立ち止まった。
行くべきか迷う。迷っている時点で、もう遅い気もした。担任の夢へ入れ、と組織は言った。けれど今日は違う。今日は、自分が対象だと通知が来た日だ。
自分の睡眠波形。
不安定。
単独行動禁止。
ユウは扉のガラス越しに職員室を見た。
担任は机に座っている。書類を書いている。ペンを持つ手は普通だ。普通に見える。普通に見えることが怖い。普通に見えるまま、夢の中では鎖に巻かれて泣いていた。
担任がふと顔を上げる。
ユウと目が合いそうになる。
ユウは反射的に目を逸らした。
目が合ったら、何かが移る気がした。恐怖が移るのではない。恐怖の構造が移る。裁判所が移る。札が移る。線が増える。
その夜、ユウは家に帰ってから何度も手を洗った。
鉄の味が消えない。
夕飯を食べても消えない。
歯をみがいても消えない。
消えないまま、夜になる。
白川に電話をした。繋がるまでの間、呼び出し音が長く感じた。長い音は、夢のアナウンスに似ている。呼び出されるということは拘束だ。
「入る」
ユウは言った。
「俺の方が、もう限界だ」
白川は一瞬、息を止めたようだった。
「今日は君が対象だ」
白川の声は低い。落ち着いている。落ち着いているから怖い。
「殺すな」
「分かってる」
ユウは短く返した。短く返すしかできなかった。長い言葉は、自分を説得するための言葉になる。説得すると、制度になる。制度になると、裁判になる。
「落ちたら、戻れない気がする」
ユウが言うと、白川は間を置いた。
「落ちない」
「は?」
「今日は、君が落ちるんじゃない。悪夢が来る」
ユウは息を吸った。
そんなことがあるのか。今までだって夢の中でいろんなことがあった。けれど、方向が変わるのは初めてだ。自分の側から侵入していたのに、向こうが現実へ侵入する。
入口が中心になったら、侵入は選べない。
「観測はつけてる」
白川が言う。
「今夜は整える。だが、これが続くなら、君が入口になった夜を見ないと止まらない」
入口になった夜。
半年前の夜。
初回の死。
ユウの喉の奥が、さらに鉄臭くなった。
電話を切ったあと、ユウは机の上にメモ帳を開いた。
組織が求めるログの形式を思い出す。日時、場所、夢の構造、出現した札、介入内容、追記内容、欠落の兆候。書けば書くほど、夢が制度になる。でも、書かないと自分の中が削れる。
削れるよりは、制度のほうがましだと思ってしまう自分が、また怖い。
ユウはメモ帳の一番上に書いた。
対象:成瀬ユウ
書いた瞬間、紙が少しだけ湿った気がした。
ユウはペンを置いた。
布団に入る。
目を閉じる。
いつもなら、落下感が来る。胃が浮く。耳が遠くなる。呼吸が浅くなる。そういう感覚が合図になる。
今日は来ない。
代わりに、部屋の空気が重くなる。
静かに、水が染みるみたいに。
ユウは目を開けた。
天井が、垂れていた。
白い天井の板が、水の膜みたいにゆっくり落ちてくる。落ちてくるのに音がしない。音がしないことが、夢の始まりの合図だった。
机の上の教科書が湿っている。紙がふやけて、角が丸くなる。蛍光灯が点滅する。点滅の周期が、駅の電光掲示板の点滅に似ている。
部屋が、夢へ落ちていく。
ユウは起き上がろうとした。
体が動かない。
布団が重いのではない。重力が変わっている。現実が夢に沈んでいる。
ユウは息を吐いた。
吐いた息が、白い。
季節の寒さではない。息が白くなるのは、ホームの冷たさだ。
床を見る。
白い線が引かれている。
タイルの目地ではない。自分の部屋の床には目地がない。なのに線がある。線が部屋を二つに割っている。
線の片側は、駅のホームになっていた。
線の片側は、職員室の机の列になっていた。
そして、線の奥に、裁判所の傍聴席がある。
自分の部屋が合成されている。
今までユウが他者に介入して作った構造が、全部ユウの中で統合されている。
持ち帰っていたのだ、とユウは思った。
他人の恐怖を。
構造を。
札を。
線を。
持ち帰って、部屋に貯めていた。
天井から紙が垂れている。
同意書。
提出期限。
面談予定。
欠席日数。
未送信のメッセージ。
通知の目みたいに、紙の端が小さく揺れている。紙は生き物みたいだ。紙の揺れが、まばたきに見える。
遠くでアナウンスが鳴った。
駅の声。
裁判官席の声。
校内放送の声。
全部が混ざっている。
ユウは耳を塞ぎたかった。塞いでも意味がないと分かっていた。こういうとき、耳を塞ぐと内側の音が大きくなる。呼吸の音、心臓の音、鉄の味。
床の線の上に、札が浮かび上がる。
名前札。
成瀬ユウ、と書かれている。
札はゆっくりと浮かび上がり、ユウの胸へ向かって滑ってくる。
貼り付こうとしている。
ユウは息を吸った。
貼り付いたら、終わる。
名前は役割だ。役割は固定だ。固定されたら、入口として処理される。処理されるということは、削除される。
札が胸に触れた瞬間、呼吸が苦しくなった。
紙なのに重い。紙なのに冷たい。紙なのに、胸の骨を押す。
ユウは札の端を掴んで剥がそうとした。
指先が裂けた。
痛みがある。痛みが現実に繋がっている。痛みがあると、夢が現実へ食い込んでいる証拠だ。
ユウは歯を食いしばり、札をよく見た。
札の裏が、黒く塗り潰されている。
黒塗りの部分が、湿って滲んでいる。
滲みの中から、文字が浮く。
入口。
入口、と札が言っている。
ユウは札を剥がすのをやめた。
剥がすと裂ける。裂けると欠落する。欠落すると、初回の死の夜へ辿り着く前に、道が消える。
剥がさない。
斬らない。
無効化しない。
適用範囲を限定する。
第15話で判決に追記した時と同じだ。世界はルールを奪う。ならばルールを取り返す。奪われたままにしない。
ユウは震える手で、札の端に爪を立てた。
そこに、見えないペンで書くように、指で追記する。
「ただし、ここでは役割を持たない」
指先から血が滲む。血は出ないはずなのに、滲む。滲んだ赤が、文字みたいに札に吸い込まれる。
「ただし、名前を呼ぶのは自分だけ」
追記した瞬間、アナウンスが止まった。
駅の声が止まる。裁判官席の声が止まる。校内放送の声が止まる。
天井から垂れていた同意書が、一斉に静かになる。
紙の端が揺れなくなる。目が閉じるみたいに。
ユウの呼吸が戻る。
胸の圧が少しだけ軽くなる。
札は貼り付いたままだ。けれど、貼り付いた札が「役割」を押し付ける力が弱まった。
ユウは床に膝をついた。
勝った気はしなかった。
勝てる相手ではない。
世界は免疫だ。免疫は負けない。負けないために形を変える。形を変えるとき、誰かの一部を持っていく。
静寂が来た瞬間、ユウの頭の中が白くなった。
一秒だけ。
ぽっかり。
半年前の夜の帰り道。
駅前の風の匂い。
アスファルトの冷たさ。
靴底の音。
その全部が、一秒分だけ、消えた。
匂いがなくなると、場所がなくなる。温度がなくなると、時間がなくなる。足音がなくなると、道がなくなる。
ユウは息を呑んだ。
このまま欠落が進んだら、初回の死の夜へ入る前に、入口そのものが消える。消えたら、真相に辿り着けない。辿り着けないまま、世界に処理される。
ユウは床に手をついた。
手のひらが冷たい。ホームの床の冷たさ。現実の自室の床ではない。境界が薄い。薄いから、ここはもう外と同じだ。
そのとき、遠くから声がした。
部屋の中ではない。
夢の外から聞こえる声。
「今夜は整えた」
白川の声だった。
ユウは顔を上げた。
「だが次は、君が入口になった夜を見ないと止まらない」
白川の声は淡々としていた。淡々としているから、命令みたいに聞こえる。助言ではない。手順だ。手順は制度だ。制度は裁判だ。
ユウは唇を噛んだ。
声が遠いのに、言葉ははっきり頭に残る。残ることが怖い。残る言葉は札になる。札は貼り付く。
ユウは視線を動かした。
部屋の壁。
自分の部屋の壁紙が、ゆっくりと滲んでいる。水が染みるみたいに。滲みの中から、数字が浮かぶ。
日付。
半年前の日付。
ユウが初めて死んだ夜の、日付。
壁に日付がある。
現実の壁に、夢が書き込んでくる。
ユウは立ち上がろうとして、膝が震えた。
胸の札が冷たい。札はまだそこにある。追記で軽くなったはずなのに、軽くなった分だけ、存在がはっきり分かる。軽い鎖ほど、絡みついてくる。
壁の日付が、さらに濃くなる。
そして、その下に、薄い文字が滲む。
次は、お前の番だ。
ユウは目を閉じた。
閉じたまぶたの裏で、鉄の味が濃くなった。
誰かの夢の残り香ではない。
自分の死の匂いだ。
暗転。




