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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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16/24

第16話 対象:成瀬ユウ——入口は中心から壊れる

 目が覚めた瞬間、口の中に鉄の味がした。


 血ではない。舌の奥に残る、乾いた金属の匂いだ。歯みがきの前なのに、昨日の晩ごはんの味とも違う。喉の奥を指でなぞると、痛みがある気がして、やめた。


 夢の痕だ、とユウは思った。


 悪夢に入るたび、現実が少しだけ汚れる。爪の間に土が残るみたいに。落としても落としきれない。


 布団から出る。床が冷たい。足の裏に伝わる冷たさが、いつもより鋭い。ユウは一瞬、白い線を探した。


 線はない。自分の部屋だ。線を引いた覚えはない。


 それでも、線があるような気がする。


 境界が、勝手に増えている。


 洗面所で顔を洗う。水は冷たい。鏡の中の自分の目の下が、薄く影になっている。寝不足の影、ではない気がした。影の色が、昨日より濃い。影が増えると、顔は別の人みたいに見える。


 スマホの画面が光る。


 通知はない。


 ないのに、画面を見ると落ち着く。誰かに見られていると落ち着く。会議室で味わった嫌悪と、同じ種類の安心だと思って、ユウは苦くなった。


 家を出る。


 朝の空気は乾いていて、鼻の奥が痛い。駅へ向かう道を歩きながら、ユウは人の顔を見ないようにした。見たら、眠っている目に見えるからだ。


 昨日も、そうだった。


 けれど今日は、昨日より早い。


 向かいから来るサラリーマンの目が、焦点の合わないガラスに見えた。高校生の女の子の目が、遠くのホームの照明みたいに見えた。見た瞬間に、そう見えてしまう。錯覚だと打ち消す前に、確信が先に立つ。


 共鳴が広がったのではない。


 自分の感覚が、入口化している。


 駅の改札前。電光掲示板が目に入る。いつも通り、到着予定と遅延情報が並んでいる。ユウは見ないつもりだったのに、目が吸い寄せられた。


 一瞬だけ、表示が変わる。


 到着の文字の下に、名前が出た。


 成瀬ユウ。


 ユウは足を止めた。


 次の瞬間、表示は戻る。行先と時間。遅延はありません。いつもの言葉。


 見間違いだ。


 そう思うのに、そう思い切れない。見間違いを見間違いとして処理する速度より、見間違いを確信に変える速度のほうが早い。


 ユウは改札を通った。


 ピッという音が、いつもより大きく聞こえた。音が大きいとき、人は自分の存在を確認する。自分が通った。自分が記録された。自分がここにいる。


 ホームの端に立つ。


 線路の向こう側が薄く揺れて見えた。揺れているのは空気のはずなのに、水面の揺れみたいだ。ユウは目を細めた。揺れの奥に、札が落ちているように見えた。


 名前札。


 拾うな、と思った。


 拾ったら持ち帰る。持ち帰ったら自分の部屋が変わる。自分の部屋が変わったら、もう眠れなくなる。


 電車が来る。扉が開く。人が押し合う。ユウはその流れに紛れて、学校へ向かった。


 教室に入ったとき、床のタイルの目地が白く見えた。


 白い線だ。


 目地はもともと白い。そういう材質だ。そう分かっているのに、白い線にしか見えない。線の内側と外側があるように見える。線を踏むと、何かが起きるような気がする。


 ユウは自分の足元を見た。踏まないように歩こうとしている自分に気づいて、息が詰まった。


 ミサキが席に座っていた。


 ミサキはユウを見ると、すぐに視線を落とした。視線を落として、床を見た。床を見てから、もう一度ユウを見た。


「……今日、床に線、見えない?」


 小声だった。


 ミサキの声は震えていない。けれど、息の出し方が浅い。浅い息は、恐怖の前触れだ。泣く前の呼吸と似ている。


 ユウは頷けなかった。


 頷いたら確定する。確定したら、現実の線になる。夢の線が現実に根を張る。


「目地だよ」


 ユウは言った。嘘ではない。けれど、真実でもない。


 ミサキは唇を噛んだ。


「分かってる。でも、違う。線の外に出たら、呼ばれる気がする」


 ユウは手のひらを握った。


 第13話で自分が作ったルール。呼ばれない区域。アナウンス禁止。名前を呼ばない。呼ばれない。


 それが、現実に滲んでいる。


 自分の善意が、誰かの恐怖になっている。


 担任が教室に入ってくる。チャイムの前。いつもなら雑談をしている時間なのに、今日は誰も大きな声を出さない。線のせいだ。線の内側では声が出せない気がする。


 担任は教室に入ると、黒板へ向かった。


 ユウの方を見ない。


 昨日から、ずっと見ない。


 見ないことが優しさなのか、逃げなのか、ユウには分からなかった。分からないまま、黒板に書かれる文字だけが増えていく。予定、提出物、小テスト。文字が増えるほど、札が増える。札が増えるほど、呼吸が苦しくなる。


 授業が始まる。


 担任は普段通り話す。声の抑揚は戻っている。瞬きも増えている。昨日の乾いた目ではない。それでも、時々、言葉の途中で目が止まる。止まる時間が短すぎる。迷っているのではない。処理している。


 休み時間。ユウが席を立って廊下に出ると、担任とすれ違った。


 ほんの一瞬、担任の口元だけが動く。


「……すまない」


 声はない。


 口の動きだけで、謝罪が伝わる。伝わってしまう。伝わることで、境界が薄くなる。


 担任はそのまま職員室へ入っていった。


 ユウはその背中を見て、胸が痛くなった。


 覚えていないのに謝っている。


 身体が反射している。夢で裁かれた痛みが、現実の筋肉に残っている。残っているから、言葉だけが漏れる。


 昼休み。


 スマホが震えた。


 画面には、組織の番号。


 短い通知が表示される。


「本日、観測強化」


 業務連絡みたいな文面だ。淡々としている。その淡々とした感じが、余計に怖い。人が壊れる手前で一番怖いのは、冷静さだ。


 通知の末尾に、一文がある。


「あなた自身の睡眠波形が不安定です。単独行動は禁止します」


 ユウは喉を鳴らした。


 反発が先に来るはずだった。


 誰が禁止する。自分のことだ。自分で決める。


 なのに、ほっとした。


 不安定だと誰かが言った。誰かが見ている。見ているということは、自分が壊れている証拠だ。証拠があると、人は安心する。壊れているのが自分の気のせいじゃないと分かるからだ。


 その安心に、ユウはぞっとした。


 見られることに慣れたら、終わりだ。


 放課後。


 ユウは職員室の前で立ち止まった。


 行くべきか迷う。迷っている時点で、もう遅い気もした。担任の夢へ入れ、と組織は言った。けれど今日は違う。今日は、自分が対象だと通知が来た日だ。


 自分の睡眠波形。


 不安定。


 単独行動禁止。


 ユウは扉のガラス越しに職員室を見た。


 担任は机に座っている。書類を書いている。ペンを持つ手は普通だ。普通に見える。普通に見えることが怖い。普通に見えるまま、夢の中では鎖に巻かれて泣いていた。


 担任がふと顔を上げる。


 ユウと目が合いそうになる。


 ユウは反射的に目を逸らした。


 目が合ったら、何かが移る気がした。恐怖が移るのではない。恐怖の構造が移る。裁判所が移る。札が移る。線が増える。


 その夜、ユウは家に帰ってから何度も手を洗った。


 鉄の味が消えない。


 夕飯を食べても消えない。


 歯をみがいても消えない。


 消えないまま、夜になる。


 白川に電話をした。繋がるまでの間、呼び出し音が長く感じた。長い音は、夢のアナウンスに似ている。呼び出されるということは拘束だ。


「入る」


 ユウは言った。


「俺の方が、もう限界だ」


 白川は一瞬、息を止めたようだった。


「今日は君が対象だ」


 白川の声は低い。落ち着いている。落ち着いているから怖い。


「殺すな」


「分かってる」


 ユウは短く返した。短く返すしかできなかった。長い言葉は、自分を説得するための言葉になる。説得すると、制度になる。制度になると、裁判になる。


「落ちたら、戻れない気がする」


 ユウが言うと、白川は間を置いた。


「落ちない」


「は?」


「今日は、君が落ちるんじゃない。悪夢が来る」


 ユウは息を吸った。


 そんなことがあるのか。今までだって夢の中でいろんなことがあった。けれど、方向が変わるのは初めてだ。自分の側から侵入していたのに、向こうが現実へ侵入する。


 入口が中心になったら、侵入は選べない。


「観測はつけてる」


 白川が言う。


「今夜は整える。だが、これが続くなら、君が入口になった夜を見ないと止まらない」


 入口になった夜。


 半年前の夜。


 初回の死。


 ユウの喉の奥が、さらに鉄臭くなった。


 電話を切ったあと、ユウは机の上にメモ帳を開いた。


 組織が求めるログの形式を思い出す。日時、場所、夢の構造、出現した札、介入内容、追記内容、欠落の兆候。書けば書くほど、夢が制度になる。でも、書かないと自分の中が削れる。


 削れるよりは、制度のほうがましだと思ってしまう自分が、また怖い。


 ユウはメモ帳の一番上に書いた。


 対象:成瀬ユウ


 書いた瞬間、紙が少しだけ湿った気がした。


 ユウはペンを置いた。


 布団に入る。


 目を閉じる。


 いつもなら、落下感が来る。胃が浮く。耳が遠くなる。呼吸が浅くなる。そういう感覚が合図になる。


 今日は来ない。


 代わりに、部屋の空気が重くなる。


 静かに、水が染みるみたいに。


 ユウは目を開けた。


 天井が、垂れていた。


 白い天井の板が、水の膜みたいにゆっくり落ちてくる。落ちてくるのに音がしない。音がしないことが、夢の始まりの合図だった。


 机の上の教科書が湿っている。紙がふやけて、角が丸くなる。蛍光灯が点滅する。点滅の周期が、駅の電光掲示板の点滅に似ている。


 部屋が、夢へ落ちていく。


 ユウは起き上がろうとした。


 体が動かない。


 布団が重いのではない。重力が変わっている。現実が夢に沈んでいる。


 ユウは息を吐いた。


 吐いた息が、白い。


 季節の寒さではない。息が白くなるのは、ホームの冷たさだ。


 床を見る。


 白い線が引かれている。


 タイルの目地ではない。自分の部屋の床には目地がない。なのに線がある。線が部屋を二つに割っている。


 線の片側は、駅のホームになっていた。


 線の片側は、職員室の机の列になっていた。


 そして、線の奥に、裁判所の傍聴席がある。


 自分の部屋が合成されている。


 今までユウが他者に介入して作った構造が、全部ユウの中で統合されている。


 持ち帰っていたのだ、とユウは思った。


 他人の恐怖を。


 構造を。


 札を。


 線を。


 持ち帰って、部屋に貯めていた。


 天井から紙が垂れている。


 同意書。


 提出期限。


 面談予定。


 欠席日数。


 未送信のメッセージ。


 通知の目みたいに、紙の端が小さく揺れている。紙は生き物みたいだ。紙の揺れが、まばたきに見える。


 遠くでアナウンスが鳴った。


 駅の声。


 裁判官席の声。


 校内放送の声。


 全部が混ざっている。


 ユウは耳を塞ぎたかった。塞いでも意味がないと分かっていた。こういうとき、耳を塞ぐと内側の音が大きくなる。呼吸の音、心臓の音、鉄の味。


 床の線の上に、札が浮かび上がる。


 名前札。


 成瀬ユウ、と書かれている。


 札はゆっくりと浮かび上がり、ユウの胸へ向かって滑ってくる。


 貼り付こうとしている。


 ユウは息を吸った。


 貼り付いたら、終わる。


 名前は役割だ。役割は固定だ。固定されたら、入口として処理される。処理されるということは、削除される。


 札が胸に触れた瞬間、呼吸が苦しくなった。


 紙なのに重い。紙なのに冷たい。紙なのに、胸の骨を押す。


 ユウは札の端を掴んで剥がそうとした。


 指先が裂けた。


 痛みがある。痛みが現実に繋がっている。痛みがあると、夢が現実へ食い込んでいる証拠だ。


 ユウは歯を食いしばり、札をよく見た。


 札の裏が、黒く塗り潰されている。


 黒塗りの部分が、湿って滲んでいる。


 滲みの中から、文字が浮く。


 入口。


 入口、と札が言っている。


 ユウは札を剥がすのをやめた。


 剥がすと裂ける。裂けると欠落する。欠落すると、初回の死の夜へ辿り着く前に、道が消える。


 剥がさない。


 斬らない。


 無効化しない。


 適用範囲を限定する。


 第15話で判決に追記した時と同じだ。世界はルールを奪う。ならばルールを取り返す。奪われたままにしない。


 ユウは震える手で、札の端に爪を立てた。


 そこに、見えないペンで書くように、指で追記する。


「ただし、ここでは役割を持たない」


 指先から血が滲む。血は出ないはずなのに、滲む。滲んだ赤が、文字みたいに札に吸い込まれる。


「ただし、名前を呼ぶのは自分だけ」


 追記した瞬間、アナウンスが止まった。


 駅の声が止まる。裁判官席の声が止まる。校内放送の声が止まる。


 天井から垂れていた同意書が、一斉に静かになる。


 紙の端が揺れなくなる。目が閉じるみたいに。


 ユウの呼吸が戻る。


 胸の圧が少しだけ軽くなる。


 札は貼り付いたままだ。けれど、貼り付いた札が「役割」を押し付ける力が弱まった。


 ユウは床に膝をついた。


 勝った気はしなかった。


 勝てる相手ではない。


 世界は免疫だ。免疫は負けない。負けないために形を変える。形を変えるとき、誰かの一部を持っていく。


 静寂が来た瞬間、ユウの頭の中が白くなった。


 一秒だけ。


 ぽっかり。


 半年前の夜の帰り道。


 駅前の風の匂い。


 アスファルトの冷たさ。


 靴底の音。


 その全部が、一秒分だけ、消えた。


 匂いがなくなると、場所がなくなる。温度がなくなると、時間がなくなる。足音がなくなると、道がなくなる。


 ユウは息を呑んだ。


 このまま欠落が進んだら、初回の死の夜へ入る前に、入口そのものが消える。消えたら、真相に辿り着けない。辿り着けないまま、世界に処理される。


 ユウは床に手をついた。


 手のひらが冷たい。ホームの床の冷たさ。現実の自室の床ではない。境界が薄い。薄いから、ここはもう外と同じだ。


 そのとき、遠くから声がした。


 部屋の中ではない。


 夢の外から聞こえる声。


「今夜は整えた」


 白川の声だった。


 ユウは顔を上げた。


「だが次は、君が入口になった夜を見ないと止まらない」


 白川の声は淡々としていた。淡々としているから、命令みたいに聞こえる。助言ではない。手順だ。手順は制度だ。制度は裁判だ。


 ユウは唇を噛んだ。


 声が遠いのに、言葉ははっきり頭に残る。残ることが怖い。残る言葉は札になる。札は貼り付く。


 ユウは視線を動かした。


 部屋の壁。


 自分の部屋の壁紙が、ゆっくりと滲んでいる。水が染みるみたいに。滲みの中から、数字が浮かぶ。


 日付。


 半年前の日付。


 ユウが初めて死んだ夜の、日付。


 壁に日付がある。


 現実の壁に、夢が書き込んでくる。


 ユウは立ち上がろうとして、膝が震えた。


 胸の札が冷たい。札はまだそこにある。追記で軽くなったはずなのに、軽くなった分だけ、存在がはっきり分かる。軽い鎖ほど、絡みついてくる。


 壁の日付が、さらに濃くなる。


 そして、その下に、薄い文字が滲む。


 次は、お前の番だ。


 ユウは目を閉じた。


 閉じたまぶたの裏で、鉄の味が濃くなった。


 誰かの夢の残り香ではない。


 自分の死の匂いだ。


 暗転。

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