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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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第15話 免疫——世界は「悪夢殺し」を排除しようとする

 朝礼の体育館は寒かった。


 冬の手前の冷え方だ。床から冷気が上がってくる。上履きの薄いゴムを通って、足の裏がじわじわと冷える。生徒は体を丸め、前の列の背中に合わせて並ぶ。ざわざわした声が、いつもより小さく聞こえた。


 ユウは列の端に立ち、担任を見た。


 壇上の担任は、普通に話している。


 校長の挨拶の後、生活指導。注意事項。今日の予定。言葉は正しい。間も正しい。声量も正しい。教師としての動作のすべてが、正しい。


 なのに、目が乾いている。


 瞬きが少ない。


 目を閉じるべきときに閉じない。乾いた目が、体育館の光を反射して白く見える。人を見ているのに、見ていない目だ。


 ユウは喉の奥が乾いた。


 眠れていないのではない。


 眠りに侵食されている。


 そういう種類の乾き方だった。


 担任が一度だけ、原稿をめくった。紙の端を揃える。その動きが、機械のように滑らかだった。滑らかすぎて怖い。人間は滑らかに動くとき、どこかに迷いがある。迷いがないのは、手続きだ。


 列の中で、誰かが小さく咳をした。


 次の瞬間、前の方の生徒がふらりと倒れた。


 倒れ方は派手ではない。膝から落ちる。体が折れる。制服の布が擦れる音がして、床に額が当たる。短い音。


 周囲がざわめく。


「大丈夫?」


「先生!」


 担任はそれを見た。


 見てから、動いた。


 反応が遅い。


 ほんの半秒。けれど、半秒が長い。倒れた子の体が床に定着してから動く。定着するまで待っていたみたいに。


 担任は走らない。歩幅を大きくして近づく。落ち着いている、というより、急ぐという概念が欠けている。


 ユウは息を止めた。


 あの遅さは、夢の中の遅さだ。現実にいる人間の遅さではない。


 保健室へ運ぶことになり、朝礼は中断された。列が崩れ、生徒がざわつく。教師が声を張り、場を戻そうとする。いつもの光景のはずなのに、ユウの目には全部が薄く見えた。現実の皮が薄くなっている。


 教室へ戻る途中、ユウのスマホが震えた。


 会議室の番号。


 ユウは廊下の端で立ち止まり、画面を見る。メッセージが表示される。短い文。余計な挨拶はない。


「対象は高危険度。あなたが整流しなければ、学校全体に波及する」


 担任のことだ。


 ユウは返信しようとして指が止まった。言葉が、すぐには出ない。言葉を出す前に、怒りが来る。


 弄ぶな。


 そう思った。担任は人間だ。欠落しているかもしれない。でも人間だ。対象、という言い方で片づけられるものではない。


 ユウは短く打った。


「先生を弄ぶな」


 送信。


 返事はすぐ来た。


「あなたも対象だ」


 ユウの背中が冷えた。


 対象。


 自分も同じ括りだ。保護対象ではない。管理対象だ。会議室で感じた感覚が、文字になって戻ってきた。


 ユウはスマホを握りしめた。


 廊下の端に貼られた掲示が目に入る。進路指導の予定表。面談の時間割。提出物の期限。学校は、札だらけだ。札で人を動かしている。今まで気づかなかっただけで、制度はずっとそこにあった。


 教室に入ると、ミサキがいた。


 ミサキは席に座っていた。姿勢は真っ直ぐ。顔色も悪くない。けれど手が机の下で固く握られている。指の関節が白い。


 ユウが近づくと、ミサキは小さく言った。


「先生の声、聞いた?」


 ユウは頷いた。


「なんか、変だった」


 ミサキは言った。言いながら、唇がわずかに震える。


「玄関の扉の外の、ただいまを思い出した」


 ユウの胸が痛くなった。


 第10話で消したはずの恐怖が、再点火している。家族の声。扉の向こうの声。現実のはずなのに現実ではない声。ミサキの中で、境界線が揺れている。


「白い線、見てるって言ってたよな」


 ユウが言うと、ミサキは頷いた。


「最近、線の外に出ると、声が聞こえる気がする」


 ユウは息を吐いた。


 夢の中のルールが、現実の感覚に残っている。ルールは守りになる。でも守りが強いほど、その外側は敵になる。外側が敵になるほど、世界は二分される。二分された世界は、どちらかを排除しようとする。


 ユウは決めた。


 担任を守るためだけではない。


 ミサキたちを守るために入る。


 そうしないと、学校が持たない。学校が持たないと、共鳴が加速する。加速したら、入口が増える。白川の声が頭の中で鳴る。止めるな。止めれば別の入口が生まれる。


 放課後、担任はいつも通り職員室にいた。


 職員室の空気は、授業中よりも重い。プリンターの音。紙の匂い。コーヒーの匂い。机の上に積まれた書類。教師たちがそれぞれの仕事に沈んでいる。沈んでいるのに、表情は薄く笑う。忙しさを「普通」にする場所だ。


 担任はユウを見ると、軽く頷いた。


「成瀬。どうした」


 声はいつもと同じに聞こえる。けれど、目が乾いている。瞬きが少ない。言葉の端に、人間の湿り気がない。


「先生、ちょっと」


 ユウは言った。


「昨日から、変です」


 担任は瞬きしなかった。


「そうか」


 否定もしない。驚きもしない。そうか、で済ませる。済ませることが、もう危険だ。


 ユウのスマホが震えた。


 組織からの追い打ちのような通知。


「本日中に侵入し、整流を実施せよ」


 命令。


 命令はルールになる。ルールは世界を変える。でも、命令する側がルールを握ると、世界は歪む。


 ユウはスマホをポケットに押し込み、担任を見た。


「先生、今日は早く帰って寝てください」


 担任は少しだけ首を傾けた。理解しようとしているように見える。でも、その動きも滑らかすぎる。理解ではなく、処理に見える。


「今日は書類がある」


「明日でいいです」


 ユウは言い切った。言い切ることで、自分が教師みたいになる。言い切りは危険だ。言い切りは判決になる。判決は鎖になる。


 担任は、短く息を吐いた。


「……わかった」


 その返事に温度がなかった。


 夜。


 ユウは机の上にメモ帳を広げた。会議室で渡されたログのフォーマットが頭にある。観測可能な形で書け、と言われた。夢を観測することは、夢を制度にすることだ。でも今は、書かないと自分が消える気がした。書かないと、欠落がどこで起きたか分からなくなる。


 白川に電話をした。繋がるまでに三回鳴った。


「入る」


 ユウは言った。


「担任の夢に」


「入れ」


 白川は短く言った。


「殺すな」


「わかってる」


 ユウは言った。


 殺すな、は第12話の理屈だ。装置を外すな。外したら壊れる。担任を壊したら、学校が壊れる。学校が壊れたら、共鳴が加速する。加速したら、都市が揺れる。


 ユウは横になり、目を閉じた。


 落ちる感覚が来る。


 胃が浮く。耳が遠くなる。呼吸が浅くなる。落下は慣れない。慣れないことが救いだ。慣れたら、感覚が削れてしまう。


 次に目を開けたとき、ユウは職員室にいた。


 職員室なのに、広い。


 机が傍聴席になっている。生徒指導の机が、保護者席になっている。黒板が裁判官席になっている。ホワイトボードには、札が並んでいた。


 生活指導。


 保護者。


 成績。


 出席。


 同意書。


 札は整然と並び、どれも白い紙に黒い文字。会議室の名札に似ている。現実の怖さが、そのまま夢の空間になっている。


 被告席があった。


 そこに担任が座っていた。


 担任の顔は見えない。


 黒く塗り潰されている。


 黒塗り。


 名前札の裏の黒塗り。エレベーターで見た幻覚の黒塗り。世界は、黒塗りで人を消す。消して、手続きを続ける。


 担任は動かなかった。動けないのか、動かないのか分からない。肩がわずかに上下しているだけで、生きていることだけがわかる。


 裁判官席から、声がした。


 声は人の声ではない。職員室のスピーカーの声に似ている。校内放送の声に似ている。正しさを読み上げる声。


「生徒を守れ」


 言葉が鎖になった。


 鎖は文字でできている。文字が束になって、担任の喉に巻き付く。巻き付くときの音は静かだ。紙が擦れる音。鎖なのに、金属の音がしない。その静けさが怖い。


「事故を起こすな」


 鎖が増える。


「記録を残せ」


 増える。


「責任を取れ」


 担任の喉が締まる。担任は声が出ない。顔が黒塗りだから、表情も分からない。分からないことが、余計に怖い。泣いているのかもしれない。怒っているのかもしれない。けれど、黒塗りの下は見えない。


 ユウは息を止めた。


 恐怖の核は怪物ではない。


 正しさだ。


 善意が義務になり、義務が暴力になる。


 ユウは一歩前に出た。


 鎖を斬ることはできる。斬れば軽くなる。けれど斬れば増える。第6話と同じ。増える。拡散する。正しさは拡散したら止まらない。


 ユウは、斬らない。


 整流する。


 整流は、形を変える。処理可能なサイズにする。要約する。折りたたむ。追記する。


 ユウは裁判官席の方を見た。


「これ、誰が言ってる」


 答えはない。


 答えがないのに、言葉は続く。


 そのとき、別の音が混ざった。


 駅のアナウンス。


 第13話の声。


 同じ種類の冷たさ。同じ種類の丁寧さ。制度の声。


「成瀬ユウ」


 ユウの背中が冷えた。


 夢の中で、自分の名前が呼ばれる。呼ばれたら逃げられない。呼ばれることは、生存確認であり、拘束だ。


「成瀬ユウ。夢に介入した。記録を改変した」


 裁判官席の札が、ユウの胸に飛んできた。


 生活指導、保護者、成績、出席、同意書。


 札が貼り付く。


 紙が肌に貼り付く感触。冷たい。湿っている。第11話の名前札の湿り気に似ている。札は剥がれない。剥がそうとすると、皮膚が引っ張られる。


 ユウは理解した。


 世界が反撃している。


 ユウが夢を整流し、境界を作った行為が、違反として裁かれている。


 世界は悪夢殺しを異物として排除しようとしている。


 敵は怪物ではない。


 世界の反応だ。


 ユウは歯を食いしばった。


 判決文が続く。


「同意なく介入するな」


 鎖がユウの足首にも絡みつく。動けなくなる。動けなくなると、視界が狭くなる。視界が狭くなると、夢は深くなる。深くなると、現実から遠ざかる。


 ユウは焦りを押し殺した。


 焦れば斬りたくなる。斬れば増える。増えたら負ける。


 ユウは、机の上に置かれた判決文の紙を見つけた。


 紙は長い。帯のように長い。文章がびっしり書いてある。条文みたいに番号が振られている。読めば読むほど、逃げ道がなくなる文章。


 ユウはその末尾に指を置いた。


 追記する。


 判決を無効化しない。


 適用範囲を狭める。


 世界の免疫はルールを嫌うのではない。ルールを奪う。ならば、ルールを取り返す。


 ユウは小さく書いた。


「ただし、同意のある範囲に限る」


 文字は細い。目立たない。けれど夢の中では、目立つ必要はない。成立することが大事だ。成立すれば、世界はルールを飲むしかない。


 ユウは次に書いた。


「ただし、命の危険が差し迫るときに限る」


 追記が紙に沈む。


 沈んだ瞬間、空気が変わった。


 鎖が一瞬、緩む。


 担任の喉に巻き付いていた文字の鎖が、ほんの少しだけほどける。ほどけた分、担任は息を吸った。吸った音が、紙の擦れる音よりも大きく聞こえた。


 裁判官席の声が止まる。


 止まったのではない。躊躇した。ルールに引っかかった。適用範囲が狭まったことで、世界は「正しさ」をそのまま振り下ろせなくなった。


 ユウは息を吐いた。


 勝った、と思いかけて、すぐに気づく。


 世界は負けない。


 負けないための免疫だ。


 追記が成立した瞬間、担任の顔の黒塗りが、少しだけ剥がれた。


 黒い膜が、紙のようにめくれる。


 めくれた下に、担任の目が見えた。


 泣いていた。


 涙が頬を伝っている。けれど、泣いているのに声が出ない。声は鎖に締められたままだ。泣くことだけが残っている。


 ユウの胸が痛くなった。


 担任も被害者だ。制度に裁かれている。誰も悪者ではない。構造が追い詰めている。追い詰められた善意が、暴力になる。


 その瞬間、ユウの頭の中で何かが切れた。


 音もなく。


 光もなく。


 ただ、一秒ぶんだけ、ぽっかりと空く。


 半年前の夜の直前。


 自分が初めて死んだ、その直前の記憶。


 そこに続くはずの映像が、一秒だけ消える。


 ユウは立っていられなくなった。


 膝が折れる。床に手をつく。床は冷たい。職員室の床の冷たさ。現実の床に似ている。似ているから怖い。夢と現実の境界が薄い。


 ユウは息を荒くした。


 記憶が欠けた。


 欠落は、世界の反撃の具体化だ。


 世界はユウを排除しようとしている。排除の方法は、隔離ではなく、削除だ。ユウの中身を削る。入口を入口でなくす。


 担任が、かすかに動いた。


 鎖が緩んだことで、体が前に倒れそうになる。それを必死で支えている。泣いている。泣きながら、呼吸をしている。


 ユウは歯を食いしばり、担任の腕を掴んだ。


 腕は冷たい。制服の布越しでも分かる冷たさだ。眠りに侵食されている冷たさ。


「戻るぞ」


 ユウは言った。


 担任は頷いた。頷きが遅い。けれど、さっきの現実の遅さとは違う。これは、涙の重さだ。生きている遅さだ。


 ユウは担任を立たせ、職員室の出口へ向かって歩いた。


 傍聴席の机が、左右に並ぶ。札が並ぶ。生活指導、保護者、成績、出席、同意書。


 札はまだ残っている。


 裁判は終わっていない。


 正しさは消えない。


 消えないから怖い。


 出口の直前で、裁判官席が囁いた。


「次は、お前の番だ」


 ユウの背中に冷たいものが落ちた。


 囁きは声ではなく、紙の擦れる音に混ざっていた。聞こえたのは自分だけかもしれない。聞こえたと思っただけかもしれない。けれど、そういう曖昧さが一番怖い。認知のズレが怖さを作る。


 ユウは目を閉じた。


 落ちるのではない。戻るために。


 次に目を開けたとき、ユウは自分の部屋の天井を見ていた。


 時計の針が進んでいる。現実の時間。現実の光。机の上のメモ帳。ペン。スマホ。


 スマホが震えていた。


 ログ提出の通知だ。


 ユウは起き上がろうとして、頭がぐらついた。


 欠落した一秒が、身体のバランスまで奪っている。記憶はただの映像ではない。人間の土台だ。土台が欠ければ、立つことも難しい。


 ユウは深呼吸し、メモ帳に書いた。


 職員室。裁判所。判決文。追記。黒塗り。涙。記憶欠落。


 書いているうちに、手が震えた。震えは止まらない。止まらないまま、文字だけが増える。増えることで落ち着く。増えることで、自分がまだここにいると確認できる。


 翌朝。


 担任は教室にいた。


 昨日より目が少しだけ湿っている。瞬きが増えている。抑揚がわずかに戻っている。戻っている、と言えるほどではない。でも、昨日の乾き方ではない。


 授業は普通に進んだ。


 普通に進むことが、不気味だった。


 普通に戻ったから終わり、ではない。普通に戻ること自体が、夢の反動かもしれない。防波堤は、一度でも外れたら戻り方が変わる。


 昼休み、担任がユウを呼び止めた。


「成瀬」


 教室の外。廊下。人の流れが少ない時間。担任はユウの目を見ない。窓の外を見たまま言った。


「……君に、迷惑をかけたな。すまない」


 ユウの背筋が冷えた。


 担任は夢の中のことを覚えていないはずだ。覚えていないなら、謝る理由がない。迷惑をかけた、と感じる根拠がない。


 なのに、謝った。


 謝り方が、夢の中の泣き方に似ている。言葉が短い。余計な説明がない。説明がないから、余計に怖い。


「先生、何のことですか」


 ユウが聞くと、担任は小さく首を振った。


「分からない。だが……そう言わないといけない気がした」


 世界の免疫は、夢と現実の境界を薄くしている。


 夢の裁判が、現実に滲んでいる。


 ユウは言葉が出なかった。


 担任はそれ以上何も言わず、職員室へ戻っていった。背中が少し丸い。丸い背中が、昨日の黒塗りの被告席に重なった。


 ユウはその場に立ち尽くした。


 ポケットの中でスマホが震えた。


 メッセージ。


 送信者は、組織の番号。


 画面を見る。


「次の対象を通知します」


 ユウは息を止めた。


 次の対象。


 また誰かが指定される。担任の次は誰だ。ミサキか。菜々か。別の生徒か。自分か。


 通知の続きが表示された。


「対象:成瀬ユウ」


 ユウの指先が冷えた。


 自分の名前が、対象として表示される。


 自分が入口だという言葉が、もう比喩ではなくなる。比喩ではなく、業務の項目になる。管理の項目になる。裁判の札になる。


 ユウはスマホを握りしめた。


 半年前の夜の直前の一秒が、思い出せない。


 思い出せないことが、次の扉だ。


 世界はユウを排除しようとしている。


 排除の方法は、判決だ。


 判決の方法は、正しさだ。


 正しさは、誰も止められない。


 ユウはゆっくりと息を吐いた。


 吐いた息が白くならない季節なのに、吐いた息が白く見えた気がした。


 白い線が、廊下の床に引かれている気がした。


 越えてはいけない線。


 でも、越えなければ自分の番が来る。


 もう来ている。


 暗転。

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