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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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14/24

第14話「公式接触——“悪夢殺し”は保護対象か、実験体か」

 着信音は、いつもの音だった。


 それなのにユウは、音の鳴り始めで身体が固まった。スマホが震える。机の上で、ほんの数ミリずつ滑る。学校の昼休み。誰かが笑っている。廊下でボールが跳ねる。いつも通りのはずの空気の中で、スマホの振動だけが別の質感を持っていた。


 画面には、知らない番号が出ていた。


 非通知でもない。迷惑電話にありがちな海外の番号でもない。日本の番号の並び方だ。地域表示も出る。けれどユウは、その地域に知り合いがいない。


 出るべきかどうか、迷う時間は短かった。


 迷う時間が短いことが怖かった。もう、こういう電話に慣れ始めている自分がいる。慣れは、危険の最初の兆候だ。白川が言った「遮断」に似ている。怖さを薄めて、生きるために感覚を削る。


 ユウは校舎裏の階段へ移動し、誰もいない踊り場で通話ボタンを押した。


「もしもし」


 返事は、すぐ来なかった。


 呼吸音だけがある。呼吸は静かで、長い。男の息。煙草の匂いもしない。緊張もない。ただ、こちらを待たせることに慣れている呼吸だった。


 ユウは言い直した。


「もしもし。成瀬です」


 その瞬間、相手は滑らかに答えた。


「成瀬ユウさんでお間違いないですね」


 敬語。丁寧。だが温度がない。役所や銀行の窓口に似ている。感情を混ぜないことで、相手を「手続き」に落とす声。


「どちらさまですか」


「あなたの睡眠異常について、保護と確認を行います」


 ユウは息を止めた。


 睡眠異常。


 その言葉の使い方が、現実に刺さった。悪夢だとか、怪異だとか、入口だとか、そういうこちら側の言い方ではない。社会の言い方。診断名でもなく、しかし「異常」と切り捨てる分類。


「保護と確認って、何ですか」


「本日十九時。指定の場所へお越しください。詳細は到着後に」


「場所って」


「駅近くの貸会議室です。住所をお送りします」


 通話が切れた。


 切り方まで丁寧だった。失礼します、も、よろしくお願いします、もない。必要な情報だけを渡して、線を切る。これが仕事の会話だということを、切れ方で分からせてくる。


 ユウはスマホを見下ろした。通話終了。画面が暗くなり、薄く自分の顔が映った。目が少し赤い。睡眠が足りていない目。自分が入口だと言われた目。


 すぐにメッセージが届いた。


 住所。時間。部屋番号。フロア。受付方法。


 細かい。手際がいい。個人がやる連絡ではない。テンプレートを持っている連絡だ。


 ユウはスマホを握りしめた。


 胸の奥が、冷たくなる。


 学校のチャイムが鳴った。昼休みの終わり。現実の合図。ユウは階段を下り、教室へ戻った。


 授業は頭に入らなかった。


 黒板の文字を追っても、文字の端が少し滲む。教師の声は聞こえているのに、意味が一拍遅れてくる。ユウはノートに線だけ引いた。線を引くと、少し落ち着く。第13話の白線を思い出す。ルールを作るための線。守るための線。


 授業が終わり、放課後になった。


 ユウはミサキを呼び止めた。廊下の端。窓際。人の流れから少し外れた場所。二人きりになれるところは、今では意識しなくても選べるようになっていた。選べるようになったことが、また怖い。


「ミサキ、ちょっと」


 ミサキは振り返り、頷いた。髪が揺れる。制服の襟が少しよれている。表情は落ち着いているように見える。けれど、目の奥に薄い影がある。


「今日、白川のとこ行くんだろ」


 ミサキは先に言った。


「うん。というか、別の用事ができた」


「また、夢のこと」


「そう」


 ミサキは唇を噛み、視線を落とした。


「私さ。最近、白い線を見る」


 ユウの背中に冷たいものが走った。


 白い線。


 ユウが夢の中で引いた線。アナウンス禁止区域。声を止めるための命令。ルールを成立させるための境界。


「夢の中で?」


「うん。駅じゃなくても。どこでも。床に白い線があって、越えちゃいけないって思う」


 ミサキは笑おうとした。


 でも笑いが遅い。口角が上がるまでに、わずかな間がある。その間が、夢から現実へ戻るときの遅延に見えた。彼女の中で、まだ何かが整列しきっていない。


「大丈夫だよ」


 ユウは反射で言いかけて、飲み込んだ。


 大丈夫、は軽すぎる。軽すぎる言葉は、夢の中で剥がれる。剥がれたら、現実で欠落になる。白川の言葉が頭の奥で鳴る。欠落はゼロにならない。


 ユウは言い直した。


「それ、増えてるんだと思う。俺が止める」


 ミサキは頷いた。


「ユウが、何かしてるんだって分かる」


「分かる?」


「分かるっていうか、残ってる。夢の感触。白い線を見ると、私、声が出しにくくなる」


 ユウは目を閉じたくなった。


 ユウが作ったルールが、彼女の身体に残っている。善意が、構造化していく。構造化したものは便利だ。便利なものは広がる。広がるものは、誰かを巻き込む。


「俺、今日……会議室に呼ばれてる」


 ユウは言った。


「知らない番号から、保護と確認って」


 ミサキの眉が動いた。


「それ、やばいやつじゃない」


「わからない。でも行かないと、もっとやばくなる気がする」


 ミサキは少し黙ってから言った。


「白川に言った?」


「まだ。でも今から言う」


 ミサキはユウの袖を掴んだ。短い動作。掴んで、すぐ離した。掴んだこと自体を恥ずかしがるみたいに。


「無理すんなよ」


 その言葉が、ユウの胸に重く残った。


 無理するな、は優しい言葉のはずなのに、言われた側は「無理している」と見抜かれた証拠になる。菜々が上司に言われたのと同じだ。言葉の形は同じでも、状況が変わると刃になる。


 ユウはミサキに背を向けずに、スマホを取り出した。白川に電話をかける。呼び出し音。二回目で繋がった。


「白川先生」


「どうした」


 いつもの声。淡々として、早い。要点だけを求める声。


「知らない番号から連絡がありました。十九時に駅近くの貸会議室へ来いって。睡眠異常の保護と確認」


 沈黙が少しだけあった。


 その沈黙が長くないことが、逆に怖かった。白川は驚いていない。


「行け」


 白川は一言だけ言った。


「逃げるな」


 ユウは喉が乾いた。


「先生は……それ、知ってたんですか」


「知っていることと、伝えることは違う」


 白川の言い方が、会議室の名札の声に似ていた。手続きの声。感情を混ぜない声。


「危険なんですか」


「危険は常にある」


「守ってくれるんですか」


 ユウが言うと、白川は少し間を置いた。


「君は必要だ。だから、死なせないようにはする」


 守る、とは言わない。必要だから死なせない。保護ではなく、運用の言葉だ。ユウはその言い方に、背中が冷えた。


「……わかりました」


 ユウは電話を切った。


 ミサキが小さく息を吐いた。


「白川、何て」


「行けって」


「行くの?」


「行く」


 ユウは言い切った。


 言い切らないと、足が止まる。止まったら、波が追いつく気がした。


 ミサキは頷いた。頷き方が遅い。頷くまでに、一拍ある。その一拍が、ユウの胸に引っかかった。


 ユウは会議室へ行く前に、一度家へ戻った。制服を着替え、上着を羽織った。財布とスマホと、充電器。ペン。メモ帳。何かを書いておきたかった。言葉が欠落する前に、記録として残しておきたかった。


 鏡に映る自分の顔は、普通だった。


 普通であることが、怖かった。


 世界のほうが先に動いているのに、自分の見た目だけが普通で、生活の皮を被っている。皮があるうちは生きている。皮が剥がれたら、制度に裸で立たされる。


 十九時前、ユウは駅へ向かった。


 駅は夕方の人で混んでいた。帰宅する制服。仕事終わりのスーツ。買い物袋を持つ家族。スマホを見ながら歩く人。誰もが自分の世界に閉じている。閉じているからこそ、人の流れは滑らかに動く。


 ユウは改札を通らず、駅前のビルへ向かった。指定された住所。貸会議室と書かれた案内板。エレベーターで上の階へ。


 廊下は静かだった。薄いカーペットの匂い。空調の音。壁の案内に、部屋番号が並ぶ。会議室。セミナー室。面接室。ここは現実の中の「手続き」の場所だ。夢の会議室が現実に出てきたみたいだった。


 指定の部屋の前に立つと、ドアの横に小さな受付があった。名簿とペン。入室者のチェック欄。ユウは名前を書く。成瀬ユウ。字が少し震える。震えるのは、身体が正直だからだ。頭は平気なふりをしても、身体は危険を知っている。


 ドアを開ける。


 会議室は思ったより小さかった。机がコの字に並び、正面にスクリーン。壁に時計。天井の蛍光灯が白い。窓はない。逃げ道が少ない。これだけで、空間がホラーになる。


 机の上に、名札が並んでいた。


 白い紙に黒い文字。名前。所属。役職。


 ユウは一瞬、息が止まった。第11話の駅ホームで落ちてきた名前札を思い出す。札は、ここでは整然と並んでいる。落ちてこない。剥がれない。けれど、その整然さが逆に怖い。


 その中に、白川の名札があった。


 白川 睡眠医療研究班。


 名札はある。本人はいない。


 ユウは椅子に座らず、立ったまま周囲を見た。


 スーツの男女が数名いた。年齢はばらばら。三十代から五十代。全員が同じように整った服を着ている。ネクタイの色が違う程度。目線はユウを見るが、表情は動かない。


 医療者に見える白衣の人が一人。研究者らしい眼鏡の人。行政っぽい、言葉の角が丸い人。どの人も、名札をつけている。名札が顔より先に目に入る。顔が人間である前に、所属が人間を作っている。


 一番奥に座る男が口を開いた。


「成瀬ユウさん。本日はお越しいただきありがとうございます」


 声は丁寧だった。温度がない。


「まず本人確認を行います」


 男は紙を一枚出した。項目が並ぶ。住所。生年月日。学校名。保護者の氏名。緊急連絡先。ユウは答えた。答えながら、名前札が剥がれる感覚がよぎる。答えるほど、知られていく。知られるほど、床が白くなる。


 本人確認が終わると、男は言った。


「あなたの睡眠異常に関する事実確認をします。こちらが把握している内容と、相違がないかを確認してください」


 ユウは言った。


「把握しているって、何を」


 男は迷いなく言った。


「あなたが介入した眠りの主の人数。日時。悪夢の特徴。救済後の欠落傾向。あなたが取った手段。殺害、封印、整流。あなたが作った境界。白線」


 ユウの背中が冷えた。


 誰にも話していない。ミサキにも全部は話していない。白川にも、話していないことがある。なのに彼らは淡々と列挙した。列挙の仕方が、すでにデータだ。記録だ。ログだ。


 研究者らしい眼鏡の女が、タブレットを操作しながら言った。


「あなたが介入したケースの翌日、都市の睡眠同期率が上昇しています。あなたの行動は、局所の改善と同時に、全体の共鳴に影響を与えている可能性があります」


 ユウは思わず声が強くなった。


「それって、俺のせいだって言いたいんですか」


 行政っぽい男が、柔らかい声で言った。


「責任追及ではありません。現象の把握です」


 責任追及ではない、という言い方は、責任を追及できる立場からの言い方だ。ユウはその言葉の構造に、喉が痛くなった。


 白衣の医療者が言った。


「あなたの行為は、救済にも見える。しかし、欠落を生んでいるケースもある。本人が日常生活を維持できなくなるリスクがある」


 ユウは反射で言い返した。


「俺は人を救ってます。ミサキも、森下さんも」


 眼鏡の女が淡々と言った。


「救っているか、壊しているか、まだ分からない」


 その言葉は、ユウの胸に刺さった。


 分からない、と言いながら、こちらを評価している。観測し、分類し、判断するために集まっている。救うという言葉の裏に、制御がある。


 一番奥の男が言った。


「我々は、あなたに二つの選択肢を提示します」


 机の上に、二枚の紙が置かれた。


 A 協力。監視下で活動。保護あり。家族・学校への介入を最小化。


 B 非協力。危険人物として隔離。活動停止の試み。


 紙の文字は簡潔だった。簡潔であるほど、逃げ道がない。選択肢が二つしかない時点で、自由はない。制度の自由は、提示された枠の中でしか動けない。


 ユウは紙を見て、笑いそうになった。笑いが出るほど現実離れしているのに、現実だ。現実の会議室で、現実の大人が、未成年に隔離を提示している。


「脅しですか」


 ユウが言うと、行政っぽい男が言った。


「これは、安全のための措置です」


 安全。


 安全という言葉は便利だ。安全の名のもとなら、ほとんどのことが正当化される。白川が言った「安全装置」が脳の話だったのに対して、こちらの安全は社会の装置だ。装置は人を守る。装置は人を削る。


 ユウは拳を握りしめた。


「俺は危険人物じゃない」


 眼鏡の女が言った。


「危険性があるかどうかを判断するための場です」


 判断は、すでに始まっている。判断する側に座っている彼らの前で、ユウはただの対象だ。


 ユウは言った。


「協力したら、何が保護されるんですか」


 一番奥の男が淡々と答えた。


「あなたの身元。家族への接触の制限。学校への介入の調整。必要であれば転校や生活環境の再設定も検討します」


 転校、という言葉が、現実の重さで落ちてきた。


 悪夢の中では駅が無限になる。会議室では名札が削れる。現実では転校が起きる。どれも同じ種類の恐怖だ。人生の次が空白になる恐怖。


 ユウは喉の奥で唾を飲み込んだ。


「非協力だと」


 男は言った。


「隔離の検討。医療保護入院の可能性。あなたの睡眠環境の強制的な管理。端的に言えば、活動停止です」


 活動停止。


 それは「悪夢殺し」をやめさせるということだ。やめさせて、共鳴が止まる保証はない。むしろ白川が言った。「止めれば別の入口が生まれる」


 ユウは、白川に電話したときの言葉を思い出す。必要だ。だから死なせない。守るとは言わない。


 この会議室には、白川の名札はあるのに本人がいない。いないことが、圧になる。白川がここで何をしているのか分からない。味方なのか、手配者なのか。


 そのとき、一番奥の男が言った。


「ここで、参考情報として、白川医師からのメッセージを共有します」


 机の上のスピーカーが点灯した。


 録音が流れた。


 白川の声だった。いつもと同じ、淡々とした声。


「彼は入口だ。止めるな。止めれば別の入口が生まれるだけだ」


 会議室の空気が、わずかに動いた。


 スーツの男女が互いを見た。小さなざわめき。ざわめきは声にならず、椅子のきしみや紙の擦れる音として出る。


 白衣の医療者が小さく言った。


「入口、という概念は……」


 眼鏡の女が言った。


「比喩か、仮説か。いずれにしても、現象を説明するのに便利すぎる言葉です」


 便利すぎる言葉は危険だ。便利な言葉は、制度に取り込まれる。取り込まれたら、人は言葉で管理される。


 ユウはスピーカーを見た。


 白川は、ここにいない。でも録音を残している。録音は「守る」ではなく「止めるな」だ。守るためではない。必要だから止めるな。ユウはそのニュアンスを、肌で感じた。


 一番奥の男が言った。


「白川医師は、あなたの活動停止に反対しています」


 ユウは言った。


「だから何ですか」


「あなたの活動は、現時点では必要だという判断がある。よって協力を前提とした条件提示になります」


 条件提示。


 取引が始まった。


 男は紙を一枚めくり、淡々と言った。


「協力条件を提示します」


 項目が並んでいる。


 一、悪夢の殺しは原則禁止。整流、封印を優先。


 二、夢への侵入ログの提出。記録の提出。


 三、指定対象の優先。危険度が高い眠りの主を優先して対応。


 ユウは紙を見つめた。


 殺し禁止。


 第12話で白川が言った理屈が、現実のルールになる。悪夢は防波堤。装置。外すな。外したら壊れる。理屈は理解している。けれど現場では、殺したほうが早い場面がある。早さが求められる場面がある。そこを禁止される。


 ログの提出。


 夢の記録。ユウの頭の中に入って、そこから情報を持ち出す行為だ。ユウ自身が、アナウンスの「知られる恐怖」を体験したばかりだ。今度は制度が、ユウの夢を記録する。


 指定対象。


 誰を救うかを自分で選べない。救う順番が、制度に決められる。救いが業務になる。業務になった瞬間、救いは手続きになる。


 ユウは言った。


「俺は、道具じゃない」


 眼鏡の女が言った。


「道具にするためではありません。安全な運用のためです」


 運用。


 その言葉が、ユウの胸を冷やした。


 白衣の医療者が言った。


「あなたは未成年です。保護が必要です」


 保護。


 さっき電話で言われた言葉と同じ。保護と確認。保護は優しい言葉の顔をしている。けれど保護は、拘束にもなる。保護は、意思決定の権利を削ることにもなる。


 ユウは席に座った。座らないと、足が震えるのが見える気がした。座れば、震えはテーブルの下に隠せる。隠すことができる場は、まだ現実だ。


「協力したら、ミサキや森下さんは守られるんですか」


 ユウがそう言うと、一番奥の男は少しだけ首を傾けた。


「守る、というのは定義が必要です」


 定義。


 現実は定義で人を縛る。


「あなたの周囲の人間関係に対して、無用な接触は避けます。ただし、必要であれば調査します」


 必要であれば。


 その四文字で、何でもできる。


 ユウは唇を噛み、言った。


「非協力だと、隔離ですよね」


「検討します」


 検討します、は決定とほぼ同じだ。検討される側は、検討の場にいない。


 ユウは拳を開き、掌を見た。掌は汗で湿っている。汗の匂いが少し鉄っぽい。緊張の匂い。自分が生きるための匂い。


 ユウは言った。


「協力します」


 声は思ったより落ち着いて出た。落ち着いて出たことが怖かった。自分が交渉に慣れていく。交渉に慣れるほど、人は削れる。削れて、社会人になる。菜々の夢の改札のように。


 一番奥の男が頷いた。


「ありがとうございます。では、書面を」


 契約書のような紙が出た。署名欄。印鑑欄。保護者同意欄。ユウはそれを見て、目の奥が痛くなった。現実が一気に重くなる。悪夢の中の札より、現実の紙のほうが重い。


 ユウは署名をする前に言った。


「白川先生は、どこにいるんですか」


 男は言った。


「本日は出席しておりません」


「出ないんですか」


「必要な場面では出ます」


 必要。


 またその言葉だ。


 ユウは署名した。成瀬ユウ。書くとき、字が少し歪んだ。歪んだ字が、現実の不安をそのまま写す。


 眼鏡の女が言った。


「ログの提出方法を説明します。あなたは夢から覚めた直後に、指定のフォーマットで記録を入力してください。主観でも構いませんが、できるだけ観測可能な形で」


 観測可能。


 夢を観測可能にする。それは整流の延長に見える。けれど、観測可能にすることで夢は制度に取り込まれる。取り込まれた夢は、誰のものになるのか。


 行政っぽい男が言った。


「あなたの生活は急に変えません。学校も、家族も。現時点では」


 現時点では。


 条件付きの平穏。条件付きの普通。


 会議は淡々と進んだ。時間は短い。けれど内容は重い。ユウは自分が椅子に座っている感覚が薄くなっていった。会議室という空間が、夢の会議室に重なっていく。


 名札が、気になった。


 スーツの男女の名札。白い紙。黒い文字。所属。役職。そこに人間の顔はない。顔はあるのに、見えない。名札だけが人間を作っている。


 会議が終わりかけたとき、一番奥の男が言った。


「最後に。あなたは『入口』という言葉について、理解していますか」


 ユウは答えたくなかった。


 理解している、と言えば、自分をそこに固定してしまう。理解していない、と言えば、知らないふりをすることになる。どちらも嫌だった。


「……わかりません」


 ユウは言った。


「わかりませんけど、そう言われました」


 男は頷いた。


「現時点ではそれで結構です。必要な情報は段階的に共有します」


 段階的。


 知らされる側は、待つしかない。


 会議は終わった。名札が整然と並び、紙が揃えられ、椅子が戻される。誰も大声を出さない。誰も感情を見せない。丁寧な空間は、逃げ場がない。ホラーは怪物ではなく、丁寧さで生まれることがある。


 ユウは会議室を出た。


 廊下に出ると、空気が少し軽く感じた。窓がない廊下なのに、軽い。会議室の中の空気が、思ったより重かったのだと気づく。


 エレベーターの前に立つ。ボタンを押す。ランプが点く。待つ。


 背後に人の気配があった。振り返ると、さっきのスーツの男女が二人、少し離れて立っていた。ユウと目が合うと、軽く会釈する。その会釈が怖い。礼儀があるからこそ、距離が固定される。礼儀は「あなたはここまで」という線にもなる。


 エレベーターが開いた。


 ユウは中に入り、壁際に立った。スーツの男女も入ってきた。三人。狭い箱。無言。表示階が光る。数字が降りていく。


 そのとき、ユウの耳に、細い音が入った。


 キーン、という耳鳴り。


 小さくて、鋭い。頭の奥の骨に触れる音。夢へ落ちる直前に似ている。落下の前兆。


 ユウは息を止めた。現実で耳鳴りがすること自体はある。けれど今は違う。耳鳴りが、会議室の空気を引きずっている。


 床を見た。


 何もない。カーペット。靴。影。


 次の瞬間、床に名札が落ちているように見えた。


 さっきの名札だ。白い紙。黒い文字。所属。役職。


 落ちている。散らばっている。


 ユウの心臓が跳ねる。


 名札は、一枚だけ裏返っていた。


 裏は黒く塗り潰されている。


 黒塗り。


 駅ホームで、裏返った名前札が黒く塗り潰されていたのを思い出す。名前が消える。役割が消える。人が、空白になる。


 ユウは目を瞬きした。


 名札は消えた。


 床は元通りだった。何もない。カーペットだけ。


 耳鳴りだけが残った。


 エレベーターの中の空気が、少し冷たく感じた。空調のせいかもしれない。でもユウは、それが世界の反応だと感じた。世界が、こちらの行動に反応している。契約が結ばれた瞬間に、世界が「では次だ」と言っている。


 階数表示が一階になった。ドアが開く。


 ユウは外へ出た。ビルのロビーに人がいた。普通の人。仕事帰りの人。セミナー参加者。スマホを見ている人。普通の顔。普通の声。普通がある。


 外へ出ると、駅前のざわめきが戻ってきた。車の音。人の話し声。改札の電子音。現実の音は、乱雑で安心することがある。乱雑だから、特定の声が突出しない。突出しないから、名前を呼ばれない。


 ユウは歩きながら、スマホを見た。


 着信はない。通知もない。会議室で交わしたことは、紙の中に閉じたはずなのに、胸の中ではまだざわついている。


 そして、歩きながらユウは思った。


 自分は取引をした。


 使命ではない。正義でもない。救いたいから、だけではない。


 守りたい人がいるから。隔離されたくないから。生活を壊されたくないから。


 そういう理由で、協力を選んだ。


 その選び方が、現実の重さだ。


 家へ向かう途中、ミサキの顔が浮かんだ。白い線を見る、と言った顔。笑いが遅かった顔。自分が介入するほど、彼女は世界の変化に巻き込まれる。ユウの行動は、誰かを救うと同時に、誰かを巻き込む。


 家に着く前に、スマホが震えた。


 今度はメッセージだった。


 送信者は、登録されていない番号。会議室での担当者かもしれない。画面には短い文が出た。


「初回対象を通知します」


 ユウは立ち止まった。街灯の下。車道の音が遠く聞こえる。風が冷たい。手のひらが汗で湿る。


 通知には続きがあった。


「対象:——」


 名前が表示された。


 ユウの目が、その文字を追う。追って、理解して、背筋が冷える。


 担任の名前だった。


 担任。


 毎日、名前を呼ぶ側の人間。出欠を取る人間。誰が欠席か、遅刻か、提出が遅れているか、把握している人間。個人情報を、口に出さなくても持っている人間。


 その人間が、眠りの主なのか。


 それとも、入口なのか。


 ユウは喉の奥が乾いた。会議室のアナウンスが頭の中で鳴る。欠席日数。面談予定。未送信のメッセージ。


 担任が眠りの主なら、学校はもう安全ではない。


 担任が入口なら、学校は最初から揺れていたことになる。


 スマホの画面が暗くなり、薄く自分の顔が映った。


 ユウの目が、自分の目と合う。


 入口。


 その言葉が、さっきの電話の声と同じ温度で蘇る。


 成瀬ユウ。あなたが入口ですね。


 ユウはスマホを握りしめ、歩き出した。


 歩きながら、決めるしかない。


 担任を救うのか。


 担任から逃げるのか。


 担任に近づくことで、ミサキを巻き込むのか。


 契約書に署名した瞬間から、もう自由ではない。自由ではないのに、選ばなければならない。


 街の明かりが、いつもより白く見えた。


 白い線が、現実の地面にも引かれている気がした。


 越えてはいけない線。


 でも越えなければ、次の波が来る。


 ユウは足を止めなかった。


 暗転。

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