第13話 共鳴——眠れない者は、同じ夢を見る
朝の教室は、いつもより音が薄かった。
誰かが机を引く音がしても、遠い。消しゴムが転がっても、乾いたまま跳ねない。窓の外の運動部の声も、ガラス一枚分だけ遅れて届く。
ユウは席に座り、筆箱を開けた。シャーペンの芯が折れている。替え芯を探そうとして、指が止まる。探す理由が一瞬わからなくなる。頭の中の段取りが、眠りの底に引っかかっている。
教室の前のほうで、女子が友達に言った。
「ねえ、昨日さ。駅。到着しないやつ」
会話の内容は雑談のテンポだった。けれど言葉の中身が、雑談のものではない。
ユウの手のひらが冷える。
女子は続ける。
「電光掲示板、ずっと到着って出てて。電車来るのにドア開かなくて」
隣の友達が笑って返した。
「なにそれ。怖」
怖い、と言いながら笑える程度の夢。夢の話として処理している。だからこそ危ない。そういうふうに処理できる形で、同じ夢が広がっているということだから。
ユウは息を浅くした。視線は黒板のほうを向けたまま、耳だけが言葉を拾う。
別の席から、男子の声がした。
「名前、削れるんだよな」
その言い方が、冗談みたいに軽い。
ユウの背中に汗がにじむ。
駅。到着しない。名前が削れる。
それは森下菜々の悪夢の核だった。会議室へ変形したあとも残っていた、同じ恐怖の骨格だ。菜々を知らないはずの生徒が、それを口にする。情報が伝わったのではない。噂でもない。SNSでもない。
夢の形が共有されている。
担任が入ってきて、出欠を取る。
いつもの流れ。名前が呼ばれ、返事が返る。呼ばれることが、ここでは生存確認になる。欠席が多い生徒の名前は、少しだけ声色が変わる。
ユウは「はい」と返事をした。声が乾いていた。乾いているのに、喉が通る。昨日の夜、誰かの喉を塞いでいた帯の感触が、まだ頭の奥に残っている。
ミサキが振り返って小さく手を上げた。放課後、話したい、という合図。
授業は進んだ。黒板の文字は読める。ノートにも書ける。けれど、どこかで違う時間が流れている。自分の中の眠りが、起きている間にも浸み出してくる。
昼休み、ユウは廊下の端の階段前に立った。人の流れから少し外れる場所。窓からはグラウンドが見える。青い空と土の色が、現実の証明みたいにそこにある。
ミサキが来た。
制服の袖口が少し伸びている。髪は整っている。顔色も悪くない。けれど目の奥が、まだ少しだけ遠い。笑うタイミングの遅さが、消えていない。
「最近さ」
ミサキはユウの目を見ない。窓の外を見たまま言う。
「駅の夢、見る」
ユウは口を開き、すぐ閉じた。うまく反応が出ない。想定していたのに、実際に聞くと身体が固まる。
「駅?」
「うん。ホーム。電車が来るのに、どこにも行けない」
ミサキはさらっと言った。怖がらせたいわけじゃない。ただ事実を報告している。報告の仕方が、すでに夢の共有に巻き込まれた人のそれだった。
「ミサキのやつは……」
ユウは言いかけて止めた。
第10話で、家に戻した。家族の悪夢は境界線で切った。あのとき、ミサキの「家」という領域に、悪夢の侵入を止める線を引いた。確かに効いた。効いたはずだった。
でも今は駅だ。
家族の問題ではない。誰かの家庭に起きたものではない。もっと広い場所の夢が、個人の境界を越えて入ってくる。
「私、駅なんて別に嫌いじゃないのに」
ミサキは言った。
「通学で使うし。待つのも平気。なのに夢の中だと、ずっと呼ばれてる気がして」
呼ばれている。
ユウの心臓が一拍遅れる。
「何て?」
「名前、かな。よくわかんない。アナウンスの音が、私のこと言ってるみたいに聞こえる」
ミサキは指先をこすった。爪の端を弄る癖。現実の緊張が、そこに出る。
ユウは言った。
「それ、俺がどうにかする」
言い切った瞬間、自分の言葉の軽さが怖くなった。どうにかする、という言葉は便利すぎる。便利すぎる言葉は、夢の中で剥がれる。現実の中で欠落になる。
ミサキは少しだけ笑った。
「ユウがそう言うと、なんか大丈夫って思う」
その「思う」が危ない。信じることは救いになる。でも信じられる側は、責任になる。責任は帯になる。帯は喉を塞ぐ。
ユウは視線を落とし、言った。
「白川のところ、行く。今日」
「また?」
「うん。これ、広がってる」
ミサキはそれ以上聞かなかった。聞かないことで保たれる距離がある。ミサキはそれをもう知っている顔をしていた。
放課後、ユウは白川のクリニックへ向かった。
受付の空気は昨日と同じだった。紙と機械の匂い。静かな椅子。誰もいない待合室。呼ばれることのない名前が、ここには溜まっている気がした。
白川はユウを見るなり、机の上のモニターを指した。
「増えている」
ユウは椅子に座る前に言った。
「学校で、同じ夢の言葉が出てます。駅。到着しない。名前が削れる。ミサキまで駅の夢を見た」
白川は頷いた。
「感染じゃない」
「じゃあ何ですか」
「共鳴だ」
白川はそれ以上、長く説明しなかった。ユウが言葉を飲み込む間を待つ。待つことで、ユウの中に自分で答えを作らせる。
ユウが黙っていると、白川は短く言った。
「同じ周波数の恐怖が、近い人間同士で共鳴する」
「周波数って」
「比喩だ。だが現象としては似ている。引っ張られる。揃う。増幅する」
白川は机の上のペンを転がした。ペンは転がり、止まる。その動きに意味はないはずなのに、ユウはそこに「制御」を見てしまう。
白川は続けた。
「SNSの炎上が、現実より速く心を焼くのと同じだ。情報が伝わる前に、感情が揃う。恐怖が揃う。揃った恐怖は、同じ形の夢になる」
説明は短い。現代的な比喩だけで納得させる。白川は説明役ではなく、観測者のままだった。
「じゃあ、俺が整流しても」
「個人に対しては有効だ。だが、共鳴は個人の境界を越える。君が封印した境界線が万能ではない理由がそれだ」
ユウの胸が沈む。
「止められないんですか」
白川は少しだけ目を細めた。計算している顔。
「止める方法はあるかもしれない。だが、止める前に現象を理解する必要がある」
「理解してる間に増える」
「増える。だから君が必要だ」
白川の言葉は、救いにも脅しにも聞こえる。どちらでもあるのかもしれない。ユウはその曖昧さが嫌だった。善意と制御が、同じ顔をしている。
白川は机の引き出しから、ヘッドバンド型の機器を取り出した。
「今夜も観測する。君は入る。だが今回は、対象が一人ではない可能性がある」
ユウは息を吐いた。
「合同夢ってことですか」
「そうだ」
白川は淡々と言った。
「複数の眠りの主が、同じ構造の夢へ落ちる。その場合、夢は救いの場ではなくなる」
「どういう」
「人が人を壊す場になる」
ユウは口を閉じた。
それはもう、想像できた。恐怖が揃うと、人間は攻撃的になる。責任を押し付ける。誰かのせいにする。自分の名前を守るために、他人の名前を削る。
その夜、ユウは機器をつけ、白川の指示で横になった。
眠る前にスマホを見た。着信も通知もない。平穏な画面。平穏な画面が、逆に不気味だった。現実は平穏なふりをするのが上手い。壊れるときも、直前まで普通を演じる。
ユウは目を閉じた。
落ちる感覚が来る。
身体が軽くなる。胃が浮く。耳が遠くなる。心臓だけが重い。
次に目を開けたとき、ユウは駅のホームに立っていた。
白い蛍光灯。長いホーム。白線。電光掲示板。現実と似ている。でも現実より静かだ。静かすぎる。静かすぎて、自分の呼吸が駅全体に広がる気がする。
違いがひとつあった。
人がいる。
ホームの端に、制服の生徒が数人立っていた。見覚えがある顔が混じっている。クラスメイト。別の学年の誰か。知らない顔もいる。
そして、少し離れた場所に大人がいた。スーツ姿。髪をまとめた女性。
森下菜々だ。
菜々はユウを見なかった。ユウの存在に気づいていないのか、気づいても反応できないのか。視線は電光掲示板に釘付けになっている。
ユウの胸が締まる。
合同夢。
それぞれが互いを知らないのに、同じ恐怖の空間に立っている。逃げ場がない。ここから逃げたくても、どこへ逃げればいいか分からない。駅は移動の場所のはずなのに、移動先がない。
電車の音がした。
ホームに電車が滑り込み、停まる。ドアは開かない。窓には無表情の顔が貼り付いている。あのときと同じ。
でも今は、ユウだけが見ているわけではない。
制服の男子が窓を叩いた。
「開けろよ」
叩く拳が震えている。怒っているようで、怖がっている。怖がっているから怒る。怒りは恐怖の裏返しだ。
女子が叫んだ。
「やめて、やめて」
叫ぶ声が駅に響く。響いた瞬間、掲示板の文字が点滅した。
到着。
到着。
到着。
それだけ。行き先はない。時間もない。
構内アナウンスが鳴った。
ユウは身構えた。名前を呼ばれる。呼ばれたら逃げられない。そういうルールが、ここにはある。
アナウンスは、駅の案内ではなかった。
「二年三組、〇〇。欠席日数、八日」
冷たい声。感情のない声。声だけが個人情報を読み上げる。
読み上げられた瞬間、床の名前札が剥がれた。
紙が床から剥がれる音がした。ぺり、と湿った音。剥がれた札は風もないのに舞い上がり、どこかへ吸い込まれた。剥がれた場所は、床が少しだけ白くなった。そこに立っていたはずの「名前」が抜け落ちた。
読み上げられた生徒が顔を真っ赤にした。
「やめろよ!」
叫ぶ。叫ぶ声が、また駅に響く。
アナウンスが続く。
「一年四組、〇〇。面談予定、未実施」
別の札が剥がれる。
「三年一組、〇〇。未送信のメッセージ、十四件」
剥がれる。
読み上げられる内容が、現実の皮膚に刺さる。ありそうな内容だ。学校にも会社にも、そういうデータはある。出欠、面談、連絡。人はそのデータで管理される。管理されることが、バレることが怖い。
共鳴した恐怖の核は「知られること」だ。
ユウは気づいた。
第6話で感じた「見られる恐怖」が、ここでは社会スケールになっている。学校の噂ではない。SNSの晒しでもない。もっと直接的に、制度が読み上げる。
女子が泣き出した。
「やだ、やだ、やだ」
泣き声が駅に響く。泣けば泣くほど、アナウンスは正確になっていく気がした。弱さを見せるほど、もっと深いところまで見られる。
男子が女子に怒鳴った。
「お前がうるさいからだろ!」
ユウの胸が冷えた。
恐怖が、人間関係の攻撃になる。
誰かのせいにして、少しでも自分の名前札を守りたい。自分が読まれないように、他人を差し出したい。
ミサキがその間に立った。
「やめて。違う。これ、私たちのせいじゃない」
ミサキの声は震えていた。それでも言葉にしている。ミサキはもう、黙ることで自分を守る段階を越えている。越えたからこそ、矢面に立つ。
別の生徒が笑った。
「綺麗事言うなよ。お前だって、何かあるだろ」
その言葉は、ナイフみたいに鋭かった。夢の中で刺す言葉は、現実の傷をそのままえぐる。
菜々が小さく息を飲んだ。菜々は大人だ。職場で笑って誤魔化す人だ。けれど、ここでは誤魔化せない。ここでは「笑って大丈夫です」は通用しない。
アナウンスが菜々のほうへ向いた気配がした。
ユウは一歩前に出た。
今、斬れば楽だ。アナウンスのスピーカーを斬る。掲示板を斬る。電車を斬る。怪物を斬る。そういう単純さに逃げたくなる。
でも斬れない。
斬れば恐怖が増える。
斬れば情報が拡散する。個人情報という文字列が、紙片になって舞い、全員に巻き付く。議事録の帯と同じだ。
ユウは膝をつき、床に指を当てた。
白線を引く。
第8話でやった技術。境界線を作る。守る領域を作る。今回は個人の境界ではない。共有空間のルールだ。
ユウは指で床をなぞった。白い線が浮かび上がる。夢だからこそ、宣言が形になる。現実ではチョークが必要だ。ここでは意志が必要だ。
線は円になった。小さな円ではない。ホームの一部を区切る大きさ。人が数人入れる広さ。
ユウは立ち上がり、言った。
「ここは、アナウンス禁止区域にする」
生徒たちがこちらを見た。ミサキも見た。菜々も、ようやくユウの存在に気づいたように目を向けた。
ユウは続けた。
「ここでは、名前を呼ばない。呼ばれない」
宣言が空気に沈む。
すぐには変わらない。変わらないはずだ。けれど夢は、ルールに弱い。ルールを宣言された瞬間、世界はそれを採用するか、拒否するかの反応を返す。
アナウンスが一瞬、止まった。
駅全体の音が途切れる。電車の音も、掲示板の点滅も、風もないのに静かになる。
ユウは息を吸った。
効いた。
効いたが、それで終わりではない。終わるならホラーではない。世界は、必ず反撃する。
床が、ぺり、と音を立てた。
ユウの足元。
ユウ自身の名前札が剥がれた。
剥がれる瞬間、指先が痺れた。紙が皮膚に貼り付いていたみたいに、剥がれる痛みがある。夢の痛みなのに、現実の痛みに似ている。
札が舞い上がる。
成瀬ユウ。
自分の名前が、空中にある。軽い紙片のはずなのに、重い。重くて、落ちてくるのを見ているだけで胃が痛くなる。
アナウンスが鳴った。
今度は個人情報ではなかった。
声は低く、笑っているように聞こえた。声のない笑い。笑いというより、機械が正常動作を確認する音に近い。
「お前が、入口だ」
ユウの喉が乾いた。
入口。
自分が中心。
ずっと避けてきた言葉が、ここで現実味を持つ。自分が巻き込まれているのではなく、自分が巻き込んでいる可能性。
ユウは札に手を伸ばした。掴まなければ、自分が消える。名前が剥がれたままだと、現実でも何かが欠落する。出欠が取れない。呼ばれても返事ができない。社員証が見つからない。ロッカーが開かない。
掴むしかない。
けれど札は、指の間をすり抜けた。紙が紙ではない。データのように、触れない。
ミサキが叫んだ。
「ユウ!」
その呼びかけが、胸に刺さった。呼ばれた。呼ばれたことで、ユウは存在を保つ。でも同時に、呼ばれることがルールを破る。
ユウが作った「ここでは名前を呼ばない」というルールが、ミサキの声でひび割れる。
ひび割れた瞬間、アナウンスが再起動した。
「二年三組、〇〇。欠席日数——」
読み上げが始まる。世界は容赦なく、ルールの隙間に入り込む。
ユウは叫び返したくなった。やめろ。名前を呼ぶな。呼べば剥がれる。呼ばれれば剥がれる。呼ばないで守れば、別の誰かが削れる。
ルールは万能ではない。ルールは、代償を要求する。
ユウは歯を食いしばり、白線の内側へ向かって叫んだ。
「黙って!」
言葉は命令になった。
命令はルールになった。
白線の内側で、声が止まった。
ミサキの口が動いたまま止まる。生徒たちの泣き声が止まる。菜々の呼吸が浅くなる。音だけが、切られる。
ユウは言った。
「ここでは、声を出さない。出すと剥がれる。剥がれると、現実が欠ける」
言った瞬間、自分が説明していることに気づいて嫌になった。説明は現実感を壊す。白々しくなる。だから本当は、説明ではなく体感で分からせなければいけない。
けれどこの場では、説明が必要だった。人が多い。恐怖がばらばらだ。ばらばらな恐怖は衝突する。衝突すれば人が人を壊す。
ユウは短く言い直した。
「守りたいなら、黙る。ここでは」
それだけでよかった。
白線の内側は静かになった。
アナウンスの声が遠のく。遠のいたわけではない。白線の外側に押し出された。禁域ができたのだ。禁域ができたことで、世界の反撃は外側へ回る。
ユウの名前札は、まだ空中にある。
成瀬ユウ。
剥がれたまま、回収できない。回収できないことが、恐怖の核になる。これが、自分が入口だという証明なのか。入口は、自分の名前を守れない。入口は、他人の名前を守るために自分の名前を差し出す。
ユウは、初めてはっきりと怖くなった。
怪物が怖いのではない。
自分が怖い。
自分が何者か分からないことが怖い。
自分が最初に死んだときのことが、喉の奥まで上がってくる。思い出せないのに、身体が覚えている。死の感触。息が止まる感覚。暗転する瞬間の冷たさ。
アナウンスが、もう一度だけ低く言った。
「入口は、開く」
ユウは目を閉じた。
次に目を開けたとき、天井があった。
白川のクリニックの天井。薄い照明。機械の電子音。現実の音のはずなのに、どこかで駅の静けさが重なっている。
隣のベッドで誰かが起き上がる気配がした。
ミサキだった。
ミサキはここにいないはずだ。なのに、起き上がっている。夢の中のミサキが、現実へ戻ってきたのか。それとも、これは別の現実なのか。
ユウは息を止めた。
ミサキがユウを見て言った。
「白い線、見た」
その一言で、ユウは分かった。
夢の記憶が残っている。
共有夢が解けても、痕が残る。夢の中で作ったルールが、夢の外側にも影響する。
白川が入ってきた。いつもの顔。いつもの声。観測者のまま。
「何人、覚えている?」
白川は淡々と聞いた。
ユウは答えられなかった。ここにはミサキがいる。ということは、学校でも同じ夢を覚えている生徒がいる。菜々も覚えているかもしれない。覚えているなら、彼女の現実はまた揺れる。
白川はモニターを見て、短く言った。
「君がルールを作った。つまり君は、夢の構造を変えられる」
ユウの胸が重くなる。構造を変えられるということは、責任が増えるということだ。議事録の帯が増えるのと同じだ。無限に増えれば、喉が塞がる。
白川は続けた。
「構造が変われば、世界も反応する」
世界。
ユウはその言葉に、駅のアナウンスを思い出した。個人情報を読み上げる声。入口だと名指す声。世界は人間を守るために悪夢を作る。だが、守るための仕組みが揃いすぎると、今度は人間を削る。
白川が机の上にユウのスマホを置いた。
「君に連絡だ」
画面には着信。
知らない番号。
表示はただの数字列。登録名はない。地域の表示も曖昧だ。迷惑電話のようで、迷惑電話ではない圧がある。タイミングが良すぎる。
ユウの指が止まる。
取れば、現実の何かが動く。
取らなければ、別の何かが欠ける。
白川が言った。
「出ろ」
命令ではない。提案でもない。手続きの言葉だ。出るか出ないかで、次のフェーズが決まる。
ユウはスマホを手に取った。
耳に当てる前に、画面が一瞬だけ揺れた。メモアプリの文字が揺れたときと同じ質感。現実のはずなのに、夢の手触りが混ざる。
ユウは通話ボタンを押した。
「……もしもし」
返事はすぐ来なかった。
沈黙。
沈黙の向こうで、誰かが息をしている音だけがした。息をしているだけで、こちらの個人情報を全部見ているような気配。
そして、低い声が言った。
「成瀬ユウ。あなたが入口ですね」
ユウの背中が冷えた。
駅のアナウンスと同じ言い方だった。
現実側の組織が、ついに名前を呼んだ。
暗転。




