第12話 防波堤——悪夢は「あなたを生かすため」に存在する
森下菜々は、朝の更衣室で名札を探していた。
ロッカーの前に立ち、手を伸ばしたまま止まる。扉を開ける動作が途中で途切れる。自分が何を探しているのか、いまどこに置いたのか、言葉になる前で崩れていく。
同僚の笑い声が背中を流れていく。軽い雑談。昨日の残業。駅前の新しいカフェ。そういう音があるのに、菜々の周囲だけ薄い膜が張っているみたいだった。
ロッカーの扉が並ぶ列の上に、番号が貼ってある。二桁の数字。みんなはそれを見て迷わず開ける。菜々だけが、番号を見ても意味が結びつかない。
自分の番号がどれなのか、思い出せない。
菜々は苦笑いを作って、隣のロッカーを開けた。中は他人の制服とバッグ。香水の匂いがして、すぐに閉める。次の扉を開ける。そこにも他人のものがある。さっきより少し重い匂いがする。
間違えるたびに、胸の奥が空白になる。
名前を呼ばれないように息を殺す。間違いを見られないように、背中を小さくする。けれど更衣室は狭く、視線はすぐにぶつかる。
「森下さん?」
声をかけてきたのは、直属の上司だった。年齢は三十代半ば。仕事は速いが、気遣いもできる人だと聞いていた。菜々にとっては、いつも少し怖い。
「最近、大丈夫?」
菜々は反射で笑った。笑い方だけが、身体に染みついている。
「はい、大丈夫です。ちょっと、寝不足で」
「無理するなよ。今月、いろいろ重なってるし」
上司はそう言って去っていった。優しい言葉のはずなのに、菜々の背中に薄い冷たさが残った。無理をするな、という言葉は、無理をしていると見抜かれた人にだけ向けられる。
菜々はもう一度、自分のロッカーを探した。数字が並んでいる。数字は読める。けれど、その数字が自分に繋がらない。
胸の中で、何かが削れていく感覚がある。改札を通るたびに名前が薄くなる、あの夢の感触が、現実の朝にも混ざっている。
その日の昼休み、ユウは学校の廊下で、菜々から届いた短いメッセージを見ていた。
文章は整っている。誤字もない。けれど、内容はぎこちない。
「社員証が見つからない。名札がつけられない。大丈夫なはずなのに、変。」
最後の「変。」という一文字が、ユウの目に刺さった。変だと分かっているのに、説明できない。説明できないから、最後に短い断言だけが残る。
ユウはスマホを握りしめた。駅のホームで泣いていた菜々の横顔が、何度も浮かぶ。
助けたはずだった。
悪夢の中で、名前札を忘れ物棚に置いた。落ちていくものを止めた。ドアは開いた。彼女は落ちなかった。そこまでは確かに、救いだった。
なのに現実が壊れていく。
ユウの胸の奥に、罪悪感が沈殿していく。自分が触れたせいで、彼女の何かが欠けたのではないか。欠けたのが、名前だけならまだいい。もし欠けていくのが、もっと深い部分なら。
ユウは昼休みが終わるチャイムを聞きながら、決めた。
白川のところへ行く。
答え合わせをしなければならない。自分が何をしているのか、自分が何を壊しているのか。壊しているのだとしたら、止める方法があるのか。
放課後、ユウは駅を越えて、白川の診察室のあるビルへ向かった。
小さなクリニックだった。看板は控えめで、通り過ぎる人は気づかない。けれど入口の前に立つと、空気が少し冷たくなる。病院の匂いとも違う。薬品でも消毒でもない。紙と機械と、人の不安が混ざった匂い。
受付で名前を書くとき、ユウは一瞬だけ手が止まった。自分の名前が、ここでは現実の鍵になる。書けば通れる。書かなければ、ここに入れない。
成瀬ユウ。
ペン先が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
待合室には誰もいなかった。椅子が並び、雑誌が置いてある。雑誌の表紙は最新のものに見えるのに、内容が頭に入らない。ページをめくる音だけが、薄く響く。
しばらくして、診察室のドアが開いた。
「どうぞ」
白川はいつもと同じ声だった。感情の温度が低い。低いのに、冷たいわけではない。ただ、測っている。
ユウは椅子に座り、すぐに言った。
「森下さんが、現実で壊れていってます。社員証が見つからないとか、ロッカー番号が思い出せないとか。俺、助けたのに」
白川はすぐに答えなかった。机の上に置かれたタブレットを操作し、いくつかのグラフを開いた。波形。同期率。欠落の傾向。ユウには意味が分からない線が並ぶ。
「君が言う『助けた』は、どの手段だ」
「……保管しました。名前札を、忘れ物棚に」
「殺していないんだな」
白川の言い方は、確認というより記録だった。
白川は画面を指でなぞりながら、淡々と言った。
「君が悪夢を殺したとき、欠落は増える。君が封印したとき、欠落は別の形で残る」
「どっちにしても、欠落するんですか」
「ゼロにはならない」
ユウは言葉を飲み込んだ。喉が詰まる。ここで怒っても、白川は表情を変えない。それより、理由がほしかった。仕組みがほしかった。
「どうすればいい」
ユウがそう言うと、白川はようやく視線を上げた。目が合う。そこには慰めも、同情もない。あるのは、観測の目だ。
「君は、悪夢を敵だと思っている」
「敵じゃないんですか」
「敵に見えるだけだ」
白川は立ち上がり、壁際の黒板の前に立った。チョークを取り、迷いなく三つの言葉を書いた。
遮断。
代行。
予告。
白川はチョークを置き、ユウの方を向いた。
「悪夢には機能がある。ひとつ目は遮断だ。痛みを意識に上げない。現実が辛すぎて、起きていれば潰れる人間がいる。そういう人間を、一旦眠らせる。眠らせて、痛みを遠ざける」
白川の声は、教科書を読むみたいに滑らかだった。なのに、言っている内容は生々しい。現実が辛すぎて潰れる。そんな人間がいる。ユウは知っている。ミサキの顔が浮かぶ。泣くタイミングが遅い、あの遅れが、遮断の名残だったのかもしれない。
「ふたつ目は代行。恐怖を、夢の物語に変換して処理する。現実の圧力を、そのまま意識に流し込むと人は壊れる。だから脳は、物語に変えて、扱える形にする。駅のホーム、名前札、改札。全部、現実の圧力を置き換えたものだ」
ユウは目を閉じたくなった。駅の白い光、無表情の顔、落ちる札。あれが、物語への変換。
「三つ目が予告。限界が近いことを通知する。事故、自傷、極端な逃避、そういうものの前兆として、悪夢が強くなる場合がある。悪夢は敵じゃない。脳の最後の安全装置だ」
安全装置。
ユウはその言葉が、胸に刺さった。安全装置なら、壊すべきではない。壊せば危険になる。
白川は続けた。
「君の能力は、その装置を外す行為に近い」
「……悪夢殺しは」
「そうだ。装置を外せば、現実の痛みがむき出しになる。痛みが大きい人ほど、外した瞬間に壊れる」
ユウの頭に、ミサキの白髪がよぎった。あれは、悪夢の中で殺した結果だった。ミサキは救われたように見えた。けれど代償が残った。菜々もそうだ。救ったのに欠落が残る。救いと暴力が同じ手触りで存在する。
ユウは両手を膝の上で握りしめた。爪が食い込む。痛みがある。現実に戻るために、痛みが必要だと思った。
「じゃあ、俺は、やってはいけないことをやってるんですか」
白川は首を傾けもしなかった。
「君がやめたら、死ぬ者が出る。君が続けたら、壊れる者が出る。どちらも起きる」
淡々とした言葉が、ユウの背中を冷やした。白川は脅しているわけではない。事実を並べている。だから余計に逃げ場がない。
ユウは息を吐き、言った。
「じゃあ、どうすればいい」
白川は、その問いを待っていたみたいに答えた。
「殺すな。だが、整流しろ」
「整流」
「怪物を消すのではなく、夢を安全な形に変換して戻す。君は、それができる」
ユウはすぐには理解できなかった。けれど、白川の言葉の中に、自分の今までのやり方の延長があるのは分かった。保管する。封印する。拡散させない。そういう手段は、すでにユウが選んできた。
白川は机に戻り、小さな機器を取り出した。ヘッドバンドのような形。そこに細いコードがついている。機械の匂いがした。
「これをつける。君の脳波と、対象の同期を測る。君がどこまで介入したかを記録する。観測なしに『整流』はできない」
観測。制御。救済ではなく、別の目的。
ユウはその機器を見て、背中がぞくりとした。悪夢が人を守る安全装置なら、白川はそれを計測して、調整して、管理しようとしている。善意だけではない。善意に見せているだけかもしれない。
「森下さんで、試すんですか」
「彼女はもう波の中心にいる。ここで整流できなければ、欠落は進む」
ユウは迷った。人を実験にすることへの抵抗。けれど、実験を拒めば、菜々は壊れるかもしれない。救いのための行為が、誰かを材料にする形を取る。それでもやるのか、と問われている気がした。
ユウは頷いた。
「やります。……やるしかない」
白川はそれ以上何も言わず、淡々と準備を始めた。
別室に通され、菜々が来た。
菜々はスーツの肩が少し落ちていた。目の下に薄い影。けれど、歩き方はしっかりしている。壊れかけている人の歩き方は、もっと頼りない。菜々はまだ、ギリギリのところで立っている。
「ここ、何ですか」
菜々はユウを見ると、困ったように笑った。笑える。でもその笑い方が乾いている。上司に笑って誤魔化したときの笑いと同じだ。
「相談できるところ、だよ」
ユウは嘘をついたわけではない。相談はしている。ただ相談の内容が、普通の生活の範囲を越えている。
白川は菜々に簡単な説明だけをした。難しい言葉は使わない。眠りが浅いこと、夢が現実に影響している可能性、そして安全のために睡眠中の反応を見るということ。
菜々は不安そうに唇を噛んだが、最後には頷いた。
「お願いします。……最近、私、変で。変なのに、何が変か言えなくて」
言えない、という言葉が、ユウの胸を締めた。言葉が削れていくことは、本人にとって世界が削れていくことだ。
照明が落とされ、菜々はベッドに横になった。白川の機器が頭に装着される。コードが伸び、モニターに繋がる。ユウも同じものをつけた。
白川が言った。
「君は入る。彼女の夢へ。君の役割は、怪物を殺すことではない。夢を折りたたむ。扱えるサイズにする」
折りたたむ。要約する。整える。
ユウは目を閉じた。眠ることに、もう抵抗はない。抵抗が消えたことが怖い。
暗闇が来る。いつもの落下感。胃がひっくり返り、耳が遠くなる。
次に目を開けたとき、ユウは会議室にいた。
駅のホームではない。
長いテーブル。椅子が並び、壁にはホワイトボード。窓の外は白くて、景色がない。照明は明るいのに、空気が重い。
テーブルの上に、名札が並んでいる。
人の顔がない。
椅子の背に、スーツの肩だけが見える気がした。けれど近づくと、そこには何もない。ただ名札が置いてあるだけ。名前だけが座っている。名前だけが参加している。
名札が動いた。
カタ、と小さな音。
ひとつの名札が自分で立ち上がり、発言するように揺れる。揺れながら、声が出た。声は人間の声に似ている。けれど、どこか平坦で、感情がない。
「本件につきましては、確認不足がございました」
その名札の端が、削れた。
紙ではないのに、削れる。角が欠け、粉が落ちる。落ちた粉は床に落ちる前に消えた。
別の名札が立ち上がる。
「責任の所在を明確にしてください」
その名札も削れた。
発言するたびに、名札が削れていく。言葉を出すほど、名前が減っていく。会議の言葉は、責任の言葉だ。責任の言葉が、名前を削る。
ユウはテーブルの向こう側を見た。
菜々が座っていた。
菜々の顔はある。けれど、口元が動かない。息をしているのに、声が出ない。目が焦点を結ばず、名札のやりとりをただ見ている。いや、見ているだけではない。見ているふりをして、耐えている。
菜々の首に、帯が巻き付いていた。
紙の帯。議事録の帯。
帯は長く、何重にも重なって、菜々の喉を締めている。帯には文字が印字されていた。
責任。
不備。
確認不足。
再発防止。
対応遅延。
文字は黒く、乾いている。読んだ瞬間、喉が痛くなる。菜々の喉が締まるのは、物理的な帯のせいだけではない。その言葉が、喉を塞いでいる。
ユウは咄嗟に、刀を探しそうになった。
悪夢の中で何度も使った。斬れば終わる。斬れば消える。そういう短絡が、身体に染みついている。
けれど白川の言葉が、脳の奥で鳴った。
斬るな。
斬れば拡散する。議事録は細切れになり、文字が飛び散り、部屋中に責任が降る。責任という言葉が、菜々だけでなく、会議室全体に巻き付く。そうなれば、彼女はもっと壊れる。
ユウは一歩前へ出た。
会議室の空気が、ぴたりと止まった。名札たちの揺れが止まる。全ての名前が、ユウを見た。見ているのは、目ではない。視線ではない。名前そのものが、異物を検知する。
ユウの足元に、紙片が落ちた。
議事録の切れ端。
そこに小さな文字が並んでいる。時刻、発言者、指摘事項。淡々とした記録。記録は正しい。正しいが、正しいだけで人を殺す。人を追い詰める。
ユウはしゃがみ込み、紙片を拾った。拾っただけで、喉の奥が乾いた。責任の言葉が、口の中に粉のように残る。
ユウは紙片を床に広げた。次々に落ちてくる。議事録は紙ではなく、帯として菜々の喉を締めつけながら、同時に床へも垂れていく。無限に増える。責任が無限に増える。増えるから処理できない。処理できないから喉が塞がる。
ユウは、ゆっくり息を吸った。
要約する。
折りたたむ。
怖さを、管理できるサイズにする。
ユウは紙片の内容を読み、読みながら、頭の中で言葉を削った。削るのは、菜々の名前ではない。議事録の無限性だ。
ユウは声に出さずに、紙片を重ねていった。時刻の列を揃え、同じ内容をまとめる。繰り返される指摘を一つにする。責任という言葉の数を減らす。減らしても本質は残る。本質だけを残す。
名札が再び揺れた。
「記録を改ざんするつもりですか」
声がした。人の声ではなく、制度の声だった。制度は怒る。制度は責める。制度は正しさで押しつぶす。
ユウは顔を上げず、手を止めなかった。
改ざんではない。要約だ。整理だ。処理だ。現実の中で人が生きるために必要な作業だ。全部を抱えれば死ぬ。だから折りたたむ。だからサイズを変える。
ユウは机の上に、小さなメモを置いた。
議事録の帯をほどきながら、帯を折り、折り、折っていく。折り目がつくたび、帯は長さを失う。無限だったものが、有限になる。有限になれば、扱える。扱えるなら、喉は塞がれない。
ユウは短い文だけを書いた。
責任が怖いのではない。
責任が無限に増えることが怖い。
書いた瞬間、空気が震えた。
会議室の壁が、ほんの少しだけ近づいたように見え、次に遠ざかった。現実の圧力が、形を変えた。
菜々の首に巻き付いていた帯が、ゆっくりほどけた。
ほどけた帯は、紙になった。紙は紙らしい重さを取り戻し、机の上に落ちた。紙の上の文字はまだある。責任、不備、確認不足。けれどそれらは、喉を塞ぐ帯ではなく、机の上の紙になった。
菜々が息を吸った。吸って、吐いた。喉が通る音がした。小さい音。人間の音。
ユウは菜々の名札を見た。
名札は戻りつつあった。削れていた端が、少しだけ補われている。けれど完全ではない。欠けた部分は欠けたままだ。小さな空白が残っている。その空白は、これから先、彼女が自分で埋めるしかないのだろう。
会議室の名札たちは、沈黙したまま揺れを止めた。
制度の声が遠のく。責任の言葉が、机の上の紙に戻る。紙は紙のまま、そこにある。怖さは消えない。ただ、扱える形になる。
ユウはふと、窓の外の白さに気づいた。
白い空白の向こうで、何かがうごめいている。都市のざわめき。人の数。眠りの同期。遠くの遠くで、たくさんの誰かが同じ夢を見かけている気配。
ユウの胸が冷えた。
これは一人の問題ではない。
会議室の床に落ちた議事録の紙片が、風もないのに揺れ、ひとつの文字が滲んだ。
共鳴。
その二文字が、紙から浮かび上がるように見えた。
次の瞬間、ユウの視界が暗転した。
目を開けると、白川のクリニックの天井だった。
薄い照明。機械の電子音。隣のベッドで菜々が眠っている。顔色はまだ悪いが、眉間の皺が少しだけ減っていた。首元に触れる仕草が、無意識に出る。喉を塞がれていた記憶が、身体に残っているのだろう。
白川がモニターを見ながら言った。
「成功だ。致命傷は避けた」
成功、という言葉は軽く聞こえた。けれど白川の声は軽くない。成功とは、死ななかったというだけだ。完全に治ったわけではない。
「欠落は」
ユウが聞くと、白川は頷いた。
「残る。ゼロにはならない。ただ、進行速度は落ちる」
ユウは胸の奥の力を抜いた。救えた、という安堵が少しだけ湧く。同時に、救えたと言っていいのか分からない苦味が残る。
菜々の目がゆっくり開いた。
彼女は天井を見て、次にユウを見た。視線が合う。今度は焦点が合っている。合っているのに、目の奥に薄い霧がある。その霧が、欠落の名残だ。
「私……」
菜々は声を出そうとして、少しだけ咳き込んだ。喉がまだ痛いのかもしれない。帯がほどけた後の、擦れた感覚が残っている。
「会議室、でした。私、何も言えなくて。首が……」
菜々は首元に手を当てて止まった。そこに帯はない。ないのに、触れたくなる。
「大丈夫。……今は、大丈夫」
ユウはそう言った。慰めではなく、現実の確認として。
菜々はゆっくり頷いた。
「名札、つけられるかな」
その問いが、ユウの胸を刺した。名札。名前。社会の中で必要な札。
「多分。少しずつ」
ユウは、確かなことが言えない自分を恥じた。けれど嘘は言えない。万能ではない。万能になった瞬間、この物語は壊れる。救いが安くなる。代償が軽くなる。そうなれば、悪夢の重さも消える。
白川は背後で淡々と言った。
「彼女は『整流』の効果を得た。だが、欠落は残る。君ができるのは、致命傷を避けることだけだ」
菜々は白川の方を見て、怯えるように眉を寄せた。白川の言い方は、優しくない。けれど、その非情さが現実に近い。現実は優しくない。
白川は続けた。
「重要なのは、これが君の周囲だけの話ではないということだ」
白川はモニターの別の画面を開いた。グラフが変わる。波形が増える。点が広がる。ユウには数値の意味は全部分からない。ただ、増えているという事実だけが分かる。点が都市の形に重なっている。学校の範囲を越え、駅の範囲を越え、街全体へ広がっている。
「同期が増えている」
白川は言った。
「君の周囲だけじゃない。これは共鳴だ」
共鳴。
ユウの背筋が冷えた。菜々の夢で、紙片に浮かんだ二文字が、現実の画面にも重なる。
「誰が起こしてるんですか」
ユウが聞くと、白川は少しだけ間を置いた。初めて、答えをすぐに出さない間だった。
「自然現象の可能性もある。だが、誰かの意図で起きている可能性もある」
「白川先生は、どっちだと思ってる」
ユウの声が、少し硬くなった。自分でも分かった。白川への警戒が強くなっている。救ってくれる人に見せかけて、観測し、制御しようとしている。そういう匂いがある。
白川はユウを見て言った。
「思う、では足りない。測る。記録する。比較する。それでしか判断できない」
その言い方は、逃げでも嘘でもない。科学者の言い方だ。けれど、科学者の言い方は、人間の救いには冷たく聞こえる。
白川は机の引き出しから、紙のファイルを取り出した。中には名前が並んでいる。ユウが見た、あの候補リストと似ている。似ているが、もっと多い。
「君の候補リストだ」
白川は言った。
「君の名前もある」
ユウは息を止めた。
自分の名前が、候補リストにある意味。自分が眠りの主になるのか。自分が落ちる側になるのか。それとも、別の意味なのか。
ユウの頭に、昨夜のアナウンスが蘇る。
成瀬ユウ。
呼ばれている。呼ばれていない。呼ばれている。呼ばれていない。その曖昧な揺れが、今、白川の口から現実の言葉として出た。
白川は淡々と続けた。
「君は、最初から波の中心にいる。君が最初に死んだときの条件、それが鍵だ」
最初に死んだとき。
ユウの胃の奥が、きゅっと縮んだ。ユウが「悪夢を殺せる」ようになった始まり。ユウ自身の初回の死。まだ語られていない核心が、喉元まで引き上げられる。
白川はそこで言葉を切った。わざとだ。続きを言えば、ユウの認知が追いつかないと判断したのか、それとも、今はまだ出すべきではない情報だと計算したのか。
菜々がベッドの上で、静かに涙を拭いた。涙の理由は説明できない。けれど、泣けるだけまだ生きている。遮断が少し緩んだ証拠かもしれない。
ユウは拳を握った。
悪夢は敵じゃない。安全装置だ。だから壊してはいけない。けれど、安全装置が広域に共鳴しているなら、これはもう個人の防波堤ではない。都市規模の防波堤だ。波が来ている。波が来ているから、防波堤が強くなる。強くなるから、人は眠れなくなる。
眠れない者が増える。
増える理由が、自然なのか、意図なのか。誰が波を起こしているのか。
そして、白川はどこまで知っているのか。
ユウは白川の顔を見た。表情は変わらない。善人にも悪人にも固定できない。感情の輪郭が薄い。薄いからこそ不気味だ。人の顔ではなく、名札だけが座っている会議室を思い出す。白川は、あの名札に近い。
「次はどうすればいい」
ユウが言うと、白川は画面を閉じた。
「君は、整流を続けろ。殺すな。封印でもいいが、封印は欠落を別の形で残す。できるなら、折りたたむ。要約する。処理できるサイズに戻す」
ユウは頷いた。頭では理解した。身体はまだ追いつかない。だが、戦い方が変わる方向だけは掴んだ。刃で斬るのではなく、編集する。言葉で整える。怖さを管理可能にする。ホラーの中で、文章の技術が武器になる。
白川は最後に、淡々と付け加えた。
「そして、君自身の夢を観測する必要がある。君が候補リストにある理由は、そこにある」
ユウは返事をしなかった。返事をしたら、何かが確定してしまう気がした。確定した瞬間に、悪夢がそれを嗅ぎ取って、次の波を起こす気がした。
診察室を出るとき、廊下の窓から街が見えた。
夕方の光。駅へ向かう人の流れ。制服の群れ。スーツの群れ。誰もが当たり前に名前を持って歩いている。名札をつけ、社員証を下げ、呼ばれて、返事をして、役割を演じている。
その当たり前が、今は薄いガラスの上に乗っているように見えた。
ガラスの下に、波がある。
波が来る前に、悪夢は防波堤を高くする。
高くするほど、人は眠れなくなる。
ユウはポケットの中でスマホを握りしめた。白川のリストが頭に焼き付いている。そこに自分の名前がある。自分が落ちる側になる可能性。自分が最初に死んだ条件が鍵である可能性。
ユウは駅へ向かう道を歩きながら、今日の整流の感触を思い出した。
議事録の帯をほどき、折りたたみ、短いメモにする。
無限を有限にする。
喉を塞ぐものを、机の上の紙に戻す。
やれた。確かにやれた。けれど、あれはたまたまかもしれない。次はもっと大きい波かもしれない。都市規模の共鳴の中で、ユウ一人が折りたためる量には限界がある。
ユウの脳裏に、会議室の窓の外の白い空白が蘇った。
あの空白の向こうに、何かがいる。
誰かがいる。
もしくは、誰かの意図がある。
駅のアナウンスが聞こえた気がした。
今度は自分の名前ではなかった。駅名だった。行き先だった。それでも、ユウの耳は、音の隙間に自分の名前を探してしまう。
呼ばれる前に、呼ばれた気がする。
その錯覚が、共鳴の始まりかもしれない。
ユウは歩みを止めずに、胸の中で自分の名前を静かに繰り返した。
成瀬ユウ。
言葉にした瞬間、言葉が削れるのが怖い。だから、声にはしない。内側でだけ、確かめる。
次は、誰が呼ばれる。
次は、何が削られる。
そして、次は。
自分なのか。
スマホが、微かに震えた。
その震えは通知の振動ではない。着信でもない。画面を見ても何も出ていない。それなのに、ポケットの中の小さな震えが、ユウの指先へ冷たく伝わってくる。
波が来ている。
ユウは、その震えを握り潰すようにスマホを握りしめた。
暗転。




