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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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11/24

第11話「駅のホーム——落ちるのは、身体じゃなく“名前”だ」

 その朝、ユウはアラームより先に目を覚ました。


 目を開けた瞬間、部屋の輪郭が遅れて追いついてくる。枕元のスマホは裏返しのまま、充電ケーブルがねじれている。換気扇の低い唸り。冷蔵庫が一拍遅れで鳴り、止まる。いつもと同じ生活音が、いつもより少しだけ遠い。


 夢を見た、という感覚だけが残っていた。内容は掴めない。掴めないのに、指先に薄い油膜のような違和感がついている。


 ユウは起き上がり、スマホを取った。画面はすぐ点いた。通知はない。けれど、なぜかそのまま指がメモアプリへ滑る。


 白川が渡してきた、候補の名前のリスト。


 学校の誰か。いずれ眠りの主になる可能性がある、と。


 ユウは昨夜、画面が震えたのを思い出した。メモの文字が微細に揺れ、紙に書いた文字が虫の脚で動くみたいに見えた。怖い、という言葉より先に、あれは見てはいけないものだ、と身体が判断した。


 リストを開くと、そこにひとつ、見慣れない名前が増えていた。


 森下 菜々。


 漢字は簡単で、読みも難しくない。それなのに、ユウの目は一度通り過ぎて、もう一度戻った。強調表示でもない。ただ、その名前だけが、周囲の文字よりわずかに明るい気がする。点滅と呼ぶほど派手ではない。けれど、視界の端でずっと生きている。


 ユウは息を吐いて、しばらく固まった。


 クラスメイトの名前ではない。別学年の誰かでもなさそうだ。いや、同じ学校なら、どこかで聞いたことがあるはずだ。森下という苗字も、菜々という名前も、珍しくはない。けれど「森下菜々」という組み合わせに、引っかかりがない。それが逆に不気味だった。


 安心しかけたのは本当だった。身近じゃないなら守りやすい、と、脳が勝手に計算したのだ。


 だが、その油断が、そのまま怖さの入口だった。


 身近じゃない。つまり、自分の手が届かない場所で起きる。


 ユウはスマホを置いて、洗面所へ行った。鏡の中の自分は、目の下が少し暗い。寝不足。水で顔を洗うと、皮膚が冷たくなり、ようやく現実が近づいてくる。


 学校へ向かう途中、朝の空気は乾いていた。通学路の角を曲がると、いつものように制服の波がある。けれど、波の密度がどこか薄い。挨拶の声が少ない。笑い声も、いつもより控えめだ。


 校門の前で友人に声をかけられても、返事が一拍遅れる。相手も同じだ。言葉が、喉の奥でいったん引っかかってから出てくる。


 教室に入ると、数人が席についたままぼんやりしていた。机に突っ伏しているのではない。背筋は立っている。目も開いている。ただ、焦点が合っていない。黒板の文字を見ているようで、見ていない。


 担任が入ってきて、いつものように出欠を取る。けれど、名前を呼ぶ声が途中で噛んだ。


「……えっと、河合、河合……」


 呼ばれた生徒が返事をするまで、いつもより長く間が空いた。担任は軽く笑って誤魔化したが、笑い方が硬い。教室の空気が、湿っているわけでもないのに、重い。


 ミサキは前の席で、教科書を開いていた。姿勢は普通だ。鉛筆も動いている。けれど、笑うタイミングがまだ少し遅い。誰かが冗談を言って、周囲が笑ってから、ミサキの口元がようやく動く。


 境界線は効いている。ユウがあの日、眠りの中で保管したものが、彼女の輪郭を支えているのだろう。けれど「治った」とは違う。戻ったのではなく、戻り方を覚えただけだ。


 ユウは授業中、何度も自分の手元を見た。ペンを握る指が、少しだけ白い。力が入っているのに、握っている感覚が遠い。


 悪夢は個人の問題ではない。


 それが、じわじわと日常に染みてきている。事件としてではなく、統計のように、誰も声に出さず、ただ増えていく。


 昼休み、教室の隅で、スマホのメモを開いた。森下菜々の名前は消えていない。むしろ、そこにあることが当たり前のように馴染んでいる。馴染んでいることが怖い。


 ユウは白川の顔を思い出した。あの男は、どうしてこれを当てられるのか。偶然ではない。偶然にしては、精度が高すぎる。


 放課後、ユウは用事があって駅へ向かった。部活を休む理由がある日は、むしろ助かる。早く帰宅して眠ることが、今はただの休息ではない。仕事のようなものになっている。


 駅前は人が多かった。制服の群れ、スーツの群れ、買い物袋を下げた高齢者、ベビーカーを押す親。社会の流れが交差する場所。学校の中にいるときより、息がしやすいはずなのに、今日は逆だった。


 改札を抜けてホームへ上がる。電車の到着を知らせるチャイムが鳴る。金属の階段を上る音。広告の液晶が眩しい。ホームの端に立つと、線路の風が頬に当たった。


 そのとき、ユウは見つけた。


 ホームのベンチではなく、柱の近くに立っている女性。年齢は自分より少し上。二十代前半だろうか。スーツは新品に見えるのに、肩のあたりが妙に頼りない。髪はきちんとまとめているが、毛先が少し乱れている。


 彼女はスマホを握ったまま、足元ばかり見ていた。目の焦点が合っていない。居眠りしているわけではないのに、まぶたの裏側で何かに引きずられているような目。


 隣を通った人が肩をかすめても、謝らない。気づかないのか、気づいても反応できないのか。


 ユウの胸が嫌な形で縮んだ。


 あの目だ。


 眠っている目。


 スマホがポケットの中で、ごく小さく震えた。振動と呼ぶほど強くない。けれど、ユウにはそれが合図だと分かった。昨夜の、あの揺れと同じ質感。


 ユウはゆっくり近づいた。声をかけるべきか迷う。ここで声をかけて、何ができる。今夜の眠りの主だとしても、現実の彼女は、まだただの通行人だ。助ける、と決める前に、まず相手に近づく口実が必要だった。


 ユウが数メートルの距離まで来たとき、ホームのアナウンスが鳴った。


「まもなく、——」


 その瞬間、ユウの耳には確かにこう聞こえた。


「成瀬ユウ」


 心臓が跳ねた。背中に冷たい汗が走る。名前を呼ばれると、逃げられない。学校で先生に呼ばれるのとは違う。ここは、誰もが知らないはずの駅だ。ここで自分の名前が鳴る理由はない。


 ユウは周囲を見回した。誰もユウを見ていない。人の波は普通に流れている。アナウンスは続いている。


「まもなく、——行きが参ります。危ないですから……」


 実際には駅名だった。行き先だった。ユウの名前ではない。そう頭で理解しても、一度「ユウ」と聞こえた耳は、次も、次も、それを探してしまう。


 アナウンスが鳴るたび、音の隙間に自分の名前が差し込まれる。呼ばれている。呼ばれていない。呼ばれている。呼ばれていない。その境界が、薄い紙のように揺れる。


 ユウは女性の横に立ち、無理にでも声をかけようとした。


「すみません……大丈夫ですか」


 女性は顔を上げた。瞳が一度ユウの顔に触れ、触れたまま焦点を結ばない。少し遅れて、口が動く。


「……はい。だいじょうぶ、です」


 声は出た。けれど、意味が伴っていない。彼女の手はスマホを握ったまま、関節が固い。


 ユウは、それ以上踏み込めなかった。ホームで倒れそうなら駅員を呼べる。けれど、今の状態は、誰かに説明できるほど明確な異常ではない。本人が「大丈夫です」と言ってしまった以上、他人が強く介入する理由がない。


 電車が到着し、風が吹く。女性は乗らなかった。乗るべき電車が分からないのかもしれない。ユウも、そこに立ち尽くした。視界の端で、彼女の影が薄く揺れた気がした。


 その夜、ユウは自室のベッドに横になった。


 眠りたくない、という感情は、もう慣れてしまった。慣れてはいけないものに、慣れていく。そうやって人は壊れるのだと、どこかで知っている。けれど、今は眠らなければならない。眠りの中でしか、守れないものがある。


 部屋の灯りを消すと、暗闇が濃くなる。目を閉じても、ホームの蛍光灯の白さが残っている。アナウンスの声が、頭の奥で反響する。


 ユウは意識の縁を掴もうとした。夢へ落ちる瞬間を、何度も経験した。落ちると分かっているのに、落ちるたびに身体が拒む。胃の奥がひっくり返るような感覚。


 そのまま、音が遠のいた。


 目を開けると、ユウは駅のホームに立っていた。


 現実の駅と似ている。似ているからこそ、違いが際立つ。照明は明るいのに、光が届いていない場所がある。柱の影が不自然に長い。広告の文字が読めない。ホームの端に立つ白線が、どこまでも続いているように見える。


 人影がない。


 風もない。線路の向こうから聞こえるはずの街の音もない。駅という場所が、駅であるための背景を全部失って、ただの構造物だけが残っている。


 遠くから電車の音がした。ゴトゴトではない。もっと滑らかな、薄い音。


 電車が到着した。ホームに滑り込み、停まる。ドアが開くはずの位置で、何も起きない。


 ユウは近づいた。窓ガラスの向こうに、人の顔が貼り付いていた。ひとりではない。数十人。窓ごとに、顔。全員が無表情で、こちらを見ている。口元も目元も動かない。生きているのか死んでいるのか、分からない。分からないまま、見られている。


 電車は何本も到着した。


 同じ音。同じ速度。停まる。ドアは開かない。窓の顔が増える。顔が増えているのに、ホームは静かだ。息づかいも、衣擦れもない。ただ視線だけがある。


 電光掲示板が点滅した。


 到着 到着 到着。


 行き先がない。時間もない。何時何分の表示がない。遅延情報もない。到着だけが繰り返される。到着しているのに、どこにも行けない。


 ユウは喉が乾くのを感じた。唾を飲み込むと、音が大きく響いた。音が響くこと自体が怖い。ここでは、自分の存在がすぐに目立つ。


 上から、何かが落ちてきた。


 紙の札のようなものが、ひらひらと舞い、ホームの床に落ちる。ユウの足元で止まった。拾い上げると、札は冷たく湿っていた。紙なのに水気がある。指に吸い付くような感触。


 札には名前が書かれていた。


 誰かの名前。


 ユウが瞬きをすると、また落ちてくる。ひとつ、ふたつ、みっつ。数が増え、床があっという間に札だらけになる。名前だらけになる。


 札を踏むと、紙が破れそうで怖い。破れたら、何かが壊れる気がする。


 ユウは札を一枚拾い、目を凝らした。知らない名前。知らない名前ばかり。知らないのに、どこかで見た気がする。街の掲示板、会社の名簿、卒業アルバムの端。無数の「誰か」が、現実にいたはずだという手触りだけが残っている。


 その中に、森下菜々の札があった。


 ユウの胸が締まる。彼女だ。駅で見た女性。やはり、今夜の眠りの主は彼女だ。


 札を裏返すと、名前が黒く塗りつぶされていた。


 墨のような黒ではない。光を吸う黒だ。塗りつぶされた部分は、触ると少しざらつく。紙の繊維が立っている。消されたというより、削り取られた跡に近い。


 ユウは背中が冷えるのを感じた。


 名前が消える。名前が消えると、自分が誰か分からなくなる。社会で名前は役割だ。呼ばれることで、そこにいることが証明される。呼ばれなければ、透明になる。


 ホームの奥に、改札が見えた。


 現実の駅の改札と似ている。似ているのに、向こう側が違う。改札の先は、会社の受付のような空間になっていた。白いカウンター。入館証を差し出す場所。壁には社員証の見本。ロッカーの番号札。整理された世界。


 そこへ入るには、名前が必要だ。名前がなければ通れない。そういう空気がある。


 改札機が、ひとりでに鳴った。


 ピッ。


 音と同時に、床の名前札が一枚、ふっと消えた。紙が燃えたわけではない。吸い込まれたように、そこだけ床が露出する。


 ピッ。


 また一枚消える。


 ユウは気づいた。


 改札を通るたびに、人は名前を削って進んでいる。通行の代償として、名前が消えていく。進めば進むほど、社会の中へ入っていくほど、自分の名前が薄くなる。


 窓に貼り付いた顔たちが、いっせいに瞬きをした気がした。瞬きが揃うこと自体が異様で、ユウの身体が硬直する。顔たちはまだ無表情だ。けれど、視線が急に強くなった。ここにいることがバレた、という感覚。


 ユウは札を抱えた。抱えきれない。札は増え続ける。拾っても拾っても、上から落ちてくる。物量で負ける。戻そうとすれば、パニックで溺れる。


 やるべきことは全部を救うことではない。今夜の眠りの主、森下菜々の名前を守ることだ。


 ユウは床を見渡し、森下菜々の札を探した。さっき拾った札は手元にある。けれど、同じ名前の札が複数ある可能性がある。名前が増殖しているのか、現実の記録が混ざっているのか分からない。確実に彼女の「本体」を守る必要がある。


 ユウは札の角に、小さく傷を入れた。爪で、紙の端を少し裂く。ほんの小さな印だ。目印。今の自分が、これを選んだという証拠。


 次に、ユウは改札の横にある棚に目を向けた。


 忘れ物棚。


 駅員室の前にあるような、透明なケース。傘や手袋、帽子が並んでいる。けれど、ここにあるのは全部、札だ。札だけが整然と積まれている。誰かが落とした名前。誰かが置いていった名前。


 ユウはそこへ走った。札を踏まないように、白線の上を選んで移動する。足元が紙だらけで滑りそうになる。転べば札を破る。破れば、何かが取り返しのつかないことになる。


 忘れ物棚の前に立ち、ユウは森下菜々の札をそっと置いた。


 棚に置いた瞬間、札の湿り気が消えた。冷たさも薄れる。紙が紙に戻る。守られる場所に移動した、と身体が理解する。


 改札機が鳴った。


 ピッ。


 けれど、棚の中の札は消えなかった。棚の外の札だけが、また一枚消えた。


 ユウの呼吸が少し戻った。


 これでいい。全部を救う必要はない。救えない。守るべきものを守る。延命。封印。保管。刃で斬るのではなく、失われない場所へ移す。


 そのとき、電車のドアが開いた。


 音もなく、ゆっくりと。開いた先は暗いのではなく、妙に白い。車内の照明が均一すぎて、影ができない。


 ユウは足を踏み入れた。


 空席だらけだった。座席の背には、名札が縫い付けられている。布に縫い込まれた小さな札。名前。名前。名前。誰も座っていないのに、座席だけが名前を持っている。


 ユウが一歩進むと、車内アナウンスが鳴った。


「次は、——」


 そこで音が途切れた。


 無音。


 次の駅名が出ない。行き先がない。進むことはできても、到着先がない。救済したはずなのに、人生の「次」が空白のまま残る。社会人一年目の彼女が、何かを失いながらも、明日を迎える。その明日が、何なのか分からない。


 ユウは座席の名札を見た。そこに自分の名前があるかもしれない、と恐怖がよぎる。けれど、確かめたくない。確かめた瞬間、現実でも自分の名前が薄くなる気がする。


 窓の外を見ると、ホームの顔たちが見えた。無表情のまま、こちらを見ている。ドアが閉まり始めた。閉まる寸前、顔のひとつがわずかに笑ったように見えた。気のせいかもしれない。けれど、その気のせいが、いちばん怖い。


 扉が閉まり、電車が動き出した。


 どこへ向かうのか分からないまま、ユウの意識は引きずられた。車内の白さが、視界いっぱいに広がる。名札の文字が滲む。滲む文字の隙間に、駅のアナウンスが差し込む。成瀬ユウ。成瀬ユウ。呼ばれている。呼ばれていない。


 ユウは咄嗟に、自分の名前を心の中で繰り返した。成瀬。ユウ。成瀬。ユウ。音にしてしまうと、ここに吸われる気がした。だから、内側でだけ繰り返す。自分の輪郭を手で撫でるように。


 次の瞬間、ユウは目を覚ました。


 部屋の天井。換気扇の音。冷蔵庫の唸り。現実が戻ってきたはずなのに、胸の奥に駅の白さが残っている。喉が乾いている。舌がざらつく。


 スマホを手に取ると、メモの中の森下菜々の名前は、まだあった。けれど、文字の周囲が少し薄い。消えかけているのではない。存在が軽くなったように見える。


 翌朝、ユウは早めに家を出て、駅へ向かった。確かめずにはいられなかった。夢の中で守った札が、現実の彼女に届いているのか。届いているなら、どんな形で。


 ホームに着くと、あの柱の近くに、彼女がいた。


 森下菜々。


 ベンチに座っていた。両手でスマホを握りしめ、肩を小さく震わせている。泣いている。涙が頬を伝っているのに、拭う動きが遅い。泣く理由を言葉にできない人の泣き方だった。


 ユウは近づきすぎない距離で立ち止まった。声をかければ、きっと彼女は「大丈夫です」と言う。言ってしまう。そういう世界だ。人は助けを求めるより先に、平気なふりをする。


 菜々はふと顔を上げ、ユウと目が合った。昨日と違って、焦点は合っている。合っているのに、目の奥がまだ濁っている。眠りの底の泥が、少しだけ残っている。


 ユウは何も言えず、ただ頷いた。挨拶の代わりに。ここにいるよ、という合図の代わりに。


 菜々は唇を動かした。


「……すみません。私、今……」


 言葉が続かない。彼女自身が、自分に何が起きているか分からない。分からないまま、泣いている。


 菜々のスマホの画面が、ふと見えた。


 連絡先の一覧。


 いくつかの名前が、空白になっている。枠だけが残り、文字だけが抜け落ちたような空白。スクロールすると、また空白。消えたのはデータではなく、「名前」だ。番号やアイコンがあるのに、呼び出すための言葉だけが失われている。


 ユウの指先が冷たくなった。


 救うほど欠落が残る。


 夢の中で守った札は、確かに彼女をホームから落とさなかった。けれど、その代償として、現実の一部が削れた。改札の音が、ここにも届いている。


 ユウはポケットの中でスマホを握りしめた。白川のリストが当たった。偶然ではない。監視か、観測か、それとももっと別の仕組みか。


 そして、忘れ物棚に置いた名前札は、誰が回収するのか。


 駅には落とし物係がある。誰かが拾い、保管し、名乗り出た者に返す。では、悪夢の中の忘れ物棚は。あそこに積まれた名前は。誰が、それを取りに来る。


 白川。


 あるいは、白川の背後にいる組織。


 ユウは菜々に背を向けず、ゆっくり一歩下がった。彼女を刺激しないように。彼女の涙が、これ以上増えないように。


 電車の到着を知らせるチャイムが鳴る。


 アナウンスが流れる。


 ユウは耳を塞がなかった。逃げない、と決めたわけではない。ただ、聞き間違えることを恐れて、聞かないふりをするのは、もうやめたかった。


 音は音として流れた。駅名は駅名のままだった。けれど、ユウの胸の奥には、まだ小さな白い空白が残っている。


 次は——。


 そこに何が入るのか。誰の名前が呼ばれるのか。


 ユウはその空白を抱えたまま、ホームに立ち続けた。

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