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沈黙プロトコル  作者: 妙原奇天


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10/24

第10話「悪夢の怪物は、眠りの主の“顔”をしている」

 提出期限の朝は、なぜかいつもより空が明るい。


 冬でもないのに、白っぽい光が廊下の床に伸びている。僕はその白さが、妙に怖かった。安全そうに見えるものほど、逃げ道を消す。


 ミサキは昇降口で靴を履き替えながら、僕の方を見た。


 目が合う直前まで、何かを言おうとしていた顔だった。唇が少し開いて、息が動く。


「私、家が……」


 そこまで出て、言葉が止まる。


 ミサキの視線が、僕の肩越しにすっと流れた。廊下の掲示板。今日の面談予定表が貼ってある。プリントの紙の角が少し浮いていて、風もないのに小さく揺れている。


 ミサキの喉が、ごくりと鳴ったのが分かった。


 その瞬間、目が眠る。


 瞬きを忘れたみたいな目。瞳の奥が暗くなる。僕は八話で見た。ミサキの中の「もう一人」が、顔を出す時の目だ。


 僕は息を吸った。


「今日、出さないで」


 そう言いたかった。言えばいいのに、舌が動かない。


 言えば介入になる。介入は加害になる。加害は橋になる。


 僕は何も言えずに、ミサキの隣を歩いた。


 教室に入ると、担任がすでに来ていた。いつもより早い。机の上に、書類の束。プリントの角がきっちり揃っている。揃っているものは、正しい。正しいものは、強い。


「おはよう」


 担任が笑った。声はいつも通りで、変わらない。変わらないことが、逆に怖い。


 ホームルームが始まって、連絡事項が読み上げられる。誰かの笑い声、椅子が引かれる音、窓の外の運動部の声。全部が日常で、日常のまま追い込まれていく。


 担任がミサキの机の前に立った。


「同意書、出せたら出して。無理なら無理って言っていい。言いにくかったら、あとで職員室で話そう」


 言いにくかったら、の一言が優しい。


 優しいほど逃げ道がない。


 ミサキは書類を鞄から出した。紙が少し湿っている。手汗なのか、鞄の中の空気なのか分からない。でも、紙が湿るほど握っていたのが分かる。


「はい」


 ミサキは返事をした。返事の速さは合っている。でも目が合わない。


 担任の視線が一瞬だけ僕に来た。


「成瀬。君も眠れてない顔だな」


 僕は笑ってしまった。反射みたいに。


「大丈夫です」


 嘘が滑らかに出る。僕は嘘が上手くなっている。上手くなったぶん、僕はどこか削れている気がした。


 授業が始まり、昼になり、放課後が来る。


 ミサキは結局、提出しなかった。


 担任は責めなかった。怒らなかった。ただ、淡々と締め切りを言う。


「明日までね。明日、出せなかったら、こちらから保護者に連絡するよ。心配だから」


 心配。手続き。善意。


 それが一番、怖い。


 帰り道、ミサキは僕の横を歩いていた。会話はできる。笑顔も作れる。だけど、ときどき話の途中で単語が抜ける。自分の話をしているのに、主語を見失う。


 交差点の信号が青になっても、ミサキは一拍遅れて歩き出す。


 僕はその遅れが、見ていられなかった。


 僕が救ったはずなのに。救ったから薄くなった。


 家に帰っても、落ち着かない。夕飯を食べても味がしない。テレビの音が遠い。体は普通なのに、心だけがどこか別の場所にいる。


 夜。布団に入る。スマホは机の上に置く。意味がないのは分かっている。意味のないことをしないと、僕の中のブレーキが壊れる。


 目を閉じる。


 耳の奥で、紙をめくる音がした。


 サラ、サラ。


 次に、鍵の回る音。


 カチリ。


 僕の掌の傷跡が、鈍く疼いた。


 あ、来る。


 分かってしまうのが、もう怖い。


 落ちる。


 視界が白くなる。


 次に見えたのは、玄関だった。


 ミサキの家の玄関。扉の表面の小さな傷。靴箱の角の欠け。壁紙の継ぎ目の線。知らないはずなのに、知っている。悪夢は細部を正確に作る。現実より現実らしく。


 だけど、玄関の内側に、学校の職員室の机が置かれていた。


 あの木目の机。引き出しの取っ手。上に積まれた書類の束。紙の角の揃い方。職員室の匂いが、玄関に流れている。紙とインクと、少しだけ苦いコーヒーの匂い。


 家と学校が重なっている。


 逃げ場がない。


 僕は靴を履いていた。玄関で靴を履いたまま立っている感覚は、外に出られない合図みたいだった。


 奥の廊下が暗い。


 暗い廊下の向こうから、足音がした。


 トン、トン。


 スリッパの音。


 そこに現れたのは、親の顔をした存在だった。


 ミサキの母親か、父親か。写真で見たことはないのに、顔が「親」だと分かる。人は親の顔を、想像で作れる。声もそうだ。


 その顔が笑っている。優しい笑い方。


「おかえり」


 声は、優しい。


 優しい声で、人は人を傷つける。


 僕は二話の台所を思い出した。黒い顔の父。優しい声。優しさは刃になる。


 親の顔をした存在が、机の上の書類を指で叩いた。


 同意書。


「何か隠してるの?」


 優しい声で言う。


 その瞬間、目だけが変わった。


 親の顔なのに、目がミサキだった。


 瞬きをしない目。見られている、という感覚が皮膚に貼り付く。


 僕は一歩、後ずさった。玄関の土間に足が引っかかる。つまずく寸前で踏みとどまる。音が大きく響く。玄関の壁が薄い。薄いほど、全部聞こえる。


「先生に言われたの?」


 親の顔が言う。


「学校から連絡来たの?」


 僕の喉が詰まる。


 これは外の加害者じゃない。


 ミサキの恐怖が作った親だ。


 ミサキの中にある「親」という形の恐怖が、ここに立っている。


 背後で、鏡がきしむ音がした。


 玄関脇の姿見。そこに、影のミサキが映っている。


 制服姿のミサキ。でも瞳が黒い。瞬きをしない。八話で会った「もう一人」だ。


 影のミサキは鏡越しに僕を見て、唇だけ動かした。


 やめて。


 声は聞こえないのに、意味だけが胸に落ちてくる。


 廊下の奥で、しゃがみ込む気配がした。


 僕はそっと視線を向けた。


 ミサキ本人がいた。


 廊下の途中でしゃがみ込み、耳を塞いでいる。肩が小さく震えている。泣いているのか分からない。泣けていない感じがした。涙の前の段階で止まっている。


 親の顔の怪物が、ミサキ本人に向かって一歩進んだ。


「こっち見て」


 優しい声。


「何があったの。言って」


 言って、が怖い。


 言うことは橋を作る。言うことは侵入を許す。言うことは、終わりの始まりだ。


 僕はペン刃を出そうとした。


 指が動かない。


 相手が親の顔をしている。相手が人の形をしている。切るのが怖い。切ったらミサキの何かが欠けるのが分かる。


 そのとき、耳の奥で、白川の声が重なった。


 電話の声じゃない。悪夢の中に直接響く声。


「悪夢の怪物は、眠りの主の顔の一部でできている」


 短い。冷たい。正確。


「殺すのは怪物じゃない。眠りの主の生存のやり方だ」


 僕は息を吸った。


 僕が今までしてきたことは、救いだけじゃない。


 恐怖だけを切ってきたんじゃない。


 ミサキが生きるために編み出した方法を、僕は削ってきた。


 影のミサキが鏡の中で、叫ぶ。


「やめて! 私は守ってる!」


 声が出た。鏡が震えた。


 親の顔の怪物が、少しだけ首を傾げた。


「守るって、何から?」


 優しい声で聞く。


 影のミサキの声が荒くなる。


「見られるの。決められるの。勝手に入ってくるの。全部」


 親の顔の怪物が笑った。


「家族だよ」


 その言葉が、針みたいに刺さる。


 家族。だから、同意はいらない。だから、境界はない。


 それが、ミサキの恐怖の核だ。


 僕は机の上の同意書を見た。


 署名欄。チェック欄。枠の中。


 九話で僕は、署名欄に線を引いた。契約じゃなく境界にした。踏み込むためじゃなく、踏み込まないために。


 ここでも同じことができる。


 僕は同意書を一枚取った。紙が冷たい。紙が生きているみたいに、指に吸いつく。


 僕は署名欄に線を引いた。


 一本の線。


 その線が、紙の上だけじゃなく、玄関の床に伸びた。


 白い線が、玄関と廊下の境界になる。


 線の手前が玄関。線の向こうが家の奥。境界は、目に見える形になると強い。強いものは、守りになる。


 僕は親の顔の怪物に言った。


「ここから先は、入れない」


 怪物は笑った。


「家族だよ」


 僕は喉が震えた。声が出るか分からなかった。でも出した。


「家族でも、同意がないなら入れない」


 言った瞬間、玄関の空気が重くなった。


 目に見えない圧が、胸を押す。


 影のミサキが鏡の中で、息を呑んだ。


 ミサキ本人が、耳を塞いだまま顔を上げた。


 親の顔の怪物の笑いが、薄くなる。笑顔が崩れて、無表情が出る。


「……同意?」


 怪物が繰り返す。知らない言葉みたいに。


 境界線が少し光った。


 その光がミサキ本人に当たった瞬間、髪が一房だけ白くなった。


 さらり、と色が抜ける。


 僕の胃が冷えた。


 守るほど削れる。


 救うほど欠ける。


 影のミサキが、苦笑した。


「ほらね。守るって、削れるの」


 僕は拳を握った。爪が掌に食い込む。でも痛みが薄い。痛みが薄いのが怖い。僕も削れている。


 親の顔の怪物が境界線を越えようとする。


 足先が線に触れた瞬間、玄関の床が軋んだ。紙が破れるみたいな音。怪物の足が止まる。


 境界線は、効いている。


 怪物は、怒鳴らない。ただ、優しい声のまま言う。


「心配してるだけ」


 心配。善意。正論。


 それが一番、越えてくる。


 僕は息を吸って、線をもう一本引いた。


 同意書の欄外に、小さく書く。


 公開範囲。


 誰に、何を、どこまで。


 頭の中で言葉が勝手に整っていく。SNSの設定みたいに。見せる相手、見せない相手。見せる場所、見せない場所。現実だって、本当はそうできるはずなのに、できない。


 僕は紙に書いた。


 ここまで


 そして、その紙を境界線の上に置いた。


 紙が、錠前みたいにカチリと音を立てた気がした。


 怪物は、境界を越えられない。


 越えられないまま、ゆっくり後退した。


 玄関の扉の方へ押し戻される。見えない手で押されるみたいに。


 怪物は最後まで、優しい顔で言った。


「ただいま」


 その声が、扉の向こうへ消えた。


 扉が閉まる。


 鍵がかかる。


 カチリ。


 その音は、安心の音じゃなかった。


 外にいる。


 恐怖は外にいる。


 封印は勝利じゃない。延命だ。息を吸える時間を買っただけだ。


 廊下の奥で、ミサキ本人が小さく息を吐いた。


 そして、涙が落ちた。


 今度は泣けている。


 でも泣き方がどこか遅い。涙が出るまでの時間が長い。泣く回路が遠回りになっている。白くなった髪が、その代償を静かに示している。


 影のミサキが、鏡の中で目を閉じた。


「……一晩、守れた」


 その言い方が、疲れていた。


 僕は何も言えなかった。


 ありがとう、と言っていいのか分からない。


 ごめん、と言うのも違う気がした。


 悪夢の中で、言葉は重い。


 白い光が薄くなっていく。


 玄関の輪郭が溶ける。


 落ちる。


 現実。


 僕は布団の上で目を開けた。喉が痛い。胸が重い。掌の傷跡がじんとする。スマホは机の上で静かだ。静かなのに、体がまだ振動を覚えている。


 朝。


 学校。


 ミサキは提出しなかった。


 同意書は鞄の中にあるままだった。紙はもう湿っていない。湿るほど握れないのかもしれない。


 担任は怒らなかった。やっぱり穏やかに言う。


「分かった。じゃあ、こちらから保護者面談を入れるよ。学校としては必要だから」


 別ルート。


 制度は別ルートで入ってくる。


 ミサキは青ざめた。でも、前ほど崩れなかった。境界線が効いている。効いているのに、安心できない。


 僕は少しだけ、息を吸った。


 その瞬間だった。


 ポケットの中で、スマホが震えた。


 通知は出ない。画面は暗い。震えだけが、確かにある。


 僕は廊下に出て、画面を見た。


 白川からでも、ミサキでもない。


 見知らぬ名前。


 眠りの主。


 増えている。


 ミサキを一晩守っても、世界は終わらない。


 僕はスマホを握りしめた。


 掌の傷跡が、また少し疼いた。


 次の扉が、もう開きかけている。


 暗転。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。続きはなるべく早めに更新します。よければフォローしてもらえると追いやすいです。感想や星も、すごく励みになります。

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