第10話「悪夢の怪物は、眠りの主の“顔”をしている」
提出期限の朝は、なぜかいつもより空が明るい。
冬でもないのに、白っぽい光が廊下の床に伸びている。僕はその白さが、妙に怖かった。安全そうに見えるものほど、逃げ道を消す。
ミサキは昇降口で靴を履き替えながら、僕の方を見た。
目が合う直前まで、何かを言おうとしていた顔だった。唇が少し開いて、息が動く。
「私、家が……」
そこまで出て、言葉が止まる。
ミサキの視線が、僕の肩越しにすっと流れた。廊下の掲示板。今日の面談予定表が貼ってある。プリントの紙の角が少し浮いていて、風もないのに小さく揺れている。
ミサキの喉が、ごくりと鳴ったのが分かった。
その瞬間、目が眠る。
瞬きを忘れたみたいな目。瞳の奥が暗くなる。僕は八話で見た。ミサキの中の「もう一人」が、顔を出す時の目だ。
僕は息を吸った。
「今日、出さないで」
そう言いたかった。言えばいいのに、舌が動かない。
言えば介入になる。介入は加害になる。加害は橋になる。
僕は何も言えずに、ミサキの隣を歩いた。
教室に入ると、担任がすでに来ていた。いつもより早い。机の上に、書類の束。プリントの角がきっちり揃っている。揃っているものは、正しい。正しいものは、強い。
「おはよう」
担任が笑った。声はいつも通りで、変わらない。変わらないことが、逆に怖い。
ホームルームが始まって、連絡事項が読み上げられる。誰かの笑い声、椅子が引かれる音、窓の外の運動部の声。全部が日常で、日常のまま追い込まれていく。
担任がミサキの机の前に立った。
「同意書、出せたら出して。無理なら無理って言っていい。言いにくかったら、あとで職員室で話そう」
言いにくかったら、の一言が優しい。
優しいほど逃げ道がない。
ミサキは書類を鞄から出した。紙が少し湿っている。手汗なのか、鞄の中の空気なのか分からない。でも、紙が湿るほど握っていたのが分かる。
「はい」
ミサキは返事をした。返事の速さは合っている。でも目が合わない。
担任の視線が一瞬だけ僕に来た。
「成瀬。君も眠れてない顔だな」
僕は笑ってしまった。反射みたいに。
「大丈夫です」
嘘が滑らかに出る。僕は嘘が上手くなっている。上手くなったぶん、僕はどこか削れている気がした。
授業が始まり、昼になり、放課後が来る。
ミサキは結局、提出しなかった。
担任は責めなかった。怒らなかった。ただ、淡々と締め切りを言う。
「明日までね。明日、出せなかったら、こちらから保護者に連絡するよ。心配だから」
心配。手続き。善意。
それが一番、怖い。
帰り道、ミサキは僕の横を歩いていた。会話はできる。笑顔も作れる。だけど、ときどき話の途中で単語が抜ける。自分の話をしているのに、主語を見失う。
交差点の信号が青になっても、ミサキは一拍遅れて歩き出す。
僕はその遅れが、見ていられなかった。
僕が救ったはずなのに。救ったから薄くなった。
家に帰っても、落ち着かない。夕飯を食べても味がしない。テレビの音が遠い。体は普通なのに、心だけがどこか別の場所にいる。
夜。布団に入る。スマホは机の上に置く。意味がないのは分かっている。意味のないことをしないと、僕の中のブレーキが壊れる。
目を閉じる。
耳の奥で、紙をめくる音がした。
サラ、サラ。
次に、鍵の回る音。
カチリ。
僕の掌の傷跡が、鈍く疼いた。
あ、来る。
分かってしまうのが、もう怖い。
落ちる。
視界が白くなる。
次に見えたのは、玄関だった。
ミサキの家の玄関。扉の表面の小さな傷。靴箱の角の欠け。壁紙の継ぎ目の線。知らないはずなのに、知っている。悪夢は細部を正確に作る。現実より現実らしく。
だけど、玄関の内側に、学校の職員室の机が置かれていた。
あの木目の机。引き出しの取っ手。上に積まれた書類の束。紙の角の揃い方。職員室の匂いが、玄関に流れている。紙とインクと、少しだけ苦いコーヒーの匂い。
家と学校が重なっている。
逃げ場がない。
僕は靴を履いていた。玄関で靴を履いたまま立っている感覚は、外に出られない合図みたいだった。
奥の廊下が暗い。
暗い廊下の向こうから、足音がした。
トン、トン。
スリッパの音。
そこに現れたのは、親の顔をした存在だった。
ミサキの母親か、父親か。写真で見たことはないのに、顔が「親」だと分かる。人は親の顔を、想像で作れる。声もそうだ。
その顔が笑っている。優しい笑い方。
「おかえり」
声は、優しい。
優しい声で、人は人を傷つける。
僕は二話の台所を思い出した。黒い顔の父。優しい声。優しさは刃になる。
親の顔をした存在が、机の上の書類を指で叩いた。
同意書。
「何か隠してるの?」
優しい声で言う。
その瞬間、目だけが変わった。
親の顔なのに、目がミサキだった。
瞬きをしない目。見られている、という感覚が皮膚に貼り付く。
僕は一歩、後ずさった。玄関の土間に足が引っかかる。つまずく寸前で踏みとどまる。音が大きく響く。玄関の壁が薄い。薄いほど、全部聞こえる。
「先生に言われたの?」
親の顔が言う。
「学校から連絡来たの?」
僕の喉が詰まる。
これは外の加害者じゃない。
ミサキの恐怖が作った親だ。
ミサキの中にある「親」という形の恐怖が、ここに立っている。
背後で、鏡がきしむ音がした。
玄関脇の姿見。そこに、影のミサキが映っている。
制服姿のミサキ。でも瞳が黒い。瞬きをしない。八話で会った「もう一人」だ。
影のミサキは鏡越しに僕を見て、唇だけ動かした。
やめて。
声は聞こえないのに、意味だけが胸に落ちてくる。
廊下の奥で、しゃがみ込む気配がした。
僕はそっと視線を向けた。
ミサキ本人がいた。
廊下の途中でしゃがみ込み、耳を塞いでいる。肩が小さく震えている。泣いているのか分からない。泣けていない感じがした。涙の前の段階で止まっている。
親の顔の怪物が、ミサキ本人に向かって一歩進んだ。
「こっち見て」
優しい声。
「何があったの。言って」
言って、が怖い。
言うことは橋を作る。言うことは侵入を許す。言うことは、終わりの始まりだ。
僕はペン刃を出そうとした。
指が動かない。
相手が親の顔をしている。相手が人の形をしている。切るのが怖い。切ったらミサキの何かが欠けるのが分かる。
そのとき、耳の奥で、白川の声が重なった。
電話の声じゃない。悪夢の中に直接響く声。
「悪夢の怪物は、眠りの主の顔の一部でできている」
短い。冷たい。正確。
「殺すのは怪物じゃない。眠りの主の生存のやり方だ」
僕は息を吸った。
僕が今までしてきたことは、救いだけじゃない。
恐怖だけを切ってきたんじゃない。
ミサキが生きるために編み出した方法を、僕は削ってきた。
影のミサキが鏡の中で、叫ぶ。
「やめて! 私は守ってる!」
声が出た。鏡が震えた。
親の顔の怪物が、少しだけ首を傾げた。
「守るって、何から?」
優しい声で聞く。
影のミサキの声が荒くなる。
「見られるの。決められるの。勝手に入ってくるの。全部」
親の顔の怪物が笑った。
「家族だよ」
その言葉が、針みたいに刺さる。
家族。だから、同意はいらない。だから、境界はない。
それが、ミサキの恐怖の核だ。
僕は机の上の同意書を見た。
署名欄。チェック欄。枠の中。
九話で僕は、署名欄に線を引いた。契約じゃなく境界にした。踏み込むためじゃなく、踏み込まないために。
ここでも同じことができる。
僕は同意書を一枚取った。紙が冷たい。紙が生きているみたいに、指に吸いつく。
僕は署名欄に線を引いた。
一本の線。
その線が、紙の上だけじゃなく、玄関の床に伸びた。
白い線が、玄関と廊下の境界になる。
線の手前が玄関。線の向こうが家の奥。境界は、目に見える形になると強い。強いものは、守りになる。
僕は親の顔の怪物に言った。
「ここから先は、入れない」
怪物は笑った。
「家族だよ」
僕は喉が震えた。声が出るか分からなかった。でも出した。
「家族でも、同意がないなら入れない」
言った瞬間、玄関の空気が重くなった。
目に見えない圧が、胸を押す。
影のミサキが鏡の中で、息を呑んだ。
ミサキ本人が、耳を塞いだまま顔を上げた。
親の顔の怪物の笑いが、薄くなる。笑顔が崩れて、無表情が出る。
「……同意?」
怪物が繰り返す。知らない言葉みたいに。
境界線が少し光った。
その光がミサキ本人に当たった瞬間、髪が一房だけ白くなった。
さらり、と色が抜ける。
僕の胃が冷えた。
守るほど削れる。
救うほど欠ける。
影のミサキが、苦笑した。
「ほらね。守るって、削れるの」
僕は拳を握った。爪が掌に食い込む。でも痛みが薄い。痛みが薄いのが怖い。僕も削れている。
親の顔の怪物が境界線を越えようとする。
足先が線に触れた瞬間、玄関の床が軋んだ。紙が破れるみたいな音。怪物の足が止まる。
境界線は、効いている。
怪物は、怒鳴らない。ただ、優しい声のまま言う。
「心配してるだけ」
心配。善意。正論。
それが一番、越えてくる。
僕は息を吸って、線をもう一本引いた。
同意書の欄外に、小さく書く。
公開範囲。
誰に、何を、どこまで。
頭の中で言葉が勝手に整っていく。SNSの設定みたいに。見せる相手、見せない相手。見せる場所、見せない場所。現実だって、本当はそうできるはずなのに、できない。
僕は紙に書いた。
ここまで
そして、その紙を境界線の上に置いた。
紙が、錠前みたいにカチリと音を立てた気がした。
怪物は、境界を越えられない。
越えられないまま、ゆっくり後退した。
玄関の扉の方へ押し戻される。見えない手で押されるみたいに。
怪物は最後まで、優しい顔で言った。
「ただいま」
その声が、扉の向こうへ消えた。
扉が閉まる。
鍵がかかる。
カチリ。
その音は、安心の音じゃなかった。
外にいる。
恐怖は外にいる。
封印は勝利じゃない。延命だ。息を吸える時間を買っただけだ。
廊下の奥で、ミサキ本人が小さく息を吐いた。
そして、涙が落ちた。
今度は泣けている。
でも泣き方がどこか遅い。涙が出るまでの時間が長い。泣く回路が遠回りになっている。白くなった髪が、その代償を静かに示している。
影のミサキが、鏡の中で目を閉じた。
「……一晩、守れた」
その言い方が、疲れていた。
僕は何も言えなかった。
ありがとう、と言っていいのか分からない。
ごめん、と言うのも違う気がした。
悪夢の中で、言葉は重い。
白い光が薄くなっていく。
玄関の輪郭が溶ける。
落ちる。
現実。
僕は布団の上で目を開けた。喉が痛い。胸が重い。掌の傷跡がじんとする。スマホは机の上で静かだ。静かなのに、体がまだ振動を覚えている。
朝。
学校。
ミサキは提出しなかった。
同意書は鞄の中にあるままだった。紙はもう湿っていない。湿るほど握れないのかもしれない。
担任は怒らなかった。やっぱり穏やかに言う。
「分かった。じゃあ、こちらから保護者面談を入れるよ。学校としては必要だから」
別ルート。
制度は別ルートで入ってくる。
ミサキは青ざめた。でも、前ほど崩れなかった。境界線が効いている。効いているのに、安心できない。
僕は少しだけ、息を吸った。
その瞬間だった。
ポケットの中で、スマホが震えた。
通知は出ない。画面は暗い。震えだけが、確かにある。
僕は廊下に出て、画面を見た。
白川からでも、ミサキでもない。
見知らぬ名前。
眠りの主。
増えている。
ミサキを一晩守っても、世界は終わらない。
僕はスマホを握りしめた。
掌の傷跡が、また少し疼いた。
次の扉が、もう開きかけている。
暗転。
ここまで読んでくださってありがとうございます。続きはなるべく早めに更新します。よければフォローしてもらえると追いやすいです。感想や星も、すごく励みになります。




