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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

BL ノートと、ご飯と、お揃いの

作者: de luxe

 目が覚めると、天井にでっかい模造紙が貼ってあった。


『起きたらまず枕元のノートを読むこと! 読むまでは決して部屋を出るな!』


 なんのことだろう。不思議なのはそれが俺の字で、書いた理由が思い出せないどころか、書いた記憶もさっぱりないことだった。小さなパニックが生まれ、きょろきょろと部屋を見回す。

 ここはどこだ? なんで、俺はここにいて、俺は……?

 

 窓から朝日の差し込む明るい部屋なのに、得体の知れない恐怖で黒いシミのような闇が視界の隅からじわじわと広がっていく。視界の右側に扉を見つけて、俺はとっさにここから出ようと思った。とにかく、なにか情報がほしい。


 見覚えのない……けれど身体に馴染んだベッドからそろそろと下り、扉へ向かう。その木の板の向こうから微かに人の気配がした。


 誰か、いる!


 ドアノブに手を掛けたそのとき、ちょうど俺の目の高さにまた目立つ紙が貼ってあってハッとした。わざわざ蛍光色の紙に書いてある自分の文字を読む。


『ノートは読んだか? そこには俺の知りたいことが書いてあるし、読まずに部屋を出れば必ず俺は後悔する』


 ベッドを振り返る。そばに置かれている小さなサイドテーブルの上には簡素な表紙のノートが置かれている。

 自分の字から伝わってくる必死さに背中を押され、俺は戻ってノートを手に取った。

 コンビニでも買えるようなよくあるノートだ。しかし何度も何度も繰り返し読んだかのように、端が擦り切れ、浮いている。

 

 なにか恐ろしいことが書かれている気がする。指が震えたけど、一瞬の逡巡を経てノートを開いた。


『俺へ ――ちゃんと睦月(むつき)に会う前にこれを読んでるな? 訳が分からないだろうから単刀直入に書く。俺は水瀬(みなせ) (あおい)。それはわかってるな? そして、――驚くなよ。俺は記憶が毎日消える病気だ。2年分の記憶喪失もある。26歳のとき、交通事故で頭を打った怪我の後遺症らしい。起きたとき、なにも思い出せなかっただろ?

 だから毎朝このノートを読んで、俺は自分のことを、そして睦月のことを思い出す必要がある。夜、眠ったらリセットだ。

 …………

 睦月は一緒に住んでいて、俺の世話をしてくれる唯一の友人だ。会ったら全く知らないやつだと思うけど、それは俺が睦月と出会ったとき、つまりは24歳くらいからの記憶を失っているかららしい。だから、大学のときとか入社当時のことは思い出せるだろ? そんな、自分のことを全く思い出してくれない俺と暮らして、不自由なく生活させてくれている睦月は、奇跡みたいな存在だ。家族から勘当された俺なんだぞ? 毎日感謝して、大事にしろ』


 書かれていたことを隅々まで読み切って、俺はノートを閉じた。無意識に詰めていた息を「はぁ〜〜っ」と長く吐く。

 他人が見たら信じられないような内容だけど……俺にはこれが真実だとわかった。まぁ自分の字だし、記憶にはちゃんと空白が横たわっている。ノートに書いてあった事故の日と、ノートの隣にあったデジタル時計に表示されている日付から計算すると、もう2年もこんな状態らしい。


 ――困ったな。厄介な病気だ。しかも、治るかはわからないと書いてあった。けれどノートには自分によって最近書き足された情報があって、そこから俺はわずかに希望を得ていた。


 今度こそ、寝室を出る部屋の扉を開ける。緊張はするものの、もう怖くない。扉の向こうにいるのは俺の、味方だ。


「おはよう、睦月」

「葵! おはよう。気分はどう? ノートは読んだ? 頭が痛いとか……ない?」


 震えそうな声で挨拶した俺を見て、ぱぁっと明るい笑顔を見せるイケメンがいた。


(うわ~~っ、まじでイケメン……!)


 ノートにも『イケメン』って書いてあったけど、実物から向けられる爽やかスマイルの破壊力に俺は一瞬よろめいた。イケメン、もとい睦月はエプロンをつけてキッチンに立っていて、途端に心配そうに眉尻を下げて俺を見てくる。

 知らない人だ。知らない人だけど、たった2つの表情を見ただけで俺の体は睦月を信用していいと判断し肩から力を抜いた。記憶がなくても、体の反応が俺を導く。


 ノートに書いてあった内容によると、朝晩の食事は睦月が用意してくれる。昼間は仕事で出かけるから、その間に俺が家事を済ませるらしい。家事といっても掃除洗濯のみだ。自分ひとりぶんの昼食は、作ってもいいし買ってきてもいいという。


 なんだそれは。今の状態じゃ働けないことはわかるけど、そんなの専業主婦にもなれない居候じゃないか。朝は頭が空っぽだから難しいかもだけど、晩飯くらい作れよ、俺……っ!

 ま、料理めちゃくちゃ苦手なんだけどな。どうやら俺は睦月という友人にとても甘やかされているようだ。


 顔を洗ってダイニングに戻ると、睦月が朝食を運んでいるところだった。こんがり焼けたトーストに目玉焼きとウインナー、サラダ、オレンジジュース。


「葵は朝ごはんしっかり食べる派じゃないって分かってるけど……健康のためだから。食べてくれる?」

「う……うん。頑張る。ありがとう」


 そうなのだ。一人暮らしだった大学時代には朝食なんて食べなかった俺は、立派な朝食を見た瞬間(ちょっと多いな……)と思った。けれど毎朝、睦月から同じことを言われている気がする。


 白いシャツにグレーのスラックスを履いた睦月は体格もよく上背がある。斜め上からなのに、上目遣いで「お願い」してくる様子には慣れが見えた。

 決して嫌な感じじゃない。むしろサービスショットか?ってくらい可愛い。俺はまた心臓がドキンと音を立てるのを聞きながら、素直に頷いた。


 仕事に行く睦月を見送って家事を済ませたら、寝室からまたノートを持ってきてもう一度読み込み、とある作業をはじめた。俺にとって一番必要なもの――記憶を取り戻す作業だ。


 明確な治療法はなく、どうにかして思い出そうとすると、ガンガン激しい頭痛が襲う。どうやら俺の頭は事故のとき、大切な記憶を守ろうとして脳の奥深くに記憶を仕舞ったようだ。未だに記憶を守ろうとする自分と、それを取り出そうとする自分。俺と俺の戦いだった。


 ノートには断片的に思い出した記憶が事細かに書かれていて、確かにそれは日を追うごとに繋がっていた。24歳から事故に遭うまでの2年間。そのあいだに起きたことを少しずつ思い出す。

 一日経って忘れてもノートには俺の記憶が守られていて、そこから事実をインプットする。毎日毎日ノートを読む時間は増えていくけれど、有難いことに時間の有り余っている俺には可能な作業だった。


「うぐ……うぐぐぐ、痛ぇ」


 記憶を手繰り寄せようとすれば、脳の中心から叩かれているような頭痛が襲ってくる。しかしそれを止めるという選択肢はなかった。


 俺は毎朝まっさらな頭で目覚め、毎日ノートを読んで、少しずつ増える記憶の断片をノートに記した。なぜならそこには、俺にとって大切な人――睦月との記憶がたくさん詰まっていたからだった。



 ***



「葵、ただいまぁ〜」

「睦月、おかえり」


 ある夜、帰ってきた睦月を出迎えると彼は目をぱちくりさせた。驚いている理由は、俺がエプロンを着けているからだろう。

 腰の後ろで組んだ手は、緊張して震えている。


「え! この匂い……料理したの?」

「おう! 久しぶりだろ?」


 なんてことないように笑顔を向け、呆気にとられている睦月をダイニングに座らせる。俺はキッチンで温めていた鍋から料理を皿に掬い、もつれそうな足取りでそれを運ぶ。

 心臓は今にも胸から飛び出しそうなほど強く跳ねていて、手汗で皿が滑りそうだった。不安が伝わったのか、睦月の表情も硬い。


 俺はコト……と左手でゆっくり、睦月の目の前に皿を置く。


「どーぞっ。お前、これが一番好きだろ?」

「……っ」


 料理を見た瞬間、涙がはらはらと睦月の頬を伝った。


 大きめの野菜がごろごろと入った、なんてことないクリームシチュー。一緒に暮らし始めた頃の俺は全く料理が出来なくて、練習してやっとカレーとシチューだけ上手く作れるようになった。

 黄みがかっているのはカボチャを入れる俺なりのアレンジだ。これだけで、かつて()()()()()()()()練習した料理だと一目でわかる。


 料理が上手いのは睦月のほうだけど、いつもしてもらってばかりだからどうしても何か食べさせたくて。こればかり飽きるくらい作っても、笑顔で美味しいと喜んでくれたな。


 それに、睦月はちゃんと気づいてくれただろう。俺は左手を睦月の手に重ねて置いた。

 睦月の部屋から探し出したプラチナのリング。パートナーシップ制度で家族になろうと言ってくれた睦月が、俺に用意してくれていたものだ。


「……ほんとに? 葵、ほんとに?」


 ああ、くそ、俺の視界も海の中みたいに歪んで、揺蕩う。瞬きを何度もして、何度も頷く。

 子どもみたいにくしゃくしゃの顔になって、嗚咽をもらしている睦月を強く、抱きしめた。



 ***



 2024/03/xx 睦月はかっこいい。めちゃくちゃ俺好みだ。なんでこんなイケメンが一緒に暮らしてくれてんだろうな? たぶん、毎日忘れて毎日格好いいと思ってる。

 夜一緒にテレビを見ているとき、急に思い立ってそれを伝えてみたら、顔を真っ赤にして狼狽えていた。どうも俺はいつも伝えていなかったみたいだ。睦月はめちゃくちゃ可愛かったけど、なんだかこっちまで照れて恥ずかしくなった。


 2024/07/xx 頑張れ俺!  頭がどれだけ痛くても、思い出す努力を怠るな。徐々に記憶のピースがあてはまってきた。睦月は俺が入社2年目で部署異動をしたとき、隣の席になった先輩だった。そして……好きな人でもあった。

 俺さ、ゲイだとカムアウトしたら親に勘当されて、上京して大学からは奔放に生きてたんだ。でも社会人になったらちゃんとしようと思って、まじめに生きてたらあっさり恋に落とされたんだよな。まぁ睦月だし、仕方ないか。


 2024/10/xx うわー!  最高の記憶を取り戻した。俺が積極的に迫った結果だったものの、睦月とはちゃんと付き合っていたらしい。俺、前世で世界でも救ったか? ついでに抱かれた記憶まで思い出して、昼間なのに一人悶えてしまった。めちゃくちゃ幸せだったな……。

 思い出しかけていることを、まだ睦月には伝えていない。俺、挙動不審になってないよな? 意識しまくっててもう言いたいけど、中途半端に伝えて睦月をこれ以上傷つけたくないんだ。だって、なんで睦月は俺の友人だと言い張る?

 

 2024/12/24  あらゆる行事、記念日を睦月は俺と楽しもうとしていた。だからそれがきっかけで色んなことを思い出す。付き合って初めてのクリスマス、出かけるよりも俺の作った野菜たっぷりのシチューが食べたいって、ニンジンは星形にしようって……子どもかよ。歳上なのに、睦月はどの思い出の中でも可愛い。

 料理は昼のうちにこっそり練習しよう。それにしても俺、何年経っても包丁の使い方が危うい。指に絆創膏を貼っていたら睦月にえらく心配させてしまった。お昼ご飯代、貰いすぎだし節約したいんだけどなぁ。


 2025/01/14 どこだ!? 睦月がプロポーズしてくれたときにくれた指輪が、どこかにあるはずだ。だって、あのとき俺は素直に受け取れなくて……つき返してしまった。睦月の寝室に入るのは気が引けるけど……ごめん。でもお前、捨てるわけないよな? 捨ててたら今も一緒に住んでるなんて、あり得ないよな?


 2025/01/31 ばかばかばか俺の馬鹿! やっぱりすぐに言わなくてよかった。事故のきっかけは、プロポーズされた俺が睦月を信じきれず、混乱して家を飛び出したせいだった。だって俺、家族仲はすげぇ良かったんだ。だからまさかカムアウトしただけで勘当されるなんて思わなくてさ……

 でも、睦月はこの2年……いや、3年もかけて証明してくれてたんだな。自分のことを忘れてる恋人に、全部事情を隠して。

 いつ思い出すのかもわからず、むしろ思い出す保障もなかったのに、一緒にいることはどれだけつらかっただろう。あいつ、俺には笑顔ばかり向けて、俺の心配ばかりして。……俺に泣く資格なんてない。

 伝えよう。ちゃんと全部思い出したってことを。このノートがあれば、また忘れても大丈夫だ。俺が睦月を想っていた以上に、深い愛と献身をずっと隣で表してくれた睦月。

 宣誓書にさ、俺、今度こそ名前書いたよ。役所、2人で行こうな。――なぁ睦月、指輪ありがとう。ずっと、そばにいてくれてありがとう。 



 ***



「睦月、遅くなってごめんな。……愛してるよ」

 



 ◇




睦月(むつき)水瀬(みなせ)が復帰するって聞いた? よかったなぁ。あいつ、お前にめちゃくちゃ懐いてたもんな……」


 同期の(たかし)に話しかけられて、俺はパソコンから目を上げた。いつも残業はきっちり1時間半で終わらせ、無駄な時間を過ごさず速攻で帰るのだが、今日はパソコンのシャットダウンをしたら勝手に更新が始まってしまった。まだ20%なので閉じられない。


「うん」

「記憶障害ってやつ? 治ってよかったよな。おれ、水瀬に忘れられてたら泣くよ」

「……そうだな」


 葵の事情は社内でもほとんど伏せられている。同じ部署の人間だけが「水瀬は事故って、記憶障害らしい」という情報のみを与えられ、当時は憶測や推測が行き交ったものの時間が経つにつれそれも消えた。

 何人かが異動し、退職し、派遣社員も入れ替わっている。けれど俺と同期の隆は、この3年同じ部署に居続けた今や数少ないメンバーだ。


 俺と葵の関係も、まだ誰にも知られていない。結婚したし、隆とか信頼できる人になら言ってもいいかなとは思うけど……社員の多い会社だから慎重にならざるを得ない。

 俺が最近つけ始めた薬指のプラチナリングに目をつけた隆が、ニヤッと笑った。


「堅物なお前が結婚したなんて知ったら、水瀬すっげー驚くだろうな」

「どうだろうな」


 事実を知ったら驚くのはお前だよ、と心の中で言い放って更新作業を終えたパソコンを今度こそ閉じる。ビジネスバッグに仕舞ってすぐに席を立った。


「あいつが戻ってきたら、フォロー頼む」

「ったりまえじゃん! つーか睦月の担当だろ、どうせ水瀬の方から引っ付いてくるんだから」

「ならいい」

「……なんだかんだ相思相愛だな? お前ら」


 仕事のことなんてすっかり忘れてるだろうし業務内容も変わってるから、葵は苦労するだろう。だから隆にも念押ししてみたけど、実はほとんど心配していない。

 葵は持ち前の愛嬌でみんなから愛されていたし今も可愛いから、復帰すれば周囲が進んで助けようとするはずだ。以前と同様に、俺を頼ってくれるならそれでいい。


 よっぽど仕事ができないやつなのかと思っていた時期もあったが、あれは葵なりの猛アタックだったらしい。絆された俺も俺。

 学生時代から女に好かれることが多く、めんどくさいから職場では堅物キャラで通していたのに、葵といるとそれが崩れる。いまや俺が笑顔を向けよく喋るのは葵の前だけでいいと開き直っている。



 駅に向かいながら「今から帰る」とメッセージを送ると、「今から焼く!」とコンロ付属のグリルに魚を乗せた写真が送られてきていた。

 記憶を取り戻したあと、葵はまた料理の勉強を始めた。しかし本当に苦手分野なようで、レシピを見ながらでもなぜか失敗するから可愛い。


(毎日カレーかシチューでも全然いいけどな)


 早く動け、絶対遅延するなと念じながら電車での移動を終え、駅前の薬局を通りかかって慌てて立ち寄った。


 自宅のドアを開ければ、こんがりと焼けた魚の匂いがする。換気扇だけじゃなくて窓も全開にしないと明日まで残りそうだと思いながら革靴を脱いでいると、「わー!」と大騒ぎする葵の声が聞こえた。慌ててキッチンに向かう。


「どうした!?」

「睦月ぃ、魚、剝がれなくて崩れた……」


 見上げてくる顔は涙目だ。魚の皮がこびりついたグリルと、皿に乗ったボロボロの(サバ)

 しょんぼりしながら「焼くだけならイケると思ったんだけどなぁ」とぼやく葵の手を取った。一生懸命丁寧に剝がそうとしたんだろう、指先にも鯖の皮が引っ付いている。薬指にはプラチナのリングが光っていて、シンプルだからこそペアだと気づく人はいないだろう。


 ちゃんと男らしく骨ばった手。爪は丸っこい形をしていて、俺の手よりもちょっとだけ小さい。世界一愛しい手だ。


「食べれば一緒だって。準備ありがとう。手洗って、一緒に食べようぜ」

「……ん。あ、そうだ。睦月おかえり! それ薬局の袋? なに買って来たん?」


 色付きの透けない袋を見て、葵がそわそわと瞳を揺らしている。桃色に染まっていく目尻にたまらずキスを落とす。


「ただいま。これは……デコに貼る冷却シートだよ。頭痛のとき、貼ったら楽になるって言ってただろ?」

「え? あ、あぁ……ありがと」


 ま、コンドームも入ってるけど。勘違いかぁって顔をしている葵も可愛い。

 葵は完全な記憶を取り戻してから、毎日記憶をなくす症状もなくなった。けれどたまに頭痛に襲われるときがあって、その原因は無理に毎日思い出そうとしていたからじゃないかと俺は踏んでいる。


 葵が記憶を取り戻すまでの経緯は、あとから聞いた。ノートも見せてもらった。

 全部のページが擦り切れるくらい細かく書き込まれて、何度も読まれたノート。


 消えた二年間の断片的情報と、日記が書いてあった。そこには全然重要じゃない、俺との些細な会話の内容やその時の表情についてまで書かれていて、目頭が熱くなった。そんなことまで覚えていたかったんだ。忘れたくなかったんだ。

 水面に描かれた夢のように、触れるそばから波紋に溶けて消えていってしまう記憶。葵は寝る前、毎晩何を考えていただろう。


 俺は精一杯葵を支えているつもりだったけど、ほとんど自己満足だったのだと気づく。それなのに葵は、「睦月の方がつらかっただろ」と俺を抱きしめてくれた。

 

「睦月のおかげで俺、帰ってすぐご飯食べられるの、幸せだわ……」

「ちょーっと失敗してみそ汁はインスタントだけどな! ま、今だけはがんばるよ。新妻だし?」


 ひひ、と笑う葵の笑顔を見るだけで一日働いた疲れが癒されていく。葵が職場復帰すればお互いに忙しくなるだろうが、職場でも会えるならそれもいいなと感じるんだから幸せな頭だ。


 目の前の食事に感謝して手を合わせる。これからずっと、一生、お互いに何があっても一緒にご飯を食べられるといいな。そんな想いを胸に。


「「いただきます!」」

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