豆腐ハンバーグ
これは豆腐ハンバーグの咀嚼音をモチーフにした話です。
親孝行してみませんか?
「お父さん、本当に手術を受けないの?」
「ああ。もう俺も歳だしな」
「でも手術すれば助かるかもしれないんだよ」
「成功率0.1パーセントだろ? もう俺は寿命だ。諦めるしかない」
アパレル会社に勤めるOLの美月は病院に入院している父のもとに通う日々が続く。
日に日に弱っていく父を見ていくうちに美月はすっかりと心が弱りきっていた。
「そういえば今日、看護師の平塚さんから聞いたんだけど?」
「え?平塚さんがどうかした?」
「今日の病院食、豆腐ハンバーグだって」
豆腐ハンバーグ、かつて美月の両親がハンバーグを食べたいと駄々をこねたことから作った料理だ。
父がリーマンショックで失業し、両親共にパートに出て美月を支えている日々、
当然冷凍の肉も変えずに一時は実家からもらった米と豆腐でハンバーグを作り、
家族3人で食べた日を美月は思い出した。
そのもさっとした豆腐と柔らかい口触りの豆腐ハンバーグが
家族3人で食べた唯一の思い出だったと美月は今になって感じる。
美月は父親のタカシを見つめていた。
あの私をビンタした父の手にはいつの間にか点滴の針とシナシナな手で元気がない。
食事をとるときも、たまに手の震えが止まらなくなったり、
体が痙攣を起こす時があると美月は感じた。
ドアを開ける音と共に入ってきたふくよかな女性は看護師の平塚さんだった。
平塚さんが病院食の入ったカートをベッドの上のテーブルに置き一礼する。
父のタカシは目の前に置かれた病院食にゆっくりと手を動かし、
豆腐ハンバーグを口に入れる。
箸を入れるとジューシーさはなくもさっとした味の豆腐ハンバーグに
ほんのり醤油の香ばしい香りが感じられたが、
タカシは元気がなかった。
再び彼がもう一口豆腐ハンバーグを食べると、咀嚼の音が病室中に聞こえる。
普段は病気の疲れで引き締まった顔が、一瞬だけ口に運んだ一口ごとに和らぎ、
まるで豆腐ハンバーグの味が、あの懐かしい日々であるかのようだった。
「昔、これを作ろうとしてキッチンをめちゃくちゃにしたことを覚えてる?」
美月はそう父に言うと、父は美月の顔を見て少し笑みをこぼした。
「ああ。お前は本当に頑張ってたな。キッチンをひっくり返しても。ボールから豆腐やひき肉をこぼしても」
美月は笑った。その音が病室に少し静寂な病室に反響した。
無機質な病室がいつしかの親子の会話に戻り嬉しさのあまり泣き出す美月、すると父は静かに身体をあげて抱きしめた。しわしわな手で抱きしめられた美月は、再び抱きしめれることがない日常を思い出してしまう。
「私、災害だったわね。でもお父さんは怒らなかった。ただ静かに一緒に片付けて、もう一度やってみるように言っただけ!」
「ああ。そうだな」
「ねぇあの時、なんで応援してくれたの?」
「美月なら上手くできると思ったからさ」とタカシは答えた。
声はもっと柔らかくなった。病室に響き渡る美月の涙と嗚咽は静かに二人の時間を過ぎ去らせる。
しわしわとなった父の手と顔を見つめる美月はしばらく黙っていた。
食事が続く中、美月は普通の食事の風景と、その背後にある病院の部屋、無機質な壁、心拍数のモニターの連続する音との対比に気づかずにはいられなかった。
それは昔の父と違い、父が直面している戦いの厳しい現実を思い出させるものだったが、
この瞬間に二人はしばらくぶりの休息を見つけた。
食事を終えた後、タカシは身をもたせかけ、再びベットに倒れるように眠り、満足そうな顔をした。
「美月」
父は囁くように言った。
「なあにお父さん?」
「幸せになれよ」
美月の目に涙が溢れた。
彼女は父の手を取り、ぎゅっと優しく握った。
「うん、わかった」
太陽はすっかり沈み、部屋には柔らかな病室の光に包まれていた。
やがて時間となり美月は帰宅し、家に帰ると大量に積み重なった食器とゴミが散乱した自分の部屋を見る。
お父さんに親孝行の旅行一つ行かせてあげられなかった。
お父さんにウェディングドレスを見せてあげられなかった。
お父さんに治療を受けさせてあげれなかった。
夜の静けさの中、誰もいない部屋で再び涙を流し続ける美月。
その部屋の奥にある母の仏壇の隣には、小さなフォトフレームが立てかけてあった。
そこに映るのは白い豆腐ハンバーグを両手に持ち笑顔の幼い頃の美月とあの時の元気な父の姿だった。