癌の父と中学生で死別した話
父と死別した、昔の思い出。
明るい話ではないです、注意。
感動的な話でも医療について詳しく語るものでもないので、コメント欄は閉じています。
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親との死別は誰にでも訪れるものだろうが、俺の場合は人より少し早かった。
二十余年前、中2の頃。
4月半ば過ぎの休日、運動部の部活中に顧問から
「今すぐ帰ってこい」と家から電話があったと聞かされた。
携帯も大して普及していない時代。
思い当たる節がないまま、徒歩10分の道を帰宅した。
家には母も妹も祖父母もいなかった。
理由は分からないが、ひどく嫌な予感がしていると妹を乗せた母の車が帰ってきた。
母は明らかに泣いていた血走った目で、
「今すぐ父が入院している病院に行く、祖父母も親戚の車で向かっている」
と言ってきた。
39の父は「重い胃潰瘍」で、たまに一時帰宅しながら1年半ほど入院を続けていた。
時間はかかるが治ると俺は説明されていたのだ。
だから嫌な予感を払拭するように、変に強がって、
「なんで今すぐ行かないとなの? 別にいいじゃん。見舞いなんてたまに行ってるし」
みたいな年相応の口答えをした。
「お父さんはもう助からない、だから家族が集まらないといけないの」
「ええ!?」
とにかく乗れといわれ、母の軽自動車で病院に向かった。
車中で聞かされたのは、父は本当は胃癌で、余命を母と祖父だけが知っていたこと、ショックだろうから他の者には知らせていなかったこと、そしてあと2日ともたないという話だった。
癌・ガンなんて病気は、悲劇のドラマの中にしか存在しないフィクションの病気、そんなふうに思っていた俺は、当時10に満たない妹と共にただただ困惑するしかなかった。
治るから大丈夫だから、と言うわりに、母が毎日欠かさず、1時間以上離れた病院まで父の世話に行っていたのは、そういうことだったのだ。
その頃の母はやたら神経質だった。
勉強せずにゲームしていると小言くらいだったのが、悲鳴に近い怒声をあげて、積んである少年ジャンプを何冊も投げつけてきたこともあった。
あれは死期が近いのを黙っていた、極度のストレスに他ならない。
大病院につき、泣き顔を整えてから病室で父と対面した。
骨に皮が貼り付いているだけの痩せ細った体、うみ疲れた顔は蒼白で、頭髪は半分以上抜けていた。
少し前に見舞いに来たときより急激に衰弱している。
身長175で引き締まった体格だったのが嘘のように変わり果てていた。
震えているせいで動きがぎこちなく、人形をコマ送りで撮影した昔の合成映像を見ているようで、ひどく現実味が欠けている。
だが、その姿が現実だった。
そしてそのやつれ方は、もう助からない、という背けない過酷な現実を嫌でも突き付けてくる。
俺は目を泳がせながら、わざと明るく、どうでもいい話をした。
退院したら約束通りギターを習う、キャンプに行く、今年は無理でも来年は海に行けたらいいな。
もう退院なんてできるはずがないのに。
上体を起こして話しているのもつらそうな父への見舞いは、医者の判断だったろうか、そこで終わりとなった。
これで今生の別れとなる。
しかし父は自分が助からないことを知らない。
最期を悟っていたかもしれない。だが、少なくとも他人から明言されてはいない。
さようなら、なんて口にできないのだ。
「またお見舞いにくるよ、じゃあね」
「うん、じゃあな」
たしかそんなやり取りだったと思う。
それが父と交わした最後の会話だった。
病室から出ると、その場を走り去って声を噛み殺して泣いた。
クソックソッ! どうして! なんでお父さんが!
なんでなんでなんで!
悔しさと不条理さ、言葉にするならそんな感情が胸をつまらせ、腹で煮えていた。
届かないと分かっていても、さようならさようならお父さん、と言い聞かせるように心の中で呟き続けていた。
帰宅してからはよく覚えていない。
カウントダウンは始まっている、確実な死が迫っている。
でも漫画みたいな奇跡が起きてくれないだろうか。
一眠りしたら全部夢ということにはならないか。
神様、お願いだから。
そんなことばかり考えながら夜が更けていった。
翌日、目覚めても現実は当然、昨日と地続きで、悪い夢だったなんて愉快なオチはなかった。
ショックを与えたくないという配慮か、家族と親戚が病院に出かけ、俺と妹は家で待つことになった。
何を待つのか。
無論、父が亡くなる報せを、だ。
俺は明らかにテンションがおかしくなっていた。
自室からゲーム機を何台も持ち出すと、絶対にやってはいけないと言われていた、茶の間の大きなテレビにそれらを繋げて、ゲームをやり始めた。
大画面だが面白くもなんともない。
そのときが来るまで、ただ過ぎていく時間を虚無に過ごす。
妹は落ち着かない様子で、こたつに横になっていた。
午前中に電話。
ハッとして出ると、意識が無くてもうそろそろもたない、次の電話で覚悟を、といった内容だった。
ありのままをぼやかして妹に伝えた。
そして午後1時前に次の電話が鳴った。
そのときの、眉を寄せた妹の顔を覚えている。
これも役目だと俺は受話器を取った。
涙声ながら冷静に努めた、それでも震えが抑えられない叔母さん(父の妹)の声で、
「お父さん、死んじゃったよお、おおお、あああ」
分かった、分かった、と必死に応答して受話器を置いた。
なに、なに、と不安な顔の妹に、
「お父さん、死んじゃった、て」
やだやだ、やだよやだよ。
悲鳴をあげて泣き崩れる小学生の妹。
今なら慰めてやりたいところだが、当時はそこまで大人ではなかった。
自分の部屋に駆け込むと、布団に突っ伏して泣いた。
せめて妹に泣く姿は見せない、それが精一杯だった。
胸が張り裂けるとは、ああいう状態を表現するのだろう。
喉がつまる。嗚咽で吐きそうになる。ひくひくと泣きじゃくる。
泣いても泣いても、声が枯れても、それでも絶えず泣き声が出る。
必死に堪えようとした。
もう顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃなのに。
それでも歯を食いしばって、懸命に込み上げる悲しみを堪えようと試みた。
だが駄目だった、理性が完全に決壊していた。
自分の父が死んだのだ。
布団を千切れそうなほどつかんで、絶叫した。
しばらくして落ち着いて、妹のところに戻り、抱き合って一緒にまた泣いた。
分かち合えば悲しみは半分、そんなのは嘘だ。
名残りが尽きることなどあるはずがない。
慰め合うこともできず、何の手立てもなくて、ただただ泣いた。
それから数時間、父が無言の帰宅をした。
死の報告からたしか1時間ほどで遠縁の親戚が帰ってきて、それとほぼ同時に手配されていたであろう葬儀会社が来た。
葬儀屋は手際よく、茶の間のふすまや家具などをどけて、ここがこんなに広い空間だったのかと思えるほどのスペースを作った。
従業員だから事務的で迅速な行動は優秀さの証だが、人の家族が死んだのに淡々と作業する姿に逆恨みにも似た、変な怒りを感じていたのを覚えている。
悲しみのやりどころがないと、人はその感情を怒りに変えてどうにか消化しようとする。
こういった感情の直線上で、復讐を決意する主人公の小説や映画が作られてきたのだろう。
やたら刺繍の豪華な、厚い布団に父の遺体は寝かされた。
それをエンバーミングと呼ぶかは定かではないが、髪や肌を整えられ、詰め物か何かで頬にも膨らみが出て、とても安らかな顔をしていた。
生きているときより、亡くなったあとのほうが楽そうな顔をしているとは、とても皮肉だ。
それだけに余計に悲しくなった。
どうしてこんな安らかな顔をしているのに、起き上がって来ないのだろうかと。
俺は怖くて近寄れなかった。
死への穢れ意識や遺体がどうこうではない。
ずっとそばにいたら、間違いなく、肩を揺り動かして起こそうとしてしまう。
その確信が自分の中にあったから。
通夜の準備が進むなかで、父の顔を見ては2階の自室に戻る。そんなことを繰り返していた。
その夜、眠れずに部屋でごろごろしていると、誰かが階段を1段1段、ゆっくり昇ってくる音がした。
きしむ重みからして成人男性のそれだと判断した。
「お父さん」
なんの疑いもせず、階段まで走ったが誰もおらず、下の部屋も真っ暗でしんとしていた。
ただ木造の家がきしむ音を立てただけか、極限の精神状態が幻聴を聴かせたのかは分からない。
でも、幽霊でも良いからまた顔を見せてくれと思ったのは、そのときの偽りない本心だ。
通夜当日の記憶はほとんど飛んでいる。
弔問にはたしか数百人が来てくれた。
1サラリーマンでこの人数は、なかなかのものなのではないだろうか。
父は仕事でもプライベートでも、それだけ信頼の置かれた人物だったと誇らしくなった。
立派な長男なら、ここで1人1人に挨拶でもするのだろうが、俺はちょっと顔を出してモゴモゴ言いながら頭を下げては、隠れるように部屋の隅にいた。
食事はろくに喉を通らず、口の中はずっと胃液の味がしていた。
しかし見舞いにもろくに来なかったのに、そのときだけ、大変だったねえと泣いている人たちには疑問があった。
あれはきっと雰囲気で泣いているのだ。
みんなが泣く場面だから、という一種の反射や状況への適応として、泣いているのだろう。
内心で、都合のいい奴等だと思っていた。
気付けば葬儀の日になっていた。
茶の間には祭壇が作られ、花やぼんぼりみたいな照明で飾り立てられていた。
ほんの数日前まで、死の兆しすら教えられていなかった、病気は治ると信じていた父が、そこの棺に入っている。
その日常から常軌を逸した異常な状況──冠婚葬祭は日常の催しではあるが──で、俺の精神状態は悲しみを越えたところに達していた。
どこか、にやけた表情になってしまうのだ。
これは極度の緊張などが続くと人が陥ってしまう状態で、東日本大震災や大事故のインタビューで笑っていると誤解されてネットでどうのこうのといわれた、あれだ。
テンションもおかしく、周囲の重力が変わったように、自分が立ったり座ったりしている場所もふわふわとおぼつかなくなる。
本来泣くのであろう場面でも瞳はからからに乾いていて、そのまま葬儀は終わり、父は出棺された。
霊柩車に同乗したのか、別の車だったのか、俺は20分ほどのところにある、山の中の火葬場に行った。
ああ、焼かれてしまう。
間もなく肉体が消えてしまう。
棺のふたから顔を覗き込み、もう父の顔をこの目で見るのは最後になるのだなと。
この期に及んでも俺はまだ、奇跡の復活があるのではないかと心の片隅に微かな希望を持っていた。
そんなことが起こらないのは百も承知だ。
だが、まだ父の死を納得して受け入れられない自分がいた。
いや、今思えば、こんな短期間で納得できるほうがはるかに少ないのだろうけど。
そうこうしているうちに段取りが進み、無慈悲にも棺は焼き場の炉へと入っていった。
色んなものを断絶する、この世との隔たりとなるような重い扉が閉められて、火葬が始まった。
父は治療の輸液などで水分が多いため、普通より長めに焼くと言われた。
長めに焼く。
物扱いだなまるで、と思ったりした。
家族と一緒にいるのも、親族の輪に入るのもあれで、俺は持て余した時間を火葬場の離れた駐車場で過ごした。
空は快晴、火葬場の周りには桜が咲き誇っていた。
まるでこの日のために、あつらえたかのような見事な光景だった。
青空も桜も、とても綺麗で、この悲しい日の記憶に焼き付いてしまうくらい、残酷なまでに綺麗で。
そこで、枯れていた涙がまた流れてきた。
空に細く昇っていく白煙を見ながら、あの煙が消えた先にきっと天国がある、と詩情めいたことを俺は考えていた。
中学2年、そんな恥ずかしいことを格好良さげに考えられる年齢だった。
しばらくして、火葬された遺体が出てきた。
遺体、というか、もうただの白骨と骨片だ。
ここはどこの骨、これはあの骨、と解説を受けながら骨壺にそれらを納めていった。
ああ、父は亡くなったんだ。
骨だけの姿を見て、ストンと何かが自分の中で落ちた。
それは納得、というよりも、諦念に近かった。
もう蘇ったりしないんだと、そういう諦めだ。
諦めるしか、なかった。
悲しみは時間が解決してくれる。
とは言うものの、結構かかったのを覚えている。
数日休んで、また登校するようになったが、授業中に急に悲しくなり、腹痛だと言ってトイレで泣いていたこともあった。
あれは同級生に気付かれていたかもしれない。
何の気なしに入ったデパートで、父の日の店内宣伝を聞いているうちに、ぼろぼろ泣いてしまったこともあった。
失ったからこそ分かる大切さ。
よく語られるテーマだが、それは本当によく分かる。
俺の父への思いは、自分が知りうる限りの、どんな感情よりも尊いものだった。
強く意識してはいなかったが尊敬していたし、愛していた。
だって小さい頃からお父さん子だったのだ、俺は。
それが何の前触れもなく、消えてしまった。
失ったものがあまりにも大きすぎて、心に穴が開いて、ぽっかりと虚ができてしまったようだった。
結局、父を失ったショックから家族全員が復調するまで、少なくとも1年はかかった。
1人いなくなった生活に慣れるまで、およそ1年。
死を受け止めて、思い出として心にしまいこむまでには、さらに時を必要とした。
心の傷が跡形なく完全に癒えた日は、もっとずっと先だった。
こんな話題でこの話を結ぶとガン保険のCMみたいであれだが、普通の病気が治りやすくなって高齢化が進んだ分、ガンにかかる人が増えている。
これを読んでくれた人も、定期検診を怠らず、少しでも異常を感じたら検査を受けてほしい。
身近な人にも是非すすめてほしい。
父は胃痛、食欲不振、胃もたれがしばらく続いて、検査を受けたときにはもう手遅れのステージだった。
現在はもっと医療技術や治療法が進化しているだろうけど、病気が早く見つかるに越したことはない。
こんなつらい最期を迎える人が、遺されて悲しむ家族が、1人でも減ることを祈って。
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別に書籍化狙いや宣伝のためではなく、どのくらいの人がこういう経験をしているのか、少し気になったので。