君にくちづけ
扉を開けるとひんやりとした少しカビ臭い空気が鼻をついた。
ナタルはこの臭いが嫌いだった。長時間この臭いの中にいると、体の中が汚染されてしまうような気がするからだ。それでもわざわざこの部屋を訪れたのは、
「……やっぱり」
本棚の向こう、やわらかな光が差し込む窓際の机で、窓ガラスに頭を預けてすよすよと気持ちよさそうに寝息をたてている青年を探すためだ。
名をレゴン・イエ・オラバリエ。彼女に歴史を教える立場である彼が授業の時間になっても現れない時は、たいていこの図書室で調べ物をしている。
今日こそは文句の一つも言ってやろうと意気込んでいたのに、相手が眠っているとわかって気勢を削がれてしまった。
憮然としてレゴンの向かいの椅子に座る。
叩き起こせばいいのだろうが、なぜかそうしなかった。別に勉強が嫌いなわけではなく、むしろ将来国を背負って立つ身として学ぶべきものは山ほどあり、それを誇りにさえ感じている。
ただ、少し窮屈だった。
常に誰かが傍にいて一人になれない毎日を、十二の子供が息苦しく感じるのは仕方ないことだろう。
机に肘をつき、ぼんやりとレゴンの寝顔を見るともなしに眺めた。
もともとの童顔が無防備に眠っているとよけいに幼く見える。閉じた瞼を縁取る睫毛に光が当たって金色に輝いており、薄く開いた唇からはかすかに寝息が聞こえてくる。
吸い寄せられるように顔を近づけていたのに気付いたのは、吐息がかかるほどの距離になってからだ。
自分が何をしようとしているのか自覚したとたんに、どきどきと動悸が激しくなった。体を支える両手をぎゅっと握りしめる。
最後の距離を縮めようとしたとき、レゴンが僅かに身じろぎした。
弾かれたようにナタルは机から飛び降りた。その際、ドレスの裾が引っかかって椅子が派手な音をたてる。
「あれ……、姫様?」
寝ぼけた様子でレゴンがゆっくり伸びをした。
その間も視線が唇にいくのを無理矢理逸らしたナタルは、頬が紅潮するのを自覚した。じり、と後退りをして、
「なんでもない!」
脱兎のごとく図書室を飛び出した。
廊下を走るナタルには、まだ自分の行動の理由がわからなかった。なんとなくわからない方がいい気がして、でも放置しておくのは居心地が悪くてどうしたらいいかわからなくて、気がつくと泣いていた。
泣き顔を人に見られたくなかったため中庭の手近な繁みの影に座り込んだ。
ひとしきり泣いて落ち着いたころ、自分を呼ぶ声が聞こえて立ち上がった。
「すみませんでした。調べ物をしていたら時間の経つのを忘れて、講義をすっぽかしてしまって」
図書室のナタルの行動を斟酌しているふうもなく、頭を下げる。
いつもとかわらないレゴンの様子にちょっとがっかりしている自分に、ナタルは大きくため息を吐いた。
「……本当に。毎回探すのも大変なんだ」
「すみません」
小柄な体をさらに縮こまらせてレゴンが頭を下げた。ナタルの瞳が濡れているのに気づき、
「どうしたんです。どこか怪我をしたんですか?」
おろおろとハンカチを取り出した。しわくちゃで差し出すのを躊躇っているレゴンからハンカチを奪うように取り、これ見よがしに涙を拭き鼻をかむ。
「……はしたないですよ」
「うるさい。怪我なんてしていない。それと、これは洗って返す」
言うなり踵を返して走り出す。
「レゴンなんて大っ嫌いだ!」