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2.黄昏れの終わり

 私はすっかり夕暮れ時のとりこになった。

 学校から帰って宿題をさっさと済ませる。元気であることを親に確認されて許可を貰えた日は、太陽が傾くのを待って靴を履く。


 小さな公園には大抵ほとんど人がおらず、それが立地のためか、時間帯のせいかは分からない。ジャングルジムも滑り台も砂場も一通りは遊んでみたものの、一番楽しかったのはやはり朱色のブランコだった。


「チナツー!」


 そうして乗ってぶらぶらしているうちに、イノちゃんがやってくる。乗り方を教えてくれたり、他愛のないお喋りをしたりして過ごす。二人の時間は非常に楽しく、日の落ちる速度が上がっているのではといつも錯覚してしまう。


「どこに住んでるの?」

「何歳?」

「家族は何人?」


 イノちゃんは、初めは色々と質問をしてきたが、この特別な時間に「余計なもの」を挟みたくなくて答えなかった。体が弱いと知られると、もう遊んでもらえなくなる恐れもあった。

 しばらくその姿勢でいると、やがて問いかけてはこなくなった。


 すっかり乗りこなせるようになったブランコは夢の乗り物だった。

 延々と漕ぎ続けていると、まるで風そのものになった気持ちになる。空気に、世界に溶けてしまったかのように感じられる。

 どこにも行かないのに、どこへでも行ける、そんな不思議な乗り物だったのだ。


「チナツは本当にブランコが好きなんだな」

「うん、大好き!」


 心の底から応え、イノちゃんが微笑み返してくれる。何回、このやり取りを繰り返しただろう。

 彼は名前のことで周囲から揶揄からかわれていて、一人になりたくてこの公園に来たと言っていた。でも、その問題も永遠のものではないはずだ。


 だって、とても素敵な名前なのだから。他の皆だっていつか絶対にあやまちに気付くだろう。そして解決すればここに来る理由はなくなってしまう。

 ……解決なんてしなければいいのに。心の片隅で思っていた。


 夕暮れを、昔の人は黄昏たそがれ――「かれ」時といった。薄暗く、人の見分けが付きにくい時間という意味だ。私はいつしかお互いが黄昏れのままであることを願うようになっていた。


 千夏ではなく、夕暮れの時間にだけ現れる女の子の「チナツ」で在りたい。

 彼にもずっと優しい「イノちゃん」でいて欲しい。


 学校は、お互いがちょうど二つの学区の境目に住んでいたため、日中に鉢合わせることはなかったし、公園以外の場所へ一人で出歩く機会のない私が目撃される恐れも低い。


 相手に自分の正体が分かってしまう危険が少ない代わりに、彼を取り巻く人間関係の変化を知る方法も得られないままに、私達は数年間を過ごすこととなる。

 一人の少女のささやかでずるい願いが、あかい空の向こうへと聞き届けられた結果なのかもしれなかった。


 ◇◇◇


 イノちゃんと知り合ってから幾年かが過ぎた。

 梅や桜の季節が過ぎ、本格的な夏が近付いてきた頃のことだ。永遠の夕暮れを終わらせたのは、夕食時に父親の告げた一言だった。


「引っ越し?」


 耳に聞こえていた、早とちりのセミの鳴き声が一気に霧散する。呆然とした私の問い返しに、まだ三十路を迎えたばかりの父は「あぁ」と笑顔で頷いた。隣で母も安心を促すように朗らかに笑いかける。


「ここより田舎だけど、自然がいっぱいで空気が美味しいんだ。きっと千夏の体にも良いと思う」


 ――嫌だ。喉まで出かかった言葉を無理矢理飲み込む。

 言えるはずがない。

 イノちゃんとの時間は何物にも代え難い宝物には違いなかった。けれども、両親が今抱えているものの幾らかを捨ててでも、大事な娘のためにと決めた引っ越しだ。


「……いつ行くの?」


 もう感情のままに駄々をねる年齢は過ぎつつある。ただでさえ普通の子どもより手をかけさせてきてしまったのだ。ここで拒否なんて、出来るはずもなかった。


「新年度に合わせた方が新しい学校にも馴染みやすいだろうし、夏休みに入ったらすぐにでも引っ越すつもりだ」

「千夏も今から少しずつ準備しておいてね」


 きらきらと輝くオレンジや赤に彩られた「黄昏れ」は完全におしまいだった。

 唐突な夜の濃紺が、空を無音のうちに染め上げていく様が頭に浮かんだ。一切の躊躇ためらいもなく、墨汁を引っ繰り返したかのように。世界ごとそっくりと。


 イノちゃんにきちんと言わなければ。隠してきた全てを明かして、もう会えないのだと告げなければ。

 そう深く覚悟し、翌日の夕暮れに公園へと向かった。

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