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十石峠物語

作者: 石山光介

 十石峠は群馬県上野村と長野県佐久穂町を繋ぐ峠である。江戸時代、佐久盆地から十石の米が毎日、上野村に運び込まれた事からその名が付いたと言われ、往来する馬子達(馬を引く人)の「十石馬子歌」が伝わるほど重要な山道であったが今は道幅も狭く余り通交する人も無い静かな峠だ。

 彼は秩父市に本社を置く長谷川建設の社員で石山光介と言う若者である。この日は上野村での測量作業を終え、村内にある【道の駅】で休息していた。

 上野村と言えば春は鮮やかな桜や沈丁花が山々を飾り、秋には燃えるような紅葉が迎えてくれる風光明媚な山狭だが1983年に起きた日航機墜落事故の惨劇も生々しく夜ともなれば人出も失せ、闇夜に聞こえる鹿の寂鳴が現代とは掛け離れた世界を作り出していた。

 彼は微睡から目を覚まし自動販売機でコーヒーを買ってベンチに腰をかけた。道の駅には人影も無く、周りには薄いグレーの幕が張り巡らされている。その重苦しい雰囲気の中、壁に掛かっていた観光ガイドを見つけ、そこへ書いてある十石峠と言う文字に目を留めた。何故かと言えば上野村での仕事に先立ち、会社の上司から相当、キツイ山道と聞いていたからである。ところが、その十石峠に行きたくなった。今にして思えば学生の頃、一端の走り屋を気取り、栃木県の日光いろは坂、群馬県と新潟県を繋ぐ三国峠、群馬県と長野県を結ぶ碓井峠など友人たちと車を走らせた自信がそうさせたのかも知れない。

 早速、車に乗り込みアクセルを踏んだ。深夜の山道は対向車など来る訳もなく、まるで自家用滑走路のようである。猛スピードで幾つものトンネルを潜り抜け、あっと言う間に峠の入り口まで辿り着いた。入口では電子掲示板がオレンジ色をした落石注意の文字を流し、旅人の邪魔をしている。だが彼の心は未知の世界に飛び込む嬉しさに溢れ、何の迷いも無く真っ暗な山中に飛び込んだ。とは言え、峠道はさすが噂通りの難道で道幅は狭く、急カーブの連続は息つく暇も無い。それでも何とか無難に進み、やっとの思いで頂上らしき場所に到着した。山頂では月星が分厚い雲に覆われ、木々たちが風に揺られて不気味な踊りを演じている。彼は怖くなり帰ろうとした。ところが、運転疲れか、急に眠気が襲い、結局、シートを倒し横に寝てしまった。どれくらい寝ていたのだろう?どこかで音楽が鳴っている。その音楽は夢と現実の狭間で聴くにはとても心地良く優しいメロディーで、しばらくは魅入るよう、何も考えず浸っていたが意識がはっきりするに連れ、どこで鳴っているのか確かめる事にした。電灯も無い峠でたった一人。普段ならとっくに逃げ出しているところだろう。しかし今日に限って不思議に怖さを感じず、それどころか音源を確かめたいと思う気持ちが更に強くなっている。彼は車から降り、吸い込まれるよう闇夜に突き進んだ。漆黒の中、歩って行くと突然、目の前に黒い物体が現れた。正体は展望台である。高さは約四、五メートル。松茸のような笠が張り出し、何とも言えない威圧感を出している。音楽はそこから聞こえていた。早速、中に入り螺旋階段を上がり始めた。最上階は思ったより狭く、その中央に箱のような物が置いてある。オルゴールのようだ。彼は手に取り周りを確認した。もしかして持ち主がいると思ったからである。しかしそれは杞憂であった。既に時計の針は午前十二時を回っている。普通に考えればこんな場所に住んでいる者がいるはずが無く、まして室内には冷たい空気が漂い長く居られるものでは無い。早々とオルゴールを抱え階段を駆け降りた。車内に戻り室灯に翳して見ると奇麗に細工を施されたかなり高価な物のようである。鳴り続ける音を止め、後部座席に置いて車のエンジンを掛けようとした。その時である。後ろの方で女の声が聞こえる。驚いて振り返ったが、ただ車に吹き付ける風の音が聞こえるばかりで人がいる気配も無い。彼は思い直し再び車のキーを回そうとした。すると今度は金縛りのように身体が締め付けられ身動きが出来なくなったのだ。不意に、襲い掛かった異常事態に必死に抵抗したが得体の知れない物にぐいぐいと押され、息をする事も困難である。そんな状態の中、苦し紛れにルームミラーに目を向けて仰天した。後部座席に一人の女性が静かに座っている。錯覚か?それとも幽霊か?彼は大声で叫ぼうとしたが女性が微笑みを浮かべた途端、恐怖心は消え、むしろその姿に釘付けになっている。歳は三十代前後だろうか。真っ白な肌に顔立ちは美しく真紅の紅が鮮やかで髪は長く紺の着物を着て拾ったオルゴールを両手でしっかり持っている。【何て綺麗な女だ・・】彼がそう呟いた時、不思議に身体の硬直が解け、それと同じくして女性が語り掛けて来た。

「このオルゴールは私の物です。拾って頂きありがとうございました。そこで恐縮なのですが私の話を聞いて頂けますか?」女性は真剣な眼差しでこちらを見つめている。彼は承諾の意味を込め必至に首を縦に振った。対応しようにも顔が強張り、口が利ける状態では無かったのだ。

「ありがとうございます。実は貴方にお願いがあるのです。このオルゴールは生前、私が大切にしていた物です。ところが心悪しき者どもが私の許からオルゴールを奪い展望台の屋上に捨てたのです。やっとの思いで見つけたものの、悲しいかな私はこの世の者ではありません。そこで貴方の力で、もとに返して頂きたいのです」話を聞いて愕然とした。やはりこの美しい女性は本物の幽霊なのである。これは夢だ!幽霊などいる訳が無い。これは幻想だ・・そう思ったところで目の前に幽霊が存在している以上、説明のつけようがない。考えた末、開き直って応じる事にした。

「貴女の願いは分かりましたが、どうして私の前に現れたのですか?本当に貴女は幽霊なのですか?」

「はい。先ほども申しましたが私はこの世の者ではありません。また貴方の前に現れた理由は縁と申しますか?運命とでも言っておきましょう」

女性の曖昧な返事に彼は首を捻ったが何となくそれ以上、聞いてはいけないような気がして話しを進める事にした。

「そうですか。納得は行きませんが分かりました。それでどうのように返せばよいのですか?」

「聞いて下さいますか?感謝致します。このまま信濃(佐久穂方面)の方へ降って行くと峠の麓に小さな祠があります。そこへ、このオルゴールを埋めて頂ければ良いのです。必ず御礼は致しますので宜しく御願い致します。」女性はそう言って一礼した後、霧のように消えてしまった。彼は夢から醒めたように少しの間、呆然としていたが既に女性の姿は無く、オルゴールだけが月の光で煌々と輝いている。さてどうすれば良いか?腕を組んで考えた。本音を言えばこのまま家に帰って寝てしまいたい。だがその一方で、あの美しい女性に一種の使命感さえ感じている。暫く考え込んだ末、女性の願いを叶える事にした。

 佐久穂方面に車を走らせ、ライトの明かりを頼りにやっとの思いで祠を見つけ、オルゴールを祠の背後に埋めた。その後、手を合わせ、逃げるようにその場を離れたが、全てが夢のように思え信じる事が出来ない。確かに幽霊と出会いオルゴールを祠の裏に埋めた。また、あの美しい女性と会話した事も然りである。世の中には不思議な事が本当にあるものと思う、その一方で人間と言うものは不思議な生き物で過ぎてしまえば先程まで感じていた恐怖心、猜疑心は当に消え、それどころか女性の願いを叶えてやったと言う達成感の方が強くなっている。彼は心の中で、もう一度、女性に会いたいと思いながら帰宅を急いだのであった。

 それから月日は流れ、会社が長野県佐久穂にある古谷コヤダムの補強事業を請け負う事となり、彼がその視察を命じられた。現場に着くと同じ業者の中に信濃建設と言う会社がある。CMも全国版で放送されるほどの一流企業で規模も大きく、そこの城河社長が視察に来ていると聞いて挨拶へ出向いた。ところが既に大勢の先客がいて言葉など交わせそうも無い。半ば諦めて戻ろうとした時、不思議にも社長の被っていた帽子が風に飛ばされ足元に落ちてきたのである。これはチャンス!帽子を拾い城河社長の下へ滑り込んだ。

「これは申し訳無い。帽子、ありがとう。ところで君も仕事でここへ?」

「はい。私は長谷川建設の石山と申します」

「おお、君は長谷川建設の社員さんかい?私は信濃建設の城河です。長谷川社長は、お元気ですか?」

「はい。社長は七十過ぎですが壮健です」そう言って名刺を探したが運悪く名刺入れを車の中に置き忘れている。慌てふためく彼の姿に社長は大笑いしながら優しい言葉を掛けてくれた。

「名刺はいいよ。そうかい。昔、長谷川社長には世話になってねぇ。ところで君は今回の補強作業でこの現場に来たのかい?」

「はい。視察を命じられここに来ております」

「そうかい。それはご苦労様。まぁ、ここのダムは古くてね。明治末期には原型があった。昭和になって今のような形になったが、それでも五十年以上は経っている。ようやく県も動いてくれたよ」

「そうですね。午前中、佐久穂町役場で調べましたら土壌も弱く、扇状地にしては狭い。大量の雨には弱いですね」

「さすがは長谷川建設の社員だ。よく調べているね」社長は余程、彼を気に入ったのか、それ以後も話が弾み最後は宿の提供まで申し出てくれた。彼はそれの話に飛びついた。実を言えば急な責務の為、宿の事など頭に無く、どうしようか困っていたのである。結局、二人はその後も伴に行動し、六時過ぎに帰宅する事となった。佐久穂の現場から城河社長の家は車で小一時間の場所にある。

「ここが我が家だ。遠慮なく入りたまえ」案内された邸宅は敷地が広く、門から玄関まで綺麗に石が敷き詰めら、おまけに暗さで足を取られないよう石灯篭がいくつも置かれていた。            

「すみませんね。主人のわがままに付き合っていただいて。今日はゆっくりして行って下さいね」玄関で優しそうな夫人に迎えられ、通された広い座敷にはたくさんの膳が用意されていた。

「しかし凄い豪邸ですね」

「いやいや。ここは田舎だし、私の家は元々、この辺の庄屋でね。とは言っても所詮、百姓の親玉だ。土地だけはあるからその敷地へ家を建てたのさ。ま、そんな事よりイケる口だろう?君は若いからビールの方が良いかな?それとも酒か?信州は酒もうまいぞ」

「は!ではお酒の方を」社長、自ら手酌をし、では返杯と杯を重ね、話の内容も仕事の事から女性の事まで広範囲に及んだが、そのうち意識が朦朧となり、前後不覚のまま奥の部屋へ通され寝てしまった。どれくらい経ったのだろう?喉の渇きで目を覚ますと頭が痛くて身動き出来ない。仕方が無いので布団の中に身を屈めた。すると何処かで聞き覚えのある音楽が鳴っている。初めはわからずにいたが、どうやら十石峠で聞いた音楽のようで咄嗟に布団の上に身を起こした。峠であった女性と会える気がしたのである。そして数分後、願い通り床の間にぼんやりと女性が現れた。

「お久しゅうございます。貴方のお陰で大切なオルゴールが私のところへ戻って参りました。ありがとうございました。本日は約束通り貴方にお礼がしたいと思い参上したのです」彼とすれば、そんな約束は当に忘れ、女性と会えた事に喜びを感じている。

「とんでもない。それより無事に貴女のところに戻りましたか。それは良かった」

「貴方は本当に良い人ですね。でも貴方が私の願いを聞いてくれた以上、今度は私が約束を叶える番です」女性は微笑みを浮かべながら漆塗の重箱から白い巻紙を取り出した。

「これは埋蔵金が埋められている場所を書いた物です。実を申せば私はこの城河家の出で名を、てふと申します。遠い昔、この城河家から佐久穂の商家、根岸家の芳之助に嫁き、恙なく暮らしていました。ところが明治の御代となり根岸家は没落、その後、夫と息子の与一郎の三人で拝地の一角であった古谷の里に移り住み、田畑を耕しながら暮らし始めたのです。生活は貧しくなりましたが、それでも私は幸せでした。貴方に拾って頂いたオルゴールは夫が徳川様の御代(江戸時代)府内(現松本市)の市で見つけたものです。当時、舶来品は珍しく私にと買ってくれたものでした。ところが幸せは長く続きませんでした。水害の為、県令の命令で土地を追われる事になり、それに反抗した夫は役人に捕らわれ、長い投獄の末、獄死してしまいました。でも捕まる前の晩、覚悟をしていたのでしょう。夫は私にこの巻紙を私に預けると【これは根岸家が離散したときにと隠していた埋蔵金の地図である。今まで黙っていたが私はもう生きては戻れないと思う。それ故、これをそなたに預けるので、ほとぼりが冷めたら与一郎に渡すが良い。もし与一郎が先に死んだらそなたの一存に任せる】と申されました。私は夫の遺言と思い、息子与一郎の為、時期が経つのを持っていました。ところが不幸は続くもので夫が獄死して二年目の春、与一郎も胸の病で先立ってしまったのです。悲観にくれた私でしたが夫が残したこの巻紙とあのオルゴールを守る事が唯一の使命と思い、一人古谷の地に残っていました。ところがある晩の事、まだ若かった私の身を欲しがった県の役人に無理矢理手籠めにされそうになりました。操を守ろうと必死に抵抗したのですが悲しいかな、殺されてしまったのです。結局、下手人も上がらず、その哀れさに実家である城河家と村の人々が私の為に祠を建て、供養として数々の遺品を埋めて頂きました。あのオルゴールはその時の遺品です。ですが夫から預かった巻紙だけは生前、何かあった場合と別の場所に埋めていたので誰にも気付かれず今日まで来ました。それを貴方に進上致しますので受け取って下さい」だがその申し出に彼は困惑した。身の上話しと埋蔵金の話である事は理解出来たが対処の仕方が分からないのだ。

「話は分かりましたが・・でもどうすれば良いのですか?」

「それは簡単です。あの祠の奥に大きな楡の木があります。その根元を一間半(約3メートル)掘ると、この重箱の中に巻紙が入っております。埋蔵金は小判で二千両(現在の約一億四千万円ぐらい)。これを全て貴方に進上致します。しかし貴方一人では無理でしょうから正文(城河社長)に手伝ってもらいましょう。但し、後、半年ほど経ってから掘り起こして下さい。貴方に悪いようはしません。それとこの事は他言無用に」女性はそう話し、十石峠で出会った時のように霧の如く消えてしまった。女性が消え、我に返ると既に障子から朝日が差し込んでいる。彼は頭を掻きながら今後どうしてよいのか迷っていた。女性が嘘をつくとは思わない。だから埋蔵金の話しには魅力を感じる。しかしなぜ自分なのか?オルゴールを拾い、元の場所へ返したぐらいで・・彼が起きる為、布団から立ち上がった時、今度は社長が血相を変えて部屋に現れた。

「起きていたかい?朝から申し訳無い。突然だが君に聞きたい事がある。実は昨晩、変な夢を見なかったか?」

「は?ええ、見ましたが・・」

「やはりそうか。それなら話が早い。これから居間に来て昨夜の夢を私と家内に話してくれんか?」社長の要請を承諾し、着替えを済ませ居間に入った。城河夫妻は緊張した面持ちで待ち構えている。彼は十石峠であった不思議な体験を初めから終わりまで正直に話した。

「う~ん。やはりそうか。いや不思議な事もあるものだ。君が出会った女性は私の先祖にあたる人で名前は確か、てふと言ったかな?君の言う通り根岸家に嫁ぎ不幸にあったと聞いている。実はその、てふが、私の夢にも出てきて君を婿にしろと言うのだ。家内に聞いてみると同じ夢を見たと言うんだよ。だから君の話を聞きたかったんだが・・」社長は少しの間、目を閉じていたが夫人に目配せした後、とんでもない話を持ち出した。

「私には長野県庁に務めている一人娘がいる。急だがこれから君に会ってもらおう。家内も承諾済だし娘にも連絡した。ところで君は未だ独身か?」

「は?まだ独身ですが」

「ま、そんな事はどうでも良い。ともかく娘にあってくれ」話の急展開についてゆけず、困惑したが彼の心情を察する社長では無い。それを無視するように一方的に話を進め、長野市まで車を走らせた。社長の自宅がある佐久市から長野市に着くには二時間弱の行程である。道はかなり渋滞していたが、何とか昼前に長野市中心部にある県庁公舎の駐車場に車を停めた。

「近くに喫茶店があるからそこに入ろう。娘にはその喫茶店に来るよう伝えてあるから」店に入り、二人ともコーヒーを注文したがお互い無言のままで特に社長は落ち着かない様子である。緊張した時間が流れ、コーヒーが冷めた頃、ようやくお嬢さんらしき女性が現れた。

「あ、お父さん」彼女は二人を見つけ社長の隣に座ったが彼は首を捻った。どこかで会った気がしてならないのだ。

「初めまして城河美久です。父がお世話になっています」                     

「初めまして石山光介です」                            

「父から聞きました。不思議な事があったそうで、ほんと御迷惑でしょう?」

「いえ、そんな事は・・」二人の挨拶が終わると横から社長が話に割り込んだ。

「石山君だっけ?彼は今日、お前と見合いする為に埼玉から来られたんだ。で、仕事はいつ終わる?」            

「そうね、今日は何もないから五時には終わると思うわ」

「それじゃ、その後、二人でデートでもしてきなさい」

「え?それじゃ石山さんにご迷惑でしょう?」

「私の大事な娘とデートするんだ。迷惑な訳が無いよな」、「はぁ」見合い?社長は有無の言わさず睨み付けるように彼を威嚇している。その威圧に圧倒され、言われるがまま、五時過ぎに県庁公舎の前で待ち合わせする約束し、彼女は仕事に戻って行った。

「じゃ、私は会社に行くから君は適当に時間を潰して置きなさい」

「あ!しかし社長、私は今日仕事があります」

「それは大丈夫だ。もう長谷川建設には秘書が電話している。心配しないで宜しい」社長はそう言って彼に茶封筒を渡し、そそくさと店から出て行った。渡された茶封筒の中身を覗くと五万円も入っている。こんな大金は受け取れない。彼は慌てて後を追ったが既に社長の姿は無く、観念して適当に長野市内で時間を潰し、五時になって彼女と落合った。

「ごめんなさい。待ちました?」

「いや、僕も来たばかりです」

「父が無理言ってすみません。でも石山さんとはこうなる運命だったのですよ」

「運命?」そう言われて彼としては悪い気はしない。勢いに乗じて早速、食事に誘った。ところが彼女は首を横に振り、自分の家に来いと言う。一瞬、戸惑ったものの彼女の様子が余りにも異常に見えたので興味半分、お邪魔する事にした。彼女の自宅は県庁公舎から車で三十分ぐらい離れた場所にあって豪華なマンションである。家に入り二人は一端、テーブルを挟んで座った。

「今、お茶をお持ちしますね」彼女が台所へ行った後、暇つぶしに部屋の様子を伺った。部屋の印象は思ったより質素で派手な展示物は一つも無い。ただ一つだけ、壁に三人の親子が田植えをしている絵が掛かっている。彼はその絵に興味を持ち、台所でお茶を用意する彼女に問い掛けた。

「素敵な絵が、掛かっていますね」

「そうですか?ありがとうございます。その絵、私が描いたのです」

「え?美久さんが描いたのですか?それは凄い」

「いえ、そんな事はありませんが石山さん。あの絵を見て何か感じません?」彼女はお茶を出しながら意味有り気な笑顔を見せている。その姿が、一瞬、てふと重なり、今まで胸に痞えていた疑問をぶつける事にした。       

「失礼を承知でお伺いさせて頂きます。貴女が言われた運命だとか、思い出したとか、私には何の事だかさっぱり分かりません。また初対面の私をなぜ自宅まで入れたのか?確かに不思議な体験をして今、貴女とこのように御話していますが貴女の態度を見ていると全て承知しているように思えます。よかったら知っている事を全部、話して頂けませんか?」彼の訴えに彼女は俯き加減で話し始めた。

「わかりました。ではお話ししましょう。でも何を言っても驚かないで下さいね。父から聞きましたが貴方が会った、てふと言う女性は私の生まれ変りだそうです。実は二か月ぐらい前に私の夢に彼女が現れ【お前は私の生まれ変わりです。これから一人の男がお前の前に現れます。その男とお前は祝言を挙げなさい。それがお前の運命なのです】と言うのです。当時、私は彼氏がいたので嫌な夢を見たなと思いましたが、その日以来、毎日同じ夢を見ます。さすがに耐えられなくなった私は夢の中で、迷惑だからもう出ないで欲しいとお願いしました。すると彼女は【大丈夫です。お前はその男を気に入ります。何故かと言えばその男は私の夫、芳之助の生まれ変わりだからです】と訳の分からない話をするのです。それでも私は納得出来ずにいました。ところがその夢を見て以来、なぜか彼氏が別人のように映るのです。その上、彼氏が何をやっても嫌になり、変な話ですが会う事でさえ吐き気がするほどになってしまったのです。結局、それが原因で別れてしまいましたがその夜、無意識のうちにあの絵を描いていました。すると彼女が再び現れ【よく描いてくれました。あの三人は私ら家族です。そしてお前と新夫になる人の姿なのです】と話し、私は自己の運命を悟った次第です」彼女は言い終わると静かにお茶を飲み干した。彼は話を聞いて複雑な気持になった。今の話が本当ならば、彼女とこうして一緒にいられるのは全て、てふの仕業と言う事になる。城河社長との出会いも多分、てふが仕組んだものだろう。しかし何故、そこまで自分にしてくれるのか?埋蔵金の話もそうだがオルゴールを拾ったお礼だけでここまでしてくれると言う事は他に理由でもあるのでは無いか。何か企みがあって、この後、とんでもない事が起こるのでは無いか?急に恐ろしくなり天井に目を向けた。すると、てふの顔がぼんやりと現れ、何も言わず頷いている。彼はそれを見て突然、彼女にプロポーズをした。何故だか分からない。ただ、自分の意思と言うより、てふがそう仕向けたのかも知れない。一瞬、空気が止まり彼女は目を丸くした。初めて会った男からの求婚である。当然、ダメだろうと彼は下を向いた。ところが=

「分かりました。謹んで石山さんのプロポーズ。お受け致します。実は石山さんは私のタイプです。だから受けるのですよ。決して、てふさんのせいでは、ありませんからね」彼女は笑顔で、この無謀なプロポーズを受け入れたのである。

 二人は彼女のマンションで一夜を過ごし、次の朝、結婚の許しを得る為、佐久にある社長の家へ赴いた。急な展開に最初は城河夫妻も驚いていたが、これもてふの力が働いたのか、話はスムーズに進み一か月後、長野市内の大きなホテルで盛大な結婚式を挙げた。式後は新婚旅行、親族への挨拶、信濃建設への転職などに忙殺され、忙しい毎日を過ごしていたが、そんなある日の事は彼の夢の中に、てふが現れた。                                         

「私の言った通り、貴方にとって悪い話しでは無かったでしょう」

「はい。貴女のお陰で私の人生が大きく広がりました。本当にありがとうございます」

「それは良かった。ところであの日から半年が経ちました。約束通り、そろそろ埋蔵金を貴方に進上致しましょう。正文にもそう伝えて置きます」てふはそれだけ言って姿を消したが・・彼は目を覚まし居間に座って考え込んだ。その理由は昨夜、夢に出て来た、てふが別人に見えたからである。確かに表情も口調も、そして美しさも、いつもの、てふと変わらない。だが何かが違う。特に消える寸前に見せたシタリ顔は背筋を凍らせる程、冷たく、また何か焦っているようにも見えた。好きな女に対する直感とでも言うのか、それとも振られる前に感じる保身とでも言うのか、彼だからこそ感じ得た事なのかも知れない。不安と猜疑心が重く圧し掛かっているところへ、てふが言った通り義父(社長)から電話が掛かってきた。話の内容は案の定、埋蔵金の事である。憂鬱なまま、着替えを済ませ自宅を飛び出した。朝から降り続く雨は佐久に着いた頃には土砂降りに変わり嫌な予感を増大させている。彼は暗い気持ちを抱えながら義父の家に着き門を潜った。義父は会って早々、興奮し、埋蔵金を掘り出す為、人を集めようとしている。彼は咄嗟にそれを制止した。昨夜の、てふの事がどうしても気になったからである。

「それは止めましょう。取り敢えずお義父さんと二人で行きましょう。まずは確かめる事が先決です。本当にその埋蔵金があったら手伝いの人に頼みましょう」

「?じゃ君は、てふの話は嘘と言うのか?」

「いや、大掛かりになった場合、他の人にも漏れますし・・」義父は尤もだと同意し二人だけで祠のある場所に向う事にした。雨は風を加え、土砂降りから嵐のように変貌している。車は国道141号線から十石峠への入り口、国道199号線に入り、麓にある祠を目指した。そして麓まで後、数キロメートルまで来たところで、彼は意外な事実を義父より聞いたのである。

「実は君と美久の結婚前の事だが話を聞いて蔵の中にあった古文書などを郷土史研究家、大学の先生らに調べてもらうと確かに文久二年、当家から当時、当主であった観衛門の長女てふが、代々、佐久穂の商家である根岸家当主喜十郎の跡継ぎ芳之助に嫁いでいる。その後の事は大体、君の言った通りだが違った点が三つある。まず芳之助は県令に捕まっていない事。二つ目は、てふが、死んだ原因は某に殺されたのでは無い事、そして三つ目は息子与一郎の死は病死で無い事だ」話を聞いて愕然とした。それでは話が違う。てふが、言った事は全て嘘では無いか。彼が聞いた話によれば夫、芳之助は県令に反抗して獄死、息子、与一郎は胸の病で病死。そして、てふは役人から暴行を受け殺害されたと聞いている。他の話がどうであれ、最後の一番、重要な死については全てデタラメなのだ。彼は裏切られたと言うより虚脱感に襲われ、目の前が暗くなった。しかし何とか気持ちを整え、本当の話はどうなのか?根岸家の終末はどうであったのか?聞いて見る事にした。

「では根岸家はどうなったのです?」

「うむ。君は我が家の跡継ぎになった。恥を言うようで嫌なのだが知っておいた方が良いだろう。調べによると根岸家没落後、芳之助と、てふは確かに古谷の谷に住んで百姓としてかなりの土地を耕しながら暮らしたようだ。息子の与一郎も優秀で長野県令(現在の知事)に認められ二等書記官として新政府に出仕している。長い間、二人は仲良く暮らしていた。その様子を見ていた、てふの弟、喜衛門は芳之助の才商手腕を惜しみ、事業をやろうと勧めたそうだ。ところが彼は頑として聞かず、こつこつと土地を切り開き三町歩の名主として再興したらしい。ところが喜衛門の死後、後を継いだ文衛門、つまり私の曽祖父だが、これが根っからの遊び人で地道に働く事を嫌い、遊興に耽った挙句、莫大な借金を抱えた。それを返そうと小豆相場に手を出し、更に失敗した。そんな男だから金策に走ろうとも誰にも相手にされなかったのだろう。困り果てた文衛門は義伯父である芳之助に泣きついた。芳之助には人望があったので彼が保証人になるならと当時で五百金(現在では一億円相当)を集め文衛門に渡したそうだ。文衛門もその時は心を改めると誓ったそうだが結局、その金も放蕩三昧で使ってしまい、窮した文衛門は遊び仲間と結託して芳之助と実伯母である、てふまで殺し古谷の土地を勝手に売ってしまった。その上、事実が暴露される事を恐れ、与一郎の事も捏造で、でっち上げ、捕まった芳之助は身体も弱かったのだろう、嫌疑を受けたまま獄死したそうだ。だが悪い事は出来ないもので、その文衛門も酒毒であっけなく死んでしまった。その後、色々、あったようだが文衛門の長男である祖父の幸太郎が建設会社を設立し、今の家があるのだよ。だから、てふにとっては我が家に恨みがあると思ったのだが・・・」義父の話を聞いて全てを悟った気がした。これはオルゴールを拾ったお礼などでは無く、城河家に対する、てふの復讐なのである。オルゴールを拾わせたのも、義父との出会いも、そして妻との縁も、みんなこの日の為の準備なのだろう。このまま、あの祠に行けば二人とも、絶対に殺される。彼は車を側道に急停止させ叫び声をあげた。

「義父さん戻りましょう。もしその話しが本当であれば、てふは我々を殺すつもりです。義父さんの話を聞いて全てが分かりました。実を言えば埋蔵金のありかを教えたあの夜、私の夢に出て来た、てふは今までと違い、何か含んでいるように見えました。多分、私を使い義父さんを、いや私も一緒に殺すつもりなのでしょう。あの祠に行けば絶対、殺されます。今日のところは帰りましょう」ともかくここから逃げなくてはいけない。彼が焦りながらハンドルを右に切ったその瞬間「ギャ」と言う義父の悲鳴を聞いてフロントガラスへ目をやり愕然とした。そこには、てふが両手を広げ阿修羅の如く、睨み立っている。その姿は、今までの、優しく、美しい、てふでは無く、髪は乱れて血の涙を流し、耳元まで裂けた口で山犬のような野太い声で吠えているのだ。

「戻ってはならぬ。お前らはこのままあの祠に行くのだ。私が愛した夫と息子を殺した城河家の人間は全て皆殺しにする。その手初めは正文だ。正文は我らを殺した文衛門の直系。絶対に許す訳にはいかぬ。私の言う通りこのままあの祠に行け。言う事を聞かなければ最初にお前を食い殺すぞ」悪魔相で威嚇する、てふに対し、初めは恐ろしさの余り言葉も出ずにいたが、今までの経緯を思うと悲しくもあり、胸が張り裂ける程、苦しくてたまらない。何故、こんな事になっているのか?自分の前に現れる、てふはいつも慈愛に満ち菩薩のような存在であった。それが今は鬼女と化し、二人の死に追い込もうとしている。彼は勇気を振り絞り訴えた。

「お願いです。もう許して下さい。話は義父から聞きました。確かに根岸一家を死に追いやった文衛門は悪いと思います。しかし義父には何の罪もありません。また今までの貴女は私にとって憧れの女性でした。それなのに何と恐ろしく情けない姿でいるのです?元に戻って下さい」

「だめだ。正文とお前はあの場所に行って死ぬのだ。そうでなければ私の遺恨は晴れぬ。早う行け。そして長年の恨みを思い知るのだ」てふは、必死な願いにも一切、耳を貸さず、今にも飛び掛かろうとしている。彼は絶望し、もう殺されても仕方が無いと思ったその時である。彼の身体の中に、一人の男が現れ、鬼女に化した、てふに対し優しく語り始めた。

「てふ、もう良い。城河家の恨みは遠い昔の事、この人の言う通りお前も恨みなど忘れ、元の姿に戻っておくれ」その声は今まで聞いた事の無い優しく深みのある声で突然の異変に、てふも動揺し、もう一人の男との問答が始まった。

「そなたは誰だ?」

「まさか私の声まで忘れたわけではあるまい?お前の夫、芳之助だよ」

「芳之助?では貴方は芳之助さま?」

「そうだ。それよりてふ、落ち着いて私の言葉を聞いておくれ。確かに文衛門は私とお前を殺し、与一郎にも虚偽の嫌疑を掛け与一郎は獄死した。その恨みは計り知れないものだ。しかし、その文衛門も天罰が下り酒毒で死んだ。それでもう良いでは無いか」

「芳之助様はそうは言われますが文衛門は私にとっては血の繋がりし甥。その甥が大恩ある貴方様まで手に掛け、その上、悪行を隠し根岸家の財産を全て奪った。私はその事が悔しくてならないのです」

「それは分かるが、そなたの父勘衛門殿と弟の喜衛門殿には我らは本当に世話になった。又、与一郎を県令殿に紹介してくれたのも喜衛門殿だ。文衛門がどうであれその恩は決して忘れられるものでは無い」

「でも・・」

「ともかく私の言う事を聞いておくれ。お前は元来、優しく、美しい女だ。そのような鬼の姿は似合わない。私も与一郎も今はあの世の身。お前も現世の恨みを消して早く我らの許に来なさい」芳之助の言葉に、てふは頭を垂れ、涙を流している。彼は自分の口から発する言葉を第三者的に聞くと言う不思議な体験をしながら事の顛末がどうなるのか固唾を飲んで見守った。すると、てふは芳之助の説得に震える声で応じたのである。

「わかりました。貴方の言われる事はご尤もです。私が間違っておりました。こんな姿を貴方に見られ本当に恨めしい」てふはそう言残すとモザイクが崩れるように姿を消し、その後には遥か向うに小谷の山々が美しく並んでいた。彼はホッとしたが訳が分からなくなっていた。芳之助が最後に言った言葉は自分の気持ちと一緒である。と言う事は自分が芳之助に乗っ取られたのでは無く、芳之助を無意識に演じていたのでは無いか?芳之助自体、架空だったのでは無いか・・しかしその答えは直に分かった。やはり、てふを諭したのは芳之助である。その証拠に今度は芳之助自身が彼に話しかけて来たのだ。

「私はてふの夫、芳之助なるものです。この度は、てふが色々御世話になったようでありがとうございました。これで、てふも少しは落ち着きましょう。最早、あのような姿で貴方の前に現れますまい。今後も城河家の行く末、宜しく御願いします」芳之助の言葉を聞いて彼は頭を下げた。感謝の念とある種の魅力を感じ敬意を表したかったのである。ともかく、てふも芳之助も消え、てふと彼の戦いは終わった。彼が両手を上げ、大きく溜息をついたその時、横から義父の声が聞こえて来た。

「実はだいぶ前に意識が戻っていたのだが二人の会話を聞いていると恐ろしくもあり、悲しくもあり気絶した振りを続けていたのだ。しかし、てふの気持も分かるな。根岸家を絶やしたのは我が曽祖父、文衛門だからな。我が血ながら恥ずかしい限りだ」義父は文衛門が行った悪業を心から悔いている。その言葉を聞いて、この一連の出来事が報われたように感じ、憔悴しきっている義父へ励ましの言葉を贈った。

「義父さんの言葉。多分、てふさんにも届いていますよ。何と言っても血が繋がっているのですから」

「そうかも知れんな」義父は、てふが立っていた場所に手を合わせ何度も何度も頭を下げたのである。

 全てが終わり二人は帰宅する事になった。雨は完全に止み西の空には所々、青空が見えている。その中、彼はこの不可思議な出来事に終止符を打つべく考えていた。もう奇妙な体験は無いだろう。てふの怨みも消え、天国で芳之助、与一郎と再会しているかも知れない。ともかく今までの事は忘れる事だ。そう結論付けたが、二度と、てふに会えない事に少々の失望感と芳之助に対する嫉妬感を抱いている。自己の心の複雑さ、浅ましさに苦笑しながら車は行きと同じルートで帰途を急いだ。ところが気も緩んだせいか腹が減って仕方がない。そこで義父を食事に誘った。

「そうだな。芳之助夫婦と与一郎の冥福を祈って精進落としでもするか」義父も同意し国道299号線と141号線の交差点近くにあった蕎麦屋に入る事にした。店に入り、テーブルに座ると突然、義父が頭を下げて彼に言った。

「今回の一件で色々、我が家の事が良く分かった。君には感謝するよ。呑気な顔してあの祠へ行ったら本当に二人とも死んでいたかも知れない」

「いや、良く考えれば義父さん、義母さん。そして妻と引き合わせてくれたのは、あの、てふさんです。又、改めて義父さんを尊敬しました。義父さんは素直に自分の先祖である文衛門の非を認めました中々、出来ることではありませんよ」彼の本心を聞いて義父は漫勉な笑みを見せた。その後、てふの話題には触れず、仕事の話や世間話に華を咲かせていたが、注文した蕎麦がテーブルに並び終わった頃、テレビから聞こえてきたニュースに釘付けとなった。それは国道299号線、十石峠佐久穂口での土砂崩れ情報である。詳細を聞いたところ土砂崩れがあった場所は古谷ダムの先、峠の入口で二人が行こうとした祠の付近だと言う。二人は驚きと言うよりも恐ろしくなり、早々に食事を済ませ逃げるように店を出た。車の中では長い沈黙が続き、佐久の家に近づいた頃、義父が重い口を開いた。

「てふは本当にあの祠で我々を殺そうとしたのだな。君は命の恩人だ。ありがとう」

「いえ、私ではありません。芳之助さんです」

「そうだな。根岸芳之助だ。感謝しなければ」

「義父さん。今度、根岸家の墓に参りに行きましょう」

「うん。盛大に供養しよう」西の空から夕日の塊が二人を照らしている。車は佐久で義父を降し、彼は無事に家に戻った。家では妻は不在のようで一人、ソファに腰を掛け、田園風景の絵を見つめた。その絵は結婚前に妻が無意識に描いた物で、瑞々しい田圃の周りを緑豊かな森が囲み、夫、妻、息子らしき三人が一生懸命、田植えをしている。

「あ、そうか。そう言えば、あの三人は芳之助、てふ、与一郎なのか」彼がそう呟いた時、突然、てふが絵の前に現れ、丁寧に頭を下げた。その姿からは鬼女の様相は消え、いつもの彼女に戻っていた。

「先程は御迷惑をお掛けしました。本当ならば貴方の前に出られるものでは無いのですが、どうして一言、謝りたくて参上しました」元の姿に戻った、てふの言葉を聞き、どうしても納得の行かない事を質問した。それは何故、自分まで殺そうとしたのかと言う疑問である。

「いえ。義父から話しを聞いて貴女の気持ちは分かりました。それより貴女に会えて嬉しく思いますが実は聞きたい事があります。どうして私に嘘をついたのですか?元々、私は城河家とは関係無い人間です。それなのに私を使い義父と私まで殺そうとした。それならなぜ、そこまで憎む城河家の美久と私を結婚させたのですか?埋蔵金の話まで持ち出して。納得が行くように説明して下さい」彼の必死な訴えに、てふは決まりの悪そうな顔をして、ゆっくりと話し始めた。

「申し訳ありませんでした。嘘をついた事は謝ります。貴方が疑問に思うことは尤もです。ではお話ししましょう。あの十石峠でオルゴールを貴方に拾わせたのは私の企みです。理由は前も申した通り、全ては城河家に対する復讐でした。だから誰でもよかった。そしてあの日、貴方があの峠に現れた。それで貴方を正文に近づかせ殺そうとさせたのです。されど悪い事は出来ないものですね。貴方の姿は私の夫と瓜二つ。そして殺そうとした正文の娘、美久も生前の私とそっくりなのです。その事もあって途中、迷いました。本当に貴方や美久を殺して良いものかどうか?されど私の憎悪は消えませんでした。私の愛した夫と息子を殺した甥、文衛門への恨みは消えなかったのです。だから鬼となって貴方と正文を殺そうとしました。でもやはり悪業は報われないものです。最後は貴方、いや夫芳之助の判断で私の企みは失敗し、貴方と正文は殺せなかった。私が愚かでした。もう二度と貴方の前には現れません。あの祠も土の中に埋れ、楡の木も倒されました。天の罰として受けましょう。長い間、心を煩わせ本当にすみませんでした。今後は貴方と美久の幸せを祈っています」彼はてふの声を聞いて涙を流した。何度も謝る彼女の姿は十石峠で初めて会った時と同じ、優しく、美しく、そして慈愛に満ちていたからである。

「分かりました。好き勝手な事を言って申し訳ありませんでした。一介の勤め人であった私を長野の有力者、城河家の家族にして頂いた上に生涯の伴侶として、とても素敵な美久を貴女は引き合わせてくれました。本当に感謝しています。落ち着きましたら、あの祠を修繕し芳之助さん、与一郎さんと伴に供養させて頂きます。御安心下さい」

「ありがとうございます。そう言って頂くと私の悪事が少しでも薄れるように思えます」

「最後に聞かせて下さい。美久は貴女の生まれ変わりと言った。成程、貴女と美久はそっくりです。では本当に私と貴女の夫、芳之助さんは似ているのですか?」しかし、てふはその問いには答えず、今まで見たことも無いような万遍の微笑みを見せ、姿を消した。

「あなた!」妻の声で虚ろな世界から目を覚ました。よく見ると、てふが現れた場所に何故だか妻が立っている。多分、てふは最後のお別れに妻の姿を借りて出て来たのだろう。

「ごめん。ごめん。寝てた」

「まったく、そんなところで寝ちゃ、風邪ひくよ。それより、ご飯まだでしょう?何か作るね」

「ちょっと待って」台所に向う妻を引き留め、思い切り抱きしめた。自分なりに、てふに対するケジメを着けたかったのである。すると妻から驚きの事実を知らされた。

「実はね。今日、病院行って来たの。三か月だって」

「三か月?って、もしかして子供?本当かい?」話しを聞いて彼は興奮した。親になる喜びと伴に子供が生まれると言う事は城河家の将来が保証された事になる。これで、てふの企みを完全に失敗した。そう感じた時、微かだが、あのオルゴールが奏でる美しいメロディーが聞えてきた。彼はそれを聞き、てふからの祝福と受け取ったのである。

 あれから数十年が経った。義父母も既に泉下に入り現在、彼が信濃建設の社長を務めている。彼の場合、城河家の養子になった訳では無いので名家、城河家は長男、和之に継がせ、彼の姓は次男、春斗に与える事となった。ところが因縁とは真に不思議なものである。昨年、長男が嫁を貰い、その系譜を調べたところ旧根岸家に繋がる血筋ある事が分かったのだ。前世では城河家から根岸家に血が入った訳だが今度は根岸の血がこの城河家に入る事となったのである。以来、てふが現れる事は無くなった。しかし彼の脳裏には十石峠で出会った、てふとの思い出を決して忘れる事は出来ない。彼にとって、てふは永遠のアイドルであり、最愛の女性なのである。社長になった翌年、てふの為、十石峠、佐久穂口の麓に根岸家の供養塔を建立した。これで少しは恩返し出来たと安心したが供養式の時、次男の春斗が林の中から小さな箱と漆塗りの重箱を見つけ出した。小さい箱は彼が埋めたあのオルゴール。そして重箱からは、てふの言った通り白い巻紙が無事な形で残っていた。彼がその重箱を抱え供養塔から古谷ダムを見渡すと一瞬だがダムの水が消え、そこへ田園が姿を現し親子三人が仲良く田植え仕事をしている。その幻を見て、嬉しさの余り涙が溢れたのであった。余談になるが供養式が終わり、オルゴールと重箱を城河家の家宝にしようと家へ持ち帰って巻紙を調べてみると埋蔵金は現在、古谷ダムの底に眠っているようである。水の底では有るのか無いのか今となっては不明だが、この事は義父が死んで彼、以外、知らない事であった。

佐久穂と上野村を繋ぐ、十石峠。彼にとって運命を変えた場所であり、死ぬ前にもう一度、あの展望台を妻と二人で訪れたいと思っている。


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