未来を知っている警察官の話
世界の時間はおおよそ十年分巻き戻った。
この言い方が正しいのかは定かではないが、少なくとも物質の年齢はそれくらい若返っている。
もちろん人々は困惑し、嘆いた。一時期は自殺者の人数が大幅に跳ね上がった。
彼らが何を思い行動に至ったかは誰にも分からないが、少なくとも時間が戻ったことに対して良く思えなかったのだろう。
それもそうだ。何故なら,記憶や経験はあるのに事実だけが失われ、巻き戻っているのだから。
学生は幼少期に戻り、比較的若い社会人は学生に戻る。そして、時間が戻る前にこの世に存在していなかった人間も、この巻き戻った世界で、当たり前のように生活出来ていた。
しかし、この十年の間で死を跨いだ人間は、自分が死んだ少し前、具体的には一ヶ月ほど前の記憶がなくなっていた。
そんなだから、困惑したのは何も個人や世間だけではない。それはもちろん政府も同じだった。
戸籍や学籍、会社の名簿から何もかもが十年前の記録だった。
そこで政府は国民にあるお願いをした。
「えー、国民の皆様も既にご存知の通り現在、我が国のみならず、世界中で、観測された時間が十年分過去のものとなりました。皆様も不安に襲われていることかと思います。今現在確認されている時間的問題ですが、大きく分けて二つ存在します。一つは戸籍や学籍、名簿などに関しての名前的問題。そしてもう一つは失われた十年間に関しての生活的問題。こちらに関しましては、我々の方でも対応が難しいと思っております。そのため、国民の皆様一人ひとりに、この十年間の行動をあまり変えないで頂きたく思います。」
その後、新たに設置した時間逆行問題についての専門委員会の委員長に交代した。
彼はタイムパラドックス、つまりはこの十年間の矛盾によって生じる問題点、それに対しての解決策を提唱した。
それは、時間が戻ったからといって、過去の後悔や未解決の問題を解決することを否定するものだった。
もちろんそんなものに何の拘束力もないので、言いつけを守るものは殆どいなかった。
十年前に戻ったというよりも、身体だけが若年化したといった方が正しかった。
一つ目の名前的問題についての解決は思いの外早かった。
それは単純にその名簿で生活するというだけのなんとも短絡的なものだった。
そんなわけで結論を言うと、名簿や戸籍、身体の年齢や物の劣化などの変化のみが過去に戻ったということになる。
当たり前だが、人々はこの状況に困惑しながらもなんとか探りさぐりで生活していた。しかしやはり問題は山積みで。
前置きがずいぶん長くなったが、ようやく本題に入らせていただこう。
柊木信太は東京都庁に勤務する警察官だった。
この仕事に誇りを持ち二十三歳から十二年間勤めていた。
そんな彼にも『ドロシー』は無遠慮に襲いかかった。
そして今日この日をもって退職届を提出するつもりであった。
「畑山さん。すみません、少しお話が」
柊木は上司の畑山健介警部補に声をかけた。いつもと変わらず他の仲間よりも少し柔らかい声色で。
畑山は自分のデスクに座ったままで
「おう、どうした」
そうやっていつも通りに返事をする畑山に、柊木はかなり引け目を感じていた。
柊木が少し周りを気にする素振りを見せると畑山はすぐに「そうか」と言いながら立ち上がり、誰もいない小さな会議室に先行した。
自分から話しかけておきながら先を行かせてしまった畑山に対し、やはりどこか申し訳ない気持ちがあった。
「それで、どうした。なんだか深刻そうだが」
柊木は全てとは言わないまでも、できるだけ細かに話そうとした。
「いえ、実は俺この仕事辞めようと思ってて、健介さんには先に言おうと思ったんです」
畑山はほんの少し額に皺を作ったが、すぐにいつもの顔に戻した。それから
「そうか。理由は聞いても良いか?」
「もちろんです。俺この仕事に誇りを持ってやってます。被害者を絶対に助ける。それを目標にやってきました。でも、最近分からなくなってきたんです。」
「青葉の件か」
柊木は静かに首を振った。
「確かにアレは厳しいものがあった。アイツは本当にあの事件しか起こしていなかったからな」
「でも、」
「そうだ。青葉は藤宮を殺す未来があった。もちろん変わった可能性もある。だが、早まる可能性だってあるんだぜ」
火元青葉。時間が戻る前、それから一年程前に柊木が自らの手で逮捕した人間だった。
火元青葉は当時三十四歳だった。優しそうな目元はいつも垂れていて口元が緩んで顔がすぐ目に浮かんだ。
十歳の娘と一つ歳上の奥さん、火元栞をこの上なく愛していた。
そんな青葉は、柊木の警察学校からの同期であり、親友であった。
青葉は栞の元彼であった、藤宮湊を殺害した。
動機は、藤宮に対する復讐。藤宮と栞は五年前に交際関係を解消していて、それから一年後に栞は青葉と出会った。
藤宮は栞に対して未だ好意を持っていた。
好意が憎悪に変わるのは早く、蝋燭の蝋がどんどん溶けていくように、元の温度よりもより高くなって固まる。
自分とは違う男と結婚した。藤宮にとってそれは十分に動機になり得た。
青葉は栞が殺害された後、誰よりも早く犯人に気がついていた。
そして自らの手で。
「そうじゃない!俺らが本当にすべきなのは藤宮の逮捕だけだったはずです。そして、藤宮が逮捕されたなら、アイツはあんなことやっていない!」
「政府と上の決定だ。仕方がない。過去に犯罪歴があり、実刑が決まった人間は、その犯罪が起こる前に逮捕、そしてその後の処理をすることが新しい規則なんだ」
「それがココの方針なんですね。分かりました、ありがとうございました」
柊木は早くこの場から逃げたくて仕方がなかった。信頼していた先輩にこんなことを言いたくなかったし、言って欲しくなかった。
「すまない」
柊木が欲しかった言葉をくれる人間は、もうここにはいなかった。
「ただいま帰りました」
柊木は独身だった。それは別に今に限ったことではなく、三十五歳でも同じだった。
「おかえりなさい。大丈夫ですか?」
「はい。栞さんの方は大丈夫ですか?俺、知っての通り子供に関しては全く分からなくて」
「うん、知ってる。でもまだ二ヶ月だし、全然平気かな」
そう言って笑いながら胸を張る栞を見るたびに、柊木の頭には青葉の顔と、少し嫌な感覚が浮かんだ。
「絵里ちゃん、元気に生まれてきてくれると良いですね」
「もちろん。それにどうやら遺伝子レベルで全く同じ子供が産まれるらしいからね。でもなんでだろうね」
何がですか、言葉には出さず少しだけ首を傾ける。
「もしこれが自然現象だとしたら、原因が分からないわけじゃない?でも人為的だったとしたら、生まれる人とか記憶とかそういうのが全く前と変わらないなら、戻る意味がないと思わない?」
確かに、恐らく顔に出ていたのだろう。栞はふふっ、と可愛らしく微笑んだ。
その夜、柊木は腹の下に黒いもやがたまるのを感じた。最低な気持ちを吐き出そうとベッドに潜り込む。
この家は火元家が借りている平家で、都心から車で一時間くらいのところにあった。
元々栞の従姉妹が住んでいたらしいが
「いやーこんな状況でしょ?どうせ私は実家でも良いからって言ってくれてさ、早めに絵里産んで住みなって」
ということだった。
栞と青葉は時間が戻ってから、青葉が逮捕される前に絵里を授かっていた。元の時間よりも、少し早い時期だった。
「でさ、妊婦一人でこんな広い家に住むのも何かと不便だし、青葉くんはあんなことになっちゃったから、柊木くん、一緒に住まない?」
栞は青葉が紹介した十年前、つまりは今の年齢から性格も全く変わらなかった。
柊木がそんなことを思い返していると、
「柊木くん、明日の夜ご飯なんだけどさー」
栞が柊木の部屋の引き戸を開けながら質問してきた。
柊木が半裸なのもお構いなしに。
「あ」
二人の短い声が部屋に残った。
「えっと、ごめんね」
そう言ってすぐに立ち去ろうとした栞をズボンを履きながら呼び止めた。
「待って、その、ごめんはこっちなんだけど。栞さん。話がある」
栞は少し怯えた顔をしていたが、口元をキュッと結んで近づいてくれた。
「栞さん。俺、明日青葉に会ってきます。栞さんはどうしますか?」
「よくこの流れでその話出来るね。ある意味尊敬するよ。まぁいいや。うーん、私はやめとこうかな」
「じゃあ何か伝えたいこととか」
「ないよ。なんだか青葉くんが犯罪者みたいじゃない」
柊木は自分が恥ずかしくなった。それと同時に栞を今まで以上に尊く感じた。
そうだ。
それ以上でも以下でもなく。
だって青葉は何もしていないのだから。
栞はそれを理解していた。栞は青葉を青葉としか考えていなかった。
栞は実際に青葉が藤宮を殺したことを知らない。それでも、きっと青葉が逮捕されたことは相当なショックだったはずだ。それでも、柊木達よりも何倍も、彼女は強かったのだ。
「そっか。それじゃあ、栞さんは元気だって伝えておくよ。」
「よろしく。それから、」
栞は後ろに結んだ黒い髪を弄りながら、少し気まずそうに
「女の子、紹介しようか?」
微妙そうな顔でそう聞いてきた。
翌日、柊木は畑山に挨拶をした後、思い切り頭を下げた。
「昨日はすみませんでした。俺の未熟さ故に畑山さんを困らせました。本当にすみません」
「やめてくれよ。俺も悪かった。それでさ、」
その後、二人はお互いの胸中を吐露した。
畑山は上の決定に何度も抗議をしたことを。柊木は自分達が何もしていない青葉を犯罪者として扱っていたことに対する疑問を。
柊木は同時に、退職届を撤回した。
そして、畑山は柊木と一緒に青葉の面会に同席することになった。
青葉との面会で、柊木は昨夜栞が言っていたことを伝えた。
「今回の逮捕ってさ、事件を未然に防ぐっていう意味があるんだろうけどさ。でも私は、青葉くんが前に私たちがたくさん悲しんだことを知っているとおもうの。だから、彼は絶対に同じ過ちを犯したりしない。私はそう信じてる」
栞の言葉だった。
相変わらずの柔らかい口元からでた小さな嗚咽が、面会室に響いていた。