13話 追憶編その終:貴女のための殺人②
「ただいまぁ……」
玄関を開け、私たち以外誰もいない部屋で呟く。
あの後目が覚めると、私たちは普段使っている駅からかなり離れた場所まで運ばれてしまっていた。
戻るための電車を一時間ほど待ち、そして今やっと帰宅することができた。少し出かけるだけのはずが、何故か疲れがどっと溜まっていた。恐らく何度も現実と遊戯世界を行き来していたせいだろう。
デニムジャケットを脱ぎ捨て、床に寝転がる。すると樹里も疲れた様子で私の隣に倒れた。
「……見舞いに行くだけのはずだったんだがな」
「そうだね、……夕ご飯どうしようかな」
家を出たのは朝だというのに、気づけば外はもう薄暗くなり始めていた。
夕飯はコンビニの弁当でいいかな、そんなことを考えていると樹里が私の身体に抱き着き、顔を私の首筋に近づけた。
「シャワー浴びてないし、ちょっと恥ずかしいんだけど……ッ⁉」
突然首に鋭い痛みが走る。その原因は樹里が私の首筋に噛みついていたからだ。
かなり強い力で噛まれたせいで、その場所から血が外に出てくるのを感じた。
「な、何してるの⁉」
「少しだけ我慢してくれ……んっ」
樹里が噛んだ部分を今度は舐め始めた。
まるで吸血鬼のように、樹里は私の血を飲む。
「……すごく、怖かったんだ」
私は今の状況が怖い……とは流石に言えなかった。
「琴子のことを話せば、一二三がどこかに行ってしまうんじゃないかって」
「そんなこと……」
そんなことない。……きっとそれは今だから言えることだ。例えばまだ一緒に暮らすようになって間もない頃に聞かされただどうなっていただろう。
自分でもわからない。もしかしたら……、そう思うと樹里の言葉を簡単には否定できなかった。
「でも、私だってずっと不安だったんだよ? もし琴子さんが目覚めたら、樹里ちゃんは私なんか捨てて琴子さんの所に行っちゃうんじゃないかって」
「もし琴子があんなことになってなかったら、私はきっと一二三とは出会わなかっただろうな。……軽蔑したか?」
「しないよ」
何故なら今こうやって樹里と触れ合うことができている、それが全てだからだ。もしもの世界のことなんてどうでもいい。
「そうか……、私は卑怯だ。またこうやってお前の優しさに依存してしまっている」
「それは違うよ。さっきも言ったけど、私だって樹里ちゃんがいなかったらあの島で死んでいたかもしれないんだし」
私がそう言って樹里の雪のような髪を撫でると、彼女は安心したようにもう一度私の首から流れる血を舐めた。
「でも、なんでいきなりこんなことを?」
「……私は一二三のことを独り占めしたいんだ。首に噛み痕のある女なんて誰も近寄ろうとしないだろ?」
「マーキング…ってこと?」
我ながら最低な例えをしてしまったなと言った直後に後悔してしまう。樹里も恥ずかしそうに「そうかもしれないな」と呟いた。
「一二三のことを誰にも渡したくない。茜にも、美鈴にも……。私だけの四条一二三であってほしいんだ」
なんて身勝手で悲しい独占欲。もしかしたら、以前から私が誰かと話している時にそんなことを考えていたのだろうか。
「……どこにも行かないで」
振り絞るような声。
樹里の両親や日守琴子と同じように私が消えてしまったら、樹里はまた孤独になってしまう。きっとそれは茜と美鈴では癒すことができないのだろう。
「私だけを見て……」
そういえば、以前にも似たようなことを言われた。あの時も樹里の精神はかなり追い込まれていた。
……大丈夫、私はどこにも行かないよ。
そんな無責任なこと、今の私には言えなかった。
人は突然いなくなる。それを嫌というほど知ってしまった。
明日私が生きているかすらわからない。それほどまでに死は唐突で、そして平等なのだ。
樹里がいきなり私の前から姿を消したら……。想像するだけで恐怖を感じてしまう。
言いたいことを全て言い終わったのか、樹里は無言で私の血を吸い始めた。まるで赤ん坊みたいだなと謎の母性を感じながら呑気なことを考えていたが、噛まれた場所の痛みはまだ消えていない。
アーランドに鬼と言われたことをやはり気にしているのだろうか。
「樹里ちゃんは……人間だよ」
「……当たり前だろ」
……もしかしたらただの性癖かもしれない。
我慢できなくなった私は強引に樹里のパーカーを脱がせた。彼女の白い肌と黒い下着が露わになる。
「今度は私の番」
もし私が人を殺したとしたら……、やはり動機には樹里が関わってくるのだろうか。
日守琴子と同じ、赤崎樹里のための殺人。きっと私が捕まったら樹里は酷く傷つくだろう。
冬に私の恩人が起こした事件を思い出す。
『じゃあ私がもし人を殺したら……?』
『うぅん……、そんなこと絶対ないって信じてるけどね。万が一にでもそんなことがあったら……、まずは怒るかな』
『怒る……?』
『うん、その後いっぱい泣いて、そして樹里ちゃんが帰ってくるのをずっと待ってるから。何年でも、何十年でも……』
もし樹里が人を殺したら、私は彼女の帰りを待ち続ける。その言葉に偽りなんてない。
だがもし逆の立場だったら、樹里は待っていてくれるだろうか。
涙目になりながら、甘い声で私の名前を呼ぶ今の樹里の表情。これを他の人間にしたらと想像すると、それだけで軽く苛立ってしまうのだが……。私が琴子と同じように樹里を傷つけ、そして彼女の中で永遠の存在になるとしたら……、もしかしたらそれは幸福なことなのかもしれない。
そんな後ろめたいことを考えながら、私は外が真っ暗になって自身の空腹が限界になるまで樹里の感触を味わっていた。