22話 数百人の目撃者 前編
年が明け正月も終わり、講義が再び始まってしまった。……気が重い。
「やばい…、ほんとにやばい……。なんとかしなきゃ……」
講義の時間割を見て頭を抱える。完全に単位を落とすのが確定した講義がいくつか。リーチ状態の講義もかなりある。
そもそも樹里と出会う前からあまり真面目に講義を受けていたとは言えないのだが……、やはり最近は本当にまずい。『留年』の二文字が脳裏によぎる。
「……暇だ」
樹里がゴロゴロしながらスマートフォンでゲームのプレイ動画を見ている。
私はその手の動画をあまり見ないのだが、ああいった配信業で生計を立てている人間はテレビやニュースで何度か見たことがある。
「私も好きなことをして生きたい……」
「これだけで食っていける人間は一握りもいないだろ」
「それはわかってるよ……」
スマートフォンをベッドに投げた樹里が私の膝の上に乗る。彼女の重さと体温を感じながら、身体を抱きしめる。
「それに、無理に就職する必要もないだろ?」
「うぅん……、確かにサチヱさんの遺産はあるけど……」
祖母の残した莫大な額の遺産。きっとそれを使えば今後生きていく上でお金に困る機会なんてなくなるだろう。……だが、正直に言うとあまり遺産に頼りたくない自分がいた。
勿論一銭も使わないというわけではない。大学の授業料にも遺産を使わせてもらっている。
ただ、やはり使った分は返したいというのが本音だ。
「でもなぁ……」
するとベッドの上のスマートフォンが着信音を鳴らした。デフォルトのシンプルな音、樹里のスマートフォンだ。
「もしもし…あぁ、浦崎か。……そうか、すぐに行く。おい、一二三」
「……もしかして」
樹里が笑う。新しい玩具を見つけた子供のような純粋無垢な笑み。その表情はとても美しいが、同時に恐怖を覚える。
「……事件だ」
●
また凄惨な死体を見る羽目になるかと思ったが、現場にあったのはドラマでよく見る白い縄。それで人の形が作られている。そのことに少しだけ安堵した。
いつものようにヨレヨレのコートを着た浦崎刑事が頭を掻きながら会釈する。
「いやぁ、どうも。正月明け早々申し訳ありませんねぇ」
「別にそんなことはどうでもいい。被害者は?」
樹里が部屋を見回しながら淡々と言う。部屋はかなり荒れている。犯人と被害者が争った証拠だ。
「被害者は川井将太、死因は縄で首を絞められたことによる窒息。殺されたのは昨晩、午後十二時から午前一時の間と思われています。第一発見者は被害者の友人、午前九時に部屋に入り遺体を発見したそうです」
「……普通だな」
彼女の異様な価値観に私も染まってしまったわけではない。だが、やはりこの事件に特殊なことは何もなく、樹里に協力を依頼するようなものとは思えなかった。
「えぇ、容疑者も絞れているのですが……」
「だったら必死に証拠を探したり、アリバイ崩しをしたらいいじゃないか」
「いやぁ、私たちも他の事件に追われていて……」
「……要は体のいいたらい回しじゃないですか」
自然と口から本音が漏れていた。
「さて、なんのことやら……」
「まあ別にいい。とりあえず今からその容疑者に会うぞ」
樹里は部屋から出ていってしまった。……まだその容疑者の居場所を知らないはずなのに。
「……下の部屋です」
「ありがとうございます、…あはは」
私は苦笑いをしながら部屋を後にした。
●
「また…ですか。何度も警察の方にお話をしているんですが」
「本当にすみません」
私が謝ると、大人しそうな黒髪の女性が「大丈夫です」とカップにコーヒーを注ぐ。
部屋の主、つまり容疑者である桐野琉璃がやはり困惑した表情で私たちのことを見る。
無理もない。私たちの姿は明らかに警察の人間には見えない。実際私たちは警察ではなくただの協力者なのだが、それを彼女に説明するのは非常に難しい。
「お前、仕事は?」
「はい?」
樹里が唐突に聞く。
「えっと、コンビニの店員を……。まあフリーターですね……」
「嘘だな」
はっきりと断言した。樹里は琉璃の顔ではなく、部屋の一点をじっと見つめている。
そこはこの部屋で少し異質と言ってもいい場所であった。
基本的には質素だが可愛らしい色の家具が多い、女性らしい部屋といった雰囲気なのだが、そこだけは違う。
黒くゴツゴツとしたデスクトップパソコン。黒いキーボードからは色とりどりの光が発している。所謂ゲーミングキーボードだ。その隣にはいかにも高そうなマイク、そしてこちらもまた高級そうなヘッドホンが置いてある。
ここにだけまるで別人が暮らしているかのような異質さだ。
「嘘というか、まあ趣味ですね。一応それも収入の一部ではありますが」
「趣味で配信活動を……?」
私が聞くと琉璃が「えぇ、まあ」と言って頷いた。
「な、あれだけで食っていくのはほとんど無理なんだ」
「その話は今は関係ないでしょ⁉」
つい樹里の言葉に大声で返してしまう。私は恥ずかしくなり、自身の口を押えた。
「ふふ、まあそうですね。ほんと痛感しちゃいますよ……。ってすみません、こんな話を聞きに来たんじゃないですよね」
「あぁ、被害者との関係、そして被害者が死んだ時のアリバイをもう一度話してくれ」
きっと琉璃には容疑者だと思われている理由がある。それと同時に、彼女には犯行が不可能だと思われるようなアリバイも。
「将太は私の元カレです。別れたのは何年も前……。それなのになんで今更」
「将太さんが亡くなった時間、どこにいましたか?」
「部屋にいました」
「それを証明できる人間はいるのか?」
琉璃が一人暮らしであることは確認済だ。部屋にいたことを証明できる人間がいるようには思えない。だが、完璧なアリバイが彼女にはあった。そうでなければ浦崎が樹里に協力を依頼するはずがない。
「……いますよ。たくさん」
笑った。先程までの大人しそうな女性の姿はどこにもいない。
目の前にいるのは狂気を孕んだ魔女。直感でわかってしまった。……彼女が犯人だ。だがそのことを論理的に証明することができない。何故なら、彼女には完璧なアリバイがあるのだから……。
樹里がもう一度パソコンの方を見る。
「なるほど。動画サイトで配信をしていたんだな?」
「はい。しかも生放送ですよ? 配信を見ていた全員が、……立派な目撃者ですよね?」