3話 色欲の罰①
──どうして一二三ちゃんのお家はお母さんが来ないの?
小学校の授業参観のことを今でも思い出す。
別に父親が参加するのは珍しくない。他のクラスメイトの父親も私たちが授業を受ける姿を微笑ましそうに見ていた。ただ、毎回父親しか参加しない家庭なんて私くらいだ。
それに気づいた男の子が余計なことを言ってくる。
……そんなこと、私が知りたい。
それでも父に聞くことはできない。
『なんでうちにはお母さんがいないの?』
一度だけ聞いた時の、悲しそうな顔をした父と加奈子おばさんの顔を忘れることができない。それから、我が家では母のことを聞かないのが暗黙の了解になった。
でも、気にならないと言えば嘘になってしまう。……私の母は、どんな人なのだろう。
ついにその答えを知ることができる。そう考えただけで、胸の高鳴りが止まらなかった。
●
激しいノック音で目を覚ます。加奈子おばさんからの電話の後、圏外のせいでやることもなくゴロゴロしている間に寝てしまったらしい。時計を見ると午後十一時。こんな遅い時間に、一体何の用事があるのだろうか。
「樹里ちゃん……?」
樹里はノック音を無視して本を読んでいた。私は出ないからお前が出ろという意志を感じる。
私は仕方なく起き上がった。
「はぁい……」
そして扉を開く。
「遅いっ!」
「すっ、すみません……」
鬼のような形相で栄一が立っていた。別にそこまで怒らなくても……。
「加奈子がこの部屋に来なかったか⁉」
「え? 多分来てないと思いますけど……」
「あぁ、一二三が寝ている間誰も来なかったぞ」
「そうか……」
「あの、何かあったんですか?」
栄一の表情が失望と焦りで染まる。確実に何かが起きている様子だ。
「タバコを吸いに外へ行ってる間に、加奈子が消えたんだ……。部屋には鍵がかかってて入れねぇし……」
「雨の中タバコを?」
「加奈子は煙が苦手なんだ」
「なるほど……」
樹里の返答に私は納得しながら頷いた。
なんとなく今着ているTシャツを嗅いでしまう。……大丈夫、もう何カ月も吸っていないのだから。
「ただ中で寝ているだけじゃないか?」
たしかに、彼の話を聞くとその可能性が高いように思えた。
「部屋を出るときに鍵をかけないように伝えたし、思いっきり扉を叩いたり叫んだりしても反応が何もねぇんだ……」
「それはおかしいかも。普通はそんなことされたら起きるよね」
よほど深い眠りについているのか、それとも加奈子おばさんの身に何かがあったのか。
とにかく、彼女を探さなくては。
「行こう、樹里ちゃん」
「……そうだな」
ゲストハウスにいないとしたら、彼女は本館の方にいるのかもしれない。もしかしたら新太や使用人たちと談笑しているのかも。人騒がせだが、仲のいい夫婦なのだなという話で終わるだろう。……だが、楽観的な希望は易々と砕かれた。
本館を手分けして探しても、加奈子おばさんは見つからない。それどころか、騒ぎを聞いて駆けつけた使用人二人も見ていないという。
「私は新太様の部屋を確認してきます。安井さんとお二人はゲストハウスをお願いします」
「は、はい……」
総一郎が落ち着いた様子で言うと、私の心も徐々に冷静になる。
もしかしたら散歩をしていただけで、今は部屋にいるかもしれない。それに最初から中にいた可能性もある。
「やっぱり部屋で寝てるんだよ。そうじゃなきゃ、おかしいよ」
「……ただ寝てるだけならいいけどな」
樹里が意味深に呟いた。その言葉の意味を、私は深く考えないようにした。
ゲストハウスへ戻ると、栄一が扉を叩いていた。もはや殴っていると言ってもいいほどの勢いだ。
「おい加奈子ッ! いるなら返事くらいしろ!」
怒声を上げても、反応はない。
「そ、そうだっ! マスターキーがあるので、私取ってきます!」
そう言って蔵之介が走っていった。
「こんな時間にはた迷惑な……」
「私が確認するので新太さんは休んでいてください」
「いや、もしものことがあったら困るからね」
蔵之介と入れ違いで、新太と桐子が歩いてきた。二人とも今まで寝ていたのか、寝間着姿だ。新太は欠伸をすると、めんどくさそうに頭を掻いた。
「なんだよ。こんな時にそんな呑気によぉ……」
栄一が二人を睨む。
気持ちはわからなくもないのだが、こんな時に小競り合いをしている場合ではない。
「お、落ち着いてください! 樹里ちゃんもなんとか言ってよ」
「……それより、覚悟しておいた方がいいぞ」
「えっ……?」
樹里が鼻を押さえながら言う。私は彼女の様子が気になり、周囲のにおいを嗅いだ。
そして私は異変に気付いた。
「何、この臭い……」
……錆びた鉄のような臭い。普段は滅多に嗅ぐことのない、しかしどこかで嗅いだことのあるはずの臭いがした。
「マスターキー、持ってきました! うわっ!」
走ってきた蔵之介が足を絡ませ転んでしまう。少し前までの、落ち着いた使用人の姿はどこかへ消えてしまった。
「安井さん、落ち着いてください」
「で、でもっ……」
総一郎がマスターキーを拾い、蔵之介に渡した。
「こんな時だからこそ、私たちが落ち着かなくてどうするんですか」
「は、はい……」
「いいから早く開けろっ!」
栄一が蔵之介に怒鳴る。
蔵之介は震えながら、マスターキーを鍵穴に差し込んだ。
「開きました」
「は、入るぞ……」
蔵之介のことを栄一が押しのけ、ドアノブに触れる。
そして扉がゆっくりと開かれた。
先程からしている錆びた鉄の臭い。その原因が露わになった。
「あ、あぁ……」
声が自然と漏れる。無理もない。それほどまでに衝撃的な光景が広がっていた。
赤崎加奈子。幼い頃の私に、時に優しく、時には厳しく接してくれた女性……。
そう、まるで母親のような存在。
彼女へ持つ尊敬の念は、例え彼女が遺産を求めるハイエナと化しても変わることはないだろう。
それがどうして……、こんな…ことに……。
悪夢だと信じたかった。しかし、鼻に突き刺さる臭いが無理矢理私に現実だと突きつけてくる。
「あ…なんで……加奈子……」
「お嬢様……」
真っ赤になったベッドシーツ。臭いの正体は血液だ。
目を逸らしたいのに、眼球を動かすことができない。瞬きも忘れ、ただ目の前の惨状を瞳に焼き付ける。
「いやあああああああああぁぁ‼‼」
ただ漏れていただけの声は、いつの間にか叫びに変わっていた。
ベッドに加奈子おばさんがうつ伏せで倒れている。
……彼女の変わり果てた姿。彼女はもう二度と動くことはないのだろう。背中に深々と刺さったナイフがそのことを示していた。
……かくして、惨劇の幕が開いた。