2話 遺産③
「だから、兄さんに遺産を独り占めされるわけにはいかない」
加奈子おばさんが語った真実。それは私の心にモヤモヤとした黒い感情を生み出した。
……やはり、誰もサチヱの死を悲しんだりしていないのだろうか。
そしておばさんと同様に、新太も金を求める理由がある。
「兄さんは最低の男よ……」
愚痴を吐き捨てるように、おばさんは新太のことを語りだした。
上手くいかない会社の経営。そして浪費癖のある愛人。
前者はともかく、後者は大問題だ。
「桐子さんは知ってるんですか? それ……」
「どうだろうねぇ……。知ってて気づかないフリをするほど器用な人でもなさそうだけど」
そう言って悲しそうに微笑む。
「だけど、もしかしたら知ったうえで、それは自分のせいだって責めてるんじゃないかな」
桐子の身体は子供を宿しにくい体質らしい。そして流産の経験もあるそうだ。
それ自体を責めることなんてできない。だが、そのことがきっかけで新太が愛人を作り、自身にその責任があると思い込んでいるとしたら。……悲しい話だ。
「辛気臭い話はこれくらいにして部屋に戻ろうぜ。腹減ったしよぉ」
「……そうだな」
「あれ、みんなはここで食べるんじゃ」
「一二三ちゃんを置いて行けるわけないでしょ。……それにあの人たちと一緒に食事なんてしたくないし」
あからさまな敵意。……きっと後者が本音なのだろう。
私は部外者だ。この問題に首を突っ込むつもりは微塵もない。
ただ父の死を伝えたいと思っただけなのに。怖気づいているうちに話はドンドンややこしくなってしまった。
●
麺を啜る。
まさかこんなところに来たというのに、カップラーメンを食べることになるとは。ただいつもの人工的な味に安心感を覚えてしまう。
樹里の方を見ると、彼女は本を読んでいた。
「あれ、樹里ちゃんは食べないの?」
「……あぁ、吐きたくないしな」
……聞き捨てならない。
庶民の餌なんて食べたくないという思考なのだろうか。無理矢理にでも食べさせるべきか考えたが、彼女の身体を見てそんな怒りは消えてしまった。
彼女の四肢は簡単に折れてしまいそうなほど細く、それは羨ましいというより見ていて心配になるほどだ。
「えっと……、あんまり無理しないほうがいいよ……?」
「ん? あぁ、別に舌が肥えてるわけでも、拒食症というわけでもないぞ。身体は生まれつきだ」
そう淡々と言うと、再び視線を本に戻した。
嘘をついている様子はない。恐らく生まれつきというのは本当なのだろう。だからこそ、痩せこけていく父の姿を思い出して、涙が出そうになる。
「ちょっと、外の空気吸ってくる……」
「……そうか」
これ以上涙を我慢できそうにない。しかし泣いている姿を彼女に見せたくなかった。
私は部屋を出ると、一人で落ち着ける場所を探した。
「あれ、こんな時間にどうしました?」
「あっ……蔵之介さん、えっと……少し探検しようかなぁって」
ゲストハウスを出て、庭園の方へ行くと蔵之介が掃除をしていた。現在は午後八時、一体何時間働いているのだろう。
「そうでしたか。でも、本館の方へは行かないでくださいね。新太様に何を言われるかわからないので」
「はい……。そうだ、気になってたんですけど昔の父と加奈子おばさんってどんな感じだったんですか?」
本当に知りたいわけではない。ただの話題作りだ。……泣きたい気持ちを抑えるための。
「そうですね……、武司様とはあまりお話をしたことはないのですが、加奈子様のことなら」
「聞かせてください」
「はい。私と加奈子様は元々中学校まで同級生でした。その縁もあって中学を卒業してからずっと赤崎家の使用人として働いています」
「その時のおばさんってどんな人だったんですか?」
「今とそこまで変わってないですよ。明るく元気で……クラスのマドンナのような存在でした」
マドンナという昔の言葉に少し笑いそうになりながら、中学生時代の加奈子おばさんを想像する。
確かに、あんな人がクラスにいたらきっと楽しいだろうなぁ……。
「ただ加奈子様が高校生になってからは舞台の稽古もあって本島の方へ行ってしまい、あまり会う機会はありませんでしたね」
「そっかぁ……、蔵之介さんはやっぱり行ってほしくなかったんですか?」
「いえ、中学生の時からずっと夢だと語っていたので、応援していましたよ。ただ……」
「ただ?」
「二十年ほど前ですかね。加奈子様が引退をする少し前に一度俯瞰島へ帰ってきました。それから大体一年、使用人全員に休みが与えられました」
「一年も⁉」
「はい。そして一年経って島へ戻ると、武司様の追放が決定されていました」
「な、なんでそこでお父さんが……?」
「申し訳ありません、理由は私には見当もつきません……」
加奈子おばさんが島へ戻ってからの一年、何があったのだろう。
二十年前……。丁度私が産まれた時期だ。もしかして、そのことに私が関わっているのだろうか……?
「流石に自意識過剰かな」
一人呟き、ゲストハウスに戻った。
●
部屋に戻ると、タイミングよく電話が鳴った。ゲストハウスの各部屋と本館を繋ぐ内線電話だ。
「……はい、もしもし」
『あっ、よかった。一二三ちゃんが出てくれて』
電話の相手は加奈子おばさんだ。しかし何故彼女が? 用事があるのなら直接部屋に来ればいいのに。
「どうかしたの?」
『ちょっとね。……一二三ちゃんのお父さんと……お母さんのことで大事な話があるの』
「えっ……?」
私の母親……? それをおばさんが知っている。どうして……。
『それで明日の朝、二人で話せないかな?』
「うん、わかった」
『ありがと。……おやすみなさい』
「おやすみなさい……」
電話を切る。
ついに真実を知ることができる。その事実に胸が躍った。
窓の外を見る。島はまだ小雨だが、海の向こうから巨大な黒雲が近づいていた。