14話 エピローグ:傲慢の罪
「本日はここまで。来週、レポートを忘れないように」
講義が終わり教授が出ていく。
私は教科書とノートをバッグに入れて立ち上がった。
「一二三も今日の授業これで終わり?」
「うん」
友人の言葉に頷く。
私は普通の女子大生に戻った。事件に遭遇することなんてない、ただの一般人だ。唯一の懸念といえば、今後の就職活動くらいだ。
……そう願いたい。
「一緒にご飯食べにいかない?」
「……ごめんっ!」
「また彼女?」
「彼女じゃなくて義理の妹だよぉ……」
私はもう一度友人に謝ると、急いで大学から出た。そしてバスに乗り、家の近くのスーパーで降りる。
息を吐く。空気に触れた息が真っ白に染まった。
俯瞰島の事件から既に四ヵ月が経過していた。季節はもう冬、あの時のうだるような暑さはどこにもなくなってしまった。
スーパーに入り、今晩の献立をどうするか考える。
樹里のことだ。きっと朝食も昼食もまともに食べていないだろう。
彼女と同棲生活を続けてわかったことがある。彼女は極端に食への関心が薄いのだ。あの時、彼女の身体があんなにも細く、そして異様に軽かったのも頷ける。
「できるだけ栄養あるやつの方がいいかなぁ……」
左手で持ったカゴに商品を入れていく。こんなことなら、樹里に手伝ってもらうべきだっただろうか。いや、彼女に甘えてばかりではいられない。
私は時折来る右腕の違和感に耐えながら買い物を続けた。
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「ただいまぁ……ってこんなところで何してるの?」
扉を開くと、樹里が玄関で床に座りながら本を読んでいた。まるで飼い主の帰りを待ちわびていた子犬のように見えた。
……さすがに失礼すぎて本人には言えないが。
「……おかえり。そろそろ帰ってくると思って、待っていただけだ」
……やはり子犬みたいだ。
頭を撫でたい気持ちを抑えながら、左手で持っていたエコバッグを樹里に渡した。
私たちは書類上、新太と桐子の養子ということになった。だが二人は俯瞰島に残り、私は樹里と一緒に本島で暮らしている。
莫大な遺産のほとんどは桐子に預け、私たちの手元にあるのは私が大学を卒業するまでに必要な分だけだ。……この事実を新太は知らない。
「帰りに買い物をしてくるなら、私も手伝いに行ったのに」
まだ右腕の後遺症は治っていない。もしかしたら一生付き合うことになるのかもしれない。
「そんなにいっぱい買ってないから大丈夫だよ」
「それならいいが……」
樹里は不服そうな顔で、エコバッグの中身を見る。本当に大したものは買っていない。買ったのは夕飯の材料とお菓子くらいだ。
「別にこれくらいでも頼っていいんだぞ?」
「うん……、ごめんね」
どうしようもないほどの罪悪感。もしかしたら、樹里は島に残りたかったのではないか。そうすれば、一生遊んで暮らせるとまでは言えないが、少なくとも生活に困ることなんてないだろう。
周囲に馴染めない彼女にとって、その方が幸せなのではないか。私がいらないプライドでワガママを言ってしまったせいで、彼女はそれに付き合わざるを得なくなった。それは私の右腕のせいだ。
樹里も罪悪感を抱いている。私があの日彼女をかばってしまったから。……いや、あの時かばわなければ、樹里は。
何度もした自問自答。それでも答えなんて出ない。あの日、私はどうすればよかったのだろう。
……もし、私が栄一に殺されていたら、私の罪はなんだったのだろう。
今の状況は、私のプライドで起こしてしまったこと。それならきっと、私の罪は傲慢だ。
「……また自分を責めているのか?」
「えっ……」
深紅の瞳で私のことを見つめる。なんだかすべてを見透かされているようで、怖かった。
「私は私の意志でここにいる。自身の意志で、一二三の隣にいることを選んだんだ」
「樹里ちゃん……」
「それに、あの島にいたままだと、私は退屈で死んでしまうからな」
やはり、樹里はまだ謎を求めている。きっと彼女はそれがないと生きていけない身体なのだ。
リビングに入り、本棚に納まりきらず床に積まれた大量の本を見る。
推理小説、恋愛小説、ライトノベル、エッセイ、ハウトゥー本。その他様々なジャンルの本が積まれている。
これらはすべて代替品。彼女が次の謎を見つけるまでの退屈を埋めるためのものだ。
「これはもう片付けていいの?」
「いや、それはまだ読んでいる。その右側に積んでいるものは読み終わったから向こうに送っていいぞ」
父と暮らしていた家は、半ば樹里の書庫と化していた。
「総一郎さん……、ごめんなさい……」
長年父と一緒にいた家に居続けたら、私は永遠に先へ進むことはできない。そのため私は樹里と一緒に今住んでいるマンションへ引っ越した。
だが、あの家が無人で朽ちていくのは見たくない。そこで、第二の人生を謳歌するための住まいを求めていた総一郎と彼の妻に貸すことになった。
しかし、彼らの生活があるというのに、樹里はそんなことお構いなしに読まなくなった本を向こうへ送っている。夫婦二人共読書好きで、本が届く度に感謝の電話をかけてきているが、本心ではどう思っているのだろう。
樹里が本を送るのを手伝っている私も同罪ではあるのだが。
冷蔵庫に買ってきたものを入れ終えた樹里は、ソファに座ると再び本を読み始めた。
「今日は何読んでるの?」
純粋な好奇心からの質問だったが、すぐに私はそれを後悔することになる。
「推理小説だ。島で起こる連続殺人のな」
……悪趣味だなぁ。
そう心の中で呟いた。
「あの事件よりこっちの方が何倍も完成度が高い。密室のトリックも完璧だ」
「完璧だったらバレないんじゃ……」
「最後に主人公が解き明かすところまで含めて、完璧なんだよ」
ダイイングメッセージなんてこの世には存在しない。
加奈子おばさんが殺された時の、樹里の言葉を思い出した。
そして密室も存在しない。それが彼女の考え方だ。
私にとっては悪夢のような二日間だったが、幕が下りてしまえば、ただのよくある殺人事件だ。
今日もテレビを見れば、きっとどこかで殺人が起きたニュースが流れる。
密室も、ダイイングメッセージも、隠し部屋も、見立ても存在しない、ただ人が人を殺しただけのお話。それが世界には溢れている。
……残酷な話だ。
異国の姫君、もしくは小説に出てくる吸血鬼を思わせる姿をした、白髪の少女は今日も謎を求めている。ただ人が人を殺すだけではない。悪意の塊のようなトリックを。
あの島で起きた事件は、どうやら彼女の期待には応えられなかったようだ。彼女はただ冷めた目で、謎を解き明かした。心という名の密室の中に隠された醜い真実を。
それを実際に目の前で見ていたはずなのに。私はどこか他人事のような目線で、あの時のことを思い出していた。
……まるで宙に浮いて物事の全容を俯瞰しているかのように。